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体と頭を洗ってもらう。

 ハルさんが作ってくれた梅がゆの余韻に浸りつつ僕はソファにもたれて電話がつながるのを待った。

「もしもし?」

「チヒロ、帰ってきたのね」と母はか細い声で言った。

「うん。帰ってきた。いろいろご心配をかけました」と僕はぼやかした。中南米を一人旅してきた感想など言えるわけがない。

「チヒロが心配かけさせない事なんてあった?」と母はため息をつく。

「ごめんなさい」

「行動で示しなさい」

「なるほど。ちゃんと期末考査受けに行くよ」

「あら、そう」

「うん。あと夏休みが終わったら家に帰って、二学期からは学校にも行きます。いや、行かせてください」

「ふうん。まあ、いいわ。とりあえず期末テストしっかり点数獲ってきなさい」

「うん、数学だけね。がんばるよ」

「お父さんも心配してる。たまには顔を見せてあげて」

「うん。明日父さんの事務所に行ってくるよ。じゃあ勉強するからね。おやすみ」

「おやすみ、チヒロ」と母は柔らかく電話を切った。受話器を置いて一つ息をついた。乗り切ったみたいだった。

「テスト、どうするんだ? あとお父さんの事務所にも行くのか? 一人で行ける?」といつの間にか隣にいたハルさんが聞いてきた。

「いけないね。まだ長くは歩けないよ」

「じゃあ、あたしが車で送って行こうか? どっちも遠いんでしょ?」

「うん、遠いよ。父さんの事務所は東京駅から地下鉄で十五分くらい。東京駅と学校はここから電車でもたぶん一時間はかかるね。でも、学校のほうは通えないわけでもない。けど、どうかな。ハルさんの運転か」と僕は悩んだ。

「なに? 文句あんの?」とハルさんは顔をぐいっと近づけてくる。

「いや、ああ、うん。期待してるよ。よろしく」と僕はその大きな瞳に返事をした。その色白な顔がにこっと笑う。

「おう、まかせろよ」とハルさんは顔を近づけたまま心底嬉しそうに言った。それから、すんすんと鼻を鳴らした。軽く顔をしかめてから、僕の病衣を摘まんだ。

「ねえ、お風呂でも入っちゃえばいいじゃん」

「そうしたいのはやまやまなんだけど、ちょっと怖いね」

「じゃあ、あたしが洗ってやるよ」

「んんん?」

「頭のてっぺんから背中までごしごし洗ってあげるってこと。チヒロがベッドで眠りこんでた時にも定期的に体を拭いたりしてたけど。一週間もたつとそれだけじゃちょっと足らないみたいだね」

「……いったい、どこまで僕の体を知っちまったんです?」と僕は息を飲み込んだ。

「なに、その言い方」とハルさんは笑った。あはは、と大いに笑った。

「いやはや、困るなあ。まったく。どうしようもない」

「上半身とかを濡れタオルで拭いただけだよ」とハルさんは笑いを抑えながら語った。

「いや、まいったね」

「じゃあ、一人で入ってみる?」

「うん、ちょっと頑張る」

 そして僕はちょっと頑張った。脱衣場で病衣を脱ぎ捨てて全裸となる。全身痣だらけであった。風呂椅子にゆっくりと腰かけた。蛇口をひねって頭からシャワーを被った。温かな水が筋肉をほぐしていった。だが頭を下げるとみしみしとどこからか音がした。そこを超えると確実に何かがおきるという予感があった。コイツはマズイ。僕は顔を上げ、ため息をついた。脱衣所で引き戸の開く音がした。

「チヒロー、だいじょうぶかあ?」とハルさんが返事も聞かずに浴室にまで入ってくる。

「ああ、ダメっす。キツイ」

「だろ? 洗ってやるからじっとしとけよ」とハルさんは僕の背後に立った。

 僕はなんというか、動悸が激しくなった。ハルさんはシャワーを方手に持ち、僕の頭全体をまんべんなく濡らしていった。空いた手で、わしゃわしゃと僕の頭皮を揉んでいった。だいぶあぶらっぽいなあ、最初のうちにあぶら落としとかないとシャンプーが効かないんだよなあ、ふうむ、どうだいお客さん、血行が良くなっていくでしょ、さあてそろそろいいか、シャンプーかけますよお、ほら、おお、あわだつあわだつ、すごいねコレ、目を瞑ってた方がいいな、うわあお、なんかヌメヌメするなあ、一回流しちまおう、よし、どうだい、もう一回洗っちまおうか。ハルさんはひたすらご機嫌だった。

 その間の僕はじっと目を瞑り、九点円の定理の証明方法をいくつか並列して考えていった。四角形を作り出す。ベクトルを使う。そんな感じだ。

 ハルさんは鼻歌をふんふん吟じながら、わしゃわしゃと僕の頭皮にそのか細い指を駆け巡らせている。

「さあて、今度は体を洗うか。垢がいっぱいでるだろうなあ。一週間だもん、しょうがないよな。ああ、下半身は自分で洗えよな」

「……、もちろん」

「よし、ごしごしこすっちゃうぞ」とハルさんは張り切った。肌が紅くなるまでなんべんも擦ってくれた。垢どころか皮膚自体が剥がれちまったんじゃないかと疑うほどだった。だが、さっぱりしたのは間違いなかった。何かどんよりしたものを纏っているような感覚はなくなっていた。ハルさんが出て行ったあとに下半身をきっちり洗って、脱衣所で濡れたままトランクスをえっちらおっちらと履いた。パンツ一丁のまま廊下にでるとドライヤーとタオルを持ったハルさんが待ち構えていた。僕は彼女の愛犬のごとく直立不動のまま、なすがままに任せた。ハルさんはタオルで全身を拭い、ドライヤーで髪の毛をぱさぱさにしてくれた。

「いやあ、懐かしいねえ。ミミにもこういうことやってたよ」

「へえ、あの子がねえ」

「ミミにもいろいろあるんだよ」とハルさんは去り際僕にパジャマを渡してきた。なんとかそれらを一人で身に着けて、僕は和室に向かった。ベッドにこわごわと腰掛ける。いろいろありすぎた。ぱたりと横になって、天井を見上げた。当分は寝たきりの生活をしていたかった。瞼は重く、暗闇が僕を誘っていた。その奥へ奥へと僕は進んでいった。

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