なんとかトイレに間に合う。
よいしょ、と言いながら彼は僕にまとわりついていた目隠しと猿轡を外した。暗闇から引きずり出された僕はまだ暗闇の中にいた。今度は見知った森の暗闇だった。口でふうふう息をしながら、手首と足首の完璧な拘束が若い男の手によって解かれていくのを見守った。その男は繊細な手を持っていた。彼は固く縛られていたはずの紐やら何やらをするすると解いていった。
「痣が残るかもね。まあ、死ぬよりはましか。この時期にあいつらと関ってこれだけで済んだことの方が不思議でならないなあ。彼女と仲直りでもしたのかなあ。いつでも消せるってわけかな」と黒髪の彼は言った。
「なんにせよ、ありがとう。このお礼は後でする。というか、僕の家にきてくれないか、話とトイレがしたい」
「いいよ、イットイレ」
僕は駆け出して旧田中千造宅に入り、便器に座ってから人間の尊厳を勝ち得た。もはや彼らのことなどどうでもよくなったくらいだ。僕はすべてを水に流し、手を洗ってから居間に入った。先ほどの若い男がソファにゆったりと腰掛けて、完璧にくつろぎを体現していた。
「麦茶、飲みます?」と僕は聞いた。
「いえ、けっこうです」と彼は礼儀正しく断ってきた。
「そうですか」と言いつつ僕は自分のために麦茶をコップに注ぎ、近くの椅子に座った。
「ねえ、イットイレは古かったかな」と男は呟いた。
「別に古くもないですよ。たぶん新しくもない」
僕はそう言いながらちびりと麦茶を味わった。日付つきの時計を見て、立ちションをしてからほぼ一日経とうとしていることに気がついた。
「……たぶん、時間を超越してるんですよ、イットイレは」
「いいね、超越。良い言葉。ところで、君は僕に聞きたいことがあったんじゃないのかな、そうだったっけ?」
「うん、そう。まずね、助けくれてありがとう。聞きたいのはアンタの名前」
「僕の名前か。なんでもいいんだが。しかし君が聞いてくれるなら言わなきゃならんなあ。いわないとなあ。うんうん。そうだ。僕の名前はこうだ。寅栖全一。トラさんと呼んでくれれば良いんだよ、ねえ、君、そうだろ?」
僕はその言葉を聴きながら自分の手首の痣を見つめていた。夢ではなかったのだとしみじみと身に沁みこませていたのだ。
「寅栖全一、イイ名前だな」
「チヒロくんだろ、君って」と彼は言ってきた。
「そう、座間チヒロ」と僕はため息をついた。だれだって僕のことを知っているのだ。
「チヒロくんは戦争って知ってる?」
「知ってるかもしれない」
「彼らは今戦争をしてる。これまでもチヒロくんの知らないところでドカドカやってたのだが、君の前でもドカドカやっちまった」
「それなら僕のいないとこで続けててくれ。僕は気にしない」
「それで済むならいいんだけどね」
そう言って彼は少し疲れたような笑みで僕を見た。端正な顔だ。肌も滑らかで、その瞳は黒々としていて虚ろではない。あまりに顔つきが整っているとどこか人間味に欠けるところがあるはずなのだが、トラさんにはそれがなかった。暖かみのある、血の通った人間だと思えるほどだった。
「チヒロくん、君にだけに言うんだけどさ、僕はもうこの世界に興味がないんだ。僕のしたいことはもう出来ないからね。出来ると思ったんだが見当違いだった。でも、最初はドキドキしたな。シムとエクストラの世界を巡る戦い。その内、いろんなやつがいろんな事をし出した。そしてなによりも『聖杯』。結局、僕にとってそれはスカだったけどみんな未だに欲しがってる。僕のやつ含めても、この世界にはまだ一ダースくらいあるからね。『聖杯』が一ダースだぜ。さすがにもう興味ないよ」
「何が言いたい?」
僕は空になったコップを食卓に置いてから聞いた。
「ああ、ごめん。いや聞きたいことはね、君もこの戦争に参加したいのかどうかってこと」
「それ、君がどうにかできるって問題じゃないだろ」
「いいや僕には簡単にできるんだ、ポンッとね。僕にはなんだって出来るって言われている『聖杯』があるんだから」
「その『聖杯』ってのは人を生き返らせることは出来るのか?」
僕はそう聞いていた。トラさんはじっと僕を見た。
「キミもそうなんだね。僕らは同じく失ったものを求めているってわけだ。死者を黄泉から引き戻すのは失くした財布をさがすことと一緒なんだよ。僕らは失った上でまた得ようとしているのさ。そしてそれはこの世界のルール上不可能なことなんだ。だから僕はこの世界に見切りを付けて終わらせようとしている。ただキミがもし死んだことすらなかったことにしたいというのなら別だ。それはこれでも出来るよ」
男は背後からスプレー缶を出した。黒地に虹色のストライプが入ったスプレー缶だった。
「こいつはクェックっていう。本物はね。この世界では『聖杯』ってことになっている。キミも見ただろ? 彼女の超能力じみた戦い方。アレの力の源がここに入ってるってみんな思ってるんだ。そして夜な夜なシムになり得る人間を襲い殺している、あのエクストラたちを完全に消し去る最終手段としても期待されてるんだが、はたしてどうなんだろうね。僕にはあんまし興味がない。この世界の構造上、それも不可能に思えるけど」
僕はほとんど彼の話を聞いていなかった。すべての意識は彼の右手にあるスプレー缶に向かっていたのだ。
「ねえ、それくれないか? もうアンタには必要ないんだろ」
トラさんは笑った。
「チヒロくんが欲しがるなんて驚きだな。そうだね。僕にはもう必要ない。けどこれからこの世界を終わらすには必要なんだ。まだあげることはできないな」
「なにをすればくれるんだ?」
「欲しがるね。言っておくけどこれは本物じゃないんだ。ただ、そうだね。僕に協力してくれればこのスプレーをあげることにしよう。つまりキミがキミの目的のために使える状態にしようってわけだ」
「アンタに協力できることはそう多くない。こっちは力もないし頭も足らない。最近はひきこもってばっかりだったから」
「いやチヒロくんに多くは求めないよ。ただ流れに身を任せてほしいんだ。キミはこれから戦争に巻き込まれる。そしてひどい傷をうけるかもしれない。身体にも精神にも。それでも最後まで戦い続けてくれればいい」
「よく分からない」
「まずはいつも通りに過ごしてていいさ。キミが思うように自由に行動してくれれば、それはもう僕に協力してくれてるってことになる」
僕はコップを手に取った。麦茶はもうなかった。
「そうか。それならできそうだ」
「うまくやれよ、チヒロくん」と言って彼はソファから立ち上がって伸びをした。僕はぼんやりとその光景を眺めていた。トラさんは労るような笑みを僕に向けた。
「もう帰るよ、邪魔したね」
「うん。かまわないさ。助けてもらったし」
トラさんは僕に一礼して玄関へと向かった。僕はその後ろを追った。
「なあ、チヒロくん。君とは友だちになれるかもしれないな」と彼はそう言い残して去っていった。僕はかちりとカギを閉めた。どこかで犬が鳴いていた。わんわん、わんわん、わおーん。僕はベッドに入って眠った。