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死刑3-07 生きて

 日が昇り、薄雲の向こうから朝が知らされました。

 |CHS《シャルル=アンリ・サンソン》からの告知を受けて、家の中で騒ぎが収まるのを待っていた人々が外へ出てきました。

 彼らは処刑の野次馬でしょうか、それとも君主の葬儀への参加者でしょうか。


 始めはとても騒がしく、サーシャさまに向かって罵倒を投げる叫びも聞こえていました。

 何かを切っ掛けに沈黙が広がり、粉雪とともに不気味なほどの沈黙がおとずれました。


 私たち毛皮で身分を隠したメイド軍団は人ごみの中に紛れながら、灰色の空を注視します。


「梨が上がった! 今だよ!」


 作戦決行。“レオニート”がひざまずくのを切っ掛けに、前方で様子を見ていた仲間が梨を高く投げ上げるのが合図です。


 私たちは人ごみを強引に押し退けて、大通りへと飛び出します。


「居た!」

 サーシャさま! 予定通り黒い執行のドレス姿です。真剣な顔をしてゆっくりと『ルカの語らい』を歩いています。


「ちょっ、ちょっと何をするの!?」

 慌てる王女陛下を無視してメイド軍団が彼女をかっさらいます。それだけではありません。同時多発的にあっちこっちで兵士さんやお城の人が騒ぎを起こしているはずです。


「王女が見えなくなったぞ!」

「何が起こったの!?」


 私たちが起こした混乱を切っ掛けに、誰も彼もが騒ぎ始めます。

 広場とは反対のほうで、ひとりのジュストコール姿の男性が群衆に囲まれるのが見えました。


「セルゲイ!」

「彼を信じなさい。とにかく王女陛下を連れだすのです!」

 私はいっしゅん足を止めそうになりましたが、新しいメイド長のエンマさんに叱られます。


「その声はグレーテ!? エンマ!? あなたたちいったい、何をしているの!?」

 ひっ捕まえられたサーシャさまが声をあげます。

「みんなでサーシャさまを助けに来ましたよう」

「助けって、むしろ台無しよ! 処刑を邪魔してしまったら、あなたたちまで殺されてしまうわ! わたくしがどんな思いでここへ……」

 私は彼女の口に布を押し込んで静かにしてもらいました。

「ヘヘヘ。台無しにしたり引っくり返したりするのは、私の得意技でしょう?」

 サーシャさまは、怒り顔でごもごと何か言ってますが、お説教は後ほどということで。


 何とか王女奪還をしたものの、ここから混乱の中をニーナのお店まで逃げ切るのは至難の業に思えます。

 でもまあ、私がメイドになれたくらいなので、これも上手く行くでしょう。


「やっぱり、運びながら着替えさせるのはちょっと無理があるわ」

 メイドのひとりが愚痴を漏らします。このタイミングで別人に変われば誰も見つけられないはずです。

「脱がせたドレスも何とか隠して持っていきなさいよ。あとで見つかったら厄介なんだから」

 通りを曲がるさいにソソン国民の大渋滞。そのチャンスを活用してアレクサンドラ王女はただのサーシャさまに変身です。


「王女が消えたぞ! 城の連中の仕業か!?」

 おおっと、バレてしまいました。これは見つかったらごめんなさいでは済まないでしょうねえ。


 通りを曲がり、人ごみもまばらになって移動が早くなりました。

 サーシャさまは毛皮姿になって地面に降ろされて私たちに押されていますが、相変わらず何か文句を言ってらっしゃるようです。


 ニーナのお店のある路まであと一歩というところ。

「おい、その小娘は誰だ? 王女と同じ髪色だな?」

 どうやら見つかってしまったようです。

「これが王女に見えるっての? プラチナの髪なんて珍しくないじゃない」

 メイドのひとりが反論します。

「顔立ちも似ている。革命の邪魔があってはならない。王女は絶対に逃がすなとのお達しだ。妨害が入ったら射殺してもいいことになっている」


 革命軍らしき男性がピストルを取り出しました。


「人違いだったらどうするつもりですか!?」

 エンマさんがサーシャさまを庇うように前へ出ます。

「構わん。革命に犠牲は付き物だ。似た女は全員射殺だ!」

 ピストルが持ち上げられ、銃口がこちらへ向けられました。


 やれやれ、困ったものです。

 私って、どうしてこういうときに、とっさに身体が動いてしまうんでしょうねえ。


 銃口はエンマさんではなく、正確にサーシャさまへと向いています。


 それから私の身体は、その射線上へすばやく割って入りました。


 まっくろな銃口。ソソンの闇。世界の闇。夜明けとは正反対の、光。


 サーシャさまは怒るだろうなあ……。



 弾けるピストルの発射音。



 次に聞こえたのは男の人の悲鳴でした。

「何をしやがる!!」

 ピストルを構えていたはずの男性は、手を押さえてしゃがみ込んでいます。

 彼の足元には煙を吐いたピストルと、四本の指が転がっています。

「畜生、指が。俺の指が……」

 革命家の人は顔をまっかにして呻いています。


「無闇に命を奪うことに正義はない。その血塗られた手を、誰かに看てもらうと良い」

 別の男の人の声。これは……。


「セルゲイ!」

 彼はジュストコールの上着も無くして、ボタンの千切れたシャツ姿です。

 あちらこちら怪我をしているうえに、彼の手にしたサーベルには血が滴っています。


「良かった! 怪我したの? 誰か斬ったの?」

「僕は大丈夫だ。何人も斬ったが、どれも急所は外してる。誰かに治療して貰えれば命に関わることはないだろう」

 彼はけろりとして言います。すごいなあ。


「クソッ! 医者に指を繋いでもらわねえと。でも駄目だ! 手柄を上げなきゃ、ゲルトさんに見捨てられる!」

 男は無事なほうの手でピストルを掴もうとしますが、それはエンマさんが拾いあげました。

「ひい、ピストル!」

 悲鳴をあげたのはエンマさんです。自分で拾っておきながらそれはちょっと。二代目氷のメイド長(リョート)を襲名するには遠そうです。


「ゲルトに伝えろ。たとえ革命が成功しても、おまえの野望は必ず世界によって阻止されると。おまえのやりかたはソソンから見ても、世界から見ても薄汚く愚かしいことだったと!」

 セルゲイがサーベルの切先を男へと向けます。


「おい! 大丈夫か? 王女が確保されたってよ! ドレスも処刑用ので間違いないそうだ! 急ぐぞ!」

 さらに別の男性が駆けて来て、怪我をした男へ声をかけました。

「クソッ! 良いとこなしかよ。だが、俺たちの勝ちのようだな! 覚えてろよ。ゲルトさんの作る新しいソソンに、王室派の居場所なんてねえからな!」

 革命家の彼は自身の指を拾い集めると、仲間とともに去って行きました。

 なんだか知らないけど、ラッキーです。


「ヤツの作る国なんてごめんだ」

 セルゲイが吐き捨てるように言いました。私も頷きます。


 王女確保の噂は瞬く間に伝わったようで、人々は争いをやめて通りのほうへと駆けて行きます。

 私たちはその隙にニーナのお店へと駆け込みました。


「グレーテ! 良かった。つけられてない?」

 ニーナが言いました。お店の中はたくさんの人が入っても平気なように、テーブルが退かされています。


「うん。上手くいったよ」

「あと一息。夜になったら西から国境を越えるだけです。国境室の者と隣国の政府のかたが待っています」

 エンマさんが言いました。

「信用できるかなあ」

 じっさい、国の外に出てからも心配だらけだったり……。

「信じるしかないさ。西側の国境室にはスパイもいるが、僕や父の知り合いもいる」

「セルゲイの? じゃあ大丈夫かな……」

 ちょっと心配だけど、これから外の世界に行くのだからそんなことも言ってられない感じです。


「セルゲイ? 彼が?」

 ニーナが声をあげました。


「……」

 セルゲイは黙ってしまいました。


「整形手術をしたんだって。顔を変えてお城に来てたの」

「それは聞いたけど、なんて言うか、ちょっと不気味ね。声はたしかにセルゲイっぽかったけど……」

 ニーナはまじまじと“レオニート”の顔を見ています。

「あまり見ないでくれ。気に入ってないんだ。評判の悪い男の顔に似せたうえに、思ったよりも似なかったんだ。おかげで城の外での活動や革命軍とのやりとりではひやひやした」

「ええ……良いとこなしじゃないの。でも、ごめんなさいセルゲイ。もとはと言えば、私があなたに余計なことをしなければ良かったのよね」

 ニーナが謝ります。

「良いさ。拒めなかった僕も悪い」

「良くない!」

 私は一応文句を言っておきます。

 でも、本当はもう赦しています。それに、さっきはとてもカッコよかった。惚れ直しました。


「良くない! はこっちのセリフよ! グレーテ! あなたたち! とんでもないことをしてくれましたね!!」

 後ろから大きな怒鳴り声。


 振り返るとサーシャさまがものすごい形相……ドラゴンみたいな顔をして立っていました。


「何をしたか分かってるの? わたくしが死ななければ革命は終わらないのよ。長引けば長引くほど民は苦しむの。わたくしひとりの命で、どれだけ余計な不幸が回避できたと思ってるのですか!?」


 彼女の怒りもごもっともです。


「でも、私は、私たちはそれでもサーシャさまに生きていて欲しかったんですよ」

 私が言うと、メイドたちからも相槌が聞こえてきました。

「君主は国民のために、国民は君主のために、か……」

 セルゲイが呟きます。


「はあ……。気持ちはありがたく受け取っておきます。でも、これはそんな次元の問題ではないのです。わたくしは多くの罪人たちを処刑してきました。実権が王室から国民や革命家の手に渡ったとしても、わたくしが野蛮で後進的な処刑を行ってきた事実は消えません。その清算のためには、わたくしの処刑が必須なのです。ニコライも死んでしまった。スヴェトラーナだって、あんな目に……」

 サーシャさまは胸に手を当てて言いました。


「ニコライさんもスヴェトラーナさんも、サーシャさまを逃がすための時間稼ぎで死んだんだよ」

 隠す気はありません。

「……そんな! また余計な罪を。やっぱり私は、もっと早くに死んだほうがよかったんだわ」

 サーシャさまの顔がまっさおになりました。


「駄目だよ、サーシャさま。死んで終わりにしようなんて、逃げだよ」

「逃げるのではなく、罪に向き合った結果です。グレーテ、あなたはこれまでわたくしが犯してきた罪を、いちばんよく知っているでしょう?」

「知ってます。だからこそですよ。再犯死刑の見直しや、刑務所での聞き取りや、被害者のかたがたとの対話。頑張ってきたじゃないですか。それを無駄にしてしまうんですか?」

「王室が消えてソソンが変わってしまえば、それも無意味なことです」

「無意味なんておっしゃるなら、どうして私に日記を託したんですか?」

「それは……」

 サーシャさまは痛いところを突かれたようで、たじろぎました。


「グレーテの言うとおりです。あなたがやって来たことが無意味で革命が正義になるんだったら、アキムはどうして処刑されなければいけなかったのですか!?」

 ニーナが声をあげました。


「あなた……ニーナですね。処刑はごらんになりましたか? あなたの恋人アキム・パンチェレイモノヴィチ・トロツキーさんは、死刑姫サーシャが処刑しました。わたくしが、この手で、彼の身体へつるぎの一本を突き立てたのです」

 そう言ってサーシャさまはニーナの前へ歩みました。


 それから、顔を少し背けて右の頬を晒しました。


 お店の中を乾いた音が響きます。それからニーナのお父さんのたまげた声も。


「……一発でよろしいんですか?」

 サーシャさまは左の頬も向けました。


「一発でも畏れ多い。本当は私も、誰かを非難できる立場なんかじゃ、ないんです。王女陛下、ありがとうございました」

 ニーナは自分の手のひらを見つめながらそう言うと、泣き崩れてしまいました。サーシャさまもしゃがみ込み、彼女の頭を抱いて優しく撫でます。


「本当は、わたくしはすべての国民にぶたれなければいけないんだわ。みなさん、わたくしはもう一度CHSへ出頭します。グレーテはあの日記を届けて。わたくしと同じ間違いを誰も繰り返さないように……」

 サーシャさまは酷く寂しそうです。それに頑固です。


「あー……日記。えーっと、サーシャさま。一つ謝らなければいけないことがございまして……」

 私がそれだけ言うと、サーシャさまはなわなわと震え出しました。流石は親友の仲です。


「ま、まさか、日記を無くしたとか?」

「いや、それがですねえ。暖炉の薪が切れていたので、ついうっかり燃やしてしまいました!」

 頭を掻き掻き舌をペロリ。本当は隠し持っていますが、サーシャさまのためを想って嘘をつきます。


「うっかりという次元じゃないわ! わざとでしょう!?」

 サーシャさまは立ち上がって私につかみかかります。

「もちろんです!」

「胸を張って言わないで! 王女が何年も書き溜めておいた日記を燃やすなんて! あれには政策や法改正についても書いてあったのに!」

「だったら、サーシャさまがご自分の口で言ったら良いんですよ。私に日記を持たせたって、よその国の人は信じてくれませんよう」

 私が明るく言ってやると、サーシャさまは溜め息をつきました。


「もういいわ……。無意味だったわ。何もかも。やっぱり死んでおしまいにする。あなたには分からないかも知れないけど、普段は善良なひとでも、こういう混乱のときには思いもよらないことをすることだってあるのです。今こうして、わたくしが隠れていることで、次々と無用な罪と被害が生まれているのかもしれない。もうね、わたくしは一分一秒でも長く生きること自体が、罪なのです」

 とてもとても悲しい顔。


「そのくらい、分かっています。私のお父さんとお母さんも、密告者だったんです。私を生き延びさせるために、ほかの人が犠牲になったかもしれないんです。私もサーシャさまと同じなんですよう」

 本当はそんなことをして欲しくなかった。だけど、それがなければ私は捕まっていたかも知れないし、そうなればニーナやセルゲイとも仲違いをしたままだった……。


「親なんてね、そういうもんだよ。俺だって、王女陛下の役に立てるのはありがたいことだとは思うけどね、正直ここを隠れ家に使うことは反対だったんだ。今だって、反乱軍が入ってきてニーナがどうにかされちまうんじゃないかってことが、心配で心配でたまらない」

 おじさんが言いました。


「ごめんなさい。だったら、早く出て行かないと……」

 サーシャさまが言いました。


「だが、王女陛下も俺たちみんなの娘なんだろう?」

 おじさんがウィンクをしました。


「王女陛下、出て行く必要はありません。スヴェトラーナさんと将軍が刑務所長と仕掛けた策が上手くいったようですから。王女の処刑はすでに執行されているはずです」

 そう言ったのはエンマさんです。


「エンマ、それはどういうことですか!?」

「身代わりを立てさせていただきました。ご安心ください。強制ではなく、志願者です。それに囚人から選びましたから……」

 エンマさんはそう言うと泣き始めました。

「どうして泣くの? 囚人って、誰が身代わりになったっていうの!? 誰にしたって、わたくしの身代わりだなんて! まだ間に合うかも知れません、今すぐ出て行って交代です!」


 …・…そっか、そういうことだったんだ。きっと、ナージャが身代わりになったんだ。


 サーシャさまはお店の扉に向かって駆け出そうとしました。

「行っちゃ駄目です! 彼女のやったことを無駄にしないで! 亡命するんですよう!」

 私は彼女の腰に齧りついて動けないようにしました。


「亡命こそ逃げじゃないの! 身代わりのかただって、もしかしたら死刑を回避できた人かもしれないわ。わたくしだって、これ以上は罪を重ね続けたくないの!」

「王女陛下、あなたは死んで終わりにするのではなく、生きて償わなければなりません。僕やグレーテだって同じなのです」

 セルゲイが言いました。

「レオニート! あなたに何が分かるっていうの!?」

 ……あ、しまった。

「サーシャさま。この人は、レオニートじゃなくてセルゲイなんですよ」

「へっ!? どういうこと!? セルゲイ? あのグレーテを襲った強姦魔の!?」

 サーシャさまはあっさり信じたのか、“レオニート”のほうへ顔を向けました。

 こっちからは見えませんが、たぶんまたドラゴンです。セルゲイが半歩下がりました。

「そうだけど、違うんです! 私を襲ったのは実はセルゲイじゃなくてアキムで、セルゲイはレオニートに成りすましてお城に来ていたの!」


「本当に!? じゃあ、やっぱりアキムに“梨”を使えば良かったわ! 今からでも掘り起こして、あいつのをちょん切ってやる!!」

 サーシャさまはあっさり信じましたが、かんかんです。


「あはは……」

 笑い声。下から聞こえました。

「サーシャ王女も、アキムにしてやられたんですね。掘り返してちょん切っても、良いかも知れないわね」

 ニーナです。彼女は泣きながら笑っています。

「笑いごとじゃありません! グレーテをひどい目に遭わせた悪魔なのですよ!」

「だって、あんなに国民のためだなんておっしゃって死のうとしてたのに、グレーテのことになったらすっかり忘れてるみたいで」

 ニーナは笑い続けています。

「それとこれとは別です! わたくしにとってグレーテはいちばんのお友達なんです!」

「そのいちばんの友達も、あなたに生きて欲しがっているんです。グレーテだけじゃございません。ここに居るみんながそうです。それでも王女陛下は、出て行ってしまわれるんですか?」

 エンマさんも引き止めます。


「でも……」

 王女陛下はなかなかの頑固者です。


「サーシャ王女。人は、誰かに手を握られながら死ねるように生きなければならない。これは僕の父の言葉です。僕の父は、多くの囚人の首をはねてきた処刑人でした」

「あの処刑人……。お父様から名前だけ聞いたことがあるわ。たしか、キリル・イヴァノヴィチ・アサエムさん。あなたはそのご子息なの?」

「はい。彼は医者でもあり、患者だけでなく、処刑されるような罪を犯した者に対しても、死ぬときに孤独であることを憐れんでいました。僕もそう思いますし、僕もまた、たくさんの罪を犯してきたんです」

「そっか……。だからあなたは博識で、わたくしへの理解もあったのですね」

「サーシャ王女は、たしかにあまたの罪を犯しました。それはひとつの死で償いきれるものではありません。ですが、それと同時にあなたの最期も冷たい刃ではなく、温かな手とともに迎えなければならないと思います」


 しばらくの沈黙。


 それから、サーシャさまは「ほうっ」と長い長い溜め息をつきました。


「分かりました。生きましょう。生きて償いましょう。それでも、この国のことを見捨てることはできません。ソソンをもう一度良い国に作り直したい。今度は君主としてではないかもしれませんが、もう一度戻って来て、芋ほりでも雪かきでもいいから、またみなさんのために働きたい」

 サーシャさまそう言って、指で目の端を拭いました。

「長い道のりになりそうですね。僕とグレーテはずっとあなたについて生きますよ」

 セルゲイが言いました。私が言いたかったのに!

「スパシーバ、セルゲイさん。まずは亡命して、それから国連に出頭したほうが良いでしょうか? それと、ユーコ・ミナミやアレッサの遺骨の返却もしてあげないと」

「亡命後はひとまずソソンの混乱の鎮静化を待ったほうが良いのでは? ゲルトの一派が上手くやれなければ、親王室派の人たちが再び反乱を起こして内紛が再発するかもしれません」

「それなら、やっぱり急いだほうが」

「そうでなくて、そのほうが国際社会も介入しやすいでしょうという話で。どのみち、多少の混乱は避けられません」

「革命派でも王室派でも、国民が苦しむ時間は短くしてあげたいわ。動くのは早いほうが良い気がします。幸いわたくしの写真や映像は世界にも共有されていますし、身分を明かせば……ああ、やっぱり日記があれば良かった。あれを書けるのはわたくし以外存在しないのに!」


 サーシャさまとセルゲイが何やらややこしい話をしています。


「もうグレーテ! どうして日記を焼いてしまったの? 亡命するにしたって、身分を明らかにできるものが無ければ無意味だわ!」

「一応、私たちが証明の足しになりそうな品は持ち出していますが……」

 エンマさんがフォローしてくれます。

「えーっと、実は、日記帳は燃やしてなかったりして」

 そう言って私は懐から日記を取り出してみせました。


「もう! わたくしを乗せるために嘘を言ったのね! 返して!」

 サーシャさまが手を伸ばします。

「駄目です! 返したらまたCHSのところへ行くなんて言う気でしょう?」

「言いません!」

 日記帳を抱えてサーシャさまから逃げます。

「王女陛下を信用してさしあげろ。それがあるのとないのとでは、今後のソソンへの対応も変わってくるはずだよ」

「セルゲイさんの言うとおりです。わたくしたちは亡命しても、役目を失うわけではないのですよ! 一分一秒も無駄にできないのです! さあ早く!」

「駄目!」

「こら、グレーテ。いい加減にしろ」


「うるさいよ、セルゲイ!」

 そう言って私は“もう一冊の日記”を取り出します。


「それは僕の日記! そっちは焼いてくれって頼んだだろう!?」

「いやでーす。これは今後セルゲイ君と喧嘩したときに脅すのに使いまーす!」

「なんて子だ!」

「セルゲイさんの日記……」

 サーシャさまも興味をそそられたようです。

「ふたりとも、この日記を燃やされたり大公開(パブリッシュ)されたくなければ、大人しく従いなさい!」

 私がそう言うと、まわりで笑い声が起こりました。


「わたくしたちを脅してどうしようって言うんですか! 亡命後のことについて、何か良い考えでもあるの!?」


「……私には、難しいことなんて分かりません。だけど、サーシャさまは少し休憩したほうが良いように思えます」

「たしかに。僕もそれは思うな」

 セルゲイが同意しました。

「あなたまで……!」


「サーシャさま、私を海に連れて行ってくれませんか? いつかお話したでしょう? 暖かい海でいっしょに遊びたいなって」

「海……」

「海だけじゃなくって、いっしょに広い世界を見ましょう。休んだほうが失敗も少なくなるし、新しい発見をすればきっとソソンのためになりますよ!」


「広い世界、か。お父様もね、わたくしに広い世界を見せてやりたいって言っていたの。あの人がソソンを変えようとしたのも、わたくしのためだったの……」

 サーシャさまは涙をぬぐいます。


「ルカ名誉国王の願いをお叶えになってくださいまし」

 エンマさんも鼻声です。


「外に行って、世界中のひとたちと、握手をしましょう! きっとそのほうがソソンのためにも、世界のためにもなりますよう!」

 私はサーシャさまの手を取ります。それは握り返されましたが、ちょっと弱々しいです。


「王女陛下。無礼と無茶を承知で申し上げるんですが……」

 おじさんが声をあげました。

「なんですか? 匿っていただいてる御恩があります。今のわたくしにできることでしたら、なんでも仰ってください」

「うちの娘、ニーナも連れて行ってくれませんか? グレーテもセルゲイも居なくなっちまうとなると、こいつも寂しがるでしょうし」

「わたくしは構いませんけど……」

「お父さん! 無茶言わないで。ここに居るかたたちにだって、ついて行きたい人はたくさんいらっしゃるのよ!」

 ニーナが声をあげました。


「これは、俺の我がままだ。俺はこれまでずっと、おまえをこの店と俺に縛り付けてきたんだ。おまえの母親とのことも本当に悪かったと思っている。おまえは気付いていたんだよな? あいつが浮気をしていたことを……。俺が勇気を出していれば、おまえをこんな風にしちまうことも、なかったかもしれない」

「お父さんだって、ひとりになってしまうのよ。これからどうするのよ」

「自分のことは自分でやれるさ。それに、革命家連中だって腹は空くんだ。王女が戻られるまでは連中がこの国を維持していくんだ。何派だって構わない。俺がソソンの胃袋を支えてやるさ。ニーナ、おまえはいつも、窓の外を見ていただろう? アキム君の代わりに、外の世界に行って来なさい」

「私は行かないわ。ここに残る」

「僕たちとの関係を気にしてのことだったら、遠慮しなくて良いぞ」

 セルゲイが言いました。私も同感です。


「それも少し引っ掛かるけど、分かってないわね。私はたしかに、窓の外をよく見ていたけど、それは外に行きたかったからじゃないの。待つのがつらかったからなのよ。私に必要なのは、外の世界に出ることじゃなくって、待つのをやり遂げることなの。グレーテ、セルゲイ……サーシャ王女。必ずソソンに戻って来て。私のためにも」

 そう言ったけれど、ニーナはやっぱりどこか寂しそうでした。でも、これは彼女が選んで決めたことです。

「分かった。ニーナ、待っててね……」

 ニーナとハグを交わし合います。


「そうか。おまえが決めたんなら俺はもう言わねえ」

「私はお父さんに言い続けるけどね。食糧難ついでに少し痩せなさいよ」

 ニーナは笑いました。

「まったく……よし、日が沈むまではまだ時間がある。みなさんに食事を用意しよう。全員が腹いっぱいとはいかないが、持ってるだけの材料を使おう。王女陛下に自慢の料理を献上だ!」

 おじさんは元気良く言いました。

「私も手伝うわ」

 ニーナもカウンターに入っていきます。

「私も!」

「じゃあ、僕も」

 この流れは久し振りです。昔はよくみんなで料理をしたものです。


「……」

 サーシャさまがこちらを見ています。もの欲しそうな顔ですねえ。


「サーシャさまもいっしょに、お料理しませんか? 王女様がメイドたちにお食事を振る舞うのって、面白いと思いますよ」

「でも、こんなときなのにわたくしが楽しむのは許されないわ……」

 やれやれ、まじめですねえ。

「今はそうかもしれませんが、いつかきっと、サーシャさまも赦してもらえる日がくるはずですよ。ほら……」


 私はサーシャさまへ手を伸ばしました。



 ……あったかい。



 この手は……私たちの手はこれから、何を為していくんでしょうねえ?

 たくさんの握手をしたり、日記の続きを書いたり、ときには誰かを叩いたりなんかしてしまうかもしれません。


 それでも、最後は誰かと手を繋いでいられたらなーなんて。

 私たちだけでなく、世界中の誰もがそんな風にいられたら素敵じゃありませんか?

 私はみんなといっしょに、そのお手伝いをしたいなって思います。お手伝いはお手のものです。王女様お気に入りのいちばんのメイドですから!


 そして私たちは、国境を越えました。山を一つ越えれば、そこは春です。


 さようならソソン王国。みんなのふるさと。


 スパシーバ、ダスヴィダーニャ。……ありがとう、また逢いましょう!

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