目を瞑って、誰も居ない世界を望んだ。
その日、僕は学校に行くことにした。期末テスト前日のことだった。一応、学校がどんな感じなのか事前に知っておきたかったのだ。朝食を終えるとハルさんはどこからか車を持ってきていた。ホンダのフィットだ。水色で、ピカピカしていた。
「良い車だね」と僕は助手席に乗り込みながら言った。
「まあな、新車だよ。住所はここであってる?」とハルさんはナビをセットしていった。
「うん、そこ」
「おし、行こう。今日は大丈夫、ナビに従うだけ。犬でもできる」
「うん、よろしく」と僕はシートベルトをした。
「まかせておけ!」とハルさんはアクセルを踏むのだった。
街並みが過ぎていく。緑が少なくなっていき、平屋よりビルやマンションが目につくようになる。空は青く、そして雲はとことん白く、車窓から入り込んでくる風はぬるかった。夏はもう始まっているのだ。
「夏だね」と僕は信号待ちの時に呟いた。
「ああ、すっかり夏だ。ミミの誕生日もしなきゃ」
「ミミって、夏生まれだっけ?」
「前に話しただろ、それは誰も知らないんだ」とハルさんは笑った。
「そっか、そうだっけな」
「アタシとミミが出会ったのが夏ってのは覚えてるだろ」
信号が青になった。ハルさんはゆっくりと車を進めた。
「覚えてるよ。任務で見つけたんだろ。ミミが公園でエクストラに囲まれてたところをさ。で、ハルさんがそれを助けたわけ。それが麗しき二人の出会い。何度も聞いた」
「その日がミミの誕生日なんだ。今から3年前の8月15日さ」
「ミミはホントに何も覚えてないわけ? ハルさんに見つかるまで何してたとかさ」
「さあね、ミミに直接聞きなよ。いっしょにごはん食べたり勉強を教えたりして仲良くなってきたんだろ?」
「どうだろうな。いまだに肩とか叩くとすごい睨んでくるし」
「そういう娘なんだ」とハルさんは笑った。柔らかい笑い方だった。
立川ミミは過去を覚えていない。ハルさんが保護した当初は話す言葉すら忘れていたようだ。今や饒舌すぎるほどの言葉を思い出してしまったのはハルさんの熱心な教育のおかげである。
我々は学校に到着した。早めに出たので登校途中の生徒たちはまだ少なかった。
「授業終わったら電話しろよ」とハルさんは運転席から言った。
「分かった。気を付けて帰ってね」
「まかせろ」
車は去って行った。僕は一人で校門をくぐり、校舎に向かった。
教室の場所は事前に倉本から聞いていた。教室棟二階の一番端。その場所に着くまで、校舎内では誰とも出会わなかった。だが校内に誰もいないというわけでもなかった。グラウンドで朝練に励む運動部たちの掛け声が廊下まで響いてくる。朝練に赴くには遅く、授業に出るのには早い。そんな時間なのだろう。
そんなのだから教室についたとき一人の女子生徒がすでに座っているのを見て、僕は入るのをためらったほどだ。その髪の長い女子生徒は机に頬杖を突きながら文庫本を読んでいた。
「おはよう」と僕は声を掛けていた。その女子生徒はゆっくりと顔を上げて、隣に座る僕を見た。
「あ、座間くん!」と彼女は声を上げて、目を大きく開いた。
「初めまして」
「ええっと、そう、うん。はじめまして。私、天川笹子っていうの」
天川さんは口元に手を添えながら、はにかむように笑った。素晴らしく可愛らしいしぐさだ。
「そうか、僕は座間チヒロって言います。よろしく」
「ええ、知ってる。とても。けど、学校に来れたんだね。あっと、その別に変な意味じゃくて、忙しいとか聞いてたりしたから」
「別に何も忙しくないよ。ただ行きたくなかったから来てなかっただけ。けど両親がうるさくてね。結局、僕みたいな小心者は親には逆らえないよ。ああ、読書の邪魔して悪かった。どうぞ続けてください」
そういう気遣いあふれる僕の言葉を耳にしたはずなのだが、天川さんは読書に戻ることなく僕を見つめていた。その頬は淡い紅色に染まり、瞳は潤んでいて、唇はわずかに開いている。そんなある種の情熱的な視線など生涯受けたことがない僕であったので、少したじろいだ。
「どうしたの?」と僕が聞くと、彼女は少しためらいを見せてから答えた。
「私ね、カミサマに祈ってたの。座間くんがちゃんと学校に来れますようにって」
「カミサマ」と僕はオウムのように言った。
「そうなの。だからこうやって座間くんが来てくれて、本当にうれしいの」と天川さんは大きな笑みをこぼした。それから僕の両手をそっと握った。冷たい手だった。
「そうなのね、そりゃよかった」と僕はこくこくとうなずいた。
「うん。明日からもちゃんと来てくれるとうれしい。隣の席が空いてると少しさびしいもの」と僕に笑いかけてから、天川さんは手を離した。
「明日からはテストだ。むしろ行かなきゃまずい」
「あ、そうだったね」と彼女は髪を揺らして恥ずかしそうに笑った。
「天川さんは余裕そうだね、勉強できるんだ」
「そんなことないよ。けど、出そうなところはなんとなくわかる。あ、そうだ、教えてあげる。テストで出そうな範囲とか」と天川さんは椅子を僕の机に寄せて、カバンからいろいろなプリントを出し始めた。
「そりゃ助かるね。どうも倉本の情報だけじゃ心許なかったんだ」
「座間くんの役に立てて嬉しい。それじゃあ、教えていくね」と天川はどさどさとプリントを僕の机の上に広げ始めた。
僕は始業まで天川さんの講義を受けた。彼女の教え方は的確かつ簡潔なものだった。一教科の要点はたいていルーズリーフ二枚ほどで収まった。あとは覚えるだけ。天川さんは覚え方も伝授してくれる。短く切って何回も復習するといいんだよ。ほおん、やってみようかな。うん、座間くんなら簡単に覚えられるよ。そうだといいけど、と僕はうなずく。ホームルームまでの時間はそうやって過ぎていった。そういうものだ。
電話越しに僕の担任と名乗っていたタネべは、倉本の言う通りたしかにさわやかな風貌をした男だった。朝のホームルーム後に彼はトイレに向かう僕の背中を叩いて、よく来たねと声を張り上げた。僕は曖昧に頷くだけだった。無理するなよとその男は言って、僕から離れて行った。僕はそのはきはきした背中を眺めてから便器に小便をかけに行った。透明な尿だ。いたって健康的で体が無理しているサインも出ていない尿だった。
授業は何事もなく過ぎて行った。教師たちは僕のことを気にすることもなくテスト範囲を確認していった。授業の合間には倉本がにやにやとやってきた。僕をだしにして、天川さんと話すためだった。我々は他愛のない話をして過ごしていった。倉本が話題にしたのはネットで拾ってきたようなオカルトネタだった。名づけて集団ドッペルゲンガーの怪というやつで、一つの街がまるごとドッペルゲンガーに成り代わってしまったという噂だった。
「知らないうちに他人が別の誰かになってるって怖くね?」
「どうかな、そもそもなんで成り代わったって気がつけるんだよ」
「あ、そうだよね。なんで分かるんだろ。同じ容姿だったら気がつけないもんね」と天川さんは首をかしげる。
「いいとこに気がつきましたね!」と倉本は天川さんに近づいた。分かりやすいやつだ。
「気がついたのは俺だ」
「うるせえ、座間。天川さん、いいですか? どうやらその街の住民のみんながドッペルゲンガーに出会ったといろんな人に話してたらしいんですよ。それを街の外の人たちは覚えていたわけで。けどある日、その街の人たちはドッペルゲンガーの話を一切しなくなったんです。その上、ドッペルゲンガーなんて見てないって否定しだしてる。これってつまり……って感じ」
「へえ」と天川さんは曖昧にうなずいた。
「たけどただの噂だろ。それも十九世紀くらいに流行るようなやつ」
「お前も分かってねえな。俺が話すってことはもう噂じゃない。ネット上に証拠が上がってるのさ」
「なんだよ、その自信」と僕はにやついている倉本を眺めた。
「今は各種SNSがわんさかあるだろ。それで自分の分身を見たって騒いでたやつらがけっこう居たわけだ。たいていはかまってちゃんで片付けられるわけなんだが、ある記者が気になったのか、クソ暇だったのか知らねえけど、そういう呟きをしてるやつの一人に取材を申し込んだんだよ。そいつはスペインのどっかの片田舎にいるやつだったんだが、取材したときにはそいつの住む村中でなんかでっかい問題になってる感じだったんだ。それこそエクソシストでも呼ぼうかってくらい。その様子をまとめてその記者はいったん帰ったわけ。いろんな人にインタビューとかしてな。しっかり音声も残してたんだよ。んで、また行ったらな、全員ドッペルゲンガーなんて知らない、話した覚えもないってはっきり言ってくるわけ。記者もおかしいって思って録音したやつをインタビューした相手に聞かせたりするわけなんだが、まったく覚えがないって言い張るわけなんだ。その一部始終が、ほら、このサイトにのってるのさ」と倉本はスマートフォンの画面を見せ付けてきた。垢抜けたサイトデザインだった。
「けっこう金かかってるな。お前、何でこんなサイト見つけてんの? オカルト好きだったっけ」
「いやな、俺のばあちゃんちの近くでも今はやってるんだよ、ドッペルゲンガー。マジど田舎なんだけどいいとこさ。ばあちゃんはまだ見てないってさ」
「へえ、それで調べたらいろいろ出てきたってわけか」
「そういうこと」と倉本はうなずいた。それから予鈴がなった。倉本は名残惜しそうに廊下側の最前列の席へと帰っていく。
「変な話だったね」と天川さんは小声で言った。
「ああ、まあ、噂だからね」
「ハルマゲドンが近づいてるのかも」と天川さんは言う。
「は?」と僕は思わず天川さんの顔を見る。頬杖をついて、ぼんやりと黒板のほうを見ていた。冗談を言っているわけでもなさそうだった。僕は返事に窮していると教師がやってきた。授業が始まる。僕はノートを開く。見知らぬ学級委員。ドッペルゲンガー。ハルマゲドン。刺激的な学校生活だ。
そんな午前の間、僕のもう片方の隣の席は空席だった。倉本によるとそこには転校生の駒場今日子という生徒が座っているはずだった。
僕がその駒場さんに出会ったのは、昼休みの食堂でのことだ。カウンター席でそばを啜っていたら隣に髪をショートカットにした女子生徒が座ってきた。
「座間くんだよね」と彼女はそばを啜っていた僕の顔を覗き込んだ。
「そうだけど、どちらさま?」
「あたしは駒場今日子。こっちには五月に転校してきたんだ。どうして転校してきたのかはまだヒミツ」
「なるほど。僕は座間チヒロ。今はそばを食べてる」
「ほおう。あたしはからあげだ」
駒場さんはからあげ定食の前で手を合わせた。それから僕に頓着することもなくからあげを美味しそうに食べ始める。実に幸せそうな食べっぷりだった。どことなく立川ミミの食べ方に似ている気もした。食事することが奇跡的なことだと思っているような、そんな人間の食べ方だ。
「なに? そばのびるよ。人の食事ばっかり見てないでちゃんと食べないと」とからあげを堪能した駒場さんはみそ汁を啜ってから言うのである。
「だね」と僕は答えて、のびかけたそばをふたたび食べ始めた。
食事を終えると駒場さんはほうじ茶をちびりちびりと飲みながら、僕のことを眺めていた。僕もそんな駒場さんを眺めていた。僕の方からは特に話すこともない。駒場さんがなんとなく口を開く。
「ねえ、よく食べる子好き?」
「どうだろ。好きな方かな」
「じゃあ、あたしのこと好きだね」と駒場さんは笑った。
「かもね」と僕は曖昧に頷くだけである。
「あたし、けっこう食べるんだよね。大食いって程じゃないと思うけど。お肉とかいっぱい食べちゃう。この前も一人でステーキ屋行っちゃったし。あそこおいしかったから今度教えてあげる」
「一人で」
「まあね、彼氏とかいないし。友だちもあんまりいないからね」
「意外だね。クラスの人気者だと思ってた。かわいいし明るいし」
「実は近頃学校に行けてないんだ。少しドタバタしててね」と駒場さんはじっと僕を見つめてくる。
「僕も、最近まわりがドタバタしてたよ。よくわからん男どもにボコされたし」
「知ってる。最近は年上の女の子と同棲してるのも知ってるよ」
さすがにこの言葉を聞いて僕は押し黙った。駒場さんの表情は全く動いておらず、ただただ僕の手の震えやその他もろもろの身体的異変をとっくりと観察しているだけであった。
「そう怯えないでよ」と駒場さんはにっこりと笑った。
「キミは、その、シムってのを知ってるのか?」
「どうだろう。知っててもおかしくないよね。あたしって一応ナゾの転校生ってわけだし」
「ナゾの……」
「ま、明日になったら迎えに行くかもしれない。だから今日はこうして顔を見せに来たの」
「どういうこと?」
「今日は大変だよ。座間くん。人生で一番大変な日になるよ。忠告しておくね」と駒場さんは僕の瞳の奥を穿り出すがごとき視線を向けてから、立ち上がり、トレーを持って去って行った。残された僕は麦茶を飲もうとしてから、コップが空になっていることに気が付いた。なんてこった。麦茶はいつだって飲みたいときには空になっている。
この時間は誰もが僕に忠告をしたがっていたようだ。食後のトイレに行こうと思い、男子トイレのドアを開けたら僕は見知らぬ書斎にいた。あと少しで膀胱から尿が漏れるところだった。それくらいの衝撃があった。
坊主頭の男が机に向かって、書類を書いていた。丸メガネをしていて和服を着ていた。大正時代の書生みたいな男だった。その男は顔を上げて股間を押える僕を見た。
「ようこそ、座間チヒロくん」
「ここはトイレ?」と僕は尋ねた。
「いや、私の仕事部屋だよ。失礼、自己紹介がまだだったね。私は宮野宗司という。『真理のともし火』という名前の宗教団体の長をやっている。名ばかりだがね。我々の女神さまは事務と政治に弱いから私がそこを補っているわけだ。座間くん、君は我々を知っているか?」
「知らない。どうでもいいが僕はトイレに行きたかったんだ。何でよくわからない宗教家の部屋に連れ込まれてるんだ? アンタのシムって奴か?」
「私も不思議でならないよ。報告だと君はシムを無効化すると聞いていたのでね。私のシムも通じることもなく、君はトイレに向かうものだと思っていた。だがそうじゃない。君は私の部屋に来た。実に考察に値する事象だ」
「この部屋に入ってからアンタの言ってることが一切わからないんだ。日本語らしき言葉をしゃべってるってのは分かるけど」と僕は内股気味になりながら言った。
「自分に危害を与えるシムだけを無効化するのかな。それとも、もっと別の論理が働いてるのか。座間くん、君は夢を見るかい?」
「何が言いたい」
「夢と現実、その差は何だと思う?」
「知らない。そんなことを考えるくらいなら、πは無理数であることの証明を考えていた方がマシだ。そうすれば少なくとも僕は一つの知につながることができる。この世にある無数の共有された知の一つだ。アンタには分からないだろうけど」
「個人か、集団か。君の視点は非常にいい。夢など本来ならば現実に圧倒されるべきものだ。誰かの願望が現実を変えることなどできるはずがない。もしそれができるのならば、個人の夢の中だけだ。都合のいい、完結した夢の中だけのお話だ。そうだろう、座間くん?」
「だから、なにが言いたいんだ? 僕はもうトイレに行きたい。ここでぶちまけてやってもいい」
「それは困るな」と丸メガネの男は笑った。
「なら、出て行かせろ」
「実のところ君はいつでも出て行ける。後ろのドアからね」
「ああ?」と僕は振り返った。たしかにドアがあった。木製の重たそうなドアであった。僕はためらうことなく背を向けて、ドアのノブに手をかけた。もう膀胱が破裂しそうだったのだ。
「ともし火はいつでも君のまえにある。困ったら我々のところに来なさい」
僕はその言葉に応えることもなくドアを開け、その先にある暗闇の中へと足を踏み入れた。消毒液とわずかなアンモニアの臭いが鼻を打った。僕は男子トイレにいた。そこで便器に向かって放尿し、手を洗い、ハンカチで拭き、ボロいドアを押して廊下に出た。そうやって昼休みは過ぎて行った。
午後の授業にも駒場さんは顔を出していなかった。天川さんはときおり僕の横顔を盗み見してくる。僕はノートをとる気も失せてぼんやりと黒板を眺めていた。分かっている。物事は確実に動き始めているのだ。
その動きを始めに知らせてくれたのは、倉本だった。
「おいおいおい! ヤバいって渋谷で爆弾テロだって。なんか無人の車が爆発したってよ」と倉本はスマートフォン片手に僕の席にやってきた。帰りのホームルーム前の話だ。倉本の言うニュースは既にほかの生徒たちのなかでも話題になっていた。天川さんは不安そうな顔で言った。
「物騒ね」
「な! 怖すぎでしょ」と倉本は天川さんに近づきながら言う。
「誰がやったんだ?」
「知らねえ。とりあえずスクランブル交差点でワゴン車が爆発したらしい」
「それはヤバい」
「怪我した人が少ないといいけど」と天川さんは言う。
「平日の昼間だし人は少なかったんじゃないかなあ」と倉本は言った。
ワゴン車が爆発した。それがニュースになる。普通のことだし、なんらおかしなことはない。この事件にはシムは関係していない。僕はそう思っていた。だけどそうじゃなかった。物事はそうやって過ぎていく。
放課後、僕は校門前でハルさんに電話した。ハルさんはすでに学校の近くにいるようだった。
「チーちゃん、ちょっと面倒なことが起き始めてるぜ」とハルさんは電話越しに言ってきた。
「ハルさん、運転中なら電話しちゃだめだよ」
「ちゃんと止まってるさ。いまカーナビでテレビ見てたんだけど、知ってるか? 渋谷でワゴン車が爆発した」
「知ってるよ。それがどうしたんだ?」
「どうもこうもアレはシムの仕業っぽいんだ。いや爆弾自体はシムじゃないんだが、それを仕掛けた奴がシムなのかもしれないって話」
「なんかややこしいな。というか、シムはみんなを守るために戦ってんじゃないの? ミミはそう言ってたけど。なんで人間を爆破しちゃうのさ」
「チーちゃん、この前にあんたが誰に襲われたのか忘れたのか? 基本的にシムなんて力の持ったサルに変わりないんだ。シムを使って欲望のままに人を殺す奴だっているさ」
「まどろっこしいな。だからどうしたんだ。シムを使わずに人を殺しに来たってところがやばいってことなのか?」
「うん、そういうことだよ、チーちゃん。そういうことを堂々とやる奴は限られてるし、それを見逃されてる奴はもっと限られてんだ。とりあえずそっちに向かう。待ってろよ」
「ああ、待ってる」と僕は電話を切った。
電話が切れたと思えば、すぐに鳴る。誰もが僕に何かを言いたがっていた。そういうときもある。人出の多い校門から少し離れながら、僕は再び携帯を耳に当てた。
「もしもし?」
「あ、チヒロ。お母さんだけど、今日は学校行ったの?」
「うん、行ったよ。まだちゃんと席はあったよ」
「そうなの? さっきアナタの友だちがプリントを届けに来たのよ。学校にたまってたやつらしいんだけど」と母は怪訝そうに言った。「本当に今日は学校に行ったのね?」
「行ったよ。そいつ、まだいるの? というかなんて名前?」
「名前は、吉田くんっていうらしいけど。今はリビングでお茶飲んでるわ。あ、」と母の声が途絶えた。それから別の息遣いが聞こえた。男の息遣いだった。
「こんちわ、座間チヒロくん。ボクは『人形遣い』って呼ばれてる人間だ。よろしく」とその男は言った。
「母さんに何をした?」
「少し眠ってもらっただけ。今からのゲームに必要な存在だからね」
「おい、ゲームとかいいから母さんを起こせ。それから消えろ。お前と話す気はないんだ」
「座間チヒロ、アンタ分かってないな。こっちはもういつでもこのおばさんを殺せる。黙ってボクの話を聞いた方がいい」
僕は押し黙る。
「さて、ちょっとしたゲームをしたい。そのゲームに君がボクに勝ったら、ボクは何もせずにここから去ろうと思う。アンタ、渋谷で爆発があったって知ってる?」
「知ってる」
「それ、ボクがやった。あれ、まだ続きがあるんだ。もう一つ爆弾置いてきた。けっこう人の多い所にさ。それ時限爆弾だけど、今からそうだね、ちょうど一時間後かな。それくらいに爆発するんだ。で、ボクはアンタとゲームをしたいんだよ。アンタってけっこう頭がいいんだろ。それに二人のシムに挑むほどの度胸もあるらしいじゃないか。アンタとやって楽しめそうなゲームを考えたんだ。二十の質問ってゲームは知ってる?」
「知ってる」
「なら簡単だ。アンタは質問する。そのためには代償を払わなくちゃいけない。ここに丁度いいおばさんがいる。このおばさんの体を二十等分して、それを代償にしようじゃないか。どうだろうか?」
僕は答えず、人形遣いは話を続ける。
「もしかしてアンタは何も賭けずに何かを得ようなんて甘っちょろいこと考えてたんじゃないかな。アンタが逡巡するのはかまわないけど、アンタが質問しない限りあと一時間後には多くの人間が爆発に巻き込まれるんだってことを覚えておいた方がいい。で、アンタはこのゲームに乗るのか?」。
「お前はクズだ」と僕ははっきり言った。
「それはどうも。どうするんだい? ゲームを続けるか? それともここで止めてすぐに家に帰ってきてバラバラになったママと仲良く暮らすのか? そのためには何百人もの命の犠牲を払う必要があるが」
「答えを言うのは質問に入るのか?」
「入るけど、最初の一度だけは許してあげよう。勘でもなんでもいいから言って。そこからゲームを始めようじゃないか」と男は笑った。
「東京駅の八重洲口前だ」と僕は言った。「ちがうか?」
今度は電話の向こうにいる男が押し黙った。僕は顔を上げて、隣にいるハルさんにうなずいた。ハルさんはほっとしたような顔で車に戻って行った。僕もその後をついていく。
「……よくわかったね」と男は絞り出すように言った。
「別にお前だけが特別じゃない。もうクソみたいな暗号が意味をなさなくなってることぐらい分かっておけ、クズが。いいか、今すぐそこから消えろ。それ以上、母さんに何かしてみろ。お前が生まれたことを呪うほどの苦痛を味わせてやる」と僕はハルさんの車の助手席に乗り込みながら言った。
「アンタは仲間に恵まれてるようだな。まあ、いいさ。ゲームは始まったばっかりだ。一発であてたサービスで少し教えておくよ。渋谷の爆弾が実数なら、東京のは虚数だ。だからこそ、アンタらにバレてしまったんだろうけどね。アンタがこっちに向かうのはいいけど、それじゃあ助かる命も少ないだろうな。もう少し楽しみたかったけど。時間はまだある。じゃあね」と男は言って電話を切った。僕は自分の携帯を床に叩きつけそうになったが、ハルさんの視線のおかげで留まることができた。
「どうする? いまチヒロの家には協会員が向かってるけど」とハルさんは聞いてきた。
「東京駅に行こう。たぶん、シムで爆破させる気だ。僕なら消せるかもしれない」
「やっぱりそうか。少女Aが見つかったって言うんだもんな」とハルさんは呟くように言って、シートベルトをしてアクセルを踏んだ。
「少女A?」
「ん? ああ、アイツのお気に入りの人形さ。人形になる前はかなり有名なアイドルだったらしいけど。あいつの能力は現実にいる人間を殺してかどうかして人形にするんだ。そしてその人形は基本的に人間と差がない。見分けがつかねえ。それだから利用の仕方も多いし、やっかいな能力なんだ」
「そんなシムもあるのか」
「ああ、クソみたいなシムだ。あのとき殺すべきだったんだ」とハルさんは眉間にしわを寄せる。
「けど、爆弾の場所が良くわかったね」
「渋谷で爆発が起きてからすぐに調査に入ってたんだ。アイツは一回で満足したりしない。昔からな。アイツがよく使う『人形』は協会のデータベースに入ってる。それらのどれかが別の場所で何かやってないかって警戒してたわけだ。それで運よく見つかった」
「運が良くてよかった。母さんの方は任せてもいいよね」
「大丈夫。協会の上の方の奴らが行ってるよ。もう到着してる。ミミがそう言ってた」
「ならいいんだ。それならいいんだ。大丈夫、うん、まったくもって問題ない」
「なあ、チヒロ、すまないんだけど東京駅までのナビ入れてくれない?」
「ナビなしだと事故るからね」と僕は笑った。
それから一時停車中にナビを東京駅に合わせた。学校から四十分程度だった。アイツが約束を守る人間ならば爆発までは十分な時間がある。もし約束を律儀に守るような人間だったら腹立たしいし、そうじゃなくても腹が立つ。ああいうタイプの人間は何をしても腹が立つものなのだ。
東京駅には何とか着いた。クラクションは三回以上聴いた。青い顔をしたハルさんは車を降車スペースに止めた。
「降りてもいいかな」と僕は聞いた。爆破時刻まであと十分を切るかどうかの時間だった。
「いいと思う。ひかれるなよ」
「ああ、ちょっと探してくる」と言って僕は外に出た。
八重洲口はいたって平常通りで、爆発も何もまだ起こっていないようだった。スマートフォンを眺めながら早足でスーツケースを引き摺る旅行者や、腕まくりしたワイシャツを着てときおりハンカチで汗をぬぐっているサラリーマンや、バスの運行を日本語のような英語でアナウンスしている半袖の係員やらがいつも通りの日々を演じている。
ぶらぶらと探しているとよく目立つ少女を見つけた。その少女はバス乗り場の近くに立っていた。傍らにはスーツケースが二つあった。そのどちらも爆薬かもしれない。構わない。進まなければ始まらないのだ。
ということで僕はその少女の前に立った。うつむいていた彼女は顔を上げて僕を見た。なんら普通の人間と変わりない瞳だった。いや普通の人間よりも澄んだ瞳だった。その眼球はしだいに潤み、大きな水滴をこぼした。僕はおもわず後ろに下がった。少女は泣きながら声を絞り出した。
「助けてください。救世主様、私たちを解放してください」
「え?」
「どうかアイツから」と少女は僕に縋るようにして手を伸ばしてきた。その右手が僕の右手に触れたとき、少女は消えた。風に吹かれたろうそくの火のように消えていった。僕の周りに残されたのは二つのスーツケースだけだった。そのスーツケースもどこからともなく現れた男たちにすばやく回収された。
僕はハルさんの車に戻った。
「終わったよ」と僕は言った。
「終わったって、まさか消せたのか?」とハルさんは僕を見た。
「ああ、消えた。どうやらシム関連のモノは消せるらしい」
「そいつはヤバいな」とハルさんは唸った。
「そうなのかな。まあ、爆発しなくてよかったよ」
「ああ、じゃあ、チーちゃんちに行くか。チーちゃんの実家の方」
「うん、行こう」と僕は言ってナビに実家の住所を入れようとした。その時に電話が鳴った。僕の携帯だった。家からの着信だった。すべては無事に終わったのだ。そう信じていた。僕は通話を開始した。もしもし?
「アンタはやはりボクの天敵だな」とイヤらしい声が僕の耳に届いた。
「お前、どうしてまだそこにいる」と僕は訊いていた。僕の手は震えていた。
「確実にアンタのようなやつを消すにはどうすればいいと思う?」と人形遣いはクスクスと笑う。
「なにを言っている」
「正解は親をシムで消す。ママはもう逝ったよ。パパはどうだろうなあ。見に行くといいよ、じゃあね」
「おい!」と僕は叫んでいた。電話は既に切れていた。耳鳴りがした。
僕は頭を抱えた。訳が分からなかったのだ。むしろどんな人間がこの状況を冷静に把握できるのだろうか。僕には分からない。
ハルさんの声が僕を現実に戻した。
「おい、なにがあったんだよ」
「向こうに、人形遣いがいたんだ」と僕は言った。それからナビに父さんの事務所の住所を入れた。案内を開始する。
「ハルさん、ココに行こう。父さんが心配なんだ」
「え、ああ、分かったよ。急いだ方がいいな」とハルさんは眉間にしわを寄せて、アクセルを踏んだ。
「いいんだ。安全に行こう。僕らが死んだら元もこうもない」
「ああ」とハルさんは唸りながら、ハンドルを回す。僕は目を瞑った。
いつしかハルさんと行った父さんの事務所に向かった。雑居ビルはちゃんとあった。爆破なんてされていない。二階の窓にはしっかり事務所の名前も貼ってあった。だが、座間の文字がない。高橋法律事務所とのみ書いてある。僕の知らない間に仲たがいして、父さんは別の事務所に移ったのかもしれない。そうでないことは分かっている。それでも僕はその希望に縋り付いた。
雑居ビルの二階に上がって、事務所のドアを開けた。鐘がなる。仕切りの奥の方からメガネをかけた中年男性が出てきた。高橋さんだった。元ラガーマンで耳が少し潰れている。幼いころによく遊んでもらっていた記憶もある。あの日だって会話をしている。だが、高橋さんにはそんな記憶も無いようだった。
「誰かな。きみ、その制服、高校生だよね、なんのようかな?」と高橋さんは不思議そうに僕を見ていた。
「父さんは、どこですか?」と僕は聞いていた。もはや何も考えていなかった。
「は? 君のお父さんかい? ええっと行方不明なのかな? ウチはそういう調査はやってないけど」と高橋さんは強張った声で言った。
「僕の父は座間、座間ヒロシです。あなたと高校と大学が一緒で、同じラグビー部で仲良くやってたはずです。それで二人の事務所を持つのが夢だったはずなんです。どうして今は一緒に居ないんですか?」
「何を言ってるんだ? たしかに私はラグビーをやっていたが。ザマヒロシという名前の人間は知らない。君は何を話している?」と高橋さんは言った。その言葉を聞いた僕は事務所のドアを蹴破るようにして出て行った。もはや何も考えていなかった。
正直のところ、この後のことはよく覚えていない。僕はハルさんの車に戻って、それでそのまま祖父の家に帰ったようだ。実家の方には行かなかった。たぶん行かなくともどうなっていたのか分かっていたのだ。いいや、むしろ行かないことによってある種の余地を残したかったのかもしれない。幸せでいたかったら無知であるほうがいい。そういうものなのだ。
僕は家に帰った。祖父の家だ。ハルさんは近くの駐車場に車を停めに行った。だから僕は一人で家に入った。それは覚えている。そこで僕は居間のソファに誰かが座っているのを見た。疲れているときはいつだってそうだ。誰も彼も僕の許可なく家に上がり込んで、かってにソファでくつろいでいる。
その男は居間に入ってくる僕をじっと見つめていた。
「どうだね、両親を消された気持ちは?」とその男は言った。
「なんでアンタがこの家にいるんだ?」と僕はタネべと名乗っていた男に訊いていた。
「どうしてだろうか。私は自問する。答えは明白だ。君を誘いに来た。明日迎えをよこす。人形遣いを殺したいだろう?」とタネベは僕を見つめたまま言った。
「お前らの手は借りない。この手だけでやる」
「あいつは巨大だ。あいつの後ろにいる組織もまた巨大なのだ。『協会』、『レーテ』、『ともし火の教団』。この三つが今のシムを取りまとめている。我々はそのどれにも属さない。目的はただひとつ、人形遣いの抹殺だ。君も気に入るはずだ」
僕は無言のままタネベを眺めていた。
「君はもう一つ考えておくべきだ。両親がシムで消されたということの意味を」
「何が言いたい」
「君の存在は薄れてきている。最終的にはシム以外の人間は君に気がつかなくなるだろう。通常ならば君の両親が消された時点で、君も消えてしまうはずだった。そういう実験もすでに行われていた。だから彼らも君の両親をシムで殺せば君も消せると考えていたはずだ。だが、君の能力はシムによる因果関係をある程度捻じ曲げるようだ。彼らの推測どおり『エクストラを統べるもの』なのかもしれない。私は推測する、だが答えは出ない」
「エクストラを統べる? 彼らっていうのは誰だ?」
「君は質問する。そして誰も答えない」
「ああ?」
「あの女が帰ってくる。最後に一つ教えておこう。君は彼女たちに監視されていた」
「どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。君は自問する。そして答えはもう君の中に出ている」
タネベはそう言って立ち上がり腕時計を見た。それから消えた。僕の前からどこかへと去っていった。別にかまわない。誰がそこにいようが、どうやって消えようが、どうでもいいことなのだ。
時間は過ぎていった。外からは夕立の音がしている。帰ってきたハルさんは黙ったままリビングの椅子に座っていた。僕はソファの端で窓の向こうに広がる雨景色を眺めていた。雨が強く降っている。
「帰ってきたら男がいたよ。タネベってやつ。僕の担任」と僕は口を開いていた。
「……、どういうことだ?」とハルさんは言った。
「どういうことなんだろう。そいつは僕がハルさんとミミに監視されてたって言うんだ。ほんと、どういうことなんだろう」
ハルさんは椅子を蹴っ飛ばして立ち上がった。
「あたしたちはチヒロを監視なんてしてない」
「そうかな。だって、僕はシムを消せる人間だよ。その上なんかエクストラだって僕を助けたりしてる。そういうのって君たちにとって一番怖い存在じゃないの?」
「そんなわけないだろ。あたしはチヒロを怖がったりしない」
「そうか。ハルさんはそうかもしれない」
「……、ミミは違うって言うのか?」
「いいや、別にそんなこと言ってない。ミミはいい子だ。けど、いまここにない。僕が消えなかったからずいぶんと驚いてるんだろう」
「その男になんて言われたんだ?」とハルさんは僕の前に立っていった。僕はハルさんを見上げた。
「別に。両親がこの世界から消えたならお前も消えるはずだって。考えてみたらそうだよね。原因が消えちゃうんだから。でも僕は消えてない。もしかしたら母さんがまだ無事なのかもしれない。案外人形遣いとかいうやつと二人で仲良くしてるのかもね。けど、それならどうしてミミはここにいないんだろう」
「ミミはいま人形遣いを追ってる」
「そうなの。まあ、どうでもいいことだ。どうせ捕まえる気もないんだし。君たちはぐるだったんだろ。そうじゃなかったらあんなに早く爆弾の場所を見つけられるはずない」
「そんなわけないだろ」とハルさんは静かに言った。
「どうかな」と僕は笑っていた。
「なあ、チヒロ、あんたは疲れてるんだよ。休んだほうがいい」
「君が出て行ったら休めるよ。両親を殺したやつの共犯者とは一緒に居たくない」
ハルさんは黙った。僕はうつむいたまま窓を打つ雨の音に意識を預けていた。
「出て行ってくれないか」と僕はもう一度言っていた。
ハルさんは何も言わなかった。ただ僕の胸倉をつかんで、自分のほうに引き寄せただけだった。僕はハルさんに支えられたまま立っていた。
「殺せばいい」と僕はハルさんを見ずに言っていた。ハルさんは空いている手で僕の頬をはたいた。殺す気にしてはやさしい殴り方だった。僕はハルさんを睨んだ。ハルさんも僕を睨んでいた。その瞳は水の中に浮かんでいる。僕は目をそらそうとした。だけどハルさんはそうさせなかった。両手で僕の頬を挟んだ。たぶん僕は面白い顔になっていたはずだ。ハルさんは笑わなかった。ただ、その唇を僕の乾いたそれに合わせてきただけだった。
数秒間、我々は互いの呼気を奪い合っていた。
何も感じなかった。何も。
唇を引きはがしたハルさんは僕をソファに投げ飛ばして、リビングから出て行った。僕はソファに座り込み、玄関から迷い込んできた雨の匂いを肺につめていた。
それから、電話が鳴った。雨は止んでいて外はもう暗かった。僕は立ち上がって電話を取っていた。母からの電話だと思っていた。
「もしもし」
聞こえたのは少女の息遣いだった。
「……、ごめんなさい」
そうして電話は切れた。僕はソファに戻って横になった。目を瞑って、誰も居ない世界を望んだ。