考えられるすべての可能世界の中で最高の世界
ミミはずっと震えていた。この蒸し暑い夏の夜にもかかわらず震えていた。ぶら下がるランプの火はすきま風で揺らめき、我々の間に影を落としている。僕は口を開いた。
「殺すなら最初から殺せばいいじゃないか? 何をためらうんだ」
宮野はそれを聞いて笑った。
「自分の命があまり惜しくないみたいだな。だがいい質問だよ、座間チヒロくん。私にはキミたちをあまり殺したくはない理由が多々ある。第一にまずキミたちは子どもだ。さすがにためらうさ」
「子どもをシムにしておいてその言葉を吐けるのか? 不思議でならないな」
「たしかにそうだな。では正直に言おう。この世界のためにキミたちの生存が必須である可能性が高いからだ」
「……どういうことだ?」
「キミも話を聞いていただろう。キーがこの世界を存続させている。そして私はキーであるのがキミか立川ミミかどちらかだと思っていたのだ」
僕は目をつむり、息を深く吸った。ほこりっぽい空気に血の匂いが混ざっていた。
「なんにせよ、僕はアンタの提案を飲まない。僕はもうこれ以上この世界を望んでいないから」
「そしてキミがマイナーであるならば、必然的に立川ミミがキーとなる」と宮野は僕の話を聞かずに続けた。
「ああ?」
「立川ミミのシムが異常だからだよ。彼女だけが一つのシムではないのだ。日替わりで多くのシムを体現する。まるでその身にすべてのシムの可能性を宿しているようではないか。彼女こそがキーだ。そしてもし座間チヒロくんがあの日常へと戻りたいと言うならば、彼女を殺さなければならない」
「……、トラさんはお前と人形遣いを殺せばいいと言っていた」
「彼がそう思っているだけだ。実際のところ私たちはまだそこまで人類を人形化し切れていない。そして今日もあの施設を破壊されたからね。計画は少し遠のいたよ。だからすぐに世界をあの世界へと戻したいのならば、立川ミミを殺すしかないのだ」
僕は何も答えなかった。
「キミがそれを出来ないことは知っている。それから、キミは本当にこの世界を捨て去りたいのか? この世界ではキミの祖父が生き返る可能性があるとしても」と宮野は言った。
「は?」
「キミもマイナーならばこの世界以前の記憶があるだろう。何の変哲もないすべてが流れていく日常だ。そこではすべてが元に戻らない。死んだものは死んだままだ。我々は多くを失ったまま流れ続けるだけで、奇跡も何もない。そんな世界が本当に正しいと思うのか。いや正しいではなくてもいい。我々人間に相応しいものだと思うのか。ライプニッツはあの世界を最善世界、すなわち『考えられるすべての可能世界の中で最高の世界』と言った。あのどうしようもない不条理にまみれた世界をそう言い捨てたのだ。だがそこには根本的に神への疑問が内包している。なぜ神は我々を苦しませるのか? 我々にとってもっと幸福な世界があったのではないか?」
「もういいやめろ。アンタのくだらない話を聞いてると頭がクラクラするんだ」
「いいや、やめない。キミもマイナーだからね、座間チヒロくん。キミ自体も世界そのものへ疑問を持ったはずなんだ。そういう人間がマイナーとなるからだ。キミはあの見せかけだけの日常に戻りたいのか? 死すら超えられないあの日々に。キミの祖父が死んだときどうたったかい。はじめてだったんだろう、身近な人が死んでしまうのが。だからキミはあの家にこもっていたのだ。そしてこう思っていたはずだ。どうして死んでしまったのか。なぜ生き続けないのか。あの世界では我々に選択肢はない。だがどうだ! この世界では選択肢がある。さあ、入ってきなさい」
そう宮野は言って部屋の奥を見た。部屋の奥には開いたドアがあった。そこから三人の男女が部屋に入ってきた。その姿を見てミミは床にへたり込んだ。僕は心臓を大きく揺らし、眩暈をも覚えた。その生気を失ったような顔はあまりにも我々には刺激的でどうしようもないものだった。
父と母、そしてハルさんが我々の前に立った。
「さあ座間チヒロくん、このスプレーを使って願うのだ。彼らを生前の彼らにしてくれと。そして彼らと共にこの世界での日常へと戻らせてくれと!」
宮野はずいっと僕のほうへ黒地に虹色のストライプが入ったスプレー缶をだしてきた。
正直に言おう。僕はこのとき素晴らしく迷っていた。ここで両親とハルさんを生き返らせ、この不思議な世界でハルさんとミミとともに何気ない日常を刻んでいくのもいいかもしれないと思っていたのだ。人形遣いへの憎しみはたしかにあった。だがそれ以上に死んだ人間が生き返るという事実に打ちのめされていた。そして、この男が言うにはこの世界では祖父、田中千造まで生き返るというのだ。そうならば僕は何も考えずにこの男の手から『聖杯』を受け取り、すべての願いを込めてこの世界の日常へと帰るべきだった。そして祖父を生き返らせて、あの素晴らしい日々をもう一度送る。そうじゃないか? キミはどう思う?
僕が結論を出したわけじゃなかった。動き出したのはトラさんだった。なめらかに動き出したと思えば、宮野の心臓に鉛玉を三発ほど撃ち込んでいた。バンバンバンと。宮野は硬直したまま驚愕の顔でトラさんを見ていた。トラさんは笑った。
「そのスプレーは偽物なんだよ。キミはまだ本物を知らないかもしれない。あくまでこの世界のスプレーだ。だからこっちも相応の覚悟で能力を使えばいいんだ。因果応報。キミはそのままそこで動けず、死んだままだ」
トラさんは銃を持った手を下ろして僕を見た。その姿はすこしずつ薄れていた。僕にその持っていた銃を渡しながら言った。
「チヒロくんはまだ選択をしなくていいんだよ。まだまだ世界はあるんだから。僕はもうここで終わりだけど。あとはキミたちの力でどうにかなるはずさ。だが、最後にキミたちを人形遣いのもとへと送ってあげよう」
トラさんは唖然とする僕とミミに自分の『聖杯』を向けた。
シャカシャカシャカ、カシュッ、カシュッ。プシュー。
そして我々は人形遣いのもとにいた。その男はベンチに座って夜空を見ているようだった。鈴虫の声がよく響いていた。身を寄せ合って立つ我々に気がついたのか、顔をこちらに向けた。
「こんばんは。お会いできて嬉しいわけじゃねえな」
人形遣いは立ち上がり、僕に拳銃を向けた。僕も何も考えずに人形遣いへと銃を向けていた。僕が引き金を引くより早く、ミミが人形遣いへ向けて走っていた。人形遣いはその照準をミミに合わせて銃弾を放った。ミミはその銃弾を弾きながら、人形遣いを組み伏せた。
「この、くそやろう」とミミはその右手に紫電を放ちながら叫んだ。
「はひゃ。アンタは殺すなと先生に言われたがダメだ。殺したくなるよ。自分に向けられた殺意を受け流せるほどボクオトナじゃないんでね」
人形遣いはそう言って指を鳴らした。ミミに向かって影が突進してきた。ミミはその影に顔を向けてから、体をかたまらせた。影はミミにとび蹴りを放ち、人形遣いから引き離してからそのままミミを押さえ込んだ。ミミは抵抗せずにずっとそのままだった。なぜならその影がハルさんの姿をしていたからだ。
その一部始終を見ておきながら僕は銃を撃つことはなかった。なぜなら僕の両脇には父と母が銃口を僕に向けて立っていたからだ。
人形遣いは僕の足元に一発撃ち込んでから、押え込まれているミミのほうへと近づいた。
「ははは。ふひっ。なあなあなあ? どうだい? 最愛の人に拘束されるのは。サイコーだと思うよ。アンタさ、このまま死ぬのと、アイツをイケニエにいきながえるのどっちがいい?」
「ミミ、そいつはハルさんじゃない!」
「だまれよ。ボクのサクヒンにけちをつけるんじゃありません」
人形遣いは僕を睨んだ。僕のこめかみに冷たい金属が押し付けられた。父が持っている銃だった。
「コイツラは完全無欠の人形だ。ボクが意思を持てと命じれば今までどおりに過ごすんだよ。だがボクがキミたちを殺せと命じればその身が崩れ去るまでその命令を遂行し続ける。そんな人形にケチをつけるなあんて許されんよ。やっぱ、アンタを殺す。第一にアンタはボクの天敵だ。それからコイツはこのまま拘束して先生に渡すよ。ああ、先生死んじゃってんだっけ。また生き返らせないと。ほんじゃ、死んでくれ。あばよ、座間チヒロ」
引き金が軋むのと同時に僕は父を殴っていた。銃はごとりと地面に落ちた。母はもう僕に銃弾を撃ち込んでいた。僕の右肩にそれはめり込んだが、駆け寄って母にとび蹴りをかました。反抗期の子どもですらやらないようなとび蹴りだ。一瞬で母は消えて残ったのは焼けるような右肩の痛みだけだった。僕は叫んだ。
「やったぞ! ミミ、僕はやったぞ!」
「うるせえ! アンタは死ぬんだよ!」
人形遣いは僕に銃口を向けて引き金を引いた。だがその放たれた銃弾は僕の目の前で落ちた。ミミが僕の前に立っていたからだった。ハルさんの姿をした人形は人形遣いの横で血を流して倒れていた。ミミは僕を見た。その目はある種の決意に満ちていた。
ミミは右手を天に向けた。とたんに暴風が吹き荒れ、落雷が周囲に降り注いだ。人形遣いの喚き声すら聞こえなくなくなった。風が僕の頬を殴った。煽られた僕は閉じゆく視界の隅でミミが鬼の形相で人形遣いに向かって行ったのを見た。
風も雷も止んだとき、そこにあったのはいつしか見た光景の焼き直しだった。ミミはその細い剥き出しの右腕で人形遣いの左胸を貫いていた。返り血が彼女の頬を濡らした。
ミミは右手を引き抜き、左足で死体となっただろう人形遣いを蹴飛ばした。どさりとそいつは地面に伏した。それからミミはぺたりと座り込んだ。
僕は駆け寄って人形遣いを蹴り飛ばし、ミミからさらに距離を離した。そして蹴り飛ばせたことによりそれがほんとうに人形遣いの本体だと、僕は理解した。我々は復讐を果たしたのだ。
周囲は穴ぼこだらけで、ベンチなど木っ端微塵になっていた。どうやらここはどこかの公園だったようだ。木々はなぎ倒されていて、芝生はめくれていた。僕はぼんやりとしているミミの隣に座った。ミミは僕に目を向けた。それから大粒の涙を流した。 その涙は返り血に筋を付けていった。僕はその血を手で拭った。終わったんだ。すべて。
そう言おうとしたとき、背後で音がした。僕は振り向いた。人形遣いが立ち上がって、ミミに銃口を向けていた。そして引き金を引いた。
僕はその弾道に身を投げていた。銃弾は運よくミミに当たらなかった。ただ僕の心臓にめり込んで 突き抜けて行っただけだった。人形遣いは狂ったように笑ってから、倒れこんだ。そしてその足の先からさらさらと消えていくのが見えた。僕は膝をつきそのまま意識を失った。死に際になにかを願うか。ただ一つ、それは僕を抱きしめているだろう少女の幸福だった。