ポップコーンを買い損ねる。
そこは寂れた映画館だった。ほこりっぽいロビー、破れたポスター、空っぽのショーケース。その受付には一人の男が立っていた。グレーのポロシャツにブラウンのチノパンツ。どこにでもいる大学生といった風貌だ。僕は受付に向かう。チケットを持っていなかったからだ。
「ここでおもしろい映画を見られると聞いたんだけど」と僕はそう聞いていた。
「ああ、見られるよ。けど、まだ始まらない。もう少し待ってたほうがいいね」と男は微笑んだ。「チヒロくん。この先に行くなら命をかけることになる」
「君は、」と僕は受付の男を見つめた。ぼんやりとした風貌だったものが、段々と意味を獲得していった。「トラさんだったのか」
「そう。ぼくはトラさん。君はチヒロくん。思い出せた?」
「なんとなくね。僕は、そうか。死んだのか?」
「ギリギリだね。この世界で死ぬことはそうつらいことじゃない。台帳に記入されるまではまだ猶予がある。だからこうやってみんなで映画でも見ようってわけ」とトラさんは横を見た。僕もその視線を追う。
騒がしくなったロビーはもはや薄汚くなかった。床には柔らかな深紅の絨毯が敷かれている。受付の横には売店が並んでいて、そこからキャラメルやらシナモンやらの甘いにおいが漂ってきた。大勢の子供たちが大きなポップコーンを持ってはしゃいでいる。大人たちは談笑しながらチケットを見せることもなく、受付を越えて奥のほうへと入っていった。
「この向こうにはシアターがある。そこでは見たいものが見られるのさ。素晴らしいだろ?」
「ああ」とロビーにいる数多くの人種に圧倒されながら、僕は頷いた。「どうしてこうもいろんな人がいるんだ?」
「ここは一つの可能世界だからね。みんなの共通のスーパーエゴ的世界だ。だから誰だっているし、誰だっていない」
「理解しかねるな」
「チヒロくんにはまだ難しいかもしれないね。けど、いずれは見慣れるよ。君もマイナーなんだから」
「マイナー?」
「ちょっとした比喩さ。さて、チヒロくん。今回は無償で助けてあげよう。あの世界でチヒロくんにしてほしいことがまだまだある。もう僕じゃ出来ないことなんだ」と言いながらトラさんは受付の上に一本のスプレー缶を置いた。その表面は黒地で虹色のストライプが入っている。
「それ、なんだっけ?」と僕は尋ねていた。
「クェックだよ。向こうだと『聖杯』って言われてるね。この中にはすべての可能性が入っている。シュッと吹けばなんでも思い通り。使える回数は一本3度まで。今これをチヒロくんに振りかけてあげれば一瞬であの世界に戻れる」とトラさんは言った。
「ああ、そうか」と僕は頷いた。
「けどね、そうするとチヒロくんはより深く向こうの世界に組み込まれることになる。君の存在原理がこのスプレーありきになってしまうからね。戻ったとき、チヒロくんはマイナーとしての特典でもあった状態、すなわち『不定』でなくなる。つまりもうあのシムたち能力を打ち消せなくなるんだ。より死にやすくなるわけさ。ああいうことにも首を突っ込むチヒロくんのことだから、もっと面倒なやつらに目を付けられる可能性も高い。キミは何も得られずに死ぬことだってありうる。それでもキミは向こうに戻るかい?」とトラさんは僕の目を覗き込んだ。
「かけてくれよ、まだ見つかってないんだ」と僕は言った。
「何がだい?」とトラさんは不思議そうに首をかしげた。
「探してる答えだ。君に言っても仕方がない。とにかく、かけてくれよ。僕がそれで起きられるならそうしてくれ」
トラさんはうつむいた。それから右手でスプレー缶を握って、上下に振った。シャカシャカシャカ、カシュッ、カシュッ。トラさんはスプレーを僕に向けた。
「なるほど。僕らと同じくキミもマイナーってわけだ。死をも恐れぬ雄々しきものよ、向こうで会おう」
「ああ」
トラさんはノズルを押した。瞬く間に白い霧が僕を包み込んだ。僕は全ての感覚を失い、宙に放り出されたような気分になる。わっふう。