第3話 人生の分岐点
隣に座った彼女はグラスを片手に乾杯を求めてきた。それに合わせて俺も中身が無くなりかけたグラスを持つ。
「乾杯〜いやぁ外寒いねぇ」
彼女はそう言いながらも寒さを感じさせない陽気さを俺に振る舞い、一口だけビールを口にした。
時間はだいぶ遅いが、この時間からビールを飲むのは特に不思議なことでもない。しかし、何か違和感を感じる。彼女も俺と同じく、1人飲みをした後スナック系の店を渡り歩いてここに辿り着いたのだろうかと、可愛い顔を覗きながら考えてしまった。
俺の視線に気がついた彼女は俺を見てニッコリと笑い、名前を聞いてきたので敢えてフルネームで答えると、手を叩きながら爆笑していた。
「いきなりフルネームなのウケるんだけど!あははっ」
俺の名前は『阿智村大和だ』自己紹介をしただけで、何一つ面白いことなど言ってはいないのに、ここまで笑わせてしまうとは思わなかった俺は、なんだか元気をもらえた。と言うより、幸せを感じてしまった。なんせ、ここまで笑っている女性を見たのが初めてだったからだ。
「聞いてもいいかな、さっきマスターから30歳くらいって言われたんだけど、姉さんは20代じゃないんですか?」
気がつけば勝手にそんな言葉が出ていた。レディに年齢を聞くのは失礼だと良く聞くものだが、むしろマスターの言葉から察する年齢よりも若く見積もって言っているのだから何一つ失礼に当たることはなかろうにと、世間的には失礼と分かっていながらも敢えて挑戦するスタイルを選んだ俺の頭の中にはごちゃごちゃとモラルの引き出しが暴れ始めていた。
「あたし、20代に見えるの?やだぁ嬉しい〜」
「いや、見えるから言ってるんですよ姉さん」
「てか、あたしの名前は越谷凪ね。姉さんじゃなくて、凪ちゃんでいいよ。こっちは大和ちゃんって呼ぶから」
酒も入ってるし、互いに下の名前で更にちゃん付けで呼ぶのも悪い気はしなかった。この時点で何もかもが初めての俺は気分最高。
生まれてこのかた、学生時代は名前の被りなどがあって下の名前で誰からも呼ばれた事がなく、就職先ですら勿論呼ばれる事も無かった。
だからこそ、女性に下の名前で呼ばれること自体がもはや極上であり、神である。と感じただけであり、そこまで女性に飢えるほどの末期ではない。寧ろ、これまでの人生でもう女など要らないと思っていた。1人しか彼女できたことがない人間が言うセリフではないのは自分でも分かっている所存であります。
「凪ちゃんはこの店にはよく来るんですか?」
言葉に甘えて下の名前にちゃん付けをして、更に質問をした。数回だけ他愛もない質問からやがてお互いを探るような話に変わり、最終的にはお互い昔からの知り合いかのような振る舞いで楽しい時間を過ごした。タメ口で肩を組みながら、歌を歌っては笑い、彼女の鼓動を感じられるくらいまで近かった。
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酒の入った体と熱った顔をカウンター側に掛けてある時計に向けてじっくりと目を細めて見ると、時間は12時をとっくに過ぎていた。俺と凪ちゃん以外の客は誰一人来ない。店的には辛いだろうが、はっきり言ってこのような雰囲気の方が好きだから好都合だった。
マスターはこちらに気を遣っているのか、明日の仕込みばかりして顔を出して来ない。先ほどまで一緒に飲んでいたが、1時間は2人きりだ。
そろそろ帰ろうかと考えていると、俺の右肩を2回優しく叩く手があった。右を見ると凪ちゃんが何やら言いたげな雰囲気を醸し出していたので、若干閉じ掛けてる彼女のめをじっと見つめた。
「ねぇ、後でさ…」
「何かな、凪ちゃん」
そろそろ帰ろうと彼女の方から言ってくるなら、それに合わせて帰ろうとずっと思っていた。いつもなら12時になる前にきっぱり終わらせて家に帰って気持ちよく寝ているのだが、今日だけは特別な何かをずっと感じていた。
「今日は今までで1番楽しかったんだけどさぁ」
「なんだよ凪ちゃん」
この居心地の良さ、気が合い過ぎて何もかも全てを投げ出してこの人と遠くに逃げてしまってもいいと考える程の安心感、そしてとにかく可愛い。色々なことをこの人として行きたいとも一瞬で感じてしまった。この人と結婚して、子供も産まれたら楽しいだろうなと。
「あたしさ…」
しかし、俺は群れることは無く、全体主義を嫌い、個を大事にしなければ何も見出せないということを常に感じ、日頃から何が正しくて何が間違っているかを全ての物事にぶつけるのが当たり前。つまり捻くれているのだろう。こんな俺を凪ちゃんは好きになってくれるだろうか。
「実は41歳なんだよねぇ。シングルマザーでもあるんだけど、娘1人いるんだけど、こんなんでも若く見られて可愛いって思うの?」
テンションの変わらない口調で放たれたその言葉を聞いてすぐに酔いが覚めてしまった。この時の言葉の意味をもっと深く考えるべきだったのだろうが、俺は言葉に潜む暗い感情を理解する間もなかった。そして、何と言葉を返せばいいのか、正解を探す暇もなかった。
「別にいいじゃねぇか、1人で子供育ててすげぇし、見た目は超若いし、可愛いし、とにかく楽しいんだから」
「はははっ、そっか」
彼女はまた笑った。そして、俺の左肩に手を回して右手でグラスを持ち上げてビールを飲んだ。
孤独という強さを大事にしていた俺の心は既に恋に落ちていた。一目惚れと言うものかは定かではないが、恐らくそうなのかもしれない。なんせ、初めてのことなのだから。
「大和ちゃん、後で、チューしよっか」
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つづく