僕は目を開けて立ち上がる。
僕は目を覚ました。見えたのは泣いているミミの顔だった。その表情は年相応で、僕は思わずその濡れた頬を撫でていた。ミミは身体を一瞬こわばらせてから目を見開いた。
「泣かないでよ」
「……、泣いてない」
「ミミはウソが下手だなあ」
「生きてるなら頭をどけてください。重いんです」
ミミの膝から頭をどかしてゆっくりと立ち上がった。少し先の地面には人形遣いの死体があった。それは足の先からさらさらと消えていくところだった。世界に散らばっている多くの人形も消えていっただろう。我々は多くの記憶を唐突に失ったまま日常を営むことは出来るのだろうか。
僕はその死体の横に転がっているグロックを手にとった。弾倉を確認する。あと数発は撃てそうだった。ミミも立ち上がってそんな僕の行動を眺めていた。僕はグロックを持ったままミミに声をかけた。
「人形遣いを殺した。我々はある意味で敵討ちを果たしたわけだ。復讐にこだわる奴らの末路はひどいものだと聞くけど、たしかにそうかもね。僕は特に満たされてないんだ。ミミはどうかな」
「あたしは、まだ救わないといけないから」とミミは俯いた。
「なんのために?」
「世界を守るために」
ミミはそう言って僕を見つめた。その表情はどこか苦しそうに見えた。いや僕がそう見たかったのかもしれない。
「エクストラとは永遠に戦い続けるんだろう。それが君たちであり、君たちの願いなんだ。一つの敵に結束して立ち上がる。そうすれば擬似的に世界は平和へと向かっていく。大きな物語を失ってしまった我々にとってこれとない状況だ」
僕はふとまわりを見た。さまざまの人種と性別、そして年代の人々が僕らを囲むようにして立っていた。ミミもそのことに気がついて身を固めた。
「彼らはエクストラだ。たとえばこれすべてとミミは戦わないといけないんだろ?」
「チヒロは戦わせるの?」とミミは非難するように僕を見た。
「彼らは僕が呼んだわけじゃない。そして君たちが思っていたように僕が彼らの長ってわけでもないみたいなんだ。彼らもある意味君たちシムと同じさ。この世界では戦うために生まれ、平和をなすために生きてるんだ。ほら、見ててごらん。踊りだすから」
僕がそういうとエクストラたちは人形遣いとの戦闘の影響で破壊された木々や、穴が開いた地面や、木っ端微塵になったベンチやらのもとに向かっていった。必要人数集まるとその戦闘の傷あとを囲むようにして輪を作る。それから彼らは両腕を何かのリズムに合わせて上下させ、同時に足でステップを踏み、その輪を縮めたり広げたりし始めるのだ。ミミはその様子を呆然と見ていた。その輪がいくどか収縮を繰り返すたびにエクストラたちはさらさらと少しずつ消えていった。そよ風に吹かれる砂場の絵にように。
すべてのエクストラが消えた後、残ったのは日常、戦闘の傷などどこにもない日常だ。
夜はすでに明けそうだった。僕はうつむているミミの方へ近づいた。グロックを放り捨ててミミの手を取る。
「見せたいものがあるんだ。前見たときは不純なものも一緒に見せてたしね」
ミミは顔を上げて僕をぼんやりと見た。
「何を見せるの?」
「僕が一番好きな光景さ。さっきのエクストラたちのダンスも好きだよ。けどもっといいのを知ってるんだ」
「どこ?」
「飛んでからのお楽しみだ」
そう言って僕は僕のシムを使った。不思議な感覚だった。一瞬の浮遊感のあとに草や落ち葉を踏む音がした。ミミは相当驚いたようで僕に抱きついていた。僕はそんなミミの頭を撫でた。
「僕のシムは一日に一回好きな場所へ飛べるというのだ。ミミの日替わり超能力に比べればなんてことのない能力だね」
「どうしてシムが使えるの?」
「使いたかったから。僕だって超能力にはあこがれるさ。だからあの瞬間、人形遣いに打ち抜かれた瞬間にはっきりと願ったんだ。こういう能力をくださいって」
「だからってそんな」
「そうだね。僕もミミと同じくエクストラの戦いに身を投じることになったわけだ。今まさにその焦燥を感じている。ハルさんが言ってたのはこういうことだったんだね。倒さないといけない奴がいるって脳みそのどこかでずっとささやかれてる感じだな」
僕はため息をついた。シムになるというのはそういうことなのだ。つねに世界のためにエクストラと命をかけて戦い続けないといけない。その強い使命感を紛らわすために弱い人間は別の欲望へと向かうのだ。それは性欲だったり、支配欲だったり、そして正義だったりしたのだろう。
「チヒロはあたしと一緒に戦ってくれるの?」
「このシムで戦えると思うかい?」
「ううん」とミミはふるふると首を振った。
「じゃあそういうことさ。ミミだって戦えない日もあるだろ。ミミも本当は理解してるんだ。シムがあっても戦わなくてもいいのさ。日常はそれでも巡っていくんだ」
僕はミミの手を握って一番連れて行きたい場所へと歩いていった。そこは僕の山の頂上で街の景色を一望できるところだ。
森のざわめきが大きくなってくる。どこかでクラクションが鳴った。それに応えるかのようにカラスが鳴いた。その後ろでキジバトがリズムを取っている。ホーホーホッホー、ホーホーホッホッホー。
僕とミミは手をつないだまま夜明けの街を見つめていた。地平線の向こうが紅く染まっていく。その上はどこまでも青く、青く広がっていた。その青さの向こうには無数の星が散らばっているのだろう。悠久の孤独を抱きながら明滅を繰り返していくのだろう。誰かは言った。地質学的にいえば、隣に誰かが居るということはほとんど奇跡に近い。
ミミが強く僕の手を握る。僕はその手を握り返した。日はもう顔を出し始めていた。僕は目を細める。遠景では光の中できらきらと粉が舞っていた。ビルは屋上から煙のようなものを出しながら揺らめいている。その様子はエクストラが消えていく過程に似ていた。僕はそこで理解したのだ。世界はいま消えようとしている。
日が昇りきったときミミは声を出した。
「きれいだね」
「うん。誰も見ていなくたっても日は昇るだろうけど、僕らが見るたびにきれいだと思われるんだ。それだったら日の出くらいみたほうがいい」
「またよくわかんないこと言う」とミミは笑った。
「そうかな。そうだな」と僕は言いながら光が舞う世界を見回していた。
「もう戦わない。そういうことじゃないんだって納得しちゃったから」とミミは僕を見た。それから無邪気に微笑んだ。「ありがとう」
僕は何か気の利いたことを返そうと思った。だがその言葉が出る前にすべては光の中へと消えていった。全ての感覚を失い、今度も宙に放り出されたような気分になる。わっふう。
●
こうして僕はキーを破壊した。おかげで世界は取引中止になったわけだ。僕は黒いソファに座る男からそう説明された。その男は奇妙な服装をした人間だった。白の野球帽、白のジャケット、白のワイシャツ、白のネクタイ、白のドレスグローブ、白のベルト、白のズボン、白の靴下、白のスニーカー、それから、黒のサングラス。
「チヒロくん、いくらマイナーだからってキーを破壊しちゃうなんてさ、やっちゃいけないよ。おかげで世界がいったんリブートされちゃったじゃないか。君たちマイナーはキーを見つけて報告するだけでいい。破壊するかどうかはみんなで決めるのだ。すべてが参与しないといけないのだ。だがあの世界の臨界点に達してしまったのは確かだ。人形遣いだけでもなく、ほかの能力者たちもやりすぎた。だからチヒロくんにすべての責任を負わせるのもお門違いかもしれないね。あの世界がそれだけ脆弱だったってだけとも言える」
「なに言ってるのかわかんないよ。アンタは祖父ちゃんの知り合いみたいだけど、それにしたって限度がある」
「はっはっは。せんぞーにはいろいろ世話になったからキミのミスだってまあ許してやらなくないって話さ。しかし、よくやったよ。あのままあの世界が発現していたら面倒だっただろうな。人類がやりたい放題して全滅ルートだ。過度な力は常に破滅への道をはらんでいる。その点ではキミのおかげで日常へと戻ってこれたとも言えるな」
「祖父ちゃんはアンタに何させられてたんだ?」
サングラスの下でも容易に分かるような笑みを男は浮かべた。
「チヒロくんと似たようなことさ。せんぞーはぜーんぜん覚えていないだろうけどね。チヒロくんもここでの会話を忘れるはずだ。ただキミに思い出は持って行かせようと思う」
男はそう言って指を鳴らした。それから横を指差した。
「そこに扉があるだろ? 開けてみるといい」
僕は言われるままその扉を開けた。中には書斎が広がっていた。男が僕の背中に言った。
「紙とエンピツ、それから机と椅子。そこにあるだろ。そしてあの世界の年表や資料は本棚のファイルにある。すべてを使っていい。満足するまで自分の思い出を紙に書き付けるのだ」
僕は振り向いて男を見た。
「どうして?」
「書きたくないのか?」
僕は質問に質問を返されたことに不満を持ちながらも、無言で悩んだ。
「まあいいさ。とにかく机に座るといい。オッチャンだってすぐには取り掛からなかった」
「祖父ちゃんも書いてたのか?」
「メモのように書いてたときもあったし、長々と書いてたときもあったさ。ただどんな時だって書いていた。それがせんぞー自身のケジメだったんだろう」
「ケジメか」
僕は書斎に入って本棚の前に立った。背表紙に年代が書かれたファイルが並んでいる。違う本棚には事件名が書かれたファイルが並んでいた。人形遣い討伐事件その1とかもあった。事件をつければまとまると思っているに違いない。
椅子に手をかけて引いた。ぼすりと座る。机はちょうどいい位置にある。僕は紙の束から一枚とりだして、エンピツを握った。少し悩んでから一文を書いた。
『クールな朝だった。』
★
クールな朝だった。起きた瞬間そのことが分かった。僕は僕の山に登って日の出を見ることにした。変わりなく日は昇ってきた。僕は蚊に刺される前に山を下りた。夏は蚊が多いのだ。
祖父の家に帰ってから僕は実家に電話した。朝早くだというのに母は2コールで出た。僕はおはようも言わずに用件を言った。
「母さん、祖父ちゃんの家一緒に片付けよう。あのさ、おれ家に帰るよ」
「……、分かった。すぐに行くから」
母は感情を出すことなく電話を切った。僕は祖父の家に散らばる自分の荷物をまとめはじめた。その折に奇妙な紙束を書斎で見つけた。どうやらその筆跡は僕のものだった。だが書いた記憶はない。紙束をめくっていくと奇妙な物語が書いてあった。僕は母が来るまでそれを読んでいた。なんとなく破り捨てるのはもったいない気がして、カバンの奥底にしまった。
母が来て、我々は祖父の遺品を整理し始めた。食器の類を新聞紙で包んでダンボールにしまったり、扇風機を物置においたり、何を遺すか何を捨てるかを考えた。日が暮れた頃に我々はとりあえずの作業を終えた。僕は荷物をまとめて祖父の家をでた。
夕暮れの中、母と肩を並べて歩いた。僕は呟くように言った。
「ごめんなさい、いろいろわがまま言って」
それを聞いた母は僕の背中を叩いて大いに笑った。
「お母さんはそれだけチヒロがジイサンのことを思っててくれて嬉しかったよ」
僕は口びるを少し噛んでから言った。
「ありがとう」
「いいえ。こちらこそ」
僕は久々に家へと帰ってきた。部屋の電気を点ける。荷物を放って机を見た。チリ一つなかった。床もベッドもそうだった。
僕は荷物をほどいて元の場所へと戻していった。最後に紙束だけが残った。僕はその紙束を机のひきだしの奥にそっと仕舞った。
父が帰宅してから、僕は母の作った料理を楽しんだ。三人で食べる夕食は久しぶりだった。おかえりと僕に言った父は嬉しそうに食べていた。母もそうだった。我々は和やかに食事を終えた。
それから僕は風呂に入り、あとは眠るだけとなった。
部屋の電気を消してベッドに腰掛ける。目をつむって自分が僕の山の林の中に居ると想像した。切り株にじっと座って、雲の隙間からもれだす月光を浴びている状況を想像した。耳を澄ます。木々のささやき、昆虫のつぶやきが鼓膜を触りはじめる。土のかおりが鼻腔を通りぬけた頃に落ち葉を踏む音がした。一歩、二歩とそれはだんだんと僕へと近づいてくる。
耐え切れず僕は目を開けて立ち上がる。そこにはただ暗い部屋が広がっているだけ。誰も居ない。僕がただ一人。それはきっと宇宙にとって自然な状態なのだ。わかってる。そうやって物事はながれていく。虫けらのようなこの僕の感情を慰めることもなく、ただ平然とすぎていくクロニクルの中で、我々はその涙の意味を探すため日常を必死に築いていくのだ。怒りも悲しみも何もかもを飲み込みながら『そんなものだ』と笑い合える日常を。