デジタルガール・後
僕らは農園を後にし、そこから1時間かけて君の家へと向かっていた。
あの日以来、僕らが一緒に寝泊まりするのは君の家と決めている。というか、君が決めた。
ドアを開ける。
ロッジ風の作りの君の家は、昔のアニメ映画に出てきた絵描きの家と似ていた。小さな魔女と黒猫の話の、あの映画だ。
そして、君はやっぱり絵を描いている。
ドアを開けてすぐに、いつも鼻をつくような匂いがする。
油絵具の匂いだ。
何度か来るうちに少しは慣れてきたが、それでも、やはり刺激臭な事には変わりない。
「ねぇ。結婚したらアトリエを別の建物で作ろうよ。お金なら心配ないしさ」
僕はここに来る途中でよった農場主のうちから貰った野菜を抱えながら、君が手掛けている最中の大きなキャンバスの横を通り抜けた。
先に台所に入っていた君は、エプロンをつけながら首を突き出し
「いやよ〜」
と、やはり容赦なくきっぱりした答えを返す。
君が開けたのだろう、窓から入り込む夜風に、手元の紙袋がカサカサと音をたてた。とたんにホウレンソウの青臭い香りが昇って来て、油絵具のそれと混じり合い、何とも奇妙な臭いになる。
「だって、これじゃ、油絵具を食ってるか、君のおいしい料理を食ってるかわからなくなるじゃないか」
僕は非難の色と、ついでに今日こそ首を縦に振ってくれないかという願いも一緒に込めて、彼女の隣に紙袋を降ろした。
「そんな事ないわよ。絵はね、降りてくるの。ある時、突然」
君はそう言いながらオール電化のキッチンで湯を沸かし、貰ったホウレンソウを物色し始める。
「だから、生活のすぐ傍にキャンバスがいなきゃダメなのよ」
「それは、何時に降りてくるとか、どうやったら降りてくるとか、ルールや法則はないのか?」
僕は手伝う事はないか目で訊きながら、口では違う事を尋ねる。彼女も目でパスタの位置を示しながら
「ないわよ」
と答えた。
後ろの戸棚だ。古く、手彫りの彫刻が施されている。この間個展にいったあの彫刻家に買った後から彫ってもらったのだと聞いているが、僕はその彫刻家がやっぱり嫌いだった。
正直に認めると、僕より彼女と話が合い、僕より男前だったからだ。
何となく嫌な気分になり、パスタを入れた長ぼそい筒のようなものを取り出し、少々乱暴に彼女に突きつける。
彼女はホウレンソウを洗った手でそれを受け取りながら、僕の顔に苦笑した。
きっと、僕があの彫刻家に嫉妬しているのは知っている。でも、やっぱりその事には触れずに
「アナログなのよ。面倒臭いでしょ」
と答えた。
彫刻家をかばったように思えて、少しムカつく。冷静に考えればただの言いがかりなのだけれど、僕はその時、久々の太陽に頭をやられていたのかもしれない。
そして、言ってはいけない事を言ってしまったのだ。
「でもさ。なんだかんだ言ったって、芸術もデジタル化されるんじゃないか」
「え?」
振り返った君の気配は感じていた。でも、僕はその時とっくに台所を出て、居間の大半を占拠してしまっている君の書きかけのキャンバスに向かっていたから、君がどんな顔をしていたのか知らない。
僕はしてやったりの思いで、色が塗りたくられたそのキャンバスを、指の先でつついた。
「最近は、こうやって書かれた絵もデジタル化されてネットで売られている。個展を開いて人に足を運んでもらうより、ネットに乗せて世界に発信する方が多くの人の目にもとまりやすいからだ。そして、表現は受け手がいて初めて成り立つ。それに、少なくとも、君の絵にしたって、その彫刻にしたって、誰かが値段をつけるわけだろ?だったら、芸術的価値を数値化している……つまり、値段を付けた時点でデジタル化されてるっていう事になるんじゃないか?」
乱暴な論理だとは思ったけど、僕は君が大切にする彫刻家を一時でも貶められたらそれで気がすむと思った。
そんなくだらない、子供じみた自分の意地の悪さに、僕はまだ気がつかずにそのまま、顔を上げた。
台所の向こうで、君が青い顔をして立っていた。
唇を強く噛み、強烈な憎しみを持って僕を射抜かんばかりに睨みつけている。
その目には涙が溢れ、僕はその雫に気がついた時、初めて君を酷く傷つけたことに気がついた。
「出てって」
低い声は風が揺らすカーテンの音より小さかった。
でも、僕にはわかった。
僕は、僕は言ってはいけない事を言ってしまったのだという事を。
三日後、君から手紙が届いた。
まっ白い封筒に、真っ白い便せん。
名も知らぬ、真っ白い小さな花が同封されていて、清らかな香りがした。
そこには、黒いペンで君の涙の訳が綴られていた。
君は、デジタルに父親を殺されていたんだ。
君の父親は有名な彫刻家だった。
しかし、ネットで根も葉もないうわさが飛び交い、君の父親がつ作った彫刻が世界中で破壊される騒動にまで発展した。
評価はガタ落ち。それまで作品を評価していた人たちもこぞって君の父親をこき落とした。
そして、最後の作品があるオークションで、一円も値をつけなかった日……君の父親は自ら命を絶った。
だから、自分はデジタルは嫌いなのだと書いてあった。
手で触れて、肌で感じて、舌で味わい、目で見て、耳で聞き、そして心が震えるもの。
それだけを信じようと思ったと。
馬鹿な僕は、そこでようやくわかったんだ。
君が頑なに、僕に聞いてきた
「私、面倒でしょ」
の意味が。
アナログは面倒なんだ。
デジタルのように、かっこしとした基準がない。良いも悪いも、右も左も、暑いも寒いも、何もかもを自分で感じ決めないといけない。
それは不安定で、あやふやで、形のないものだ。
だから、面倒なんだ。
手間がかかり、時間を必要とし、なにより信じる力が大切になる。
「私、面倒でしょ」
確かに。君は数値化できない。
君の心も、君の想いも、君の存在自体。
でも、だから、僕は……。
僕は家を飛び出した。
彼女の手紙を握りしめて。
「私、面倒でしょ」
あぁ。面倒だ。
でも、でも……。
目を閉じた。
簡単に手に入る金。
合理的に目に見えるランキング評価。
年齢。生年月日。体のサイズ。
数字、数字、数字……。
でも、そんなものどれだけ寄せ集めても、君にはならないし、僕にもならない。
僕らは、僕らは……。
甘い香りが鼻先をくすぐった。
握りしめたせいで、手の中であの白い花が潰れたようだ。
彼女の下へと急ぐ。
アクセルを踏む。
ハンドルを切る。
クラクションを鳴らす。
そして、辿りついた彼女の家は……。
灰になっていた。
「私、アナログなのよ」
そういって、微笑む君が歪んだ。
髪の先から、0と1の数列に変化し、それがボロボロと剥げて行く。
警告音が耳元で鳴り、僕は神経端末を頭から外した。
ゆっくりと目を開ける。
手元の機械にはタイムオーバーと表示されていた。
どうやら、長い間使い過ぎていたらしい。
僕は溜息をつくと、ゆっくりと立ち上がり、台所にむかった。
後輩に指摘されてから、デジキャバに通うのが億劫になり、自宅に家庭用バーチャル体験機を購入したんだけれど、まだ出始めのせいか、値段の割に出来が悪かった。
蛇口をひねり、水を伏せていたグラスに注ぐ。
グラスを満たした冷たい水を、喉に流し込むと体が干からびていた事を、脳が思い出し、逆に急激な喉の渇きを感じた。
君を失ってから、もう五年。
僕はこんな事ばかり繰り返している。
君をデジタル化したなんて知ったら、君はきっと怒るだろうね。
でも、君が僕に教えてくれたように、僕らの心はデジタル化できないから、面倒なアナログだから……。いつか君は言ったよね。その通りだったよ。デジタルのように、アナログは簡単にデリート出来ない。
だから、まだ、君の存在が僕には必要なんだ。
後輩が言ったように、所詮デジタルは情報でしかない。
けど、この普遍的な数字が記録する記憶の情報を、たかが、と割り切れる自分はここにはいない。
あれからしばらくして、仕事を辞めた。株取引も止めた。
それでも数字から、デジタルから解放されない僕は、毎晩、君のデジタルと思い出の中を彷徨っている。
ふと、電気コンロに目が止まった。
君が死んだ原因は、自分の油絵に火をつけたからだと聞いている。
君は最期の時、何を思ったのだろう?
それだけは、どれだけ数字に聞いてみても、答えは返ってこない。
「僕もアナログだったよ」
僕はそう呟くと、もう一度冷たい水を喉に流し込んだ。
=完=




