ご飯を食べる。ちょっと戦う。
その翌日、僕は家のウラにある山に登った。僕の山だ。山頂についたとき、僕は眼を赤くなるくらい擦らなきゃならなかった。というのもあの大穴も、爆破されたようになっていた木々も、なにもかもが元通りに修復されていたのだった。何ごともなかったと山は僕に語りかけていた。僕は僕の手首に残る痣を見た。彼はこう言ってきた。そういうこともあるさ。
僕は山を降り、家に帰った。で、テレビをつけてニュースを見た。昼下がりのテレビはのんびりと人々の気晴らしを映している。僕は昨日の轟音を思い出しながら、番組を変えていった。どこもかしこも間が抜けた笑顔が映っているだけだった。いいかい、昨日は平和だったぜ、今日も平和さ、そして明日も当然平和なのさ。ピース。
パソコンに電源をいれ、インターネットと繋がった僕は電脳世界から昨日の轟音を探し始めた。僕の住む街はいたって静かだった。昨日も一昨日も死んでいたようだ。
手首の痣を撫でながら居間でぼんやりしていると電話が鳴った。僕は立ち上がり、受話器をとる。母からの電話だった。
「もしもし。まだ祖父さんの遺品整理は終わってないから帰れないよ」
母はその言葉を聞いてため息をつく。
「そう。今日はべつにその進捗を確認するために電話したんじゃないの。あのね、いま担任のタネベ先生が来られてね、ぜひチヒロと話したいらしいのよ」
「タネベ?」
「そうよ? あなたの担任の先生じゃない」
「記憶にないよ。タナベ先生だったら知ってるけど」
「なに言ってるの。一年生の時からタネベ先生だったじゃない。とにかくかわるから」
母は教師と電話を変わった。その教師は男ではきはきとした声を持っていた。
「こんばんは、チヒロくん。えっと、初めまして、だよね。自分はタネベケイスケって言います。2年5組の担任です。つまり、君の担任だね。今日は事務的な話があってね、言いにくいんだけど、そろそろ来ないと君の進級が危うくなるんだ。いや、一学期は何とかする。けど、夏が過ぎたらどうにかすることも難しくなった。本当に申し訳なく思っている。すまないね。もっと時間をとって色々やりたかったんだけど。自分の力不足で夏休みがリミットになってしまったんだ。うん、ほんとうに申し訳ない。ごめんな」
「別に、先生が謝ることじゃないですよ。進級は出来ないものだと思ってましたからね。始業式から全く学校に行ってないんだから。ところでタナベ先生はどうしたんです? あのちょっとノロマな女教師のタナベさんは」
「ん? そんな先生は知らないな」
「そんなはずはないでしょう。倉本くんに聞いた話だと僕の担任は去年に引き続き新卒社員みたいなあの女のはずでしたが」
「いいや、キミの担任はずっと私だった。誰かと勘違いしてるんだろう。まあとにかく夏までは大丈夫だから二学期から待ってるよ。それまで元気に過ごせよ! 元気にな。ではまたね」
そう言って電話は切れた。
受話器を置いた僕は、動きを止めて目を瞑り考察した。再び受話器をとり、頭の中にこびりついている電話番号を入力した。クラスメートの番号だった。ピリリと数回鳴った後、ぅなあんだよ、という言葉が僕の耳に届いた。
「座間だよ、俺のこと覚えてますか、倉本くん?」
「覚えとるわ、アホ。つーか、忘れてたらでねーよ。で、なによ?」
「あのさ今の担任って、タナベだよな?」
「タナベじゃねえ。タネベだ。社会科教師で日本史担当。外見はさわやか体育会系短髪野郎。俺らのなかじゃクラスの女子に手ぇ出すんじゃないかと賭けられてんだけどな。そいつがどうした?」
「……タネベちゃんはいつから来てた?」
「タネベは男だ、アホ。気色悪いこと言うなや。それになあ、いつからって最初からいたぞ。去年もいたじゃねえか。陸上部かなんかの顧問だった」
「……そうか、そうだったよなあ。完全に忘れてた。あとさ、なんかクラスでおかしなことなかった?」
「ああ? なんでそんなこと聞いてくんだよ」
「寂しいんだよ」
「はあ? まあいいわ。とりあえずクラスには転校生が来たな。駒場ってやつ。カワイイ元気系の女。あとはそうだな、相変わらず天川さんが恋しがってたぞ。座間くん、来ないのかなあって」
「……アマカワ? だれ?」
「お前、冗談で言ってるんだろ?」
アマカワ。僕は数秒だけ口を閉ざし記憶を探ったが、何も出てこなかった。
「いいや、マジでわからねえ」
「はあ? 天川笹子さんだよ、クラス委員の。一年の時も同じクラスだったじゃねえか。ふつーなら覚えてるだろ、けっこうな美少女だぜ」
「他に俺が忘れてそうなことある?」
「知らねえよ。もういいか? 切るぞ。まだメシ食ってないんだ」
「ちょっとまて。学校でなんか起きてないか知りたいんだ。たのむよ」
「うるせえよ。だったら明日学校に来いや、ボケ。じゃあな、待ってるぞ」
その言葉を残して、ぷつりと電話は切れた。僕は受話器をそっと置いた。倉本くんにならって夕飯を食べることにした。
外はすっかり暮れていて、星々がぽつりぽつりと主張し始めていた。僕は家を出て、鍵を閉め、坂を下り、街へと出た。駅前商店街にあるいつもの蕎麦屋に入り、きつねそばを食べた。祖父と一緒に食べた時と同じ味だった。僕は満足して店を出た。
すると祖父との思い出が店先にいる僕の隣に立った。その思い出は蕎麦屋からの帰り道のことだった。祖父は僕の手を握って、僕の歩調に合わせて歩いていた。秋の夜空を見上げながら僕たちは星を数えた。ありもしない星座を描いては笑い合っていた。夜空が落書きで埋まった頃、祖父は三日月を見上げながら口笛を少し吹いた。それは僕にとって大昔の歌だった。祖父は語った。星空を見てるとね、こう口笛を吹きたくなるんだ。ジイサンはこの歌が好きなんだよ、歌詞もメロディーも。チヒロにもいつか分かるときが来るよ。そうかな、と僕は答えた。一人になったときに大声で歌うんだぜ、と祖父は笑った。うん、と僕は頷いた。祖父は僕の手をぎゅっと握った。僕はまだ一人じゃなかった。
今はどうだろう。
祖父仕込みの口笛を吹きながら行きつけの公園まで歩いた。園内に入り、ゆったりとした気分で芝生の広場を通り過ぎようとした。そう、通り過ぎようとしたのだ。
僕は広場の真ん中に人が倒れているのを見てしまった。その周囲には誰もいなく、トイレとベンチと林とが静かに芝生を囲んでそれを見守っているだけだった。僕はそろそろと倒れこんでいる人物に近づいた。それは少女だった。立川ミミという名前の少女だった。赤色の半袖に、迷彩柄のズボンという服装で、彼女は目を閉じて死んだように倒れていた。
奥のほうから足音が聞こえた。正面を見るとトイレから一人の男が出てきていた。彼は僕に気がついたようだった。僕の方へと接近しながら話し掛けてきた。
「ホラ、メガネ曲がっちゃったよ。クソッ、サイアクだ。それに、ボクの顔まで傷ついた。もっと、サイアクだ。なあなあなあ、そう思うだろ。この顔が傷ついちゃうなんてさ。人類的損失だ、ホント」
ナイーヴそうな細身の若い男が曲がったメガネを片手に僕の前に立った。僕は空転する思考をどうにかおさめて、じっとその男を睨んだ。声は出せなかった。こいつが立川ミミを何らかの方法で眠り込ませたのは明らかだった。
「ちぇっ、アイツはしっかり逃げやがってる。こいつが邪魔しなきゃ、今頃遊べてたのにさあ。けっこう上玉だったんだ」と僕を舐めるように見ながら言った。僕はその身の毛がよだつ視線に耐えつつ、声を絞り出しながら男に近づいた。
「へえ、どんぐらい?」
「ああん? そうだねえ、そのへんのアイドルよりはマシだったかな。道野ヒカリってとこまでは行かないけどね。だが、たぶんあれは処女だね。ボクには分かる。話し掛けたときの反応で分かるんだ、そういうのって。ボクもこの道に入ってずいぶん経つからね。色々、好みもあるわけなんだが、今日はソフトに行こうとしたのが間違えだった。いつもみたいに、さっさとやっちまえば良かった。ああ、ホント、あと少しだったんだ。話し掛けて、笑顔で会話してあげて肩を触れようとしたら、その子がね、飛び出してきたわけだ。それでいきなり殴りかかってくるんだからさ」
「そいつはびっくりだ」と僕は応えて、そのいけ好かない細身の男の前に立った。
「うん。びっくりだ。ところでキミ、その子の仲間かな?」
「たぶん」
「じゃあ死ねよ」
男は拳を固めて右腕を引いた。僕の鼻柱に右ストレートをぶち込む気だったはずだ。僕は屈むようにしてその拳を避けた。男は舌打ちをして、一歩下がった。僕はとりあえず男を睨んでおいた。線の細い男も僕を睨みつけてきた。
かちんときた僕は駆け出して男に殴りかかった。男は悠々と僕の右フックを回避した。次に僕は前蹴りをはなった。男はひらりとかわして、僕の肩に手をポンと置いた。
「ごくろうさん。パチン。終わりだ。おやすみ」
その言葉を聞いた僕は膝の力を抜いて、崩れ落ちる振りをした。
だが男は僕の肩から手を離さなかった。男の甲高い声が僕のつむじを舐めた。
「……、シムが効かない?」
僕は膝の反動を使って男のアゴを拳でぶち抜いた。よろめきながら男は尻餅をついた。彼の側頭部がむきだしだったので左足をしならせて蹴りぬいた。彼は横に倒れこんだ。肩の辺りを足で小突き仰向けにしてから、男の心臓を踏み抜いた。あきらかに僕は彼を殺す気だった。
男の頭をもう一度蹴っ飛ばして、満足した僕は駆けて立川ミミのところまで行った。立川ミミは息することも遠慮する感じで、まだ眠り込んでいた。僕はぺちぺちと彼女の頬を叩いたり、肩を抱いて揺さぶったりした。けど彼女は意識を戻しそうになかった。ああ、ちきしょうどうしよう、んんとええと、そうだ救急車を呼ぼ、と思い至り立ち上がったとき、雄叫びが耳を貫いた。
「おいっ、筋肉バカ出てこいっ。さっきから何してんだ。契約を忘れたのか。居るんだろっ。さっさとコイツを殺せ」
細身の男はむくりと起き上がり、僕を睨みながら言った。僕は状況をうまく認識できないまま、一つの効果音を聞いた。ドサリという着地音だった。見ると長袖と筋肉を着込んだ大男が座り込むヤサ男の隣に立っていた。異様なほどがたいの良い男はボロボロの男を見て、はっはっはっ、と笑った。
「オレが飯と女を食ってる間に、おめえ、ハデにやられたな、おい。うけるな」
「うるせぇ、さっさとアイツを殺せ」
「お前を殺してからでもいいんだがなあ」
ヤサ男の顔はさらに蒼ざめた。僕は逃走も視野に入れ、そろそろと立川ミミから離れた。
「はっはっはっ。冗談だよ。お前が居なくなるとオレも愉しめなくなるからな。ノルマ達成もきつくなる。さてさて、アイツを殺せば良いのか。おっ、女の子もいるじゃないか。ヤル気がでちゃうねえ、お前さん。さっさとやってお楽しみの時間といこうじゃないか」
僕はその言葉を理解する前に腹を殴られていた。男の拳は僕の腹に捻じ込まれた。だが僕はがんばった。倒れこまずに馬鹿でかい筋肉野郎を睨みつけてやったのだ。
「おお、かっくいい」とそいつは僕に笑いかけてきた。
「おいっ、ソイツ、シムがきかねえぞ」と細身の男が余計なことを叫ぶ。
「いま、確認した。『不定』ってやつか。はじめて見た。とりあえず殴っておこう」と脳筋クンは気軽に言って、気軽に右フックを僕のわき腹にぶち込んだ。僕は息が出来なくなった。
「よおし、おもしれえ。やってやるか」と長袖クンは軽いジャブを僕の右頬に当てた。僕は右足を振り上げて金的を狙っていた。男はバックステップで僕の蹴りを軽々とかわした。おかげで僕は一人でラインダンスしてる気分になった。男はそんな僕を笑った。
「いきなり金的か。油断ならないねえ。はっはっはっ。なんだその格好。お前、おもしろいな。そんなマヌケなお前がどうしてオレと戦おうとするんだ?」
「知らねぇ」と僕は右足を地面に下ろした。
「もしかしてお前、その子のカレシか?」
「だったら?」と僕は数歩ほどマッチョくんとの距離を取った。
「その方がおもしれぇからに決まってんだろ。なんつーか、燃えるじゃないか。そういうシチュエーションってよ」
「はあ?」と答えながら、僕は周囲を見回した。細身の男はまた倒れこんでいた。相当な痛手を受けたみたいだ。マッチョくんはニヤニヤしながら僕の様子を観察していた。
「安心しろ。オレ以外に待機してる奴なんていねえから。そうじゃねえとオレ自身の楽しみが減っちゃうだろ」
「知らねえよ、クズ」
「クズとはひどいな。怒っちゃったぞ」
そう言った紛うなきクズ野郎は一瞬で間を詰めて、僕の肝臓を殴ってきた。僕はもはや睨むことすら出来なかった。
「これからオレはお前を痛めつける。徹底的に、丁寧に」と男は言って、僕の右肩に大木をなぎ倒すような横蹴りを入れた。
ゾウリムシが太平洋を横断するくらいの時間が過ぎた。僕はボコボコにされた。殴られていない内臓と関節が無いほどだった。僕はもう限界だった。ふらりと前に倒れこみそうになった。
「おいおい待てよ」
男の拳が正確に僕の腎臓を打ち抜いた。僕の目の前には空白が広がり始め、足腰が震えた。今度は右横に倒れこもうとすると左フックが飛んできた。肋骨が軋む。息もままならなくなる。僕は後ろに倒れようとした。
「もう終わりか」と男は呟きながら回し蹴りで僕の側頭部をぶち抜いた。僕は死んだ。少なくともそう自覚した。
「手がいてえな。シムを使わないで殴ったのは久し振りだ。いいサンドバックだった。おいおい、寝てんじゃねえよ、もう終わりか?」
仰向けにぶっ倒れていた僕はちらちらと燃える星たちの間に月を認めた。全身は重く、どうしようもないほど痛かった。だが、僕は立ち上がろうとした。両膝を曲げ、腹筋で上体を起こし、両腕で身体を後ろから支えた。
「へえ」と正面に立つ男は笑った。僕はそいつを睨んだ。腕の力が抜けて芝生に身を預けることになった。ヤサ男の声が聞こえた。
「なにしてんだ。さっさとトドメをさせ」
「ああん? シムを使わないで殺したらどうなるか分かってんだろ。アイツにまた厭味言われる上に、金もしこたま搾り取られるぜ。それにコイツは『不定』だ。めんどくせえ、まったく。……うんん? なんてこった。バットボーイだぜ、ありゃ」
カラカラカラカラと何かを引きずる音が地面から伝わってきた。細身の男が叫んだ。
「はやくアイツを呼べっ。なに突っ立ってんだ。さっさとボクを運んで逃げろ」
「うるせえ、もうおせえ」
鉄を打つ音がした。僕は身を持ち上げて正面で繰り広げられている戦闘を見た。二つの影が轟音を立てながらぶつかり合っている。その後ろでヤサ男がよろよろと立ち上がり、スマートフォンをポケットから取り出していた。身体をがたがたと振るわせつつも、操作して通話を開始した。
「おい、ヤツが現われた。金は払うから早く来い」
「大変そうだな」と女の声が僕の頭上で響いた。
僕は真上を見た。バニーガールが立っていた。
「だれだ?」
「あたし? バイト中のバニーガール」
「ああ?」
「まあ黙って見とけよ」と言ってバニーガールは指鉄砲を作り、ぶつかり合う二つの影に向けた。
「ばんっ」
一人が吹っ飛んだ。残った一人は、呆然と芝生の上に立っている。
「なんだ、こりゃあ」とかすかな呟きがあった。脳筋くんの声だった。ソイツは自分が戦っていた相手が吹き飛ばされたという事実を受け入れられないようだった。僕は吹き飛ばされた物体を見た。それは頭を弾き飛ばされた少年の死体だった。
「ちぇ、アイツを撃つといつも嫌な気分になる」とバニーガールは呟いた。
「おいおいおいおい、一発かよ。あのバットボーイを一発でしとめちまうのかよ。おい、アンタなんだ?」
「あたしがなにものだろうがアンタら二人じゃ、あたしに勝てない。そうだろ?」
バニーちゃんは二人を嘲笑いつつ、そう言った。僕は二人を見た。二人とも真顔だった。少年の死体を見た。さらさらと崩れていく所だった。ワケ分からん。僕はそう呟き、ごろんと寝転がって月とバニーちゃんの生白い生足を視野に収めた。
「そうかあ? やってみなきゃ、わかんねえな」と脳筋くんの強がる声がする。
「アンタ、右利き?」
「ううん? そうだが? なんだ握ってくれるのか?」
「ばきゅん」とバニーちゃんの呟きが聞こえる。脳筋くんの呻き声もした。
「アンタらの選択肢は二つある。アタシの背中で眠ってる可愛い妹にかけたシムを解いて消えるか、それともあたしとの戦闘の末に犬死するか。さあ、どっちだ?」
「ボクのシムは一生解けない、と言ったら?」とヤサ男の声がした。
「アンタと仲間、親族どもを徹底的に殺して気を晴らしてから考えるよ」
バニーちゃんは囁くように答えた。それを聞いたヤサ男は指をパチンと鳴らした。
「これでボクのシムは解除された。少ししたら目を覚ます」
「少しってどんくらい?」
「もう起きた」
バニーちゃんの背中から唸るような音がした。バニーちゃんは背中に居る立川ミミに話し掛ける。
「ミミ、大丈夫?」
「たぶん。……、お姉ちゃん?」
「そうだよ。安心して。ミミ、ハズレの日にあまり無理するなよ。すぐにあたしを呼べ」
「うん。ごめんなさい」
「なあオレたちはもう帰るぜ、いいだろ?」と脳筋くんが固い声で二人の間に割って入った。
「ああ、いいよ。はやくあたしの視界から消えたほうがいいな。気が変わらないうちにね」
二人の男の否応なき存在感はなくなった。僕はごろんとなったまま、うつらうつらと現を抜かし始める。