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あるいは『書いているぼくと書かれているぼくとの不機嫌な関係をめぐって』

 世界を一つの箱と見立てるのはどうだろうか?

 

 その世界の内壁にはさまざまな落書きが記されている。この文章もきっとその落書きの一つに違いないのだ。無数にある判読の難しい細やかな文字群の一つ。

 箱の内壁には壁男なる人種が張り付いていて、その壁男たちは己の小さなともし火を箱の隅々にかざしながら、中での出来事をせっせと壁に書きつけている。壁男たちは冷徹で自分の見たことに感情を交えない。ただクロニクルのようにその出来事を壁に書き殴っていく。戦争が起った。幾万人もの人間が犠牲になった。書かれるのはそれだけだ。


 クロニクルに必要なのは流れていく時間。それ以外は何も必要ない、何も。

 

 今もどこかで誰かが誰かと戦っていて、観測する壁男たちはそれをせっせと書きつけている。自爆ドローンが工場に突撃する。車が爆破される。礼拝堂で銃が乱射される。兵士たちは村を焼き尽くす。そういう日々だ。

 

 遠い人間の不幸が良心の呵責となりえるこの異常な日常。そしてその全てが結局、一つの長い長い過程ではかすかな閃きでしかないという事実。壁男たちはその間で揺れている。 なぜあるのか、むしろ何もないのではないか?


 壁男はせっせと文字を壁に書きつけている。


 ある日、一人の壁男が書く手を休めて箱の奥をじっと見つめ始めた。

そこに広がるのはある種の喜劇だ。誰もはいずれ死ぬのだが、それを誰も真剣に考えていない。いつだって死ぬのは他人であり、その死は無数にある出来事の一つに過ぎず、意味を持たせるにはあまりに矮小なものだ。そういう死に溢れている時代を壁男は眺めていた。

 そのとき目に映っていたのは一つの集団だった。その集団は子供も老人も、男も女も全ての世代、全ての人種がそろっていた。彼らは手をつなぎあって輪を作っていた。両腕を何かのリズムに合わせて上下させ、同時に足でステップを踏み、その輪を縮めたり広げたりしている。

 その奇妙な踊りは壁男に感情を思い出させた。その輪の中心には何があるのだろうか。

 壁男は壁から離れた。そして壁際に戻ってくることはなかった。


 さあ、踊ろう。マイム、マイム……。



 その少女は他人の家のキッチンでフレンチトーストを焼いている。バターと砂糖を焦がした甘い匂いがリビングに広がっていた。すでにダイニングテーブルの上にはサラダとスクランブルエッグが大皿に盛り付けられて置かれている。

「冷蔵庫に食料、揃ってるね。ま、あのコはそういうとこ真面目だから不思議じゃないけど」と少女は一人で話す。

 座間チヒロはソファから起き上がって、自分の家で勝手の朝食を作っている少女の後ろ姿をぼんやりとした表情で見た。少女はフライパンからフレンチトーストを皿に移し、テーブルに持ってくる。

「おはよう。朝食出来てるよ」と彼女は座間チヒロに笑いかけた。

「きみは?」

「昨日、自己紹介したじゃん。ナゾの転校生、駒場今日子ってさ。で、宣言したとおりに迎えに来たわけ」

「どこから?」

「どこからがいい? ま、とりえあず朝ごはん食べようよ。なにごともご飯がないと始まらないよ。今日はパンだけど」と駒場は言って椅子に座り、朝食を一人先に食べ始める。座間チヒロはソファの上でその様子を見ているだけだ。自分の皿を綺麗にした後、駒場は顔を上げて座間チヒロに問いかけた。

「食べないの?」

「ああ」

「そう。じゃああたしが食べちゃおうかな」と嬉しそうに彼女は言う。

「いいんじゃないか」と座間チヒロはため息をついて、ソファの背にもたれかかった。

 

 座間チヒロが連れて行かれたのは一つの古びたビルだった。ロビーに入ると汗が引いていくのが彼には分かった。壁際には観葉植物が並べられている。受付はない。鼻につく匂いもなく、ただ漠然とした空間があるだけだった。駒場は奥を左に曲がって、エレベーターホールに入った。エレベーターの前には二人の警備員が立っていた。一人は中年で中肉中背の男。もう一人は長身で初老に近い男だった。二人の警備員は何も言わずに来た二人をただ見つめていた。駒場は年長のほうの男に笑いかける。

「おつかれさま」

 そう挨拶された男は相好を崩し、パネルを押してエレベーターの扉を開けた。

「今日は5階です」と彼は言った。

「そう。今日は人が多いんだ」

「ええ。悲しいことですが」

「あいつを殺せばすべて終わるよ」

 


 その会議室には窓がなかった。薄暗闇のなか人々は前面にあるスクリーンを眺めている。そのスクリーンの横には一人の女性が立っていた。彼女は軽く頭を下げて左手に持つマイクを口元に持っていき語りだした。

「おはようございます。今日は時間のない中、お集まりいただきましてまことにありがとうございます。私は皆瀬と申します。これから本会の意義と方針についてお話します。どうかご清聴のほど宜しくお願いします。では、まずはこちらの画像をご覧ください」

 皆瀬はレーザーポインターでスクリーンを指示した。スクリーン上には一人の男の写真が表示されている。年格好は二十代前半、髪は黒色で短くもなく長くもない。朗らかな笑顔でカメラに向かってピースサインをしている。背景は公園のような緑のあるところであった。

「この男が人形遣いであります。正確にはこの容姿がいま人形遣いの本体なのです。恐らく皆さんも一度は見たことがあるはずでしょう。我々の目的はこの男をこの世界から抹殺することです。では次に対象の能力について少し説明しましょう。次のスライドをお願いします」

 スクリーンに映されたのは一人の少女だった。

「この少女は道野ヒカリという名でアイドルとして活動していました。しかし残念なことに四年ほど前、人形遣いの被害者となってしまったのです。彼女はいま人形遣いの『人形』となっております。ある組織では『少女A』と呼称されているようです。さてこの少女ですが、確かに自我がある人間として振舞うのです。この少女による犠牲者はほかの『人形』に比べてぬきんでております。皆様もお気をつけください。人形遣いは基本的にか弱い少女の形をした『人形』を使うことを好みます」

 スクリーンには多数の少女たちの写真をまとめた画像が映し出される。

「これらの少女もまた『人形』です。この容姿の少女に出会ったら警戒してください。もちろんですが人形遣いはこのほかにも多くの『人形』を所持しております。残念なことにそのすべてを確認することは出来ておりません。少なくとも全人種の全ての世代の『人形』を保持しているようです。人形遣いは殺した相手を『人形』として所持できる能力を持っているため、そのすべてを把握するのは非常に難しいことなのです。そしてなおも度し難いことにその『人形』は基本的に人と区別できません。ほぼ完全なるコピー、クローンとなります。人を殺しその『人形』と入れ替えたとしても誰も気がつかないほどです。全人類の何パーセントが彼の人形となっているのか。それは我々にもわかっておりません。しかし、我々に何も出来ないかといえばそうでもありません。彼がコピーできるのはあくまで人間なのです。シムの能力はコピーできません。それゆえもし仲間が人形となったとしても我々シムは唯一の固有能力を使えるかどうかで見分けることが可能です。

さて、では今日は我々の直接的な問題として、いかにして『人形』から身を守るかを話していきましょう。次のスライドをお願いします」

 

 座間チヒロは彼女の話を最前列中央で聞いていた。その隣には駒場が座っている。パイプ椅子を軋ませながら、座間チヒロは軽く後ろを振り返った。多くの人が黙ってスクリーンを見つめている。席は奥まですべて埋まっているようだった。性別も年代もバラバラで、子どもを隣に座らせている女性までいた。座間チヒロはため息をついて前を見る。皆瀬は話しを終えたようだった。スクリーンが移り変わる。


『ご質問等あれば』


 一人の男が挙手する。顔の彫りが深く、浅黒い肌を持っている男だ。皆瀬は彼を手で指す。男はしなやかに立ち上がる。低く落ち着いた声が薄暗い会議室に響いた。

「はじめまして。今日この会に入会したく参りました宮野と申します。詳細の説明が非常に分かりやすく、とても好感を覚えました。しかし、少しだけ回りくどい方法で彼を倒しに行こうとしているなという印象を持ちました。おそらくですがこの中にも多くの能力者がいるはずです。その能力を組み合わせれば彼を殺すことも可能ではないのでしょうか? そのことについてお伺いしたいです」

「ご質問ありがとうございます。ええ、まことに仰るとおりでこの中には多くの能力者がおります。その能力の幅も多種多様でさまざまな状況に対応できるでしょう。しかし、ただ彼を囲って、殺しにかかればいいというわけではいかないのです」と皆瀬は言って、自分の右腕をはずした。彼女のひじから先は義手だった。

「初期のころの我々は彼を見つけ次第総員で殺しに行きました。百人単位で囲ったときもありました。しかし、結局最後に残ったのはこのような傷だけです。彼を殺すには力だけではたりません。組織と、入念な計画が必要なのです。

 そして、まだここにいるみなさまは実感できていないでしょうが、彼を殺すということはある意味では世界を敵に回すということにも等しい。人を意のままに動かせる『人形』へと挿げ替えるという能力の有用性ゆえに彼は多くの組織とつながりを持っています。彼を失うことを恐れている組織もいるわけです。当然我々はその組織とも戦うことになります。したがって我々の目標は、彼を囲う取り巻きを潰しつつ、彼を追い詰めていくというものにならざるを得ないのです。それゆえに我々の計画が迂遠なものと見えるのは事実です。しかしこの方法以外に彼を殺す術はないと我々は確信しております。詳しい方法や計画をここではお話できませんが、会員のリスクは出来るだけ少ないようにしています。どうかここは我々を信じていただければ幸いです」と皆瀬は会衆に対して頭を深く下げた。

「丁寧な回答、ありがとうござました。……、僕はあなたたちを信じます」と宮野は言って、席に座った。

 その後に質問する者はいなかった。


 皆瀬は座る人々を見回してから、ふたたび話を始めた。

「最後になりますが、会員同士の連絡方法についてお教えます。基本的に我々は電話などを好みません。声だけであると相手が『人形』であるかどうか判別が付かないのです。以前の話ですが、我々と似たグループが仲間の一人を人形化されたまま、計画を実行したことがあります。計画は当然漏れておりまして、人形遣いはいたぶるようにして彼らを壊滅させました。我々は同じ徹を踏む気はありません。そのようなことがないように細心の注意を払っております。ですから我々は対面で連絡を取り合います。そしてその内容は端的なものとなります。いつどこでこうしろ、とだけの指示のときもあります。情報は出来るだけしぼりたいのです。そこのところをご了承ください。

 また、本日ここに来られたときにも案内人が付いたように、会員になられた場合は一人一人に連絡係が付きます。その係を通して会の任務に携わっていただくことになるでしょう。その成果に応じて報酬もお支払いします。また、さらに重要な役目を担っていただく場合もあります。

 今日はここまでとさせていただきます。お帰りの際に今日ともに来られた案内人に会員になるかどうかの旨をお知らせください。では、ご清聴のほどありがとうございました」



 ざわめきと共に会議室の蛍光灯が瞬きだしたとき、駒場今日子は一人の青年から話しかけられた。

「駒場さん、おひさしぶりですね」

「おお、カネちゃん。元気だった?」と駒場は椅子に座ったままその青年に返事をする。

「まあ、ぼちぼちですかね。自分、今回はいろいろと事務作業が多かったです。今日はですね、新しい方を連れてきました。あの、雲下さんって言います。正式に会員になられたいそうで」

「雲下です。どうもこれからよろしゅう」と青年の脇から、一人の中年男性が出てきた。背は青年の肩ほどで、額に少し汗をかいている。駒場はその男性から差し出された手を握った。

「こちらこそ宜しくお願いします。あのような説明だけで会に入ってくださるとは嬉しいかぎりです。何分、セキュリティの関係上多くは語れないので」

「いえいえ、あれだけ聞いたら十分ですわぁ。あたしゃね、まああんまり人を疑わないたちなんでねえ。あの、皆瀬って人ですか? あの人はほんと真面目な人やあ。目を見たら分かりますわ。そんな人の話を信じないってわけにはいかんですわなあ」と雲下は快活に笑って、駒場の手を一度強く握ってから離した。

「そう言ってくださると幸いです。皆瀬にも伝えておきましょう。彼女も喜ぶでしょう」

「雲下さんはおそらく戦闘系の任務をうけるので、駒場さんの下で働くかもしれません」と二人の頭上から青年は言った。

「そうですか。なら、少しお話しましょうか」

 駒場は右手首の腕時計を見る。青年は駒場の仕草を見てから提案する。

「ちょうどお昼時ですし、一緒に食べませんか?」

「ええ、そうね。それがいいかもしれない」と駒場はにこりと青年に頷きかける。ノッポの青年は座ったままの座間チヒロを見た。

「あの、そちらのかたも」

 座間チヒロは駒場を見上げた。

「僕もか?」

「もちろん。座間くんにはずっとあたしと一緒に居てもらうんだから」

「そうか。金はない」

「あたしが全部出すよ。もちろん親睦会もかねてるから、二人の分もね」

そう言って駒場は前に立つ二人に笑いかけた。二人の男たちも異論はないようで、笑顔で頷いた。

 ビルを出た四人は近くにあったファミリーレストランに入った。彼らは禁煙席のテーブルに案内された。雲下は顔をおしぼりで拭きながらメニューを一目眺め、決まりましたわぁと笑う。ほかの三人もその笑いに同意し、駒場が呼び鈴を押した。


「あたしゃね、ここにきたらカレーって決めてるんですわ。長年の結論でね。別にステーキでもいいんだかねえ、カレーが一番安心するんですわあ。なんていっか、いつもの味って感じでね」

 注文の後に雲下はそう語った。短髪の青年はメロンソーダを啜りながら苦笑いする。

「なんか、それわかります」

「カネちゃんは変化を嫌うもんね」と駒場は笑った。

「しかしねえ、アンタ方、いいや先輩方だったな。うん、皆さまも若いのにヘンな業を負っちまったもんだねえ。アイツと関わりになるのは年齢も性別も関係ねえってわけか」

 雲下は三人の若者たちの顔見て、深くため息をついた。カネちゃんと呼ばれた男は薄く笑う

「彼は、何でも壊しますから」

「ああ。あたし一人じゃなんもできんかった。『協会』のやつらも関わるなっていうだけ。それがなに、あいつらも結局やつの力を使ってたてことでしょ? 心底腐ってますわ」

「彼らのスタンスも理解できますけどね。自分みたいに非力なシムだとすぐ殺されちゃいますし。なるべく多くの人を守るというならアイツを利用しない手立てもないです」

「そこはむずかしいとこですな。協会も協会で組織としての立場があるってのも分かりますわ。あたしも長い間組織の中に居たもんでね。そこら辺の汚濁っちゅうのは仕方ねえことかもしれねえ。だが、それでもアイツはやり過ぎだ」

「あ、そうそう。雲下さんって刑事さんだったんですよね。ほら、駒場さんウチにも警察の方が増えてきたっすね」

「そうね。北上さん、塔山くん、菱川さん、そこら辺も警察関係者だったっけ。あとは自衛隊の方も多いからね。雲下さんもなじめそうかな」と駒場は琥珀色のアイスコーヒーをかき混ぜながら言った。その言葉を聴いて雲下は片手を上げる

「あぁっと、ちょっといいですかねえ」

「なんでしょう?」

「その実はよく分かっていないんですよ。あたしゃ、アイツらとはだいたい独りでやってきたものでねぇ。ここに来てまあ少し戸惑ってるわけですなあ。チームを組むつうってもどう振舞えばいいんですかねぇ?」

「そうですね。その点は、しっかり説明しないといけませんね。本来なら相談員、つまり雲下さんの場合だと金田から説明を受ける手筈になっていますが。しかし、今この場で話してしまってもいいでしょう」

 駒場はそう言って微笑んだ。



 これはクラシックだ、オレは知っている、それだけは分かる。少年は泥にまみれながらそう考えていた。

 時は深夜。新月で星の瞬きのみが地表を濡らしている。少年は草木の合間で息を切らしながら夜空を見つめていた。追っ手は来ない。誰がオレを見つけることが出来るだろう。だが音楽は聞こえている。ポケットの中にあるコレは本物だったのか?

 大きく息を吐き、自分の傷を確認する。肋骨がいくつか折れている。右手首はもう動かすことは出来ない。左足は動かすごとに激痛が走る。ふくらはぎを貫通した銃弾のおかげかもしれない。大きな傷はそれぐらいだ。正気はまだ保っているはずだ。しかし、耳元で囁きかけるように流れているこのヴァイオリンの音はオレの幻聴だろうか?

 その音色は少年に涙を流させた。オレはいったい何のためにここまできたのか。ここまで殺して、殺して、殺してようやくたどりついて得たのがコレだ。この戦争には本当に価値があったのか。上層部にはもう連絡が行っているはずだ。ポイントにはたどりついた。オレはここで待機し、コレを死守しないといけない。この『聖杯』を。


 少年が参加していた戦闘は『レーテ』と『協会』の間で起こったものだった。それは二日にかけて続いていた。目的は『聖杯』。すべてのシムの根源とされている物体だった。『聖杯』を手にしたものは世界を変えることが出来る。そう噂されていた。それがS県にあるK山にあるという情報が流れた。不確かな情報であれば両組織とも動くことはなかっただろう。動いたのは単純なことだった。教団の『女神』がそこにあると言ったのだった。

 

 10月の初旬。『協会』は第0特殊任務部隊を招集し、K山へと派遣した。K山のふもとにある小屋が目標であった。15名の隊員たちは途中で遭遇したエクストラを討伐しつつ、陸路でその約20キロ近辺にまで到達した。

 『レーテ』との戦闘は未明に開始された。夜行軍中に川辺にて遭遇し、即時開戦した。お互いに殲滅する気はなく、牽制がおもな目的であった。数十分間の銃撃戦といくつかの能力行使後に両軍は一時的に撤退し、川を境として向かい合う形となった。目指すのは川の上流だった。両軍は少しずつ目的地へと戦線を移動していった。そして目標である小屋が近くなったとき森の中で本格的な戦闘が始まった。

 少年にとって大規模な戦闘は初めてだった。目の眩むような爆撃に、常識を超えた現象。お互いがお互いの能力を全て使っていた。悲鳴を上げることもなく淡々と相手の攻撃をいなし、反撃する。それがいくどもいくども繰り返されていた。

 少年のシムは自身の透明化であった。今回はその能力ゆえに『聖杯』の確保を任されていた。場所はすでに把握している。日が沈むまで戦線から少し離れた場所で少年は待機していた。夜になるまでは少年の能力は完全なものとならない。姿は消せるが音と匂いは消せないのだ。『協会』はそれを理解しており、夜まで戦闘を長引かせることを目的としていた。

 日が沈んだ。少年は暗視ゴーグルをかけて歩き出した。背後からは断続的に銃撃と爆発が続いていた。薄緑色の視界は少年にとって珍しいものではなかった。少年はこの作戦以外にも多くの任務をこなしていた。取り留めのない情報収集に、そして暗殺。いつも腰にはナイフとサプレッサーをつけたグロック17を装備している。

 少年はグロックに手をかけた。前方に腰を落として歩く二人の男が居たのだ。その歩き方は訓練された人間のものだった。相手もおそらくシムであろう。だが、意識外の攻撃を避けられないのは人もシムも変わりない。少年は照準を合わせ、引き金を引いた。頭に銃弾を受け一人の男が倒れた。それを見たもう一人は咄嗟に地面に伏した。少年は迂回するように近づきながら、周囲を警戒する男の背後に立った。その後頭部に銃口を向ける。空気が抜けるような音が響いた。

 男たちの死体をそのままにして、少年は目的の小屋へと急いだ。いつ戦線が変わるとも分からない。なるべく早く入手し、本部へと知らせ、ポイントに到達しなければならない。足音を立てることなく影のように森の中を縫っていく。

その小屋は唐突に現れた。トタンの屋根に木板の壁。いつしか映画で見たバラック小屋のようだ。扉は一つだけ。先回りされていたら確実にやられるだろう。周囲を確認する。もう銃撃音も何も聞こえない。風が木々の葉を揺らした。少年は小屋の裏側へと移動した。井戸のような施設があった。そして扉のない裏口も。

 少年はその裏口から侵入を試みた。人の気配はない。高鳴る胸の音を抑えながら、小屋の中を探った。部屋の真ん中にテーブルがあった。その上に、一つ何かが置かれている。スプレー缶だった。少年は息を呑む。作戦前に資料で見せられたものと同一だった。手に取ろうとしたとき扉がゆっくりと開き始めた。少年はすばやく壁に身をはりつけた。

 扉の向こうから現れたのは暗視ゴーグルを着けた小柄な人間だった。戦闘服に身を包んでいる。アサルトライフルを構えながらすばやく周囲を確認してから転がるように部屋の中へと入ってきた。少年は息を潜める。右手はナイフにそえられている。新手の侵入者は、テーブルの上のスプレー缶に気がついた。近づき、手に取ろうとする。少年はすでに動いている。その小柄な侵入者の首を狙ってナイフをすばやく振った。だがナイフは空を切った。

 少年は驚愕した。そしてもっと驚いたのは自分が蹴られていたという事実だった。気がついたら壁に叩きつけられていた。

「音には敏感なんだ」とその侵入者は言った。若い女の声だった。少年は疼くような痛みが腹のまわりに広がっていくのを感じた。必死に息を止め、這って場所を移動しながらグロックに手をかけた。

「そこだろ」と少女はアサルトライフルを数発打った。銃弾の一つが這う少年の左足のふくらはぎに当たった。声は漏らさなかった。ただ歯を食いしばりながら、照準をその少女の額に合わせ、すばやくトリガーを引いた。少女は吹き飛ぶようにして倒れた。

 少年はテーブルに手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。スプレー缶を手に取る。その途端にテーブルが勢いよく押された。後ろに弾き飛ばされる。少年が床に背中をつけたとき、右手に激痛が走った。靴で踏み抜かれていた。何かで腹を押さえ込まれる。額にはアサルトライフルの銃口が突きつけられている。息を荒くしながら少年は自分の上に乗りかかっている少女を見ていた。暗視ゴーグルを着けてはいないがその額は無傷だ。息も上がっている様子もない。

「動くな。お前、協会の人間だな」

「だからどうした」

「死ぬ覚悟はあるか?」

「無いやつはここには来ない」

「なら死ね」

 少女は引き金を引いた。短い発砲音を聞いた少年は自身の脳漿が床にぶちまけられるのを見た。そう、見たのだ。その光景はたしかにはっきりと少年の視界に映った。自分は死に、少女は自分の左手にある『聖杯』を回収する。作戦は失敗し、『レーテ』は世界中に自分たちの存在を知らしめるのだろう。『協会』は妥協して『レーテ』の傘下に下る。世界の秩序はすべてシムによって回り始める。その方が生きやすい世界になるのだろうか。オレにはわからない。オレには善悪などわからぬ。だが、ただ死を厭う。

 銃弾は少年を透り抜けた。瞬間、少女の膝は地面に付いた。重心をかいた少女は驚きながらも、すばやく立ち上がってアサルトライフルを周囲に打ち続けた。弾が尽き、壁は穴だらけになった。静寂の中少女は肩で息をしながら正気に戻りつつあった。確かに撃った。だが銃弾は透り抜けた。どういうことか。覚醒したのだ。ならば選択肢は一つだった。撤退し増援を呼ぶだけだ。

 少女は身を翻して、出口へと向かった。少年はその少女の首を切った。少女の頚動脈から赤い血が勢いよくふき出した。少女は倒れ、スプレー缶を握り締めた少年はふらつきながらも星空の元へと出た。ポイントに向かわなければ。

それから森に入るとあの音楽が聞こえ始めた。曲名は、そう「G線上のアリア」だ。ようやく思い出した。オレはこの曲をよく聞いていた。母が朝食、日曜日の朝に流していたのだ。なぜか知らぬ。母はもう死んだ、なぜかは知らぬ。

 少年は倒れ伏した。自分が覚醒したのだと分かっていた。それは能力を飛躍的に進化させること。その代償は死だ。シムの死に際によくある現象だと言われていた。だが死ぬ前にポイントへと行かねばならない。この『聖杯』は噂が正しければ、レーテに手渡すべきものではないのだ。少年は立ち上がり、足を引きずりながらもポイントへと向かった。


「漁夫の利、あるいは、傍観者の特権かな」

 少年の死体の傍らに立つ男は言った。その男はポケットを弄る。スプレー缶が出てくる。黒地に虹色のストライプが入った円筒形のスプレー缶だった。

「クェック」と男は呟いた。



 カレーを食べ終えた雲下は紙ナプキンで口を拭いた。

「つまるとこ、軍隊のように前線でバチバチやればいいってことですか」

「そうですね。もちろん与えられた任務にもよりますが」

「しかし、驚きだ。戦闘にシムを使わないなんてねえ」と雲下は首を傾げる。

「まったく使わない、というわけではありません。多くの任務ではカウンター、防御系の能力は必須といってもいいでしょう。しかし攻撃には現実の武器を用いることが多いです。組織立って戦うには規格化された武器の方がいろいろと便利ですからね。あとはエクストラを戦闘に参加させたくないというのもあります。奴らは過剰なシムに反応してやってきますから」と駒場は微笑む。雲下は納得したように頷く。

「ああ、なるほど。それじゃあ、お互いに損な訳だ」

「もちろんエクストラを使って場を乱す、というなら大規模な能力の行使も視野に入れることもあります。撤退するときによくやりますね。そのときはお互いにシムを使い合うので非常にリスクの高い戦闘になりますが」

「現場の判断が最優先されないといかん。前衛のリーダーとなれば前線で指揮を取るのがアンタさんってわけなんですかい?」と雲下は駒場を見つめる。駒場はやわらかく笑ったまま頷いた。

「多くの作戦ではそうですね。とはいえリーダーとは名ばかりでほかの優秀な隊員たちに助けられているばかりですが」

「そんなこともありますまい」と雲下はにやりと笑う。「アンタさんからは強い意志を感じる。強い力もね。まあ、とりあえず分かりましたわ。指示があればなんなりと従います。それがアイツの死に繋がるかぎり」

「そう言っていただけると幸いです」と駒場は真面目な顔で頭を下げた。

「あ、そうそう。『聖杯』の影響で前衛の皆さんはこれから忙しくなりそうっすよ」と金田は言った。

「聖杯?」と雲下は金田を見る。見られた金田は不安そうに駒場をうかがう。

「あ、ああっと、これは話していいんすかね?」

「別に隠すことじゃないね」と駒場は言ってアイスコーヒーにささるストローに口をつける。

「なら。うーんとですね、『聖杯』っていうのはまあ、シムの源って噂されてる物体なんですよ。それを手に入れれば全てが叶うっていう。そういうやつなんです。で、それが最近また確認されたっていう話っすね。だから『レーテ』も『協会』も『教団』も血眼になってそれを今探し始めてるんです。それにあの人形遣いも」

「アイツも? じゃあ、それをエサにすればいいわけですかいな」と雲下は言った。

「そこらへんがむずかしいんっすよ。大きなとこみんな求めちゃってますからね。下手な情報流してもすぐウソだってばれちゃうんです。だから僕たちもあの手この手で情報収集しつつ、操作もしてるわけなんすよ」と金田はため息をつく。

「ああ、なるほどねえ。そのかく乱やらであたしらも使っていくわけか」

「まあ、そんな感じっすね。しかし今回みたいに規模がでかくなりそうなのは五年ぶりっすかね。『擬音使い』とかそんな奴らが出る前の話だったし」

「そうね」と物憂げに駒場は言った。

「ああっとこれも噂なんですけど、どうやら『聖杯』が使用された形跡も確認されてるみたいっすよ。だからどの組織もかなりの人員を割いているみたいで。五年前よりも当然シムも増えてるじゃないですか。それ考えちゃうとマジでおおごとになるっすよ。それこそ以前の比じゃないくらいに」と小声で金田は言う。それを聞いて雲下は笑った。

「いやあ、なかなかいい塩梅になってきてますわなあ。あたしゃ、アイツを殺せれば別にいいんですが。どうもその方向に風が向いているみたいだ」

 三人は雲下を見る。

「どういうことですか?」と金田は聞いた。

「なに簡単じゃないですか。アイツもその大層なもんを狙ってるなら、他の組織からも邪魔に思われてるわけですな。アイツがそれを手に入れることだけはどの組織も阻止したいわけだ。だったらまずアイツを殺してから話を進めていったほうが早い。そうでしょう?」

「ああ、たしかに」と金田は曖昧に頷く。

「で、だったらいま他の組織にも協力を呼びかけていけばいいんですわなあ。『聖杯』のためにまず人形遣いを殺そうってね。そうすればアイツに関わってる組織も手を引いていくってわけですな」

「それもいい案ですね」と駒場は笑った。

「そうっすねえ。まあ、そういう方向に持っていければって感じっすかね」

「ただ、私たちも利用されるということも考慮しないといけません」

「利用されるってのはどういうことですかい?」と雲下は駒場に尋ねる。

「彼らは私たちのことも邪魔だと思っています。たとえ聖杯を狙っていないとしてもね。だから人形遣いにぶつけてあわよくば共倒れ、最低でも私たちだけを潰すことができれば幸いと考えるはずです。もし協力をすると言ってもそれは彼らの利益になる方向でしか物事は進みません」

 その言葉を聞いて雲下は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「妙な世界だ」

「ええ。だからこそ私たちは慎重にふるまわないといけないのです」

「はあ、大変だなあ」と金田は言ってメロンソーダを啜った。

 それからの会話は主に雲下の過去についてだった。県警の少年課に所属していたこと。ある日突然シム能力に目覚めたこと。仕事をしながらやってくるエクストラを討伐していた日々のこと。そしてある事件を追っていたところ人形遣いに出会ったこと。

「ある家出した少女のことを調べてたんですわ。キナ臭い子でねえ、まあ大麻の売人の可能性もあった。で、その子の交友関係を調べていたらアイツに突き当たった。アイツ、裏社会ともつながりがあったんですわ。葉っぱやシャブを高校生や大学生くらいの子達に売りさばいてた。なんでかはわからん。裏も取れてたことだし、令状とって逮捕しに行こうとしたわけですな。そしたらまあ、返り討ちにされた。あたしはシムのおかげでなんとか逃げることが出来た。だが、一緒に行った同僚たちは死んじまった。そしてそのことはなぜかあたししか覚えてない。おかしな話ですわ」と雲下は震える右手で目を隠した。

「そいつはぁ、なんというかきついっすね。高校生が大麻ってのもおどろきですけど。しかしアイツがそれに関わってるってのは変ですね」と金田は言った。

「そうね。けど彼の中の一人かもしれない。『彼』にされた人は多くいるから」

「彼にされる?」と雲下は駒場を見る。

「ええ。人形遣いは多くの『自分』を複製しています。今確認されているかぎりでは百人ほど。それぞれがそれぞれでこの世界に溶け込んで生きているわけです。その中の一人を殺しても、人形遣いを殺したことにはならないのです。このことが私たちの目標を非常に困難なものにしています。オリジナルの彼を見つけ出して確実に殺さなければならない。それが私たちに課せられた任務です」

「ああっと、駒場さんそこまで話していいんすか?」と金田は雲下と駒場の顔を見比べながら不安そうに言った。

「大丈夫。雲下さんは最後まで付き合ってくださるわ」と駒場は雲下に笑いかけた。雲下は一瞬だけ鼻白んだが、にかりと笑った。

「ええ、もちろん。一人残らずやっちまえばいいだけですわ」

「頑張りましょう。もうあの男を野放しにしておく必要はないのですから」

「いやあ、雲下さんすごいなあ。僕はそれ初めて聞いたときため息でちゃいましたけどね。覚悟が足らなかったのかな」と金田は二人を見て自嘲するように笑った。

「はっはっは。金田くんはまだ若いからねえ。けどそこまで分かってるならさっさと一人一人潰していったほうがいいんじゃないいんですかい?」

「いいえ。彼に警戒されれば今以上にクローンを増やされる可能性があるのです。なので潰すときは一度にやるべきだ、というのが会の方針ですね」

「ああ、なるほど」と雲下は納得したように頷く。

「けど、ぷちぷち潰していっていいとこまで追い詰めたグループもありましたよね。そう、昔協会で有名だった『矯正隊』の連中ですよ。それこそさっき言った『擬音使い』も所属してたとこっす」

「彼らは、そうね、彼らならおそらくその方法でもやり切れたかもしれない。私もその当時のことは詳しく知らないけど、過去の記録から見て彼らが相当強かったのは事実。シムにしても全てを含めた戦闘力にしても私たちと比にならないほどの規模と強さだった。ただ問題だったのはそれほどの武力は誰にとっても目障りなものだったってこと。結局、周囲の圧力で彼らは潰された」

「出る杭はうたれるってやつっすね」と金田はしょんぼりとした様子で言う。

「カネちゃん、ずいぶん詳しいじゃん。どうしちゃったの?」

「いやあ、僕、任務で以前の聖杯戦争についていろいろ調べてたんですよ。で、そのついでに日本のシム全体の歴史も漁ってたっす」

「ふうん。ま、ほどほどにしときなよ。つつかれていやな思いする人もいるし」

「あのお、ちょっといいですかい? その『矯正隊』っていう連中はけっきょくどこにいっちまったんです?」と雲下は二人に聞いた。

「リーダー格だった『ジャンヌ』ってあだ名の人は人形遣いに殺されました。協会の制止を振り切って単身で挑んじゃったらしいです。あとに残ったほとんどのメンバーは海外の戦場に傭兵として送られたようです」と金田が答える。

「へっ、傭兵?」

「そうっす。協会もレーテもシムを傭兵として戦場やらに売り込んでるんですよ。で、こっちは見返りにお金とそして武器を貰ってるわけっす」

「そいつはぁ、なんと」と雲下は驚いたように言って、タオルで額を拭った。

「まあ、僕たち普通の人に比べて身体能力もかなり上がってるじゃないですか。その上にシムっていうトンデモ能力もある。戦力としては十分っすよね。こちらとしては向こうで銃火器類の訓練も受けられるし、なんら実戦も経験できる。けっこうウィンウィンな関係っすね」と言って金田はメロンソーダを飲みきった。

「あたしゃ、そんなことまったく知らなかった」

「協会の上の方しかしりませんよ。さすがに大っぴらには出来ないっすから」

「ああ、そりゃそうですわな。いやしかし、海外での戦争にあたしらが傭兵としてかり出されていたってのはこう何か不思議なもんだ」と雲下は首を振る。

「最近は各国の軍からのオファーもあるみたいですね。そこら辺の政治的抗争は僕にもよくわからんっすけど」と金田はため息をつく。

「少し長く話しすぎたかな」と駒場は腕時計を見ながら言った。

「あ、えっと何時っすか?」

「15時ちょっと前」

「ああ、ヤバ! 雲下さんを本部に連れて行かないと」と金田は焦ったように立ち上がった。雲下はその様子を見て笑う。

「あっはっは。どうやらずいぶん話し込みすぎちまったようだ。いやあ、けどねえ、いい時間でしたわあ。いろいろ視野が広がった。ありがとうございました、お二人とも」

「いいえ。こちらこそ。私も雲下さんとお話できてよかったです」

「あの、じゃあ僕たちはこの辺で。えっとごちそうさまでした。雲下さん行きましょう、急がないと面倒なことになります」と言い残して金田は店からさっさと出ていった。

「ははは。ほんじゃま、ごちそうさまでしたわぁ」と雲下は駒場たちに頭を下げ、悠々と金田の後を追った。

 残された二人は静かに座っている。駒場はじっと座間の横顔を見つめていた。座間はグラスに入ったアイスコーヒーをストローで攪拌している。

「静かになったね」と駒場は言った。

「ああ」

「お腹減ったからステーキ食べに行かない?」

「ああ?」と座間は駒場を見た。

「おいしいステーキ屋知ってるんだ。昨日言ったじゃん」

「いや、ピザ食べてなかったか?」

「あんなのおやつだよ。さ、食べにいこ」と言って駒場は立ち上がった。少ししてから座間チヒロは無言でその背中を追った。



 殺すべき奴がいる。その世界で彼はそう確信していた。なぜだろう。大事な人を殺されたのだ。ならば仕方あるまい。彼はその男を殺すためなら何でもしたはずだ。いや、実際に何でもした。能力を補うための銃火器はアメリカから最新鋭のものを仕入れた。爆弾だって貰ってきた。協力してくれる男がいたのだ。その会長を名乗る男は空間移動を自由にできた。どこにでも侵入ができて、どんなものでも盗むことができた。暗闇の中でその男は語った。

「私もね、妻と子どもを彼にやられたんだ。目の前でね。彼が十二歳の娘をどうしたと思う? いや、言わなくてもキミなら分かってしまうな。多くを語る必要ないな。ただ言うべきことは、彼をかならず死に至らしめるということだ。キミには能力がある。私にはない。本当に悔しいことに私のシムは彼を殺しきることができないのだ。だから、ささやかでもキミたちのような可能性のある人間への協力を惜しまないことにしている」

「ありがとうございます」と復讐者は慇懃に言った。

「では、健闘を祈る」そう言って男は闇の中に紛れて行った。暗闇から離れるようにして彼は歩き出した。彼の脳裏に浮かぶのは二人の男女だった。

 そのカップルは彼の幼なじみだった。そして、二人とも殺された。二人の顔を想起していると、椅子に座る二人の死骸が見えてくる。その近くに一人の若い男が立っていた。簡単な話、特に意味はない殺しだったと語った。その男は人形遣いだった。二人が拷問されかつ殺害された現場で、彼は見知らぬ多くの美少女達に羽交い絞めにされていた。その上人形遣いから二人にした拷問の説明を受けていた。

「単純に言えば、彼らには電気ショックを受けてもらった。昔の死刑はどんな感じだったのだろうかと興味があったんでね。さて君の知ってのとおり、二人は違う場所で異なった時刻に拉致された。そのあとに目隠しをさせて、別々の部屋に閉じ込めた。最初の日には二人を電気椅子に座らせて気絶を繰り返させた。電気椅子の恐怖を学習してもらうためにね。次の日に、一つのスイッチを与えた。それを三分間の通電時に操作すると、隣の部屋にいるパートナーにその苦しみを残り時間の分だけ投げつけることができると説明した。これからは交互に時間を置いて合図と共に電流を流すが、互いにスイッチを押さなければ次に流れる電流の強さは弱くなるし流れる時間も短くなる。最後まで我慢すれば通電しなくなるだろうとも伝えた。二人とも初めは躊躇っていたけど、結局はボタンをすぐに押すようになった。おかげで彼らは最初の日と変わらないくらい気絶した。ヒドイ人たちだよね、知らない人なら傷つけてもいいんだって思っているわけなんだから。ボクは最終日にそのことをはっきりと指摘してあげた。糞尿まみれの彼らはムキになって抗弁してきた。お前が悪いのだし、それに向こうだって自分に電気を流してきたんだって。だからボクは、パートナーが誰だったのかを教えてあげることにした。教育のためだ。彼らには天国に行ってほしいからさ。二人を目隠ししたまま、同じ部屋に連れてきて、向かい合わせに座らせたんだ。それで、目隠しをとる。目の前にいる人物が君のパートナーだったと伝えた。そのときの二人の顔を君にも見せたかったよ。キミたちは愛し合っていないんだ、ただ群れてただけなんだと教えてあげてから、最大電圧で彼らをショック死させた。けっこう楽しめた」と人形遣いは笑った。

「殺す」と復讐者は呻いた。

 人形遣いはくすりと笑ってから背を向けて去ろうとした。だが途中で立ち止まり、手を叩いた。

「ああ、忘れてた。デリートしなきゃね。もうコピーは取ったし、試練を越えられない彼らは天国に相応しくない。ボクの人形として使うのも一度きりでいい」

 すると復讐者を拘束していた少女たちのうち二人が二つの死骸の所まで行って抱き着いた。二人の少女は身を震わせながら涙を流していた。それから彼女たちはじわりと発光して、爆発した。

 ここで復讐者の記憶は跳ぶ。いつだってそうだ。

  彼は夜道を歩いている。のろのろと足を引きずるようにして歩いている。足を止めて電柱に身を持たせた。そのままずるずると地面に座り込む。人影が項垂れる彼の後頭部に圧し掛かってきた。復讐者は顔を上げた。街灯の光を受けて立っていたのはボブカットにした金髪の若い女だった。その女は品定めするように彼を見ていた。

「なんだ?」と彼の口は言った。

「ああ、すっげえ。マジで生きてるんだ」

「ああ?」

「アンタを殺せって命令が来てる。ジャンヌも人づかいが荒い。さて残念だけど、アンタがこのまま無闇にあの男のケツを追いかけてる限り未来はない。正直邪魔なんだ」

「お前にオレを殺せるのか?」

「たぶんね。アンタが殺したがってる男すら殺せるかもな」と女は笑って一歩後ろに下がった。それから、その腰にぶら下げている刀の柄を握った。

「……お前、矯正隊の擬音使いか」

「まあね。実際のとこ、アタシの視界に入った時点でアンタは死んでる」

彼はその言葉を聞いて、少し笑っていた。

「マンガみたいな話だな」

「でも、アンタの方が漫画みたいだったぜ」と女は口元を笑わせた。「外から監視してたがアンタがアイツらを倒しきれるわけないって思ってた。なにせ、人形遣いの人形が二十人だ。なりは女とはいえ、そこらの特殊部隊員より身体能力も高い上、完全な統率のとれた軍団だ。豪華な銃火器でバンバンぶち込まれてたのによく勝てたよ」

「ああ。おかげでちょっと疲れてるんだ。だからお前の相手をする気はない」と彼はよろよろと立ち上がって女を見据えた。上は黒の半袖で、下は迷彩柄のズボンをはいていた。

「お前とは少し似てるんだが」と彼はにやけながら前置きをした。「オレの視界に入った時点でお前の未来は決まっている」

「はあ?」

「お前はオレを殺さずに帰る。これがお前に与える未来だ」

「……へえ、噂通りなんだな。トンだってのは」とボブカットの女は刀の柄から手を離した。「アンタのシム、元はそんなのじゃなかった」

「良く調べているな」と復讐者は背後の壁に寄りかかりながら女を見つめた。

「ジャンヌがアンタを殺そうとするのも、分かるよ」

 女はそう言い捨てた後、背中を向けて暗闇の中へと歩き去って行った。その後姿を見送ったあと彼は壁を擦るように座り込み、項垂れたまま目を閉じた。腹部から流れる血をそのままにして。

 その男を殺そうとしていた女は電話をかけながら雑居ビルの階段をのぼっていた。

「おい、ナナ。アイツマジでトンでんじゃねえか。ちゃんと調べておけよ、無駄足になるだろ」

「ちぇっ、うっさい。ちゃんとあんたが確認することに意味があんだよ。きっちり処理したか?」

「たぶん死んだよ。あたしと会う前に人形どもと戦ってたからな」

「ああ? ちゃんと仕事しろよ。殺して、息の根を止めるのが仕事だろうが」

「んなもんあんなバケモン相手に出来るかよ」

「アンタもバケモンだからジャンヌが行かせたんだろうがよ」

「はっ。まあいいさ。あたしはアイツのシムのおかげでネカフェでゆっくりしないといかん。アイツがいたとこ送っとくから増援部隊でも送っとけよ」

「はああ? ちゃんと仕事しろよばかハルコ!」

「ああ、うっせうっせ」と女は電話を切り、ネットカフェのドアを開けた。



 彼女は目をつむっている。黒い擦り切れたソファに深く身を沈めて、じっと自分の中にわだかまる感情を見つめているようだ。そこはネットカフェの個人ブースの一室。テーブルの上にはグラスが一つ置いてある。それに手をつけた様子は無い。そのとなりにはスマートフォン端末がある。それがいま震え始めた。女はゆっくりと手を伸ばしてそれを手に取った。表示されている番号を確認し、少し息を吸ってから声を出す。

 シーン

 それから画面を操作し、通話を開始した。

「おう。久しぶり」

「いきなりかけてくんな。ウチだって忙しいんだ」と電話の向こうから甲高い声がする。

「だから折り返してくるの待ってたんだろ。用件を簡単に言う。人形遣いの居場所をすべて教えろ。協会が把握している場所、すべてな」

「……は? いきなりなに? あんた正気?」

「いたって正気さ。ジャンヌが殺されたときくらいには冷めてるよ」

「はあ? チッ。いやなこと思い出させんな。アンタあの時だっていっぱい暴れてどうかしちゃってたじゃん。なに、『不定』に情がわいてたの? 別にああいうやつを消すのはいつものことじゃん。結局消えなかったし」

「あたしを勝手に利用するな。いいか? あたしはいま人形遣いの情報を聞いてるんだ。わざわざ電話してね。べつに直接出向いたっていいんだ」

「やめて。今度こそ死ぬよ」とスピーカーからか細い声がする。

「だったら教えろ」

「チッ。だーかーらあっ! 正気じゃないアンタに教えても意味ないし、それに協会が今度こそだまっちゃいないよ。もうミミは協会の中に居るんだから」

「だったらだまらせるだけだ」

「は、バカじゃん! 今までだまらされてたやつがなに言ってんの? アンタじゃあの教団の巫女どもにも勝てないし、どうせ今のままじゃアイツにだって返り討ちにされるだけ! 意味ないんだから、ハルコはそのままおとなしくしてろ!」

「……なあ、ナナ。あたしたちは怖くて逃げただけなんだ。ジャンヌが死んだときからずっと逃げたまんまだった。昨日、ようやく思い出した。シムを使ってクソなことをするやつは野放しにすべきじゃなかった。誰がどう思おうがこの世から消すべきだったんだ」

「力が無いやつがそんなこと言ったって死ぬだけだ」

「構わない。あたしがやるべきことをやって死ねるならそれでいい」

「ウチはぜったいにいやだっ!」

 そこで通話が切れた。女はため息をついてスマートフォンをテーブルに戻す。

「本部に乗り込むしかないか」と呟いた。

 

 彼女は目を見開いている。高校の夏服を着た少女は夜の公園でしりもちをついていた。スカートから生える足は小刻みに震えている。彼女の前では帽子をかぶった老人たちがゲートボールをしていた。スティックでボールを打つ。ころころ転がってゲートにぶつかる。ボールが大きすぎるのでゲートを通り抜けることが出来ない。そのボールは成人男性の頭だった。胴体は隅っこに転がっている。もう一つのボールが少女の前に転がってきた。自分と同年代の女の子の頭だった。そのうつろな右目を見てしまう。左目は潰れていた。少女は口元を押さえる。だが出てくるものは出てきてしまう。地面に嘔吐し終えて顔を上げるとゲートボールに興じていた老人たちが少女を囲んでいた。ボールはなくなっていた。彼らは新たなボールを欲しているようだった。

 少女は尿を漏らした。

 そのとき一陣の風が少女と三人のゲートボーラーたちの間に吹いた。口を開けながら少女は自分の前に剣と盾を持った女性が立っているのを見た。その金色の髪を持つ女は言った。

「シムに目覚める瞬間というのはいつもギリギリなんだ。私のときもそうだった」

「え、あう」

「だからそれまで私がキミを守ろう」と女は剣を構えた。

 その戦いをどこまで認識できたかは分からない。音だけは大きく響いていた。乱戦の中剣が一人のゲートボーラーを貫いた。女はそのまま切り裂く。血しぶきを上げながらその初老のゲートボーラーは地面へと崩れた。その間にも他の二人からの攻撃に女はさらされつづけている。盾を器用に使いスティックによる殴打をいなしていた。そのぶつかり合う衝撃音は地面を震わせるほどだった。

 少女はよろよろと立ち上がった。少しずつ後ずさりして戦いから離れようとする。だがゲートボーラーはそれを許さない。一人が戦闘から離脱し、少女の目の前にすとんと立った。

「待て! 相手は私だっ!」と女は助けに行こうとする。だが女の前に立つもう一人のゲートボーラーはスティックを狂ったようになんども振り下ろしてきた。女がその猛攻に苦戦している間、少女はゲートボーラーと見つめ合っていた。そのゲートボーラーは近所の斉藤さんに似ていた。よく柴犬を連れて散歩している斉藤さんだ。小学生のとき朝に会えばおはようと笑顔で挨拶をしてくれた。年金で暮らしていて、孫が居て、地域パトロールもたまにしている模範的老人だ。そんな斉藤さんに似た男がいま無表情でスティックを振り上げている。このままだと浜辺のスイカと同じ運命をたどるだろう。

 少女は体を震わせながら指鉄砲をゲートボーラーに向けた。スティックはもう風を切っている。時間はない。

「ばん」

 気がつくと、女の太ももの上に頭を乗せていた。女は少女の頭を撫でながら言う

「目が覚めてよかった」

「あたし、助かった?」

「うん。キミが一人、私が二人。あのエクストラを一撃で倒せるとはね。これから協会に行こう。キミに起きた変化とそして世界の本当の姿を説明しないといけない」

「世界……?」

「そうさ」と女は少女に微笑みかける。

「あ、あのあなたは?」

「そうか。まだ名前も言ってなかったな。私はジャンヌと呼ばれている協会の一会員だ。キミは?」

「あたしは、……天野ハルコ」


 彼女は目を細めている。目の前に立つ二人の少女が邪魔だからだ。天野ハルコはいらだちを隠せない。雑魚と戦っている暇はないのだ。今まさにジャンヌは人形遣いと単身で戦っている。協会の命を無視して自分勝手に。ならあたしも自分勝手にふるまうだけだ。

「どけよ」と道をふさぐ二人の少女に言った。そのどちらも中学生くらいだろうか。矯正隊、いや協会内でも見たことがない顔だった。ロングヘアの方は無表情で、ショートカットの方は笑みを薄く浮かべている。

「ここから先は行かせない」と長髪の少女が抑揚なく言った。

「いまアンタに死んじゃってもらったら困るんだって」と短髪の少女は明るく言う。

「くだらねえ」とハルコは二人に指鉄砲を向ける。それからバンバンバンとつぶやいた。二人の少女は弾けるようにして倒れる。アスファルトの上に転がる二つの死体を超えて天野ハルコは路地を抜けた。

 抜けた先はまた路地だった。そしてそこには二人の少女が立っている。一人は無表情、もう一人は薄い笑みを浮かべて。

「ここから先は行かせない」と長髪の少女は言った。

「うーん。そんな強くないんだね。擬音使いはすごーく強いって聞いてたけど」と短髪の少女は笑った。

「くそったれ」とハルコは吐き捨てて、息を吸った。大きく拳を振るう。効果音は、どっかーん。

 轟音とともに周囲の建物が跡形もなく吹き飛んだ。ハルコの前にいた少女たちも四散した。ハルコはため息をついてから、瓦礫の山を越えた。その先にあったのは路地だった。

 ハルコは後ろを振り返る。はてしなく路地が続いていた。正面を見ると二人の少女が立っていた。一人は無表情、もう一人は薄い笑みを浮かべて。

「お前ら、なにもんだ?」とハルコは囁くように聞いた。

「私は『否定』」と長髪の少女は言った。

「あたしは『支配』」と短髪の少女はハルコの目を見て答える。

「ああ?」

「私たちはなりそこない」と二人は声を揃えて言った。「彼女が『至高』」

「彼女?」とハルコは眉をひそめる。

 そのとき背中に複数の視線を感じた。ハルコは振り向く。そこには一人の少女と一人の背の高い男が居た。

「キミは神を信じるかね」とその二人とは別のところから声がする。今度はその声の方へとハルコは顔を向ける。エアコンの室外機の上に一人の男が座っていた。

 自分は今見知らぬ五人の敵に囲まれている。ハルコはそう理解した。しかも自分のシムが通用しなさそうな五人。だが、こんなところでためらっている暇はない。出し切ろう、と決意したとき坊主頭の男がもう一度口を開いた。

「キミは神を信じるかね。天野ハルコくん」

「あたしは急いでるんだ。アンタらの与太話に付き合う気はない」

「いいや、付き合ってもらう。そういう未来になっている」

「ああ?」

「聞いたことはないかね、この言い回しは?」と言い書生のような姿をした男はハルコの前に立った。ハルコはじっと丸メガネをかけたその男を見つめる。見覚えはない。だが男の言ったようにその言い回しは聞いたことがあった。

「アイツは覚醒して死んだはずだ」とハルコは正面の男を睨む。

「あの彼がどこまでの未来を見ていたか分かるかね? もし今この瞬間までが彼の見ていた未来ならどうだろうか。我々の行動は彼によって決定されているのかもしれない」

「あたしはあたしの意志でここにいる。そしてあたしの意志でアンタらをぶちのめしてジャンヌのところにいく」

 ハルコはふたたび拳をかまえた。どうなろうが関係ない。エクストラが来ようが覚醒しようが。コイツらを倒し、ジャンヌのところに行くだけだ。拳を地面に向かって大きく振りかぶる。このときハルコが想定していたのは月面上の巨大なクレーター。効果音は、ずっどーん。

 だがその直前に長髪の少女がこう呟いていた。

「私は否定する」

 だからハルコの拳は空を切った。

「もう屈しなよ」と短髪の少女がハルコの肩に手を置いた。

 だからハルコの膝はアスファルトの地面についた。後ろから頭を掴まれる。見えたのは一人の少女。微笑を浮かべて立っている。

「見なさい。彼女が神だ」


 彼女は目を開けた。テーブルの上にあるスマートフォンから通知音が鳴り響いたからだ。天野ハルコは端末を手に取る。メールが届いていた。見知らぬアドレス。本文にはリンクがいくつか貼り付けられている。それからこんな文章も。

『人形遣いはここに居る』

 ハルコはリンクの一つを開いた。今居る場所からそう遠くない地域のマップが表示される。あるマンションにポイントがついていた。ちょうどいい。誰だか知らないが乗ってやろう。ハルコは伝票を片手にブースから出た。



 送信したメールの内容に満足したエージェントKは、若いカップルたちの監視に戻った。対象の二人はいま少し離れたテーブルでステーキを食べている。少年の方はコーンポタージュを啜っており、少女は分厚い肉を丁寧に切り分けていた。エージェントKは自身のメガネのふちを軽く触り、メガネに付属されている小型カメラを起動した。二人の様子をリアルタイムに依頼主へと送るためだ。

 しばらく二人の様子を映しているとテーブルの上のスマートフォンが震えた。依頼主からの連絡であった。5分後に追加要員を送るので必要であればそれまで足止めをしろとのことだ。エージェントKはため息をつく。足止めは別のオプションだと伝えていたはずだ。それなのにその指示をするということは向こうで何かが起こっているのだろう。その何かが自分のリスクとならぬよう祈るのみだ。エージェントKはそう思いながらカップルたちを眺める。依然、彼らは食事を楽しんでいるようであった。

ふとエージェントKは気がついた。まともに食事をしているのは少女の方だけであった。少年の方はコーンポタージュを啜っただけで終えていた。少女は食欲旺盛なのか、よほど飢えていたのか幸せそうに切り分けたステーキを口へと運んでいく。

 そこでエージェントKは気がついた。彼女は触れてはならない存在だ。メガネを外し、スマートフォンをポケットに詰め込んだ。その途端に端末が勢いよく震えだす。エージェントKはそれを無視してレジへと向かった。ハメられたと彼は感じていた。

急いで会計を済ませて外に出ようとすると入り口の自動ドアが開いた。武装した男たちの集団がそこにいた。エージェントKは彼らに道を明け渡そうとするが、そのうちの一人がエージェントKのみぞおちをまともに蹴った。エージェントKは床に転がった。次の行動に出る前にアサルトライフルの銃口を突きつけられた。

「動くな。作戦終了時に尋問がある」

「お前ら、誰にケンカ売ってるのか知ってんのか?」

「復讐ごっこに興じるバカどもだ」

「ちがう。核ミサイルを持ってるようなバカどもだぞ」

「ああ?」

 エージェントKに銃口を向けていた男は怪訝そうに首をかしげたが、次の瞬間その首から上は消えていた。エージェントKはため息をついて天井を見上げた。立ち上がり店内を確認する。武装集団だけが床に倒れ伏せていた。彼らから出る血がレンガの床に広がっていく。だが店内に居る客も店員もまったく動じずに悲鳴も上げていなかった。エージェントKはその事実に気がついて、自分が不用意に立ち上がってしまったことを悔いた。

「あらら、お久しぶりだねえ、カワイさん」

 男たちの死体を踏みながら少女が声をかけてきた。

「ああ、俺は関係ない。たまたまこの店に着たんだ」

「どうかなあ? お話ついでにちょっとうちの本部に寄ってみる?」

「いいや遠慮するよ。これから教団の方に用があるんでね」

「それ、脅しかな?」と少女は笑った。

「仲良くしようというサインだよ」

「じゃあその名前は出さないでね。あたしもカワイさんは殺したくないし」

「ああ。じゃあ俺は帰るよ」とエージェントKは少女の前から去ろうとする。

「エクストラがすぐに来ないってことはこいつらレーテだよね。たぶん海外派遣帰りの新入りかな。それがあたしの食事中に特攻してくるってどういうことなんだろうね。また理解したいのかな? ねえカワイさんどう思う?」

 背中で少女は語りかけてくる。

「俺は何も知らない。だがレーテとの交渉を依頼するなら引き受けるよ」

「じゃあ頼んじゃおうかな。どういう理由であたしを狙ったのか。それともあたしのカレシを狙ったのかな。どっちにしても次はないって言っておいてね」

「ああ、じゃあな」

「報酬はいつものところに振り込んどくね」

「いや、いい。長い付き合いのサービスだ」

「そう! どうもありがとうね」

 エージェントKは少女に背を向けたまま会話し、そして店からすばやく去った。通りに出ると夏の日差しがエージェントKの額の汗を際立たせた。


 座間チヒロは目の前に転がる死体を見てから、周囲を見た。テーブルに座っている客たちはその直前の動作のままで止まっている。厨房の方も誰かが動いている気配もない。座間チヒロは頭をかいた。迷彩服を着た首のない死体たちに視線を戻す。それらはちょうど淡い光の粉となって霧散していくところだった。

「わけわかんないね」

「シムでシムを殺すとこうなるんだよ。座間くんは初めてだったかな」と駒場今日子は死体を足で小突いた。

「初めてだよ。しかし、周りの人たちはどうなってるんだ?」

「あたしのシム。周囲の時間を止められるんだよね。止めてる間にスパンとやっちゃうわけ」と駒場は自身の細い首を人差し指で横になぞる。

「時間を止める? そんなのおかしいだろ」

「おかしいのがシムなんだよね。しょうがないよね。あーあ、せっかくご飯食べたのにさ。台無しだなあ」

「エクストラは何で来ないんだ? シムを使うと来るんだろ?」

 出口に向かっていた駒場は立ち止まり振り向いた。

「まだ来てないだけだよ。けど今回は来ないんじゃない。シム殺しただけだし。基本アイツら、モノを壊すとか一般人に危害を加えるとかしないと来ないんだよね」

「よく分からん設定だな」と座間チヒロは眉をひそめる。

「神さまも適当なんだろうね。おかげさまであたしも強いシムを手に出来たんだけど。さ、座間くんお家に帰ろう。明日は朝から早いんだから。あ、お家ってあたしのマンションね。座間くんもうちの会に入った以上こんなふうに襲われちゃうだろうし」

「僕が襲われる理由はないはずなんだけどな」

「親を消されたのに生きてる『不定』はそれだけで討伐対象だね。しかも報告によればエクストラが君を守るような行動もしてたみたいじゃない。それってけっこうやばいんだよね。ほかの『不定』とは決定的に違うから。まあ詳しいことは帰り道ゆっくり話すよ。さ、帰ろう」

 駒場はそう言って座間チヒロに笑いかけた。



 エージェントKが一息ついたのは人気のない公園のベンチにたどりついた時のことだった。木陰の中にあるベンチに座り、スマートフォンを操作しある人物に通話を求めた。2コールでその男は出た。

「どうしたかね、カワイくん」

「お前の飼い犬はどうなってる? なんで首輪をつけて置かなかったんだ」

「彼女たちの首輪は外れやすいのでね。その様子だとわが教団のはぐれ巫女に遭遇したようだね」

「アイツ、ウワサの『不定』と一緒に居たぞ。レーテからの簡単な調査依頼だと聞いて気軽に受けちまったが、ふざけるなよ。クソみたいな状況に巻き込まれるところだった。いまどういう状況なんだ。宮野、お前は何してる?」

「カワイくん、実のところ私が何をしているのか私も知りたいんだ。自分の位置が今一つ掴めなくていなくてね。分かるだろう? キミはまだこっち側に来ていないとはいえ私が置かれている状況を理解してくれるだろう?」

「お前はいつもまどろっこしい言い方をするな。もういいからユタカの居場所を教えろ。アイツはまだ『不定』だろ? 」

「弟はいま『会』に潜入しているよ、あの会は邪魔だからね」

「……、はあ? 何を言ってる?」

「弟はいま『人形遣いを殺す会』に潜入しているよ。」

「いや、言い直さなくていい。それはつまりアレを使ったってことか?」

「使ったよ。弟を隠蔽するには別の力が必要だったからね」

「お前、もうキーの在り処を掴んだのか?」

 エージェントKの首筋に無数の汗の玉が浮び始める。わずかな沈黙のあと電話の先の男は声を出した。

「一応キミとは長い付き合いになるからね、正直に言おうか。我々はキーに近づきつつある。ただそれをどうするかはまだ決めていない。この世界をもう少し見ていたくはあるんだ。おもしろいじゃないか。シム。まさしくこれは行為者因果そのものだろう。我々人間が唯一自由になれる能力じゃないか」

「俺はこんな狂った世界に居続けたくない」

「ならば我々より先にキーを見つけ出すんだな。もう一人厄介なやつも動き始めてる。我々より後に来たマイナーだ。気をつけたまえ、カワイくん。キミの未来に幸多からんことを」

 そう言って通話は切れた。エージェントKはしばらく俯いたまま動かなかった。動いたのは足もとにコンビニのレジ袋が転がってきたときだった。その袋には生首が入っていた。若い男の首だった。エージェントKは声を上げてその袋を蹴った。そして足音を聞いた。

「そいつがそうなるのは分かってたんだろ? あたしにわざわざそいつの住所を教えたってことはな」

 エージェントKは目の前に立つ女を見る。刀を腰に携えた『擬音使い』だった。唾を飲み込んでから声を出した。

「あ、ああ。そうだ。アンタはコイツを殺すだろうって思ってたんだ」

「別の居場所も教えろ。ゴキブリは一匹だけ駆除してもはじまらねえ」

「そのまえによく俺だとわかったな」

「協会に優秀な奴が居るんだよ。そいつとはマブダチでね。すぐに逆探知してもらったさ」

「ああ、そういうことか。ならいい。逆に手間が省けた。アンタと同じく俺もそろそろ人形遣いを殺すべきだと思っていてね。とりあえずいま把握されているクローンどもの居場所を送ろう」とエージェントKはスマートフォンを操作し、ファイルを添付してからメールを送信した。

「その地図には日本にいる奴らの居場所が書き込まれている。存分に利用しろ」

 ハルコは自身の端末を操作し、表示された日本地図を確認する。無数のポイントが日本中に散っている。しかしその中でも集中している場所があった。

「随分と都内に多いな。なんかあるのか?」

「お前、矯正隊だったんだろ? クローンが多いってのはどういうことなのか分かってんじゃないのか?」

 天野ハルコは笑った。獰猛な笑いだった。

「だよな。アイツがこの辺に出張ってるってことか」

「そういうことだ。アンタならまあ殺せなくないはずだ。人形遣いもいま教団と協力している様子はない」と男は嘘をついた。

「べつに巫女どもに負ける気はないよ。ありがとな、これ。とりあえず近くのとこ行くわ」

「ああ、だがもう移動してるかもしれない。すでに一人殺したんだろう」

「あのクソみたいな性格だ。次のとこでも手厚く出迎えてくれるよ」

 そう言って、天野ハルコはエージェントKから離れていった。エージェントKはその後姿を見送ってから、ベンチに深く背を預けた。木漏れ日を見上げる。『人形遣い』がキーならば殺せばすべてが終わる。エージェントKはそう考えていた。

台帳に書き込むのは宮野兄弟ではなく自分だ。



 その美しい少女は人を殺せば殺すほど自分が『ある』と実感できた。高級店で食事をするのも、ベッドの上で愛を囁かれるのも、クスリをやるのも殺しはそのすべてを超えた実感だった。

 その日もある男を殺そうとしていた。獲物との出会いの手段は豊富にある。家出をした。お金が欲しい。さびしいから。そう言うだけで男どもはよってくる。

 新宿の南口、青梅街道を眺めながらその相手を待っていた。夏休みに入ったからか十代の若者たちが多かった。時刻は正午を回る。少し遅いランチを取ってホテルに行く。そういうルートだった。

「あの、みはるちゃんですか?」

 少女はそう声をかけられた。適当に考えた名前だ。はにかむようにして声の主を見た。瞬間、身を固める。そこにいたのは自分と同世代、いや少し下くらいの若い男だった。

「えーと、チヒロさんですか?」

「うん、そう。ぼく、チヒロでーす。DMしたよね」

「いえ、うーんと年齢聞いてもいいですか?」

「ノーコメントで。お金はちゃんと払うよ。さあランチに行こう」

 そのチヒロと名乗る少年はさっさと歩き出した。みはるは追わなくてもよかった。だが、なぜか追ってしまった。

 その少年がみはるを案内したのは雑居ビルの地下にある店だった。個室制のしゃぶしゃぶ屋でどこか薄暗い。二人は店員に奥まった場所へと案内された。チヒロと名乗る少年はおしぼりで顔を拭いた。みはるは怪訝そうにその行動を見る。

「いやあ、暑いなあ。それなのにしゃぶしゃぶってセンスないね」

「えっと、アナタがセッティングしたんじゃないんですか?」

「そうかもね。興味ないから。知りたいのは君の気持ちだ。今まで何人殺した?」

「なに言ってるんですか?」とみはるは淀みなく笑った。

「人数を言わない。動揺もしない。なかなか喰ってるようだね。よし。じゃあ自己紹介から始めよう。僕は座間チヒロって言うんだ。この名前に覚えがあるはずだろ、忘れたなんて言わせない」

「座間チヒロ? 初めて聞いた名前です」

「そうか。じゃあハズレだな」と少年は舌打ちし、みはるの顔に触れようとする。みはるは咄嗟にその手を避けた。避けられた少年は面倒そうにため息をついた。

「人間じみた動きをしないでくれ」

「触らないでください」とみはるは震えた声で言った。

「君は命乞いを聞いたか?」と少年は言ってすばやく少女の頬に触れた。みはるはふっと消え去った。

 一人残された座間チヒロは首を横に振る。それから頭をぽりぽりと書いた。そんな彼の隣に一人の少女が座った。

「ごっくろーさん! さ、お昼だ!」

「隣に座るなよ」と座間チヒロは心底嫌そうに言った。

「なーに照れてんの? もう一週間ずっと一緒に居る仲でしょ? それに座間くんのとなりはなんだか安心するので譲れないなあ」

「狭いんだよ」

「いいじゃんいいじゃん、こんなかわいい子に言い寄られてんだからさ。もーちょっと素直になってよ」

「素直になった対応がこれなんだ。駒場、君の呼び出す奴は全部ハズレだ。十人以上会って全部ハズレなんだよ。アイツのハブ端末になんて出会わないじゃないか」

「いいのいいの。あたしたちの仕事はアイツへの嫌がらせなんだから」

「さっさと終わらせたい」

「まあ、それには同感だけどね。じゃあ腹ごしらえして次の女の子にいくか。とりあえず食べ放題ランチ頼んでおくね」と駒場は注文ボタンを押して店員を呼ぶ。そんな駒場を隣に見ながら座間は頭を抱えた。二人は出会ってから一週間ずっとこんな調子だった。

「仲が良さそうだなと私は言う。君たちは顔を上げる。」

 その男の言葉通りに座間は勢いよく顔を上げた。駒場はゆっくりと正面を見る。今まで空席であったところにスーツを着込んだ男が座っていた。

「君たちは油断したかと自問する。君たちは油断していないと私は判断する」

「意味不明なキャラ付けしてんじゃねえ。学校であったときは普通に喋ってたじゃないか」と座間チヒロはその男を睨んだ。

「タネベ先生はどうしてここに?」と駒場は微笑む。

「この場合は会長と呼びたまえ駒場くん。さて座間チヒロ、仕事の進捗はどうかね?」

「おかげさまでアイツの人形を効率よく消し去ることが出来てるよ」

「それはとてもいいことじゃないか。君は不満に思う。だが状況を改善することは出来ない」

「アンタ、何しにきたんだ?」

「交渉だよ。エージェントを寄こしただろう?」

「はあ?」と座間チヒロは首を傾げたが、隣にいる駒場今日子のまとう空気が変化したことに気がつく。

「……、そういうことだったんだ」と駒場は押し殺したような声で言った。

「君は憤る。だが私は弁明しない。なぜか。私は虚偽を述べていないからだ」

「まさか会長さんがレーテのトップだなんて誰も気がつかないなあ」

「隠していたつもりはない。調べれば分かったことだ。ただその調べる手段があればの話だが」

 話についていけない座間はにらみ合う二人の顔を交互に見る。駒場がここまで真剣な顔をしているのは初めてだった。なにか冗談を言い合っているわけではないようだ。

「アンタらがなに言ってるのかわからない」

「座間くん、この人は私たちの会のトップなの。会のみんなには娘を人形遣いに惨殺されたって話してたわけ。だけどその上でレーテっていう組織のトップでもあるみたい。レーテってのはステーキ屋さんであたしたちを襲ってきた人たち。となればあたしたちの敵ってことだね」

「そうか。世の中は不思議なことばっかりだ」

「ね、不思議だなあ」

 不思議がる二人を置いてタネベは腕時計を見る。目を少し細めてから口を開いた。

「座間チヒロ、我々に協力して欲しい」

「協力もクソも、アンタら静かにしてれば問題ないだろ。僕がぷらぷら歩いてればそのうちあの野郎は勝手に向こうからやってくる。で、僕はアイツを殺す。それでおしまいだ」

「君には武力がないだろう。君は自問する。一つだけ心当たりを見つける」

「何が言いたい?」

「我々レーテ、いやシム全体としては君のようなエクストラと友好関係を持ちえる存在は許容できない。だから今まで君を排除しようとしてきたのだ。それを理解して欲しい」

「わかってたまるか。お前らなんかよりあのヘンテコで無口な人たちのほうがよっぽど人間らしい。超能力が何だ、世界平和が何だ。お前らはそんな力でしか事をなしえないのか? くだらねえ」

「その主張も我々レーテとは共存できない。我々はこのシムこそが人類における現在の最高到達点だと理解している。シムでない人類はサルに等しい」

「銃を持ったサルがバナナを握ってるサルにイキってんじゃねえ。どっちもサルだ。アンタも僕も同じように死ぬサルなんだよ。アンタは勘違いしている。より進化しているから価値が高いわけじゃない。ただ環境への適正が高くなるだけだ。そいつの価値はそいつが生きて死ぬまでの内容で決まる。ちゃんと生きるかだけじゃない、ちゃんと死ぬかも重要なんだ。だから僕は殺人を嫌悪する。正確には他人の死を勝手に作る奴を嫌悪する。人はどうやっても誰が見ても納得するような死に様であるべきだ。だから俺は人形遣いを殺す。アイツにとってそれが相応しい死に様であるからだ」

「高説ごもっとも」と男は簡単にうなずいた。座間チヒロはイラついたようにして立ち上がる。テーブルから離れようとするが駒場の強い手によって阻まれた。

「座間くんちょっと我慢してね」

「なんでだよ」

「この人とお話しないとここで蜂の巣になっちゃうから。あたしはともかく座間くんを守りぬく自信がないのね。いまこの店、かなりのシムに囲まれてるよ」

「はあ?」

 座間チヒロは男を見た。男はうつむいて、テーブルの上に置いた右手の人差し指でリズムをとっている。

「シムを感知する能力は衰えていないようだな。君は素晴らしい人材だ。私は賞賛する」

「どうもありがと。会長のこと幹部会に話してもいいのかしら?」

「かまわない。私がレーテの創設者でありあの会の創設者であることは覆らないからだ。君たちは少し勘違いしている。あの男を殺そうと思うことと、レーテの創設者であることは矛盾しない」

「じゃあ、会の趣旨どおりに彼を殺す計画は変わりないってこと?」

「そうだ。私は肯定する」

「つまりその限りでは座間くんも利用したいってこと?」

「それもある。我々にとって『不定』の能力は魅力的なものだ。彼の能力の大半を無効化できる。そして彼はそのことを非常に嫌悪している」

「となればあたしたちは今までどおりに仕事をしていればいいわけだ。で、今後はレーテも邪魔はしてこないと」

「それは正しい解釈だと私は肯定する。そのうえで提案もある」

男はそう言って背中に手を回した。テーブルの上にそれを置いた。黒い自動式拳銃だった。

「座間チヒロ、君に武力を与えよう。この拳銃は最新鋭のものだ。素人でも簡単に扱えるだろう。これを使って人形遣いを撃て」

 座間チヒロは何も言わずにそれを手に取る。

「試してもいいか?」と銃口を男に向けた。

「私に試せば私のシムを見せることになる」

「こうすればどうだ?」と座間は男の右手を握った。そのとき初めて男は笑った。

「いい判断だ。君の行動を評価する。そうだ。人形遣いを殺すときも身体に触れろ。それから引き金を引け。そうでなければ確実に殺せない。そして油断するな。銃口を向けているとき、お前もまた銃口を向けられている」

 座間はそこで男が左手に同じような拳銃を持ち自分に向けていることに気がついた。

「なるほど。なかなかシビアな世界だな」

「一方的な暴力は存在しない。つねに攻撃は反撃を内包している。殴った拳は必ず返ってくるのだ。座間チヒロ、何度も言う。油断はするな」

「分かったよ。で、僕はこの拳銃を受け取り次第、遭遇した人形遣いと握手をしてなまり弾ぶち込んで来いってアンタは言いたいのね」と座間はテーブルに拳銃を戻し言った。男も同じく拳銃をテーブルに置く。

「おおむねそうだ」

「いいだろう。協力するよ。で、人形遣いはどこにいる?」

「奴の所在はまだ分かっていない。だが一つ奴の『心臓』を見つけた」

「心臓?」と駒場が口を挟んだ。

「すなわち奴の能力の根幹、ハブの人形を生成する場所だ」


 

 その建物には窓がなかった。高さ、横幅、奥ゆきはすべて60メートルで統一されている。遠くから見ればそれは白い巨大な箱であった。そのなかには数多くの死体が安置されている。人形遣いがコレクションとしている死体たちだった。

 『教団』の信者たちは女神による秘跡を授けられたあと、その箱の周辺警備を課せられていた。奇跡を使いこなすための試練だとグループリーダーからは説明される。実際にはシムへと慣れさせるための訓練だった。その箱の周辺にはよくエクストラが湧いていたのだ。

 そして教団幹部たちだけ、その警備が人形遣いとの契約であることを知っている。


 その建物へと至る道と門は一つ。それ以外は木々が植わっており、さらに鉄網のフェンスによって境界をはっきり示していた。そのフェンスを無断で超えればすぐに警備のシムがやってくる。興味本位で侵入を試みる者たちは即座に無力化され、敷地外へと放り出された。

 その日も侵入者がやってきた。彼女は堂々と敷地に入る門の前に立ち、刀による一振りで鋼鉄製のゲートを横なぎにした。緊急警報が敷地内に鳴り響き、すぐさま教団のシムたちがやってくる。集まってきた信者たちに侵入者は宣言した。

「おい、ザコども。死にたくねえなら消えろ」

「それは貴様のことだ。神域を汚すものはなんびとたりとも許されない」

「てめえの遺言はそれでいいのか?」

「貴様もな」

 ハッと侵入者は笑みをこぼしてから刀の柄を握ぎりなおした。



 エージェントKは『真理のともし火』教団に向かっていた。宮野兄弟と話を付けるためだった。豊島区にある教団本部は広大な敷地にさまざまな施設を併設している。礼拝堂から禅堂、事務局、そして納骨堂まで。入り口には門などなく警備員もいない。宮野曰く、真理はだれにでも開かれているべきだからだ。

 エージェントKは迷うことなく礼拝堂へと向かった。木製の重い扉を開ける。涼やかな風が吹いてきた。中に入り、長いすが整然と並んでいるのを見る。視線を中央にある説教台へと向けるとそこに宮野宗司が立っていた。

「待たせたな」とエージェントKは言った。その声はよく響いた。

「カワイくん、君と直接会うのは久しいことだな」

「お互い忙しかったからな。どうだい宮野。お前はこの世界が好きになったのか?」

「おおむねそうだ。この前の世界ではずっと牢獄にいたからさ。君も知っているだろう」

「詐欺で捕まってたんだろ。アンタの名前、新聞で見たことあるよ。怪しい宗教で金集めてたんだってな。こっちじゃまだ有名になってないようだが」

「ノウハウはどこの世界でも同じだよ。人間は、人間だけは変わらないからな。ただここだと本当に奇跡があるからね。私の理論がしっかりと運用できた。おかげで教団も十年でここまで巨大なものとなった」

「だとすればお前の結論は決まっているわけだ」

「カワイくん、君と同じようにね」

「だがいいのか? 俺はもう手を打っているぞ」

「『心臓』を襲いに行かせていることかい?」

「そうさ。あそこが潰されれば人形遣いだって黙っていられない。必ずアイツ本体が出てくるはずだ」

「そうだろう。ただ誰も彼を殺せないだろう。それこそが彼がキーである証拠だからだ。ただ、そこにいる若人はそう思っていないようだがね」と宮野は礼拝堂の端にある長いすを指し示した。そこで始めてエージェントKはその男の存在に気がついた。その若い男は天井を見ていた。

「ここの天窓は丸いんだね。僕の知ってるところは十字架だよ。ああ、あれは教会だからかな。歴史というのはシンボルをのこしていく。君のこの丸ははたしてシンボルになりえるかな」

「円は完全なものだよ。過不足なく充足したシンボルだ。真理に相応しい」

「僕にとっては神さまからのはなまるのほうが真理だけどな。あっと、そこの君もマイナーだろ。はじめまして、僕は、そう寅須全一っていうんだ。座間チヒロくんのトモダチでもある」

 エージェントKは笑みを浮かべるその男を無視して宮野に尋ねた。

「こいつもアンタと同じ願いなのか?」

「聞けばいいじゃないか」

 エージェントKは寅須と名乗る男を見た。

「ところで君たちはこの世界で何個目かい? 僕たぶん千個は越えたかな」

「覚えていない。そもそも細かな記憶は継承できないだろ?」

「そうか、君たちはまだそこか。ならば僕の相手ではないな。もちろんチヒロくんの相手でもない」

「おい、こいつは正気なのか?」とエージェントKは苛立たしそうに言った。

「彼はもう聖杯を手にしているよ」

「は?」

 カシュカシュとスプレーを振る音がした。

「もし全人類が自分の想うように願いを叶えてしまったらどうなるんだろう。そんな世界は脆弱だと想うな。少なくとも僕はそんな世界でマイニングしたことはないね。生まれる前に消えてしまってるだろうから。だが、この世界はコイツがあるとそれに似た状況になるわけだ。つまりコイツは破滅への序曲、兆し、そんなものだ。これが出てきたらこの世界は終わりに近づく。キーを見つけるとか破壊するとかそういう話じゃないんだよ。分かるかい、新人さん?」

 スプレー缶を持つ寅須に見られたエージェントKは少したじろいだ。

「君のロジックは面白いが、キーがある限りこの世界は存続するだろう。そしてキーが認証されればこの世界が現実となるはずだ。そうやって現実は構成されてきた。だから今回もそうなるはずだよ」と宮野は寅須に言った。

「その工程はあってるさ。キーを見つける、提示する。それが僕らマイナーの仕事だ。それを現実という台帳に書き込むのは僕らの仕事ではないし、おそらく仕事にすることは出来ないだろう。それは全人類の作業だ。僕らマイナーの範疇にない。あくまで僕らはこの世界を現実に開示するだけなんだよ。思い違いはよくない」

「いや我々は望む限りこれを現実にすることが出来るのだよ。マイナーがキーを見つけ保護する限り、この世界は続くのだからね」

「そういう観点から言えばそうかもしれないな」と寅須は笑った。

 二人の会話を聞いてエージェントKは頭を抱えた。

「俺の受けた説明とはまったくかけ離れてる。俺に小難しいことはわからないが、ともかくこの世界を否定するならばキーを見つけ破棄しろってことだろ。だから俺は人形遣いを殺す、でアンタらは人形遣いを守るってことか?」

「私の立場はそうだが彼はどうも違うようだ」

「そもそも僕は人形遣いがキーだと思っていない。彼の能力はまだこの世界の枠組みの中にあるからね」と寅須はスプレー缶を弄びながら言った。

「あの能力のどこが枠組み内にあると言えるんだ?」とエージェントKは寅須を睨んだ。

「僕のシムでも彼を殺せるからね。とはいえ、問題はそれだけじゃないさ。彼はそもそも無から『人形』を生み出せない。コピーの元になる人間を必要とするんだ。この点もまた彼もこの世界に縛られる住民だという証明になる」

「……、お前もこの世界のルールを把握したのか」

「僕には経験がある。君たちには時間があった。君たちもいろいろ信者さんを使って実験してたみたいだね。シムの発現条件、そしてその限界。どこまで安全に世界を変えられるか。その試みのなか君が作った女神は非常に面白い。願望実現能力に最も近いところにいる。そういう意味ではこのスプレー缶に最も近いよ」

「あの少女は奇跡だ。この世界の枠組みの外にいると言ってもいい」と宮野は言った。

 寅須はそれを聞いて首を横に振った。

「君が作った彼女はこの世界の枠組みで許された願いしか叶えられない。ちょっとした現実改変は出来るだろう。だが、少しでも枠に出ると消える。君はそんな被験者たちを多く見てきたはずだよね。シム界隈で言えば、トンじゃった人たちさ」

「我々は死者をも生き返らせることができる」

「へえ」と寅須は初めて宮野を見た。

「その奇跡を見せたからここまで信者が増えたのだ。そうでなければ十年そこらで東京に土地を買えやしない」

「それが本当ならおもしろいな。この世界に興味が出てきたよ」

「ならばキーを探すのも諦めるがいい。君のために我らの女神との面会時間を用意しよう」

「そうか。その時間は後で聞くよ。君が生き返ったときにね」

 そう言って寅須はよどみなく背中から出した銃で宮野の眉間を打ち抜いた。エージェントKは立ち尽くしたまま、口をあけていた。

「さて、女神さまに死んじゃったことを報告するかな。生き返らせてくれるといいけど」

「生き返るわけがない。アイツはただ人形遣いの人形を使ってそういうふうに見せてただけなんだ」

「だろうね。じゃあ死んだままだ」

「なあ、アンタはこの世界を居続けたいのか?」

「いいや。僕はこの世界に飽きたよ。そもそも僕の望みは結局叶わないから。君も今のうちにこの世界での自分の望みに近づくといい」

「キーはどうなる?」

「僕がガイドするよ。チヒロくんをね」

「そいつは使命を果たせるのか?」

「それは知らないな。ただ少なくともチヒロくんは進むだろう。彼はそういう人間だから」

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