彼らはなぜ踊るのか。むしろ踊るしかないのか?
それは天野ハルコの生涯(ダイジェスト版)を聞いた数日後のことだ。
そのころには僕も多少は運動できるようになっていた。だからかハルさんは別の用事を済ますと言ってその日は昼から家を出ていた。そんな折にいつものごとく立川ミミが昼を食べにきた。僕しか居ないことに気がついたとき青のオーバーホールを着たミミは口をへの字にした。
「じゃあ来た意味ないじゃないですか」
「ミミの分の昼もあるよ。食べていきなよ」
「……、お昼だけですよ」
「夕飯はとんかつ屋に行こうぜ。ハルさん帰ってくるの明日の朝になるんだって。すげー遠いとこに行くんだって。ミミは夜まで暇だろ。ご飯食べるのもう一人じゃ寂しいよ」
「気持ち悪いこといわないでください」と言ってミミは靴脱いで赤いリュックを揺らしながら家の中へと入っていった。慣れたものである。
我々はハルさんが用意してくれていたトマトとツナの冷製パスタを食べた。非常に美味しいトマトソースで爽やかな気分になるものだった。我々は満足して食事を終えた。
ごちそうさまでした、と言ってミミは台所に自分の皿を持っていく。それから水に濡らしたスポンジに洗剤をつけて泡立たせた。無言で僕を見る。
「洗ってくれるの?」
「座間さんは食器を拭いて下さい」
「らじゃ」
そうして我々は食後の片づけをした。すべてを終えたとき我々はテーブルで向かい合って麦茶を飲んでいた。
「座間さんはべんきょーしなくていいんですか?」
「しないといけないね。けどあの格ゲーでミミに勝つことのほうが有意義に思えてるよ」
「無理ですよ。座間さんには無理です。……、ハル姉さんに聞いたんですけど座間さん数学ちょー得意なんですか?」
「ちょー得意ってほどじゃないけど。なに、わからないところでもあるの?」
「いえ、そうでもないんですが」
「聞けるときに聞いたほうがいいよ。因数分解でも、三角形の合同証明でもなんでも来なさい」
「そういうんのじゃないんですが」と言いながらミミは自分のリュックをあさってノートやプリントやらを出した。その用意の良さに若干面食らいながらも僕はプリントに書かれている問題を見た。あるルールに従って二点が立方体の辺の上を動いている。その二点の関係を用いながら面積やらなにやらを解かせたいようだ。気軽に出来るやつではない。明らかにどこかの高校入試の問題だった。
「ええっと、ミミさんは高校受験するのね」
「……、ダメですか?」
「いやいいことだとおもうよ。あんなんと戦ってばっかりだとしんどいだろ」
「べつにふつーです。ただ高校くらいは出たほうがいいかと」
「まあいい青春は味わえると思うよ」
「最近学校に行ってない人が青春を語るんですか?」
「……、さあて解くか。こんなのつまりは連立方程式に過ぎないんだよ。どんなに面倒なルールに従っていようがね。そして立方体だから相似と比がとても役に立つ。一つずつ分解していこう。困難は分解せよ。これが数学の鉄則その一だ」
「その鉄則何個あるんですか?」
「たぶん百個くらい」
「……、あてにならなそうですね」
「いいから解くぞ、エンピツを持ってノートに書いていくんだ。とりあえず書いて実験する。これも数学の鉄則の一つだ」
僕はそう言って立川ミミの横に座った。ミミはため息をついてから問題を解き始め、どこでどうやってつまずいたのかを教えてくれた。僕は質問を繰り返してミミの知識があやふやなところをはっきりさせてから基本事項を教え込む。そして解答の着眼点を切り替える、あるいは固定する。そんなふうにしていくとミミは熱心にエンピツを走らせていく。数十分後にはプリント一枚の問題がきれいに解かれていた。
「やるじゃないか。答えを見ていたにせよ、自分でこうやって納得して解けたことは十分な進歩と言える」
「……、次の問題もいいですか?」と言ってミミはリュックからクリアファイルを出してくる。そのなかにはなかなかの数のプリントが挟み込まれているようだ。熱心な生徒である。変なスィッチが入っていた僕は笑顔で答えていた。
「どんどんやろう。鉄は熱いうちに打て。これも数学の鉄則だ」
それから我々はひたすらに高校入試の数学問題を解き、そして解説していた。それは夕飯時まで続いた。お腹を鳴らした僕にミミは反応して勉強をやめたのであった。僕はまだいけると言ったのだが、ミミはいえ十分ですと言ってプリントとノートをリュックに仕舞っていった。
「じゃあさ、とんかつ食べに行こうよ」
「おごりますよ。教えてもらったし」とミミは機嫌良さそうに言った。
「いいよ。僕のほうが年上だろ。こういうときは奢られてくれよ」
「変なプライドですね」
「そのプライドで生きてきたようなもんだ」
「どうでもいいです。おごってくれるなら別段。ただあたしが出せば協会の経費として落とせたんですけどね」
「……ミミさんはとても社会人らしいこといいますね」
「厳しくハル姉さんに指導を受けましたから」とミミは自慢するように言った。なるほど、と僕はうなずいた。
我々は戸締りをして夏の夕暮れの中へと歩き出した。影は我々の後ろに長く伸びていた。その道すがら僕は口笛を吹いていた。祖父さんから教わった口笛だ。ミミは変な顔をして僕を見た。それでも何も言わなかった。気分の悪くなるような曲ではないのだ。
商店街に入って数軒したところにそのとんかつ屋はある。店先の看板には黒カツと筆で書いたような文字が躍っている。鹿児島県産の黒豚がこの店の自慢なのだ。僕はがらがらと木の引き戸を開けた。店内は家族連れや老夫婦やらでがやがやと賑わっている。我々は隅のほうの二人用の席に通された。ミミにメニューを渡しながら僕は言った。
「さ、好きなの選んでくれ。なんでもいいよ」
「全部1000円以上するんですが大丈夫ですか? いやですよ、あとからないとか言われるの」
「大丈夫大丈夫。財布には一万円入ってるから」
「そうですか。じゃあ特選黒豚ロースカツ定食で」
「お目が高いな。僕もそれにしよ」
僕は手を上げて、おばちゃんに頼んだ。おばちゃんはニコニコと我々の注文を受けてくれた。もしかしたら僕のことを覚えていたのかもしれない。ミミは蒸しタオルで手を拭きながら店内を見回した。
「けっこう人いますね」
「まあね。ここら辺じゃ有名だから」
「よく来てたんですか?」
「ああ、むかし祖父ちゃんとね」
「ふうん。平日の夜でも賑わうってことはおいしいんですかね」
「ウマイよ。単純に」
「どうですかね。チヒロさんの舌はまだ信用してませんから」
「おいおいチョコミント好きのことを言ってんじゃないよな」
「べつにハミガキ粉食べるのが好きなのを揶揄してるわけじゃないですよ」
「だからあれはハミガキ粉とは似て非なるものだから。ミミにも今度ちゃんとしたやつ食べさせてあげる」
「別にいいです。歯を磨くの忘れそうになりそうなので」とミミはいたずらっぽく笑った。
「思うんだがミントとハミガキ粉を一緒くたにするのは訓練が足りてないからなんだ。専門店に行こう。学校の近くに妙なおっさんがやってるアイス店があるんだよ」
「だからいいですって」
いや絶対に行こう、だからチューブに収まってそうな味はいいんですって、ちょっとだけだからさ、というか訓練が必要な食べ物は食べ物じゃないですよ、とかなんとか言い合ってるうちにおばちゃんが我々の定食を運んできた。山盛りに近いキャベツの千切りとそれに負けないくらいにデカいロースカツが一つの大皿にのっている。おしんこはにんじんときゅうり、それからカブ。みそ汁は油揚げとたまねぎ。ごはんは茶碗にこんもり。タレの入った瓶の手前には箸がトンと並べられている。僕はそれを取った。それから我々はいたただきますと言って、ハルさんの言いつけどおりにキャベツから食べ始め、黙々と箸を進めていくのだった。
衣に噛みついたあと口の中でとろける脂身に驚き、二口噛めば肉汁が広がっていく。豚肉の旨みをまともに受けながら、白米が盛られている茶碗を手に取り、箸で一口食べていく。最高の組み合わせだった。ちらりと正面にいるミミを見た。案の定幸せそうにカツとごはんをもぐもぐ食べていた。まだ五分ほどしか経っていないのにもう半分は食べている。そしてそのことに気がついていなさそうだった。僕はその様子に満足してまたロースカツの世界へと没頭した。
食事を終えたとき、我々はとても満足していた。ごちそうさまでした、と呟くように言って箸をおく。すこし温くなった煎茶を口に含みながらしばらく余韻に浸っていた。
「おいしかった」とミミは素直に言った。
「うん。おいしかった」
「ちょっとチヒロさんの舌を信用してもいい気がしました」
「じゃあデザートにチョコミント食べに行こうぜ」
「それはまたの機会で」とミミは笑った。
ミミのそういう笑い方が僕はやはり大好きだった。
我々は会計をしっかり済ませて店を出た。日はすでに落ちていて、代わりに月が昇っている。我々はぶらぶらと家路を歩いていた。共に夜空を見上げながら、ときおり月をかすめていく雲に目を奪われながら。件の公園へと差し掛かったとき、ミミが唐突に足を止めた。僕は振り向いてミミを見た。険しい表情だった。
「どうしたん?」
「つけられてます。中に入りましょう。ここじゃ戦えない」
ミミはそう言って公園内へと進んでいった。僕も早歩きになりながら後ろを付いていく。振り返ってみるに誰もいない。尾行しているのが誰にせよ、僕のかなうような相手ではないことは確かだ。
前にミミが倒れていた芝生広場にやってきた。ミミはそこで立ち止まって背負っていたリュックを僕に渡した。
「あたしが死にそうになったらそれをもって逃げてください」
「いやハルさんを呼ぶよ」
「じゃあ逃げてから呼んでください。相手によってはチヒロさんの命に関わりますので」
「シムだったらその能力は効かないよ」
「相手が銃火器をもっていたらどうするんですか」と言ってミミは僕からすばやく離れていった。片手を天へと向ける。電光が夜空を走った。目も眩むような光線がミミの正面にあった木に直撃した。轟音が後からやってくる。雷を喰らった木は割れて、燃え始めた。その焔から影が一つ出てくる。体から放電しているミミは一瞬でその影との差を縮めた。その影に向かって拳を振りぬく。影は器用に身体をねじらせ、その拳をよける。そして片手に持っていたナイフをミミの首筋へと振りぬいた。ミミは最小限の動きでそれを回避し、少し距離をとってから天に手を向けた。その動きを察知した影は木々の中へとまぎれた。つぎの瞬間、雷光が空気を引き裂いた。直撃した木々は燃え始める。ぬっと影はそのなかから出てきてミミの身体を切り刻もうとする。ミミは半身でその凶刃をさばきながら、片手に紫電を集めている。あれで突き抜くつもりだろう。食後の運動としてはなかなかハードな戦いだった。
僕はミミのリュックを抱きしめてこっそりとその場から去った。二十メートルくらい離れた場所にあるベンチに座って、ときおり轟音が響く戦場を眺める。ミミが何と戦っているかは不明だ。だが前のように今日はハズレの日ではないらしい。電気を操れる能力はさすがに強い部類だろう。それで苦戦するならハルさんだって苦戦するはずだ。なので僕が助けにいっても意味はないし、むしろ邪魔になる。ピカピカ光る広場を見ながらそんなふうに思っていた。
すると、カラカラカラカラと何かを引きずる音が地面から伝わってきた。僕は思わず振り向いた。三人のバットを持った少年たちがこちらのほうへ並んで歩いてくる。僕のベンチの横を通り過ぎていった。僕のことなど見ることもなく、野球帽を深くかぶる彼らは戦場へと向かっていった。彼らがそこにたどりついたとき閃光はさらに激しくなった。僕はさすがに立ち上がって、ミミの様子を見に行こうとした。それからそよ風を感じた。しかしそう感じたのは僕だけだったようだ。座っていたベンチは後ろのほうへ大きく吹き飛ばされた。しっかりと固定されていたベンチが、だ。
目の前に影が揺らめいている。闇の中で一瞬刃がきらめいた。僕は思わず屈んだ。それから横へと転がった。そうしなければナイフが僕の頚動脈を切断していたことだろう。
起き上がると僕の前には三人の会社帰りのような中年サラリーマンたちが立っていた。僕を殺そうとしたやつはそのサラリーマンの一人に腕を握られていた。そして引きちぎられた。おもちゃみたいにその腕は取れて、噴水みたいに血がふきだした。片腕を失ったそいつは身体をよろめかせながらも撤退を選択したようだ。後方へと飛び去っていく。二人のくたびれた背広を着込んだ男たちが合成皮の革靴をしならせてその影を追った。そして僕は終始口をあけたままだった。
残っていた一人のサラリーマンが僕を見つめていた。その表情はどことなく仕事の事情で徹夜したときの父に似ていた。疲労と高揚が綯い交ぜになったようなそんな顔だ。僕はなんとなく頭を下げた。仕事を頑張っていそうな人には頭を下げずにいられまい。それに満足したのか男は去っていった。しばらくして状況を思い出した僕は急いで立ち上がり、ミミの元へと向かった。
広場に着いたときにまず見えたのはミミが自分と変わらない背丈の少年の心臓を貫いているところだった。紫電をまとった貫き手を引き抜き、少年を思いっきり蹴っ飛ばす。少年はごろんと地面に倒れこむ。こうして芝生に転がる死体が三つに増えた。
ミミは肩で息をしながら膝に手を置いた。それからふらりと倒れこみそうになった。僕は慌てて駆け寄って、ミミを受け止める。その青白い顔と頬についた鮮血に度肝を抜かれながらも声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
「すこし、横になりたい、です」とミミは僕にその全体重を預けてきた。
「え、ああ。じゃあこのまま横にするから」
ミミは応えることなく目をつむり、僕は仕方なくミミを地面にそっと横たわらせた。いちおうその小さな頭は僕の膝の上に置いた。そしてミミの手を握ってなんとなくがんばれがんばれと言っていると、ミミがうるさいとか細く言った。僕は黙って周囲の状況を確認した。
それはもうひどい有様だった。木々は燃え上がり、黒煙をもくもくと夜空に流している。芝生は大きく禿げ上がって、ところどころ穴も空いていた。爆撃を受けた戦場と言われても納得したことだろう。野次馬たちがやってこないのが不思議なほどだった。
と思っているとどこからか野次馬たちがやってきた。しかもぞろぞろとやってきた。よく見るとその巨大な集団は無感動な表情をした老若男女たちだった。そこで感覚的に理解した。彼らはエクストラだ。
僕と僕の膝の上に頭を乗せて眠っているミミのことなどお構いなく、彼らは戦闘によってできた傷跡、すなわちえぐれた芝生、燃え盛る木々、ひっくりかえったベンチなどの周りに集まっていた。それから奇妙な行動をとった。
お互いの手をつなぎ始め、一つの輪を作る。そして両腕を何かのリズムに合わせて上下させ、同時に足でステップを踏み、その輪を縮めたり広げたりし始めたのだ。その収縮を繰り返すほどに光の粉が彼らから舞う。細雪のようなそれは傷跡に舞い降り、そして溶けていった。すべてのエクストラがいなくなったころ傷跡は無くなっていた。そこでの戦闘などまるでなかったように。
それからしばらく経ってもミミが容易に目を覚まさなかったので、僕は背負って祖父さんの家まで連れて帰った。ミミを和室のベッドに寝かし、冷房を快眠モードにしてからリビングに一人戻った。
その夜はソファに座ったままエクストラたちの踊りをずっと思い返していた。
彼らはなぜ踊るのか。むしろ踊るしかないのか?