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デジタルガール・前

「私、デジタルって嫌いなの」

 初めて会った日、僕が電機メーカーの社員だと名乗ると、君はこう言った。

 場所は、確か居酒屋だ。

 一次会を終え、二次会になだれ込んだのは男女二人ずつだった。僕と僕の後輩。君と君の友達だ。

 所謂コンパという奴だったけど、友人の紹介というよりは、出会いの少ない大人が無理やりに作ったお見合いパーティーと趣向が似たものだったように記憶する。

 僕がこの会に出席したのはほんの偶然だった。

 その日の昼間だ。この会の主催をしていた後輩が、男性側のキャンセルが出て焦っていた。

 僕より偏差値の高い大学出身でさらにはそれを自分のアイデンティティそのものだと言わんばかりの生意気なその後輩を、僕は普段から嫌ってはいたが、あまりの慌てぶりに同情し、声をかけたのだ。

 すると後輩は、僕を一瞥し鼻を鳴らすと「どうせ笠原さんはリアルには興味ないんじゃないですか」とあろう事か僕を拒絶した。

 それまで誰でもいいから、とうろたえていたくせに『誰でもいい』の中に僕は含まれていなかったのか。少々憤慨し、はなじろみ、そしてムキになって僕は、この会の参加費を奴のバンクにその場で振り込んでやったのだった。

 それが紆余曲折、というのなら、世の中はもっと複雑怪奇だと言えようが、でも、僕にとって君との出会いは運命としか、今でも思えない。そして、運命が単純なものとも思えないでいる。

「なに? そんなにトマトの苗が珍しい?」

 君がそれまで真剣に土と格闘していたその顔を不意に上げたものだから、僕は少し驚いて目を瞠った。

 すぐ傍に君の大きな瞳が、夏に向かう陽射しに煌めいていた。

 少し広めの額に厚い唇。そして何より魅力的で吸引力のあるその瞳。もともと白い肌は日光に弱いのか、もう赤く火照っていて少し痛そうでもある。

「いや。君と初めて出会った日の事を思い出していたんだ」

 ここは、都心から二時間車を走らせた場所にある、郊外のレンタル農園だ。昔は農業が盛んだった土地も、今は農家の高齢化や後継者不足から本格的な生産ができなくなり休耕田や荒れ地が増えて来ている。

 その中で、どうせこのまま土地を枯らせるなら、と趣味で園芸をやる人に坪単位で貸し出しをしている場所も出てきたのだ。

 僕らが今いるその場所は、まさにレンタル農園の第一分譲だった場所で、10坪もあるなかなか立派な畑だ。

 ここの主は週末だけしか来れない借主の代わりに、平日は農園の世話をしてくれている。その丁寧なケアのおかげか、僕らの畑の周辺もすべて趣味の園芸家に貸し出されていて、僕らが申し込んだ時は1・5倍だった競争率が、この間の第3分譲のときにはその倍以上だったと聞いた。

 僕は汗を拭いながら曲げっぱなしだった腰を伸ばし、もの好きもまだこのご時世にいるんだな、と彼女には到底訊かせられない感想を唸り声にして吐き出した。

「なに、それ。結婚前にマリッジブルーにでもなったとか言わないでよね」

「逆だよ」

 ブルーはブルーだけど。

 僕は自分の手に着いた土を払うと、立ち上がろうとする君に手を差し出しかけて一瞬躊躇した。

 君がそれに気がつき、首を傾げる。

「どうしたの? 本当に」

 半ば無理やり僕の手を取り立ちあがった君は、可愛らしいその唇を尖らせ、僕の顔を覗き込んだ。

 前髪が触れる。繋いだままの手が汗ばむのがじんわり感じられる。

 あぁ、よかった。君はやっぱりここにいるんだ。

 僕はホッとして、次に苦笑いした。

「君がいなくなったんじゃないかって、不安だったんだ」

「私がアナログだから?」

「そう、アナログだから」

 僕は彼女と幾度も交わし、そして今や合言葉のようになったその言葉をまた口にした。

 彼女は気を悪くした様子もなく、むしろ悪戯が成功した少年のような顔になり、僕の手を握ったまま視線を自分達の畑へと移した。

「夏が来るの、楽しみね」

「そうだね」

 夏が来る。そこに君がいる。その先の秋にも、冬にも、春にも……そしてまた廻って来る未来の夏にも、君に僕の傍にいて欲しいと願う。

 君は目を細め、来る度にその背を高くするトウモロコシの群れや、オクラの畑、なすの垣根、そして今植えたばかりのトマトの苗に蝶が止まるように一つ一つ視線をやった。

 誇らしげに命の鼓動を見つめるその横顔に、僕の鼓動も動き出す。

 君と出会ってから知った、草の匂いも、土の香りも、風の涼しさも、光の眩しさも、それらすべてが僕の細胞一つ一つに息づいている。

「めんどう?」

 君が僕の方を振り向き、少し今度は不安げに眉を寄せた。

 僕は首を横に振る。

「昔は、そう思ってたけれどね」

「私がアナログだから?」

「そう、君はアナログだ。デジタルじゃない。だから……」

 そうして僕の意識は再び目を覚ます。

 ゆっくり、ゆっくり、風に吹かれるように。

 天を仰いだ。

 梅雨入り前の青い空が宇宙まで突き抜けている。

 君の声がした。

 気がした。


 君と付き合うようになったきっかけを、思いだすと僕は今でも居心地の悪い思いがする。

 あの二次会の夜だ。

「え? 携帯持ってないの?」

「うん。持ってないと何かまずい?」

 君は挑戦的な口調でそう返すと、電話番号を交換しようとした二次会帰りの僕をその屈託のない瞳で見つめた。

「いや、そうじゃないけど。珍しいなと思って」

「だから、言ったじゃない。デジタルが嫌いだって」

 あぁ。それは聞いた。でも、その意味がよくわからず、聞き流したのも事実だ。と、言う事は、あの一言は結構彼女を説明するのに重要なキーワードだったっていうことか。

「それは、電気製品が苦手とかいう意味じゃなくて?」

「う〜ん。違う」

 君はきっぱり言い捨てると、終電の時間を気にしているのか、自分の腕に巻いた時計をチラリと見た。

 アナログ時計だ。

「固定電話くらいはあるわよ。あと、家の台所はオール電化だし」

「じゃ、どういう」

「ごめんね。本当に終電無くなっちゃう。うち、ここから一時間もかかるから。じゃ、今日は楽しかったです。おやすみなさい」

 君はそう、早口で言うと、まるで無料のチラシを手に取るようなぞんざいさで僕の手から名刺を引っこ抜き去って行ってしまった。

 僕は君のそんな後姿を、見えなくなるまで見送り、どうせなら駅まで送ればよかった、なんならタクシーを手配してもよかったのだという事に気がつき、肩を落とした。すぐにそういった機転がきけば、少なくとも彼女の固定電話の番号を手に入れられたかもしれない。

 やっぱり、こういった場所でうまくやるには、いつもパソコン画面とにらみ合ってるばかりの自分じゃ経験値が足りないのか。

 何台かのタクシーが隣を通り抜けて行く。

 楽しげな会話を交わす男女が何組もすれ違って行く。

 僕は取り残された気分になる。

 後ろでは、あのいけすかない後輩が二次会を一緒にしていたもう一人の女の子と、ピンク色のホテルが立ち並ぶ通りへと向かおうとしている所だった。

 僕はやるせなくなり、駅前のしょっぱい臭いのする立ち飲み屋へと吸い込まれていった。

 帰ったのは一時を少し回ったくらいだった。

 随分酔っぱらっていたと思う。

 玄関に崩れるように座り込み、身を投げ出す。

 後ろ手に両手をついて見上げた天井は、奇妙に歪んで見えた。

「どうせ笠原さんはリアルには興味ないでしょ」

 後輩の憎たらしい顔と声が一緒に蘇って来て、思わず手元にあった鞄を天井に投げつけた。

 鞄の口が開き、中身がこぼれ、僕の上にばらばらと降ってきた。

 財布に、ライターに煙草に書類。小さな痛みに次々と責められた僕は、何もかもが嫌になり、自分をせせら笑うと、項垂れた。

 今年でもう四十になる。

 独身だし、彼女もいない。最後に彼女と呼べる存在がいたのは3年も前になるし、あの時は相手は既婚者だった。別に結婚に興味があるわけじゃないし、子どもも嫌いだ。仕事が特別好きなわけでもないが、家庭や愛情といった曖昧模糊なものにすがる人生より、評価や業績といった目に見える、正確に言えば数字が表記してくれるものを信じる人生の方がよっぽど自分らしくまた現実的だと思っていた。

 何より……。

 僕は無意味に広い自宅の玄関を、アルコールに霞んだ目で見回した。

 僕には金がある。

 気まぐれで始めた株が性に合っていたらしい。普段は普通の会社員だが、一日に数時間。ちょうど今日、この飲み会にあてた時間を株に費やしただけで、ここ数年で万札で尻も拭けるくらいの金を手に入れることができた。

 いくらかを分散して銀行に預け、今やその月々の利子だけで本業の月給を軽く超える金額に達している。

 この事は、まだ会社には秘密だ。いずれ、辞めるかもしれないが、今の僕には辞める気はないし、理由もない。営業成績はいい方だし、社内評価も高い方らしい。

 僕。

 40歳。

 社内営業成績は万年二位。

 年収は株の儲けを入れると億単位。

 数字、数値化、計数化……。

 数字が僕の全てを肯定し、理解してくれているような気がしていた。


 暗闇が静寂に沈み込む。

 酒気を帯びた吐息が僕の足先に引っ掛かっていた何かを揺らした。

 僕はその細長い紙に覚えがなく、緩慢な動きで身を起してそれを手に取る。

 箸袋だった。

 あの二次会の居酒屋の箸袋だ。

 僕はそこに記された10桁の数字に首を傾げた。同時に、君の顔を思い浮かべたのも本当だ。

 大きな仕事を得意先に持ちかける時のような高揚感を感じた。

 もしかしたら……そんな期待が胸を突く。

 あの場所から1時間かかるという君の言葉を思い出し、慌てて玄関に置いてある時計を見上げた。

 デジタル時計だ。

 そして、僕はその10桁の番号を自分の携帯に弾かせていた。

 酔っていたのだろう。そんな時間に電話をかけるなんて。

 ましてや、固定電話なんて、君が独り暮らしだったから良かったものの、僕はあの時は知らなかったのに、そんなことも考えずに、その10桁を弾くのに夢中になっていた。

 数字が僕を評価する。

 僕はあの時、君に評価されたと思ったのかもしれない。


 君の職業は画家だと聞いていた。

 あの夜の電話を、君は快くとってくれ、僕らは休みだった翌日会う事になった。

「どこに行きましょう」

「うん。近くで知り合いの個展があるの。そこに行くつもり」

 君の断定口調に、僕は始め驚いた。

 普通なら、急なデートで行き先を相談する場合、女の子は「どうしましょう?」と波長を探るように合わせてくるか、「どちらでも」と丸投げするか、もしくは「前から行きたかった所があるんですけど、そこはどうですか?」なんてやんわりとした提案をするもんだと思っていたからだ。

「え? それって決定事項?」

「何か問題ある?」

「あ、いや……」

 君のそういった強引な所は始めからだったね。

 でも、僕は不思議と嫌いになれなかった。むしろ、心地よさすら感じていたのかもしれない。

 そういう調子で、行く場所も食事も、帰るタイミングも君が主導権を握るようなデートが毎週末続いた。

 そうして三か月たった。

 あれは、君の知り合いの陶芸家の個展を見た日だ。僕の方が初めて主導権を勝ち取った。

「今日は僕の家に泊りなよ」

 駅に向かおうとしていた君は、驚いた顔をして僕の顔をまじまじと見つめた。

 僕は自分で言っておいて、僕自身驚いていた。

 あの、金で、数字で作り上げた無意味な空間に、誰も、家族でさえ入れたことがなかったからだ。

 夕暮れだった。

 土曜日の駅の改札。

 忙しない流れの中、君はネジを巻き忘れた時計のように固まっていた。

「あの。ダメ……かな」

 僕の弱気が顔を出した。

 沈黙に耐えられなくなったとも言っていい。とにかく、始終君のペースでいた僕は、不快ではなかったけど焦ってはいたのだ。

 僕らの関係はなんなのだと。

 2回目のデートからは手を繋いだり、腕を組むようになっていた。

 僕の電話は必ず取ってくれたし、君からもよくかかって来ていた。

 メールは君がアドレスを持っていなかったからやり取りできなかったけど、会えばたくさんとりとめもなく話した。

 もちろん。それだけでも十分楽しかった。

 けど、その一歩先に、僕はもう進みたくなっていた。

 君は長い間水中に潜っていてようやく水面にその顔を出したとでも言うように、長いため息を吐きだすと、今度は空の色に染まっていくように耳まで顔を赤らめた。

 それまで饒舌で強気だった君が、今度は俯く番だった。

「私、アナログだから、面倒だよ」

「知ってる。でも、来てほしい」

「簡単にデリートできないんだよ。こう見えて、結構、やきもちだし、女々しいから」

「嬉しいよ」

 そうして、僕らは恋人になった。

 でも、本当の面倒はこの日から始まった。

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