「好きな人ができた」と婚約破棄してきたのはあなたの方でしょう?
「レベッカ。済まないが、君との婚約を破棄したいんだ」
「はぁ??」
婚約者が発した思いも寄らない言葉に、私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「リーン……冗談よね?」
「いいや、本気だ」
目の前にいる男性はリーンハルト・ハインツェル伯爵令息。私の婚約者だ。いつもなら優しい瞳を向けてくれるのに、今日は私の目を見ようともしない。
「どういうことか、説明してくれる?」
「他に、好きな女性ができたんだ」
*******
我がアーレント子爵家は、薬剤の研究開発と販売を生業としている。数代前の当主が才能ある研究者で、画期的な薬を開発して財を成したらしい。おかげで子爵家とはいえ、かなり裕福だ。
現当主である父も高名な研究者である。私も学業の傍らで、薬学の勉強を続けてきた。将来の夢は、難病の治療薬を開発すること。いずれは父の研究所に勤めて、名のある研究者になるつもり!
ある時、父が部下を連れてきた。それがハインツェル伯爵家の次男、リーンハルトだった。研究所の職員で、入ったばかりの若手だが優秀で仕事熱心、かなりの有望株だという。
つまりは婿候補である。
我が家には男子がいない。私が婿を取るしかないということは理解していた。
父は「後は若い者同士で」と、私とリーンを置いて部屋を出て行った。今思えば、会ったばかりの殿方と二人きりにされたところで話が進むとは思えない。研究者としては優秀だが、そういう方面にはとんと疎い父なのだった。
だけど予想に反して、リーンと私は初対面から話が合った。私は薬学以外のことにはあまり興味がない。それは彼も同じだったらしく、新薬や手に入れた海外の研究書の話で盛り上がった。
若い男女が二人きりだというのに、色気のない話である。そんな状況ではあったけれど、嬉しそうに研究について語る彼に私は好感を持った。
「あの……レベッカ様。婚約のこと、遠慮なく断って下さい。俺に気を遣わなくても結構ですから」
二度目に会ったリーンは、唐突に私へそう言った。
「えっと。つまり、リーンハルト様は私との婚約がご不満なのでしょうか」
「いいえ、そんなことは!アーレント子爵に認めて頂けたことは光栄ですし、レベッカ様になんの不満もありません。だけど俺はこの通り仕事以外取り得がないし、気の利かない人間です。貴方のように美しい方ならば俺なんかより、いくらでも良い男性がいるのではと」
顔を赤らめながらそう言う彼に、胸がきゅんと鳴る。
男性に対してこんな感情を持ったことはない。これが恋……なのかな?
「私、友人から薬学バカって言われてるのよ」
「薬学バカ?」
「それくらい、他のことに興味がないということです。だけどリーンハルト様と話しているのはとっても楽しいわ。それに私たち、共通の目標があるでしょう?」
「いずれは難病に効く新薬を開発したい、というアレですね」
「そうよ。私たち、とっても相性がいいと思うの!」
それからほどなく、私たちは婚約した。それが三年前のこと。
優秀だという父の言に嘘はなく、彼は研究者として順調に成果を出していた。仕事に忙しい最中でも時間を作って私へ会いにきてくれる。
誕生日の贈り物だって、一度も忘れたことはない。
彼が最年少で研究主任となった時は、私はもちろん両親も大喜びで祝いのパーティを開いたっけ。「君に相応しい男になろうと思ったんだ」と言ってくれた彼に、胸きゅんどころか心臓の病気を疑うくらい動悸がしてしまったわ。
それなのに……。
「ふざけないでよね!!」
昼休みのカフェテリアでそう叫びながらドンと机を叩いた私を、何だなんだと周囲の学生達が見た。
「ちょっと、静かにしてちょうだい」
「ごめん」
「ま、気持ちは分かるけど」
私を宥めたのは向かいに座る二人。同い年で幼なじみのディアナ・ベルネット伯爵令嬢とマルティン・レトガー伯爵令息だ。
「レベッカの婚約者って確か、ハインツェルの次男坊だろ?レベッカと同じで薬学にしか興味がない唐変木っていう噂の。浮気なんて、見かけに寄らないな」
婚約破棄の話を聞いた両親は、もちろん憤慨した。お父様なんか「うちの娘を傷物にしやがって!」と殴りこみそうな勢いで、お母様と一緒に必死で止めたわ。あと傷物という言い方は、あらぬ誤解を生みそうなのでやめて欲しい。
ハインツェル家へ怒鳴り込んだ父は、渋い顔をして戻ってきた。どうなったの?と聞いても「彼のことは忘れなさい」と答えるだけだった。
「ひどい話ですわねえ。相手はどこのメス猫ですの?」
「名前は聞かなかったわ。何でも、美人で優しくて思いやりがあって、将来の目標を見据えたしっかりした女性ですって!そんな良い人がいたら、私が結婚したいくらいだわ」
「女同士で結婚はできないだろ」
「言葉の綾よ。無粋なツッコミはしないで」
「『優しくて思いやりがあって、将来の目標を見据えたしっかりした女性』ねえ……。何だか心当たりがあるような、ないような」
「まあでも、それでレベッカがフリーになったんだから結果オーライなんじゃない?レベッカを狙っていた男は、学園にもたくさんいたんだしさ」
「えっ、そうなの?」
初耳である。殿方から誘われたことなんて、生まれてこのかた一度もないんですけど。
「だってさ、アーレント子爵と言えば他国にもその名を知られる高名な研究者で、裕福だろ。レベッカはその一人娘で、成績優秀で行儀作法が申し分なくて、美人なのに浮いた噂一つ無いんだから。ハインツェルとの婚約が発表されたときは、みんな悔しがってたぜ」
「あら、ずいぶんレベッカを褒めそやすのね。貴方もその狙っている殿方の一人なのかしら?」
「そ、そんなことないよ!俺にはディアナがいるもの」
ぷいと横を向いたディアナの頬を、マルティンがつんつんと突っついた。二人は婚約しているのだ。
親同士が親しかったために定められた婚約だったが、当人たちも幼い頃から想い合っていたのを知っている。ずっと横で見ていた私は少しだけ寂しい思いをしたものだ。だけど二人は婚約が決まった後も、変わらずに接してくれる。大事な友人だ。
「いいなあ、仲が良くて……」
私だって、リーンとはそれなりに上手くやってきたつもりだったのに。
何が悪かったんだろう。
彼も本当は私みたいな薬学バカじゃなくて、普通の女の子が良かったのかな……。
「あの、レベッカ嬢」
「はい?何でしょう、アウレール様」
学園の廊下で私を呼び止めたのは、同級生のアウレール・カロッサ伯爵令息だった。話したことはほとんど無い。あまり目立つ方ではないため、かろうじて名前を覚えていた。つまりはその程度の関係性である。
「不躾なことを聞くようだが……。婚約者と別れたというのは本当かい?」
「ええ、まあ」
ちょっとムッとしながらも曖昧に答えた。
本当に不躾だ。親しくもない同級生の醜聞がそんなに気になるのだろうか。
「実は、前々から君のことを素敵だと思っていたんだ」
いきなりそう言われて戸惑う。
普通の女性なら、喜ぶところなのだろうか。
いやいや、ほとんど話したことのない男性にいきなり告白されて、喜ぶ方がおかしくない?
「突然言われましても。貴方のこと、よく存じてませんし」
「そ、そうだよな。済まない。突然過ぎた。こういうことに慣れてなくて……。その、よければ今度の休日、君の家に伺っても良いだろうか。まずはお互いをよく知った上で、今後のことを考えて欲しいんだ」
「はあ」
互いに、というところが少しひっかかる。別に彼のことを知りたいとは全然思っていない。
でも、好意を寄せてくれるのはありがたい事なのかも。このままノー婚約ノー結婚で突き進んでしまったら……ヘイ、行き遅れ令嬢一丁上がり!である。
私にはアーレント家の後継ぎとして次世代の子を産む役目がある。そのために種馬……じゃなくて、結婚相手は必要だ。
「レベッカ。カロッサ伯爵令息と婚約するんだって?」
「リーン、いえ、リーンハルト様。まだ婚約したわけではありません。それが何か?」
週に一度開かれる研究発表会を聴講させてもらうべくお父様の研究所を訪れた私は、一番会いたくない人に鉢合わせした。
あの後、アウレール様は本当にお父様へ釣書を送ってきた。まだ婚約するかどうかは決めていないが、何度か会って親交を深めているところだ。
私を呼び止めたリーンは、ひどく不機嫌そうだった。私といるときはいつも微笑んでいたから、こんな表情を見たのは初めてかもしれない。
なんだか胸がもやもやする。
「彼は止めておいた方がいい。カロッサ家は借金を抱えているらしいんだ。裕福なアーレント家の金が目当てだろう」
一方的にそう喋ったリーンは、ポカンとする私を置いて去って行った。
「何なのよ……」
借金の話も気になるけど、それをわざわざ言ってくる彼の意図が分からない。
嫌がらせ?
一方的に婚約破棄しといて、嫌がらせを上乗せしてくる。
私、そんなに恨まれるようなことしたっけ?全く覚えがないんですけど。
「本当に、何なのよ!!」
「レベッカ。ちょっと落ち着いて」
学園のカフェテリアで、私はまたディアナとマルティン相手に叫びながら机を叩いた。
お父様に調べて貰ったところ、カロッサ家の借金の話は本当だった。数年前に発生した大雨で領地に被害が出て、かなりの損害を出したらしい。
天災なのだからカロッサ伯爵家が悪いわけではない。貴族なのだから、金銭的な理由で相手を選ぶのもありだろう。
だけど、彼は私に好意があると嘘をついた。そう思ってしまったら何だかもう、駄目だった。アウレール様には当たり障りのない文言でお断りの手紙を出しておいた。
殿方は彼一人ではないわ。
次行きましょ、次。
私の所へは、同じように何人かの令息から婚約の話が持ち上がっていたのだ。
人生初のモテ期到来。
私は手当たり次第に彼らとお見合いをした。半ばやけになっていたのかもしれない。
だけど、そのたびにリーンが横槍を入れてきたのだ。
「キースリングの令息は、外面はいいが家族や親しいものに暴力を振るう癖があるらしい。それで以前、婚約を破棄された。やめておけ」
ある時はわざわざ我が家の前で私を待ち伏せして、こう言った。
「バーナード・マグヴェイン、君は他にも付き合っている女性がいるだろう?」
ある時はバーナードと二人で出掛けた先に現れた。バーナードが怒り出して、せっかくのデートが散々な結果に終わったのだ。
「あれじゃん?レベッカが他の男のモノになると聞いて急に惜しくなったんじゃない?」
「何それ。自分から婚約解消を言い出しておいて、虫が良過ぎるじゃない!!」
「俺に怒らないでよ」
「でも、結局リーンハルト様の言うとおりだったのでしょう?」
「それは、まあ……」
お会いした令息たちはみな、リーンの言うとおり問題を抱えていた。彼に助けられたのは事実なのである。
「男運悪すぎだろ」
「同感ですけれど、それはおいといて。一度、リーンハルト様と話をしてみたら?」
私は学園の帰りに父の研究所へと向かった。ディアナの言うとおり、リーンに礼くらいは言うべきなのかもしれない。それに、彼の真意を問いたださないと気が済まない。
もしマルティンの言うとおり、他の男に取られるのが惜しくなって~なんて答えだったら、横っ面をひっぱたいてやる。
そうすれば、このもやもやがすっきりするかも!
研究所の前庭は人でごった返していた。ここは医療所も併設されているため患者が訪れるのだ。
「ここのところ、風邪が流行っているものね……。裏から回ろうかな」
ぽてぽてと裏庭を歩いていた私は、見覚えのある背中を見つけた。
リーンが……女性と一緒にいる。
しかも二人は身体を密着させていた。女性はリーンの背中へ手を回して彼へ寄り添っている。
そこまで触れあうからには、よほど親しい仲に違いない。
私はくるりと回れ右をして、その場から走り去った。
そりゃもう全速力で走った。
道行く人々が物珍しそうに私を見る。
全速力で道を走る令嬢は、なかなかレア、というか普通はいない。いずれはターボ令嬢として怪奇伝説になるかもしれない。
走りながら、私は頭の中でリーンを罵倒していた。かろうじて口には出さない理性は残っていたらしい。
何よ!
私の婚約をことごとく邪魔しておいて、自分は新しい女とよろしくやってるんじゃない!
しかもあんな人前でイチャイチャするなんて。
最っ低!!
胸がちくちくする。
違うわ、これは全力で走ったから動悸がしているだけ。
苦しくなんかない。絶対に認めない。
だいたい、恋なんて医学的に言えばただの発情。そうよ。私はちょっとリーンに発情していただけよ!
青い春という名の発情期が終われば、きっとこんな感情は消え失せるわ。
「そこ、段差があるよ。気をつけて」
「ありがとう、オスヴァルト様」
本日のデートのお相手はグラスナー伯爵の次男、オスヴァルト様だ。
事前にお父様に調べて貰ったところでは、グラスナー伯爵家にこれといった問題は見あたらなかった。オスヴァルト様に女関係の問題も無し。
それに、話し上手でこうやって気遣いもできる。
うん、言うこと無しなんじゃない?
今度こそ、上手くいくわ。リーンのことなんてもう気にしてない。気にしてないんだから!
「ねえ、このあと時間ある?連れて行きたいところがあるんだ」と言われ、断る理由もないので頷いて彼の後をついて歩く。
あれ……?
なんか、人気がなくなってきたような。この向こうって確か……?
あそこだよ、と言われて連れてこられた建物は……連れ込み宿だった。
「あの、オスヴァルト様?どうしてここに……。あっ、レストランと間違えたとか?オスヴァルト様、意外とそそっかしいんですね!」
「いや、ここで合ってるよ。どうせ結婚するんだ。少しくらい早くてもいいだろ?」
そう言いながら、彼は私の腰を抱き寄せる。
待って待って待って!
そりゃあ結婚したらそういうことをしなきゃならないのは理解してるけど、早すぎる。
そもそも、まだ婚約もしていない。
「い、嫌です!」と叫んだけれど、彼は私の手を引っ張って強引に連れて行こうとする。男性の力に敵うはずはなく、私の身体はずるずると宿に向かって近づいていく。
「何をしているんだ!」
もうだめだ、と思ったその時。
聞き覚えのある声がして、オスヴァルトが吹っ飛んだ。
「リーン……!?」
そこにいたのは息を切らして立っているリーンだった。走って来たのか、息が荒くて苦しそうだ。オスヴァルトを殴ったのであろう、赤くなった右手を握りしめている。
「な、何だお前っ」
「嫌がる女性を無理矢理連れ込もうとしていたら、止めるのは当然だろう」
リーンは私を庇うように前に立った。
「部外者が口を出すな……って、お前、ハインツェルじゃないか!レベッカの元婚約者の」
「それがどうした」
「お前ら、切れてなかったのか!婚約者に振られたって言うからほいほいついてくるかと思ったのに……。騙されたよ。このあばずれ女!」
「何ですってぇ!?そっちこそ、外面の良さに騙されたわよ。この助平野郎!!」
喧嘩腰になったオスヴァルトだったが、リーンが立ちはだかっているため諦めざるを得なかった。
ばーかばーかと叫びながら去っていくオスヴァルト。子供か。
後に残されたのは呆然と立っている私とリーン。
めっちゃくちゃ気まずい。
何でここにいるのか、とかあの恋人らしき女性はどうした、とか言いたいことは色々あるけれど。
助けてくれたっぽいし、一応お礼は言っておこう。
「あの、リーン、いえリーンハルト様。ありが……」
「君はバカなのか!?」
「はい??」
怒り顔の彼に怒鳴られて、私はポカンとしてしまう。
バカ?この人、今バカって言った?
「もう少し付き合う相手を選べ!事前の身辺調査は貴族の常識だろう。アーレント子爵もそうだが、君たち親子はちょっと迂闊過ぎる」
「な、何よ!!」
バカ呼ばわりされてカチンときた私は、思わず怒鳴り返した。
「リーンだって、人目もはばからず女とイチャイチャしていたじゃない!そんな人に迂闊とか、言われたくないわ!」
「えっ?何のこと」
「とにかく、もう私のことは放っといて!!」
「ちょ、待ってくれレベッカ!」
私は怒りに身を任せてその場から去ろうとした。
だけど、ドサッという音が聞こえて振り向く。
そこには……胸を押さえて崩れ落ちるリーンがいた。
「リーン!?どうしたの、リーン!!」
病室に入ると、彼は目を覚ましていた。こちらに向けた顔は何とも言えない表情をしている。
「父から聞いたわ。病気のこと」
「……そうか」
彼が医療所へ運び込まれたと聞いて駆けつけた父から、私はリーンの病気について教えられた。
ヴェオリア病。
それはいまだ原因が分からず、治療薬の無い難病。一度かかってしまうと逃れる術はない。徐々に身体が弱り、最後は寝たきりになって死に至るという。
父の研究所でもヴェオリア病の研究チームはあるが、今のところ成果は出ていない。
「お前に話そうと思ったんだが、リーンハルト君に止められたんだ。一方的に振られたということにしておけば、レベッカは自分を嫌いになるだろう。そうすれば心おきなく次の相手を探せるだろうから、と」
ちなみに医療所で抱き合っていた女性は、看護師さんだったらしい。診察に訪れたはいいが体調が悪くなったリーンを、介助してくれていたのだそうだ。
そういえば白い服を着ていたかも……。
頭に血が上っていて、服装まで見てなかった。
「他に好きな人ができたというのは嘘だったの?『美人で優しくて思いやりがあって目標を見据えたしっかりした理想的な女性』というのも?」
「……それ、君のことじゃないか。可愛くて優しくて……夢に向かって進んでいく女性。他にいないよ」
「そんな風に思ってくれていたんだ……照れる~。じゃなくて!どうして黙っていたのよ!」
「だって。そんなことを聞いたら、優しい君は俺を見捨てられないと思ったんだ。君には将来の目標があるだろう?僕の介護に縛られて、夢を諦めるようなことはさせたくない」
「じゃあ、他の人との縁談を悉く邪魔したのは?」
「相手がロクでもない奴ばかりだったからだ。君にはちゃんとした相手と、幸せになって欲しかった」
「何それ……」
むかむかむか。
腹の底から怒りが湧いてくる。
「勝手に決めないで。私の生き方は、私が決めるわ!」
そう叫んで、私は両手で彼の頬をむぎゅっと押さえた。
押し潰されて変顔になるリーン。
「れ、れびぇっか……」
「リーン。私の夢は何?」
「え?えーと、難病に効く新薬を開発すること」
「そう!」
彼から手を離した私は腰に手を当ててビシッと指を差し、宣言した。
「見てなさい!この私が、ヴェオリア病に効く薬を見つけてやるんだから!」
*******
「あーっ、寝坊した!遅刻しちゃう~」
バタバタと音を立てて妻が階段を降りてきた。侍女にボサボサの髪を直させながら、朝食のパンを頬張っている。
「夜更かしするからだよ」
「だって、講演の原稿を考えていたんだもの」
「今日も講演会なのか。レベッカは引っ張りだこだね」
あれからレベッカは宣言したとおりヴェオリア病の新薬開発に成功し、俺がその被験者第一号となった。
研究所の最年少記録を塗り替えて主任薬師となった彼女は、講演会だ特別講師だと多忙な毎日だ。
周囲は若き天才薬師とレベッカをもてはやすが、それは違う。彼女は、自分のすべてを治療薬の開発につぎ込んだのだ。
若い女性が当たり前のように享受できたであろう楽しみを捨て、それこそ寝る間も惜しんで研究を続けた。俺のために、と思うのは自惚れかもしれないが。
ともかくその努力は報われ、病から回復した俺はレベッカと結婚した。
「リーンも今日は研究所でしょ?終わったらそっちに行くわ」
「昼食は一緒に食べられるか?」
「うーん、ちょっと難しいかも」
「そっか。あまり無理するなよ。ちゃんと食事は摂って」
「分かってる。じゃあ、行ってくるわね!」
妻は俺の頬にキスをして、足早に出かけていった。
今のレベッカの目標は、自分の後に続く優秀な薬師を育てることだ。父親のアーレント子爵と共に、教育機関を立ち上げようとしている。
俺は仕事に復帰し、今はレベッカの助手を務めている。子爵領の統治についても、徐々に義父から教わっているところだ。
あのときの俺は、本当に愚かだった。病を抱えた自分に酔っていたのかもしれない。
そんな俺を、レベッカは力づくで明るい場所へ引き戻してくれた。
だから今度は俺が彼女を支える番だ。
彼女が、次の夢へ向かって走っていけるように。