柔らかなシートに座っている。
薄暗い照明の中、ひとり僕は柔らかなシートに座っている。目の前にはスクリーンが広がっていた。幕は既に上がっていて、もはや何かを映していないのが不自然なくらいだった。僕はシートに背中を埋める。クッションが僕の力に応える。丁度いい。僕は満足して傍らにあるポップコーンをポリポリとつまんだ。塩味がした。丁度いい。とても。
列の最前列、そのど真ん中にいた僕の周りには、空席が広がっている。後ろを振り返ってみると、シートの列が果てもなく続いていた。そういうこともある。傍らにある巨大な紙コップを手にとり、ストローを咥え、吸った。舌の先で微かな酸味と後に引かない甘さを認める。コーラだった。その刺激がポップコーンの後味を上書きしていく。丁度いい。僕は紙コップを元に戻す。げっぷをする。とっても気分がいい。僕はそろそろかなと思う。何かが始まるには丁度いい頃合だった。
周囲の光度が徐々に低下していく。同時に、スクリーンが自らを発光させていく。 僕はポリポリとポップコーンをつまむ。とうとうすべての光源がスクリーンだけとなった。スクリーンは白く光っている。僕の網膜には強すぎるようだった。そのことを気にしてか、スクリーンは静かに暗転した。それから、その黒い背景に白い文字を浮かび上がらせた。
それはこういう文字だった。
『提供 世紀末カンパニー』
その文字は掠れていき、黒地のなかに消えた。僕は黒く発光し続けるスクリーンを眺める。ポップコーンをポリポリとつまんだ。マッチをこすったような音がしてから、文字が浮き出てきた。それはこういう文字だった。
『日常へのクロニクル』
まず、男が猫を見つけた。黒猫だった。暗闇にまぎれて、男の視界の隅を横切ったのだ。男は猫を見かけると追いかけたくなる人間であった。どんなのときでも、にゃあと挨拶をしなければ気が済まないのだ。だから男は月に導かれながら猫の尾を追いかけた。猫は追跡者のことなど気にすることなく、悠々と夜道を闊歩する。猫と男は路地に入った。民家と民家の狭い合間を縫うようにして、猫はすたすたと四足で歩いていく。背広姿の男は難儀だなと呟きながらも、よいしょと植木鉢を避けながら猫のしっぽに付いて行った。細くまがりくねった道を抜けると、空き地に出た。空き地には月明かりしかなかった。猫はそこらに覆い茂る草むらには興味がないようで、誰かが作った小道をてくてくと進んでいく。こりゃ幸いと男もゆったりとした心地で周囲を見回しながら付いて行った。その空き地は男の家からそう遠くはない場所だった。ここもいつか潰れちまうのか、と男は虚空にぼやいた。猫は返事することなく、誰かの家の塀を越えようとしていた。ここまでだな、と男は言ってから、にゃあと鳴いた。猫は、塀の上で振り向いて男をじっと見た。男はそんな猫に笑いかけて、にゃあごにゃあごとまた鳴いて、去ろうとした。すると背後から声がした。
「誰?」
男は首をまげて後ろを見ると、皿を持ったひとりの少女が猫のそばにいた。
「いや、失敬。猫を追いかけたらここまで来ちまったんです。悪いね。驚かせて。三島のようにプライバシーをどうこうするつもりはないよ」と男はやわらかに言った。少女は猫に真偽を問うような視線を投げかけてから、塀に体を寄せた。
「その猫、君の家の猫なんですか?」と男は少女たちとの距離を保ったまま尋ねた。
「違うよ。この子は通いネコ。いろんな家を渡り歩いてるの」
「へえ、実は私の家もこの近所なんですよ。今日初めて見つけたから、ちょっと挨拶をしたくって。ま、その調子だと彼にはまた会えそうだ。じゃ、帰ります。驚かせて申し訳ないね」と男はぺこりと頭を下げて、少女たちの下を去った。
男は来た道を戻ることなく、畦道を進んで別の路地に入った。鼻歌を歌いながら夜空を見上げて歩いていく。二度ほど小道を右折すると、通りに出た。今度は左にまがって三軒ほど平屋をやり過ごすと、男は小さな一軒家に入った。門構えもない家だった。
「ただいま」と男は玄関で靴を脱いだ。隣の部屋から女が出てくる。
「おかえりなさい。ご飯になさいます?」と女は聞いた。
「うん」と男は簡単に答えてから脱いだ背広を女に渡した。「帰る途中に猫がいたんだ。うちにも来るかもしれないよ」
「そうですか。ならエサ皿を用意しておかないといけませんね」と女は背広を手にやさしく笑った。
「うん。大切なお客さんになるよ」と男も笑った。なか睦まじい夫婦であった。だが、食卓には二人分の皿しかなかった。
彼らには子供がいなかった。夫の方が頷かないのだ。妻はそれとなく子を作ることを聞いてみる。だが、夫はいい加減に済ませてしまう。妻は無理にどうしてとは聞かない。それとなく夫が拒む理由がわかるからだった。夫は昔のことを考えている。それは取り返しのつかないくらい昔の事だった。
男の屈託は人との交際を厭わせるものだった。近所の付き合いも仕事においても最低限の礼儀だけでやり過ごしていた。出不精でもある彼は、休日に妻が外出へとどんなに誘っても、ただ寝っころがったまま唸るだけであった。
そんな彼の下にあの猫がやってきた。春先の事だった。夕飯を終えて、男が庭先で風に当たっていると塀の穴からひょっこりと猫が出てきた。猫は男に向かってにゃあごと鳴いた。男もにゃあごにゃあごと鳴いた。
「おい、秋子。ネコだネコ」と彼は珍しく興奮した声で妻を呼んだ。
「はいはい」と食器を洗う手を止めて妻が出てくる。
「ほら、あそこ」と男は地面に丸まっている黒猫を指差した。その輪郭は家からの明かりのおかげでかろうじて闇にまぎれてはいなかった。
「あら、ほんと。残りのブリでもやりましょうか」
「うん。味噌煮でもなんでもいいや」と男はおおきくうなずいて、その五分後には猫にブリを食べさせていた。猫はちびちびとブリを噛み、ときおり男の方を見やっていた。男はにこやかにその様子を見ている。
「どうだ、ウマいだろ」と男は人間に合わせた味付けのブリを自慢した。猫は無言でちびちびと食べて続ける。男はこっそりとその背中を撫でた。猫は逃げなかった。こうして、男は猫を庭先に毎晩呼ぶようになった。
男と猫は良く話をした。猫は食べながら聞いているだけだったが、男にとってそれは会話だった。たとえばこういう感じだ。
「なあ、今日の雲の加減はいい感じだね。よく月が映えるよ。夜の雲ってのは月のためにあるんだ。なあ、そう思わないか?」
猫はしっぽを振るだけである。
「そうだろ。雲がまだらになった合間から漏れ出てくる月光。これこそが、俺たちなんだよ。満月でも三日月でもなんでもない。雲の隙間を覗くようにして顔を見せる月こそが、俺たちなんだ」と男は猫の背を撫でた。猫は食べるのをやめて、にゃあごと鳴いた。
「うん。ちょっと言い過ぎたかもしれない。お前の言うとおりだ。実はいうと、月のある夜はまだ少し怖いんだ。月が影を作ってしまうようなくらいに明るいと、思い出すんだよ。お前は知らないかもしれないけど、十五年くらい前はすごかったんだ。ここ一帯は焼け野原。お前はたぶん、そのあとに出来た野原から生まれたんだろうな。なんというか、お前には草と土の匂いが染みついてるよ」
「にゃあん」
「いや、田舎くさいとかそういうのじゃないよ。ただ人間にふさわしい匂いがお前からするんだ。……火薬と膿んだ傷と、焦げた肉の匂い。これも人間にふさわしい匂いなのかもしれない。人間はその匂いを香水でかき消してる。文明という名前の香水でね」
「にゃご」
「うん。ごめんな。ちょっとおセンチになっちまってたよ」
「ぅにゃあん」
「ああ、全部昔のことだ。でもだからこそ、ここに残るんだ」と男は自分の胸をぽんと叩いた。男の胸から乾いた音が夜の中へと出て行った。
初めの頃、彼は日々の不満を猫に話していた。川はゴミであふれている、トラックはびゅんびゅん走ってる、会社はタバコくさい、痰が良く喉に絡む、空気にはなにが入ってるのか分かったもんじゃない、などなど。
自己紹介のように不満を述べたあと、男は日々の雑感をぽつりぽつりと言葉にしていった。おかげで自分の考えていることを知ることができた。自分の考えをより大きなものへと繋げていくこともできた。彼の日常に彼の考えがはびこり、彼は人の前では以前よりもさらに頑なな態度をとるようになった。本音を金庫にしまいこんで、そうしない人々の愚を嘲笑った。その金庫が開かれるのは猫の前だけだった。彼は猫に自分の結論の端々を聞かせるたびに、猫が愛おしくなった。猫はにゃあごとそのちっぽけな本音を眺めた。そんな彼らは縁側でこんなことも話していた。
「うん、だからね、人間っていうのは自ら苦しみを育んで、呻いているようなものなんだ。君の先祖もそう言ってたぜ。そこは納得できるだろ?」
「んなあん」
「ふうむ。確かに絶望の中にもある種の快楽はあるさ。有名な話だ。人間はいつだって苦しんでるわけじゃない。毎日が葬式みたいなやつはそうそういないだろうな。人間はそこまで繊細じゃない。だが、まったくいないわけじゃないよ。ある種の人間たちはすべてが悲しく思えるんだ。ブッタもそうだった。たぶん、イエスだってそうだった。日常的な人々はそれを精神異常としてしか捉えられない。もし、そのある種の人々が思うようにこの世のすべてが悲しいことだけでできているなら、どうして生きていかなきゃいけないんだろうか。そんな人生なんて、いばらの中で崖に向かって匍匐前進していくようなものだ。得るものは何もない。ただ奪われていくだけ。どうしてそんな世の中に新しい客を招待できるのだろうか。この仮定が正しかったら、我々の欲求は理に適わないものになる。だから、人は仮定を否定してゴミ箱に放っちまうのさ」
「にゃあん」
「えっ? そうじゃないのか。どういう訳だい?」
「にゃ」
「へぇ、彼らはそれを受け入れたうえで、生きていくって訳か。なるほど。模範的な回答をありがとう。そう、七転び八起き。負けたって前を見て歯を食いしばって働けばいいだけなんだ。俺たちは確かにそうしてきた。でっかい電波塔が建つくらいに頑張ってきた。これから、もっともっといろんなことが進んでいくだろう。でもそれは国の話だ。人間の話じゃない。国が栄えようが、人間の悲しみは滅びることはない。国なんてものは便宜だ。人間が悲しみを忘れるための、そして思い出すための道具にすぎないのさ。悲しみは人の影だ。ずっとそいつの後ろをゆらゆら追ってくる」
猫は耳を掻いた。男はその黒い毛並みの背中を撫でた。
「うん。わかってる。それでもなお、俺は生きる。そして、それがなぜだかわからない」
桜が咲き始めたころになると、猫は休日の昼間にも男の下へとやってきた。二人は沈黙を共有することを学んだ。さらさらした春の日差しのなかで、穏やかな笑みを湛えた男は猫の背を撫で、猫はしっぽをぱたぱたと振っている。妻はその後ろ姿を横目で見ながら、やわらかに笑った。
そのような日々を過ごしていたからか、男は以前のようにふさぎ込むこともなくなった。休日にじっと貝のようにして口を閉ざしたままで過ごすようなことはなくなった。晴れた日には桜でも見に行こうかと妻を誘うほどになった。妻は嬉しかった。猫の体温によって、夫の屈託が氷解しているように思えた。寂しくもあった。猫におとる自分の温もりが女の笑みにときおり影をつくった。無頓着な夫は猫との親睦を深めていった。猫の方も嫌がることなく男の膝の上で丸くなった。初めて人類が宇宙に到達しても、彼らの生活は変わらなかった。
「地球は青いらしい。今朝の新聞に出てたよ」
「うにゃあ」
「うん。空が青いんだから、青くないわけがないな。お前の言うとおりだ。でも、人間ってのはちゃんと自分の目で見ないと安心しないみたいだ。そのうち月にウサギがいないのか調べに行くかもな」
「みゃあご」
「そうだな。できればモチでもついててほしいもんだ」
こうして春が過ぎる。男と猫の日々はこのままなだらかに続いていくように思われた。少なくとも夫婦はそう思っていた。猫はそう思っていなかった。夫婦の間から猫は去っていった。それは出会いと同じく、唐突なものだった。二日三日と男は独りで縁側に座った。一週間が過ぎて、男は猫が去ってしまったことをぼんやり納得した。
休日になって男は猫の消息を近所に尋ねた。隣近所の見解はトラックにでも轢かれたのではないかというものだった。暴走トラックに人間ですら多数轢かれているわけだから、猫がぺしゃんこになっていてもおかしくはなかった。男はそれにはなんとなく納得できなかった。あの猫なら車のいない道を歩くだろう。初めて会った夜と同じように。男は妻にそんな文句を言った。
男は猫にエサをあげていた少女の家も尋ねた。彼女とは猫が来て以来、道で会えば挨拶と猫の話をするような仲になっていた。少女は彼女の家の前を通る道路で友人たちと遊んでいた。
「やあ、こんにちは」と男は少女に声を掛けた。
「あっ、こんにちは」と少女は友人たちの輪から離れて、男の下へ駆けてきた。
「ねえ、最近あの猫見かけたことありますか?」と男は屈んで少女と目線を合わせる。
「うん、あのね、あの子トラックに乗ってっちゃったの」
「えっ?」
「トラックの荷台に乗っかったまま眠ってて、そのまま行っちゃったの」
「あぁ、そりゃあ、なんというか、アイツらしいね。そうか、そのトラックの行先とかわかるかい?」
「うーん、あっちかな」と少女は北東の方を指差した。
「あっちは、まあ日光のほうだね」
「へえ、そうなんだ」
「うん、まあ、ありがとう。じゃあ、アイツの帰りを待つことにするよ。アイツならまたトラックに乗って帰って来れるだろう」
「うん」と少女は笑った。
「失敬するよ。ありがとうね」と男は立ち上がって、少女の下から離れた。
「うん。さようなら」と言ってから少女は再び友人たちの輪に加わった。
男は帰宅して妻に聞き込みの結果を話した。妻は猫がトラックに乗って旅に出たことを驚いた。
「あら、大丈夫かしら」
「うん。餓死してるかもしれないよ」と男は笑った。
「そんな、冗談にもなりませんよ」
「いや、まあ、なんとかしぶとく生きてるだろう。あっちでも俺みたいの捕まえてさ、エサでももらってるよ」
「そうだといいですけどねえ」と妻は縁側を見た。垣の穴はぽっかり空いたままだった。男は妻の横顔を眺めた。
「なあ、寂しいか?」と男は妻に尋ねた。
「あの子がいなくなって?」
「うん」
「ええ、寂しいわ。でも、あなたの方がもっと寂しいでしょう?」
「いや、まあね。首輪でも付けておけばよかったかな」
「そうもいかないでしょ」
「うん。だから、寂しいんだ」と男は呟くように言ってから俯いた。しばらく二人は沈黙を舐めあった。男は茶を飲み、トンと湯呑を円い机に置いた。女はぼんやりと庭の方を見やっている。
「なあ、探しに行ってみるか?」
「えっ?」
「猫をさ。ここから北東の方に行ったみたいなんだ。今度の休日に列車にでも乗って、ぶらりと探してみようじゃないか」
「当てはあるんですか?」
「匂いでもたどってみるよ。草と土の匂いをね」
「そうですか」と妻は笑った。男も笑った。
二人は休日を小旅行で費やすようになった。列車に乗り、見知らぬ駅で降りて猫のいそうな場所を散策した。その土地の人たちに猫のことを尋ねたりもした。たいていはつれない返事で、猫のことなど考えたこともないようだった。そんなときには、話題を変えて食事処や名所を聴いた。するとたいていの人々は親切になり、若い夫婦にその土地のいい場所を教えてくれた。二人はその教えに従って、その土地をじっくりと楽しんだ。そんな旅をするにつれて、女の笑顔は増え、男のだんまりは減っていった。女は夫が以前より陽気になったことを嬉しく思った。男は積極的に小旅行の計画を考えた。二人は日光にも行った。人ごみに少し呆れながらも、それなりに楽しむことができた。
「どうもここじゃないみたいだ」と男は中禅寺湖を眺めながら言った。
「ええ、どうも人ばかりで、猫はいませんね」と日傘を差した女は笑った。
「うん。湯葉でも食べて、宿に行こうか」
湯葉を食べた二人は宿に行った。客入りの少ない簡素な宿だった。女将は白髪の老女で、どうも明治時代から生きているみたいだった。若い夫婦を気に入って、ことさら世話を焼いた。彼らは世間話して、二人は女将に猫の事を聞いた。
「黒ねごめだっけ?」と女将は目を丸めた。
「ええ、黒猫です。特徴はまあ、それくらいなんですが」と男は笑った。
「きのうおとといまでいたっべよ」と女将は興奮を隠さずに言った。
「あらまあ」と妻も目を丸めた。
夫婦が女将の話を聞くと、その黒猫はたしかにトラックに乗ってやってきたらしい。宿の周囲でエサをもらって食いつないでいたが、一昨日になったら、ひょいと別のトラックに乗り込んでしまったようだ。そのトラックは軽井沢の方へと向かうものだったという。夫婦は女将が去った部屋の中で、どうしようかと話した。
「噂の軽井沢も行ってみるか」と男は敷布団に寝っころがりながら気軽に言った。
「ええ、まあそれもいいかもしれませんね」と女は笑った。
「アイツはエサのもらえそうなところを、うろうろしやがるんだな」
「賢い猫なんでしょうね。トラックを乗り継ぐなんて、人間でもなかなかできないわ」
「うん。捕まえたら芸の一つでも覚え込ませようかな」
梅雨が明けたころに、二人は軽井沢に行った。今度も日光に劣らず人が多かった。女はあるテニスコートに行きたがった。そこには多くの人がいた。婦人たちがやがやと写真を撮っている。男は妻に手を引かれながらその周囲を歩いた。
「熱気冷めやらぬって感じだね」
「だって、ロマンスの聖地だもの」
「うん。たしかにそうだ」と男は笑った。
それから二人は人ごみを離れて、涼しい林の道を歩いた。その途中途中で地元の人間に猫のことを尋ねた。だが、やはり人々は猫など気にしていなかった。二人は住民に教えてもらったイタリア料理屋で夕食を済ませて、宿に帰った。猫にまつわる釣果はなかった。諦めることなく宿の従業員たちにそれとなく聞いたが、みな首を横に振るだけであった。
「途中で落っこちちゃったんじゃないかなあ」と浴衣姿の男は布団に横になって言う。
「もうどこかで拾われたのかもしれませんよ」と女は濡れた髪をタオルで拭きながら答えた。
「うん。それは困るな」
「あら、どうして?」と女は髪を拭う手を休めて聞いた。
「やっぱり、アイツが人のモノになるなんて、なんだか寂しいよ」
「そうね」と女は淡く笑った。
「けど、こうして旅行をするのも楽しいな」と男が寝返りを打ち、天井を見つめた。
「私も、楽しいわ」
「うん。今度は思い切って京都とか行ってみようか」
「ええ、行きましょうよ」と女は夫を見て、笑った。男は少し幸福だった。
こうやって幸せを感ずるほどに、男の影は際立った。だが影にはもう心臓がなかった。猫が持ち去ってしまったのだ。もう成長することのない影と男は向き合わなければならなかった。
その影の奥には一つの景色があった。それは、月に照らされている荒野だった。
その荒野には一人の兵士が倒れ伏している。その兵士の下には夥しいほどの白い骸が静かに埋まっていた。その骸たちは気の遠くなるほどの歳月を経て、地へと溶け込んでいく。骸がすべて消化されることはなかった。どこからともなく人々はやってきて、その荒野に新しい死体を埋めていくのだ。しかし、横たわる兵士は誰からも埋められることなく、月にさらされているままだった。
これが男の問題であった。
男は妻の寝顔を暗がりの中で眺めながら、昔のことと先のことを同時に思った。目をつむって今の幸福を反芻した。すべきことは決まっていた。
夏になって、男は独りで旅に出た。妻は附いて行きたがったが、夫はやんわりと諭した。
「これはオレの問題なんだ」
「あなたの問題は、私の問題でもあるんです」と女はきっぱりと言った。男は苦笑した。
「うん。ありがとう。けど、オレが独りでやることはこれで最後だよ。これが終わったら、秋子、京都に行こうよ。猫の事なんて関係なしで、二人で一緒に、二人のための旅行をしよう。なあ、そうしようよ」
「……、どうしても独りじゃないとダメなんですか?」
「うん。秋子にはここで待っててほしいんだ。オレが戻ってこられるように、待っててほしいんだよ」
「そうですか」と女は柔らかく言った。
「うん」
「はやく帰って来てください」
「うん。ありがとう」
男は列車とバスを乗り継いで、目的の町に辿りついた。駅から出て地図も見ることなく舗装されていない道を夏の日差しにあぶられながら、歩いて行った。まばらな商店をいくつかやり過ごしてから、一つの民家に入った。男はその家に一時間ほど居た。家から出てくる時、老夫婦が男を見送った。その二人は去っていく男の背中に向かって、深々とお辞儀をした。
男は硬い表情で角を曲がった。途中にあった花屋で、花束を繕った。男は坂を上って、町営墓地に向かった。墓地に入ると、ひとつひとつ墓石を観察していきながら歩いて行った。男の額に汗がにじんだ。灰色の墓石の前で男は立ち止まった。毎日、手入れがされているような墓だった。男はすでに供えられている花の隣に自分の花を添えた。それから屈んで、手を合わせて目を瞑り、じっと身を固まらせた。言葉はなかった。唇は固く閉ざされていた。太陽が男を見つめていた。
男は鼻で大きく息をしてから、立ち上がった。視界にきらきらと光が舞った。男はふらつきながらも墓から去ろうとした。だが、足音がしたのだ。馴染みのある足音だった。
「にゃあご」
男は振り向いた。そこには黒猫がいた。男は硬直した。猫は構うことなく、男の足元に寄ってきて、男のズボンに自分の黒い毛をなすりつけた。それからまた、にゃあごと鳴いた。男は膝をまげて、猫の頭を撫でた。
「お前はオレをここに連れてきたかったんだな」
「にゃあ」
「いや、別に恨んではないよ。むしろ、ありがたいくらいだ。いずれはこうしなきゃいけなかったんだ。これがただの儀礼に過ぎなかろうがなんだろうが、こうするしかなかったんだ。オレは、結局オレの事しか考えてなかった」
「みゃあお」
「うん。仕方ないことだね。分かってる。お前が教えてくれなきゃ、ずっとぐるぐる回ってたよ」
「にゃ」
「ああ影はオレの懐に入るくらいの大きさになったよ。お前が心臓を抜いてくれたおかげだ。完全に消えることはないだろうけど、それはみんなと同じことなんだ。気にすることじゃないってオレはようやく分かった。これもお前のおかげだ。ありがとよ」
「にゃあん」
「うん。これからも色々あるだろう。けど、オレはお前のことを決して忘れたくない。猫を見るたびにオレはお前を思い出すよ」
「にゃあご」と猫は男に背を向けた。
「にゅあご、にゃあご」と男は猫の背中にさよならを言った。それは本当のさよならだった。
男はまっすぐ家に帰った。
それから、妻と京都に行った。
それから、二人は子供をもうけた。
それは女の子だった。千秋という名前の女の子だった。
男はその子のために、空気の良い郊外へと引っ越した。裏に小高い山がある一軒家だった。通勤のために駅まで自転車で通う日々だったが、娘のことを思えば苦ではなかった。娘はすくすくと育った。快活で良く笑う少女になった。男はこの上もなく幸せだった。
その頃の男は、休日の晴れた朝になると裏山に登っていた。朝日をじっと頬に受けたいがためであった。朝食の時間になると娘がとたとたと駆けて、山頂にいる父の下へとやってきた。おとーさーん、ごはんだよーと叫びながらやってきた。男は頬を緩ませながら、娘を呼んで彼女にも朝日を見せた。
「日はいつだって昇るんだが、今日のはキレイだろ」と男は娘を抱きかかえた。
「ううーん。まぶしいっ」と娘はけらけらと笑った。
「うん。まぶしいよなあ」と笑って男は娘を下した。
「ねえ、おんぶしてよ。おんぶ」と娘はぴょんぴょん跳ねた。
「うん。仕方がないね」と男は娘を負ぶって山を下りた。そんな休日だった。
歳月は流れたが、白髪が交じりはじめても男は相変わらず自宅の裏山を登っていた。秋のある日の事だった。山の中腹にある切り株に一人の人間が座っていた。奇妙な服装をした人間だった。白の野球帽、白のジャケット、白のワイシャツ、白のネクタイ、白のドレスグローブ、白のベルト、白のズボン、白の靴下、白のスニーカー、それから、黒のサングラス。男はその妙な人間を五歩ほど離れた場所で眺めた。その人間は顔を上げて、男の方を見た。口元に弱々しい笑みをつくった。その人間は声を出した。それは日本語だった。
「ああ、オッチャン。勝手に入っちゃってごめんな。ここ、オッチャンの山だろ?」
「うん、まあな」
「オレ、すげえ疲れちゃってさあ、ちょっと休みたかったんだ。頭はクラクラするし、喉はカラカラなんだ」
「……、水でも飲むか?」と男は腰に掛けていた水筒を外してサングラスの前に見せた。
「ホントか? いや、ありがとうな」とその人間は簡単に素早く水筒を男の手から奪って、がぶがぶと飲み始めた。最後の一滴まで飲みきって、口を袖で拭ってから満足そうに息をついた。
「いやあ、助かった。すんげえ、ウマい水だった。サイコーだ」とその人間はにやりと笑って男に水筒を返した。
「井戸の水だ。腹壊しても、文句は言わないでくれよ」と男は受け取った水筒を腰に掛け直した。
「なるほどな。なんか森の味がするなって思ったよ」
「まあな、あながち間違ってはない」
「……、オッチャン浮かない顔してるね。なんか嫌な事でもあったのか?」
「うん? まあな。人生なんてイヤな事尽くしだ」と男は皺を増やすようにして、笑った。
「そうでもねえだろう。笑ってきた日々も、オッチャンにはたくさんあっただろ?」
「うん。あったよ。だが、喜びは悲しみを繕うだけなんだ。アンタは若いからなかなかピンと来ないだろうけどな。思い出が増えるほど、生き辛くなっていくのさ」
「……、誰か死んだのか?」
「うん、まあな。……、先月に妻がガンで死んだよ。アンタに言ったって仕方がねえけどな」と男は口元だけを笑わせて言った。
「そうか、そいつはツレェな」
「ツラいってもんじゃねえぜ。見るもの、触るもの、何もかもが腐っちまうようなもんだ。狂っちまってるんだよ、オレの脳味噌がさ。どうしてアイツが今、死ななきゃなんねえんだ。もっと、死ぬべき奴ってのはほかにわんさかいるだろうに。娘だってまだ小学生だ。これからってときに、笑って逝っちまったんだよ、アイツはさ。どうしようもねえや」
男の話を聞いていた人間はそのサングラスに男の眼光を映した。男はそこに映る己の目付きに一つたじろいでから、自嘲気味に笑った。
「いやあ、つまんねえ話をしちまったみたいだ。ごめんな。忘れてくれ」
「……、なあ、野暮なことかも知んねえけど、一つ聞いていいか?」と白い服の人間はゆっくりと立ち上がりながら、言った。
「うん? なんだ?」
「もし奥さんが生き返るなら、そうして欲しいか?」
「ああ?」
「……、オッチャンには恩がある。水を貰ったっていうのと、なによりも惜しみない親切だ。こんなに怪しい俺でもふつうに接してくれた。アイツの言うとおりだね、オッチャンは心底イイ奴だよ。オッチャン、このスプレーを見てくれ」とその人間は突如その右手に現れたスプレー缶を男に見せた。黒地に虹色のストライプが入ったスプレー缶だった。
「なんだ、それは?」
「ああ、これはクェックって言うんだ。うちの会社で創った奴さ。外装のアイディアはディックのユービックからパクった。だが、効果は違うんだ。この中には『世界の果て』が入ってる」とその人間はシャカシャカとスプレー缶を振りながら言った。
「世界の果て?」
「ああ。簡単に言えば、すべてが可能な場所さ。俺たちはその特性を利用したんだ。これを振りかければすべてが可能になる」
「なに言ってんだ、おまえは」
「まあ、そうなるよな。論より証拠だ。この切り株を見てくれ。これは本当の切り株だ。なあそうだろ?」
「……、うん、そうだ」
「これにこいつをかける。木が一番元気だったころの姿になるように念じながら、スプレーを噴出する」とその人間は言った。それからノズルを押して、切り株に向かって白い霧を噴出させた。白い霧は切り株を包んで上昇していき、もくもくと膨らんで木の形となった。霧が散ると、そこには一本のスギがあった。
「どうだい、これでわかっただろ?」とその人間は笑った。男は呆然とそのスギを見上げていた。
「こいつさえあれば、すべてが思い通りになる。問題は、本当にすべてが思い通りになっちまうってとこかな。これは『世界の果て』でもそうなんだけどな。秩序に関わるなかなかシビアな問題さ。まあ、オッチャンには関係ねえ。オッチャンの奥さんくらい、シュッと一吹きで生き返るぜ」
「……、おまえ、なにもんだ?」
「世紀末カンパニーの社長さ。あるいは、人類で初めて『世界の果て』に到達した人間でもいい」とその人間はサングラスの下に笑みを形作った。
男は目を瞑って、白髪交じりの頭を抱えた。
「お前は、悪魔か?」
「いや、人間だ」
「オレは、どうすりゃいいんだ」と男は頭を抱えたまま呟くように言った。
「やりたいことをしてくれ、オッチャン。オッチャンが今、一番望んでることを考えながらこのスプレーを使うんだ。後の事は考えなくていい。それは俺たちの仕事だ」
「……、記憶はどうなる?」と男は顔を上げた。
「記憶だって? 何の記憶さ?」
「秋子が死んだときの、記憶だ」と男はじっとサングラスを覗いた。
「徐々に消えるよ。すべてがつながるんだ。そうなったら、そうであったようにしか思えなくなるんだ。それが現実ってやつだ」
「このスギも、切り株だったことをオレは忘れちまうのか?」
「ああ、そうなるな」とその人間は断言した。
「そうか、……わかったよ。それを貸してくれ」と男はその人間に向かって手を伸ばした。
「ちゃんと、思い描きながら使わなきゃだめだぜ」とその人間は言って、男にクェックを手渡した。男は受け取ったスプレー缶をシャカシャカと振ってから、思いとどまることなく再生されたスギに向かって噴出させた。スギは白い霧に包まれ、徐々に縮まっていき、最後には切り株だけが残った。
「うん。これでいい」と男は呟いてから、白い服の人間にスプレー缶を投げ返した。その人間は落としそうになりながらも、屈みこんで両手でスプレー缶を捕まえた。
「……、オッチャン。アンタ、すげえよ」とその人間は屈んだまま言った。
「すげえのはそのスプレーさ」
「いや、ホント。アイツの言うとおりだな。オッチャンはイイ奴だよ」
「なあ、アイツって誰だ?」
「さあね。だが、なにもアンタだけが猫と話せるわけじゃないんだぜ?」とその人間は立ち上がって、男に笑いかけた。
「猫?」
「おいおい、アンタにとって猫ってのは一匹しかいねえだろ」
「……、お前、アイツにあったのか?」
「そうだ。アイツにアンタの事を頼まれたんだよ、オッチャン。アンタがどうしようもなくダメになっちまった時に、助けてほしいってさ」
「お節介なのは、変わらないみたいだな」
「イイ奴だよ、アイツも。だが、オッチャンはまだ大丈夫みたいだな」
「うん。まあな」
「ああ。アンタ、さっきよりまともな顔してるぜ。俺は、そんなふうになってくれて嬉しいよ。オッチャン、シャンとしろよ。影ってのはいつでも心臓を取り戻せんだからよ」
「うん。そうだな」
「じゅあ、今日はありがとうな。水、ウマかったぜ。この借りはちゃんと返す。また会おうな、オッチャン」とその人間は男から背を向けて、山を下りて行った。独り残された男は、切り株に一瞥を加えてから軽い足取りで山頂へと向かって行った。
男は山頂にたどり着いた。頭髪の大半が白髪になり、顔のしわの深さも増していた。朝日が男の頬を撫で、男は目を細めた。すると男の背後から落ち葉を踏む音がした。男はゆったりと振り向いた。林の影から、あの人間が現れた。白の野球帽、白のジャケット、白のワイシャツ、白のネクタイ、白のドレスグローブ、白のベルト、白のズボン、白の靴下、白のスニーカー、それから、黒のサングラス。
「そろそろ来るころだと思ったよ」と男はその人間に笑いかけた。
「ああ、久しぶりだな。オッチャンにとっては十数年ぶりかな」とその人間もにやにやと笑いながら男に近づいた。
「今日はどうしたんだ?」
「なに、結婚祝いさ。オッチャンの娘さん、もうすぐ結婚するんだろ」
「良く分かったな」と男は笑った。
「オッチャンの顔は結構わかりやすいぜ。まあ、とりあえずおめでとう」
「ああ、ありがとう」
「娘さんの相手はイイ奴だったか?」
「うん。イイ奴だよ、まったくもってね。よくあんな男を見つけ出せた。わが娘ながら誇らしいほどだ」
「へえ、そいつは良かったな。女の子ってのはたまに自分からオオカミのところに飛び込むこともあるからよ。ちょっと心配だったんだ」
「うん。杞憂だった」
「ああ。ちょっと早いが俺からのお祝いは、やっぱりコイツだぜ」とその人間は背中からあのスプレー缶を取り出し、シャカシャカと上下に振りながら、男をサングラスの底から見つめた。
「うん、それか。懐かしいな」と男は柔らかく微笑んだ。
「俺はいつも見てるけどね。まあ、いいさ。俺はどうしてもアンタの願い事をひとつだけ叶えたいんだ。どうする?」
「どうするも何も、もう叶えてほしいことなんてないよ」
「娘さんの結婚式に、奥さんを連れていきたくないのか?」
「うん。いいさ。オレはもう大丈夫だよ。お前に会った後、すこしだけ後悔した時もあった。だが、もういいんだ。すべてがオレを創った。だからオレはすべてを肯定しなきゃならない」
「……、オッチャンはようやく日常に帰って来れたんだ」とその人間はシャカシャカと振る手を止めて、男を見据えた。
「日常?」
「そう。思い出してみなよ。オッチャンは昔、どんなトコにいた?」
「……、遠い所だ」
「そうだろ。こんな所じゃなかった。悲しみが悲しみでない所だった。あの場所から、いまようやく帰って来れたんだよ、オッチャン」
「うん。そうかもしれないな」と男は笑った。
「こいつはね、なにもアンタ一人の話じゃないんだよ。人類が始まってから、長い長い時間をかけて紡いできたようなお話なんだ。その意味ではアンタは決して孤独じゃなかった。アンタたちのような人間のおかげで、日常が成り立ってるんだ。誇ってもいいんだぜ、田中千造」
「なんで、オレの名前を知ってるんだ?」と田中は眉間にしわを寄せた。
「猫に教えてもらったんだ」
「アイツはお喋りだな」と田中は笑った。
「なあオッチャン、いまアンタの孫はぶっ倒れちまってんだ。心臓を銃で撃たれちまった。こいつはアンタの願いにもなるだろう。俺は恩をどうしても返したい人間なんだ。だから、これをアンタの孫に使う」
画面に映し出されたその人間の持つスプレー缶が、カメラへとぐんぐん接近してきた。終いには、画面を埋め尽くしてしまった。その上、スプレーを持った手はスクリーンを突き破ってきた。でっかい噴出孔をシートに座る僕の方へとむけて、でっかい人差し指がノズルを押した。瞬く間に白い霧が座っている僕を包み込んだ。僕は全ての感覚を失い、今度も宙に放り出されたような気分になる。わっふう。