悪について偽善的に話す。
ベッドの上で僕は目を覚ます。視野の端にぼんやりと人の影が引っかかっていた。首を曲げようとするとバカみたいな激痛が脳髄を貫いて、目の端に涙を残していった。いかなる身動きをも企てる気がなくなるほどだった。肺を小刻みに動かしつつ、眼球だけをこっそり移動させた。濡れた視界に入ってきたのは短い髪の女だった。その娘さんはうっとりとした表情で細長いひと続きの赤いひもらしきものを眺めていた。よく見るとそれはリンゴの皮だった。娘さんは僕の視線に気が付いて、どったんがったんと丸椅子を吹っ飛ばしてからリンゴの皮を握ったまま叫んだ。
「おい、ババアッ、目え覚ましたぞ」
「うるさいねえ。アンタだってババアになるんだよ」という声が部屋の外から響いた。この時にはもうなんだか目を開けているのも辛くなっていた。じわじわと体内から痛みが広がってきたのだ。僕は痛みから逃れるためにふたたび眠りに入った。
次に目を覚ますと、さっきはリンゴの皮を眺めていた娘さんの顔が視界を占領していた。見覚えのある顔だった。なんとなくウサギの耳を思い出した。その娘さんは驚いたように目を見開いてから、また叫んだ。
「おい、お姉さま、また目ぇ覚ましましたわよ」
「気持ち悪いしゃべり方をするんじゃないよ。そっとしておきな。そいつはまだ痛みに慣れてないんだ」という声が部屋の中で響いた。僕はもぐもぐと口を動かした。
「うん? どうした? ウンコか?」と娘さんは真剣な眼差しで聞いてきた。僕は首を振った。意を決して声を出した。
「ここ、どこ?」
「ここ? ここはヤブ医者の病院だよ。あたしのかかりつけ医がやってんだ」
「ヤブじゃないよ。言葉には気をつけな。おい、そいつ意識ははっきりしてんのか?」と横から声がした。
「ああ、目は死んでるけどもごもご口を動かせるようになってるよ」
「へえ、ちょっと見せな」と声がして、僕の視界に緑のスクラブを着た中年女性が入ってきた。そのお姉さまは眉間にしわを寄せて、僕の頬をぺちぺちと叩いた。
「おい、アンタ。自分の名前を言えるかい?」
「ざま」
「よし。何でここにいるかわかるか?」
「殴られた」
「よし。記憶ははっきりしてるようだね。体はどのくらい痛む?」
「すごく」
「そうか。そりゃそうだろうな。ボクサーだってあんなになるまで戦わない。助かったのは運が良かっただけだ。痛いのは運がいいからさ、我慢して眠ってな」とその女性は言って、視野からそして部屋から去った。
「あたしがもうちょい早く来てればなあ。アンタもここまでやられなかったのにさ」と視野に残っていた娘さんが悔しそうに言った。そこで僕はこの娘さんがバニーガールだと気が付いた。
「アンタさあ、良く頑張ったよ。アンタが死んだら、あたし途方にくれちゃってた。ホント、ありがと」
「あぐ」と僕は言って目を閉じた。しゃべる気力が消え去ったのだ。
「ああ、ゆっくり休みな。あたしは隣で座ってるよ。アンタのおかげで前よりきれいにリンゴ剥けるようになったんだ。食べられるようになったら食べさせてあげる」
僕はわずかに頷いて、暗い夢の中へと舞い戻っていった。
翌朝にはだいぶマシになっていた。娘さんの姿はなかったが、僕は横のテーブルにあったリンゴを食べて、女医さんに車いすに乗せてもらいトイレにも行った。激痛を伴ったが快便だった。トイレから帰ってきた後女医さんは僕の腹部やら背中やらを診察し、ため息をついた。
「治りが早い」
「そうですか。動かすたびに悲鳴を上げたくなるんですが」と僕は抗弁した。
「いや。悲鳴すら上げらんないはずなんだよ、ふつうはね。はあ、アンタらみたいのを相手にしてると、こっちがどうかしちまうよ」と女医さんはぼやきながら診察を終えた。
ベッドで横になってぼんやりしていると九時ぐらいにおさげの少女がやってきた。立川ミミだった。彼女はおずおずと病室の敷居を跨いだ。それから無言のまま僕に会釈をして、承諾も求めることもなく丸椅子に座る。
「この前は、どうもありがとうございました」と少女は俯いたまま言った。
「感謝されるようなことはしてないんだけど」
「助けてくれたじゃないですか」と少女は顔を上げた。
「助けたのはあのバニーさん。僕じゃない。僕はただボコられただけ」
「それはそうですが」
「べつにあそこで僕がキミを無視しててもキミはちゃんと助かってた。そういうものなんだ、世の中って」
「だったらどうして無視しなかったんですか?」
「女の子が倒れてる。よく見たら僕を変なところに拉致ってくれた女の子だ。話を聞こうか、いや、警察に突き出そうか。そんな感じ」
少女は下唇を噛んだ。
「あれは仕方がなかったんです。報告しないと何が起こるかわかんないから」
「ウンコもらしてたらもっと恨んでただろうけど、まあいいよ。非常事態なんだろ。アンタら戦争してるんだって? エクストラだっけ」
「なんでその名前を知ってるんですか」と少女は声を鋭くさせた。
「なんでってそりゃアンタらが丁寧に教えてくれたじゃんか。猿轡に目隠しまでしてさ」
「……尋問されてたんだ」
「おかげさまでね」
「今は時期が悪かったんです。エクストラはともかく、レーテのクソどもがいろいろやってるから」
「そのレーテっていうのはエクストラとは違うの?」
「エクストラは人類の敵です。レーテは、……私たち『協会』の敵です」
「ふーん」と僕は天井を見た。「僕はよく悪について考えるよ」
「はあ?」
僕は少し身を起こして立川ミミを見た。困惑という感情がありありと見えた。
「悪だよ、イーヴィル。この世のすべての負の根源だ。ある子どもが虐待される、いいや殺されるかもしれない。キミや僕よりももっともっと幼い子だ。よく聞くだろう。ネグレクトってやつ。パチンコやってる間室温が摂氏50度にもなる車内に子どもを放置して殺しちゃうんだ。そういうのってのも悪だろう? もっと分かりやすい悪だってある。僕をぼこぼこにしたアイツらもまさしくそうだ。話を聞く限り女の子たちをよく襲ってるみたいだった。そんなやつらが平気で街を歩いてるなんて考えると虫唾が走る。自分の欲望を満たすためだけに他人を害するようなやつらは、悪だ。そう思うだろう?」
「え、ああ、アイツらは協会によって処理されました。元より奴らの調査と討伐があたしの任務だったので。あの周辺で一般人への暴行らしき現象が観測されてたんです。やつらがその大元じゃないのかって。だから、ええっと任務を遂行できたという点でもあなたに感謝しないといけないです」
「そう。ただね、思うんだ。やつらだって結局は欲望に忠実なだけだ。興奮する、そのはけ口を求める。それだけの機械に過ぎない。だったらそれは悪なのかって。もしプレス機が人を殺したとしよう。それでプレス機は悪になるだろうか」
「それは違うと思います。べつにアイツらは機械じゃないです。人間でありシムです。十分に選択の可能性は持っていました。それでも義務を果たすことなくああいう欲望に従った。それは悪ですよ。『協会』の処罰対象です」
「僕もほとんどそう思ってる。死ぬべき奴は居る。だけど、世界には余すことなく死ぬべき奴は居ないと思ってるのも居るんだ。不思議だろう?」
「死刑廃止論者のことですか? あたしたちは殺さなければ殺されます。しかしそれは一般の方とはまた別の論理です。国家の殺人に知らぬ間に参与していることへ嫌悪をもつのは不思議なことではありません」
「その言い方だとキミ、人を殺したことがあるのか?」
立川ミミは顔を強張らせた。
「それは言わないといけないですか?」
「いや、いいさ。ただキミみたいな女の子でもそこまでしないといけない世界はどうも生き辛いなと思っただけ」
「誰かがやらないともっとひどい世界になるんです。エクストラとレーテ、あのクソどものような奴らが居る限り世界は平和にならない」
「平和ね。まああんな奴らと戦ってたら殺す殺さないとかの話じゃないよな。殺すしかない。相互理解不可能なわけだから」
「そうです。けどシムがみんなああだってわけじゃないんですよ。いい人も、みんなのために力を使ってる人も協会にはいっぱいいるんです」
「ふうん。キミがそういうならそうなんだろうな。とはいえキミも人のためとはいえあまり危ない橋を渡らないほうがいい。キミは日によってその超能力が変わるんだろ?」
「・・・・・・、何で知ってるんですか?」と立川は手を後ろに回してわずかに腰を上げた。
「おっと、ちょっとまて。推理だよ、推理。バニーさんがキミに言ってたじゃないか。ハズレの日には無理するなって。だから日によって能力が違うんだなって思ったんだ。ちがった?」
立川は僕をじっと見つめた後、お尻を椅子に戻した。
「よく覚えてましたね。そうです。あたしは日によって能力が変わってしまうんです。おかしな体質ってよく言われます。シムの中でもこんなのあたしくらいです。他のみんなはちゃんと一つだけなのに」
そう言ってうつむく立川を見て、僕はなんとなく幼さを感じた。それからあくびをする。話をしすぎて少し眠くなってきたのだ。
「お疲れのようですのでもう帰ります」と立川ミミは立ち上がった。
「ああ、どうも悪いな。来てもらったのに。もっと気の利いたこと話せばよかった」
「べつに気の利いたことを話すために来たんじゃないんで。それでは」
そんなふうに言い残して立川ミミは去っていった。僕は目を閉じて人類の敵に思いをはせた。
それから昼すぎに起きて、ベッドサイドに当然な感じで座っていた娘さんから約束通りにリンゴを貰った。
「ほいよ。あーん」と娘さんは爪楊枝で指した一口サイズのリンゴを僕の口に押し込もうとする。僕は調子よくぱくっとかぶりつき、リンゴだけ獲った。
「おお。なんか元気になったな、アンタ」と娘さんは喜んだ。
「まあね」と僕はリンゴを飲み下して答える。
「よし、どんどん行こう」とはしゃぐようにして娘さんは次々とリンゴを僕の口に放り込んでいった。結局、僕は二つのリンゴをもぐもぐと食べ切った。胃が膨れて、げっぷが出た。げっぷは身をこごませるような痛みを肋骨と横隔膜に残していった。
「やっぱ、まだ痛むのか」とその様子を見ていた娘さんは言った。
「うん」と身を丸めながら僕は答える。娘さんはそんな僕の背中をさすってくれた。本当に、至れり尽くせりってやつだ。
「ねえ、どうしてそこまでしてくれるの?」と僕はそっと娘さんの黒い瞳を覗きこんだ。彼女はまともに見つめ返してくる。
「アンタが居なかったらミミはとんでもないことになってた。感謝しかない」
「そうかなあ」
「アンタが時間稼いでたからミミは無事だったんだ」と娘さんは真面目に言った。
「まあ、そう言うんなら、そうなんだろうけど。そういえば、名前聞いてなかったな。僕は座間チヒロって言います」と僕は笑った。
「うん? うん。あたしは、天野ハルコ。よろしく、チヒロ」と彼女も笑った。