死刑3-01 私は悪い子
闇。まっくらな闇。
コートを羽織っていても、焼けつくように寒くって。
どこをどう走ったかなんて覚えてない。完全に知らない世界になっちゃってた。
お友達と駆けまわり、買い出しでお芋を片手に通り過ぎた、お庭のような城下町。
雪かきをする人、犬の散歩をする人、世間話をする人。
私もお父さんやお母さんとパブへ出かけたり、サーシャさまと秘密の冒険をしたり……。
あのときどうして、家に帰ることを思いつかなかったんだろう。
帰ってふたりに何があったか話せば、仲直りくらいはできたかもしれないのに。
……ううん。きっと、できなかったと思う。できたとしても、あの夜のことが口実にされて言いなりになっていただけ。
私にとっての家はもう、生まれ育ったあそこではなく、みんなの居るお城になっていたんだ。
お城のそばに立つ塔は、いつでも明々と燃えている。晴れの日も、真夜中でも、吹雪の夜だって消えることはないの。
『ソソンの赤い月』と呼ばれるあの塔の篝火を目指せば、誰もが迷うはずのない道なのに。
大通りに出てまっすぐ歩くだけで辿り着くのに。上を見上げることすらできなくて。
誰かが見ているんじゃないかな? 誰かが手を伸ばしてコートをひったくってくるんじゃないかな?
夜中だけど、通りには誰かが居て見つかってしまうかもしれない、路地には悪い人がいるかもしれない。
曲がり角、小さな門、積まれたままの雪、荷車の中や下。通りのほうを見ればやっぱりカンテラを持って歩く人影。
疑うということがこんなに恐ろしいなんて考えもしなかった。
急に景色がひらけて、私は大通りの真ん中に立っていた。
目の前には背が高い白衣の男の人。彼は眼鏡の下から私を静かに見ている。
「どうしてこんなことしたの!?」
何度たずねたって、彼は静かに振り返って闇の中へと消えて行ってしまう。
「待って!」
次の瞬間、何かが私の口を覆う。手だ。これは誰かの手。知っているような知らないような……。
それからすぐに、誰かが入ってくる痛みの感覚。
「やめて!」
……。
またこの夢だ。
あの夜のことがあってから、私は眠ることが苦手になってしまった。
それまでは、休憩のたびにうたたねをしてしまって、メイド長に叱られたものだったのに。
叫びをあげたときは無意識だった。ただ、目の前に居たあの人の名前を叫んだだけ。
いつか、私がサーシャさまのために叫んだときと同じ。
あの夜は私がサーシャさま役で、あの人がローベルト役だった。だけど、グレーテ役の人はどこにも居なかった。
あの人は逃げた。
「違う、僕じゃない」って言って、部屋から出て行った。
違うならどうして逃げるの? そんなはずないじゃない。お互いに裸で、私の血でまっかに汚していたくせに。
だけど今は、私が叫んだから逃げたんだろうと思う。私だって怒られたら、とりあえず「ごめんなさい」って言ってしまうから分かる気がする。
逃げたからって絶対に彼がやったとは言い切れない……なんて、あり得ないことを考えてしまう。
不思議なことに、私を犯した彼が部屋から飛び出したあとに感じたのは、安堵なんかじゃなかった。
ただ、ひたすらに悲しくって、寂しかった。
動けなくって助けが来るのを待っていたのか、彼を信じたくて戻って来るのを待っていたのかは、今となっては曖昧だ。
とにかく、叫びが誰かを引き寄せることは居なかったの。
彼が戻って来ないことが何となく分かると、とたんにすごく恐ろしくなった。
私のメイド服はびりびりに切り裂かれていたから、上着掛けに掛けたコートだけで帰らなくちゃいけなかった。
誰にも見つかることなくお城へ戻れたはずだけど、繰り返し見る夢の中では、たびたび知らない誰かに捕まって襲われていたから、覚えていないだけで本当は帰るまでにも何度もそうなっていたのかもしれない。
どっちでもいいや。ただ、恐くて、哀しくて、痛くて、寒くて、がっかりしたというだけ。
私があの人を選んだのは間違いだったのかな……。
初めて自分から友達になろうって思って決めた人だったのに。
彼、セルゲイ・キリーロヴィチ・アサエムはとても頭の良い子だった。
私とふたつしか違わないのに、たくさんのことを知っているし、なんでもできるし、お父さんの言いつけによく従っていて、お医者さんを目指すと決めていた。
お勉強もたくさん教えてもらったし、アキムのいたずらや私の失敗を謝ったり助けたりしてくれた。
大人になってからもすごかった。私は家から逃げるためにメイドになったのに、彼は人を助けるためにお父さんと同じ医者になっていた。
私の憧れの存在。自分で選んだ友達が偉くなると、自分まで偉くなった気がした。
セルゲイのことは、好きは好きだったけど、あのころはまだ恋愛感情にはちょっと足りなかったと思う。
幼馴染みでは近すぎて、そそっかしいメイドと名医の息子じゃ遠すぎたから。
だけど、あの真面目で優しい彼が、病気になって動けなくなったお父さんを“首を絞めて眠らせてあげているところ”を見つけてしまってから、好きの種類が変わった。
あんなに完璧でみんなのために色々頑張ってきた彼にも、どうしようもないことがあって、誰にも言えない悩みがあって、間違いだと分かっててもそうしなきゃいけなくって……。
そう考えたら、セルゲイのことがとてもいとおしくなった。
ちょっとヘンかな? でも、そうなっちゃったんだから仕方がない。
もしも、それがメイドになるまえだったら、彼のお嫁さんに立候補していたに違いない。
そのときにはすでに、大切なサーシャさまが居たから我慢した。
給仕室入りも私の選んだことだ。私たちの君主の娘はあのとき、お父上のことや、外国から来た女性のことでとても苦しんでいらっしゃった。
だから、絶対におそばを離れるわけにはいかなかった。
サーシャさまがおひとりでも平気に思えるようになったらお城を出て、そのときにまだセルゲイにお嫁さんがいなかったら……。
彼の悩みを私が聞いてあげて、私の失敗を彼が埋めてくれる。子供ができたら、彼が厳しくきっちりしたパパで、私が優しくふんわりなママで……なんて妄想は何度もした。
私がサーシャさまといっしょに城下へ出たとき、ニーナに「セルゲイが私をお食事に誘ってる」って聞いた。
始めはサーシャさまへの失礼のせいで混乱していたんだけど、お城に帰って思い返すと、一晩中眠れないほどに興奮してしまった。
私が選んだ人が、私を選んでくれたかも知れないなんて、給仕室の試験に合格したときと同じくらいに嬉しかった。
勘違いかもしれないとは思ったけど、ずっと顔はゆるみっぱなしだった。
だってね、小さいころからずっと、たずねるのは私のほうで、メイドになってからも私が私の都合で診療所やニーナの家に行ってたし、セルゲイはずっと受け身だったから!
そんな彼がわざわざ私に謝るために家に招くなんて、ほかに何か大事な用事があるはず! これはもうプロポーズされたと思っても良い!
……なんて考えちゃってた。
でも、やっぱり間違いだったらしい。
また失敗。私って、そそっかしいなあ。
小さいころから、お父さんやお母さんに叱られてばかりだった。
それでも私がふたりを嫌いになっていなかったのは、愛してくれてるからだって信じていたからだ。
「グレーテ、あなたはちっともできない子なんだから」
そう言いながらもお母さんは私を抱きしめ、
「おまえが学校? 学校に行ってどうするんだ。おまえじゃ勉強したって、星室にも巡検室にも入れない」
そう言いながらもお父さんは、学校行きを許してくれたんだから。
でも、本当はそうじゃなかった。
「お父さんに愛される良い子になりなさい」
お母さんはお父さんのことを愛していた。大切にしていた。夫婦なんだから当たり前。
だけど、あの愛情だと信じていたものは私のためじゃなくって、お父さんに母親らしいところを見せるためだけのものだって気付いてしまった。
お父さんの居ないところでは私を叱りはしていたけど、ハグはおあずけだったから。
気づいたのはそれなりに大きくなってから。それまでは自分は悪い子なんだって思っていたし、今でもそれは消えていない。
お父さんにしてもそうだ。
私のことを駄目だ駄目だって言うのは、駄目だから言うじゃなくって、駄目だと思いたいから言ってるだけだった。
セルゲイやニーナに手伝ってもらって学校の試験で高得点(81点! これは普段の倍以上!)をとったときも間違った箇所の指摘ばかりしてたし、進級判定のときは毎回落第だと思っていて辞めさせる気でいたの。
お父さんは、私に好きにさせてくれることはあったけど、そういうときは私は必ず自滅してしまっていた。
「ほらな、私の言った通りだったろう? これに懲りたら、もう我がままは言うんじゃないぞ」
学校ではセルゲイやニーナのおかげで、そうはならなかった。
給仕室の試験のほうは、お父さんだけじゃなくって、私も含めてみんながビックリしたけど。
私の結婚相手を勝手に探したりもした。
それも、少しでも良い人を選んでくれたらましだったのに、「おまえにはこの程度の人間がちょうど良い」とか言って、お父さんに近い年齢のおじさんや身体の不自由な人ばかりを選んで紹介してきた。
そういった人のお手伝いができたら私も良いとは思うけど、私は私の選んだ人じゃなきゃ嫌だった。
自分で選んだ人だったら、おじいさんでも、赤ちゃんでも、名医でも、お姫様でも同じ。性別だって関係無いし、人殺しだってお父さんの勝手に決めた人よりはマシだと思った。
お父さんはお城の試験に失敗してたことがあったらしいし、「グレーテには同じ失敗を繰り返して欲しくない」って言っていたけれど、本当は逆だったんじゃないかって思う。
でも、けっきょくはそういうのは関係無くて、私が悪い子なのもそそっかしいのも自分のせいだったのかもしれない。
セルゲイは私を眠らせて酷い目に遭わせた。どうして?
サーシャさまには食事に誘われたことを相談して、たくさんアドバイスしてもらったし、スヴェトラーナさんにも外泊の許可を取っていたし、相部屋のナージャには「ひと足先に大人になってきます!」なんて偉そうなことまで言って出掛けたのに。
おしゃべりも、ボードゲームもすごく楽しかった。彼がときどき自分の寝室のほうに視線を送ってるのに気付いたら、すごくドキドキした。
お食事も美味しくって、ワインを飲んだら気分が良くなって、本当はセルゲイから言って欲しかったことを、ズルして自分から言おうかななんて思った。
我慢できなくなって話しているうちに、とつぜん眠たくなって意識がなくなってしまった。
夢なのか目が覚めていたのかは分からないけれど、とにかくひどく眠たかった。
何度も浮かんだり沈んだりを繰り返しているうちに、私の中に誰かが入っていることに気付いた。痛かった。
何をされているのかはすぐに分かった。本当は彼には期待していたことだったし、何度かこっそり想像したこともあったから。
だけど、それはこんな形のはずじゃなかった。朦朧としていて身体も動かせなかったし、どうしようもなかった。
――セルゲイがそんなことをするはずがない。
それはきっと、信用とか信頼じゃなくって、私が彼を選んだのが間違いということを認めたくなかっただけ。
つまりはお父さんやお母さんと同じ嘘っこの愛だ。
その証拠に、私は彼を赦しきれずにワインも見るだけで気分が悪くなるし、男の人とふたりきりになんてなれなくなっていたから。
お父さんとお母さんは、最後まで最低だった。
お母さんは私の心配をしようとしたみたいだけれど、お父さんが「結婚してしまえ。そのほうがお互いのためだ」なんて言った途端に態度を変えて、まるで私がふたりを困らせるようなことをしたという口ぶりに変わった。
ショックだった。この人たちは何なんだろう……。
そんなふたりの娘である私が、ソソン王国の君主であるサーシャさまのお友達で、まるで優しい子みたいに振る舞っていたなんて、酷く気持ちが悪いことに思えた。
両親にすら愛されていなかったくせに王女さまを愛そうなんて、おこがましいにもほどがある。
眠らされて犯されたのも、間抜けでそそっかしいくせに、有名で立派なお医者さんである人に近付いたりなんかした罰だ。
悪いのは全部私。
初めての痛みはあったけれど、永久に処女のままで、ずぅーっとあの人たちの子供であり続けないといけない、そんな気がする。
そんなのは絶対にいや!
だから私は、もう一度彼の家をたずねたの。
昼間に行ったから、城下はあの夜とは違う世界だった。よく知ってる私の城下町。独りで歩いたって全然平気だ。
だけど、自分が襲われた現場に戻ろうなんて人は普通は居ないと思う。
じっさい、どうなっても良かった。これは悪い子である自分への罰であって、それと同時に最後のチャンスだと思った。
セルゲイが居て「僕じゃない」と言ったら無条件で信じて、あの日のように抱きしめようと思っていたし、また襲われたならお母さんと同じく、いっしょう言いなりになってしまえばいい。
もしも反射的に叫んでしまって彼が逮捕されるようなことになれば、サーシャさまに甘えてしまえばいいなんて考えていた。
診療所は休診中の札が掛ったままで鍵も開けっ放しだった。テーブルの上の料理もお鍋もそのままで、暖炉は消えていた。
メイドの性というものでしょうかねえ……なんて。
痛んだ料理を捨てて、お皿を洗って、出しっぱなしのワインをしまって。
綺麗に片付けたら、あの夜のことも私の間違いもいっしょに消してしまえるように思えた。
このまま寝室も片付けてしまえば、事件も無かったことにできるんじゃないかと思って、私はセルゲイの私室に忍び込んだ。
へへへ……また失敗。
駄目でした。無かったことどころか、あの夜に戻っただけだった。
だけど、もう一度待てば誰かが助けに来てくれるんじゃないか、あるいはセルゲイが帰ってくるんじゃないかと思って、乱れたままのベッドにもう一度寝転んで待ってみたの。
何度も吐きそうになったけど、我慢できるだけ我慢し続けた。
一分だったか十分だったか分からない。長くはもたなかった。
起き上がって帰ろうと思ったけど、そのときになって疑問が湧き上がってきた。
私のメイド服はめちゃめちゃに切り裂かれてあたりに散らばっていた。セルゲイがあの日に着ていた服もベッドの下に落ちてるままだ。
確かにあのとき、彼は服を着ないまま飛び出していった。彼はそれから……?
私も自分の服がなくって、コートだけで身体を隠して外に出たけれど、痛いくらいに冷えていた。
あの人はどうしたんだろう? 何も着ないで、家に戻っても来ないで、どこへ行ったんだろう?
この国で夜中に裸で外に居たら、朝になるまでに凍え死んでしまうよね?
私が叫んだせいで出て行ったんだ。彼がどこかで凍死していたら、それは私のせいだ。
彼は自分のお父さんを殺したことで泣いていたけど、私もまた彼を殺してしまったのだろうか。涙が出てくるのはそのせいかな?
セルゲイはどうしてあんなことをしなきゃいけなかったんだろう。
彼のことは人殺しと呼びたくはないけど、お父さんを殺しているところを見られても逃げなかったのに、どうして私を襲ったくらいで逃げたのだろう。
私をひとりぼっちにして、服も着ないで飛び出さなきゃいけなかったんだろう。
例えばだけれど……立場が逆なら、私なら逃げずに脅して黙らせるか、もう一度襲ったと思う。
なんか変だ。彼のことが知りたいと思った。
だから私も、少し悪い人になることにしたの。
ううん。もうすでに悪い子なのだから、もっと彼に近付いてみれば理解が出来るんじゃないかって思った。
親の言うことを聞かないとか、お皿を割るとか、つまみ食い程度じゃ『人殺し』や強姦魔には近付けない。
私にはそこまでのことはできはしないけれど……ラッキーなことに、彼のデスクの上には一つの箱と日記帳があった。
私はそれと診療所の鍵を懐に入れてセルゲイの家をあとにした。
なかなか悪い子だ。泥棒をした。このうえにセルゲイが凍死してたら、凶悪人だ。それは流石にイヤだ。だから、彼には無事で居て欲しい。
けっして、私が優しい子ということじゃなくって、彼のやったことを赦せるとか、彼を心配しているということなんかじゃない。
自分のために心配してるの。
あれ、おかしいな? 私、何を言ってるんだろう……。
強姦されて笑って赦せる人なんてソソンにはいない。世界にだってきっといない。
私はたんこぶの原因になったローベルトを殴ることはできなかったけれど、セルゲイが処刑台に上ったら、いっぱつお見舞いしてやりたいくらいに怒っている。
だけど……盗んできた物を自分の部屋でこっそりと確認してみたら、自分で自分が分からなくなってしまった。それから彼のことも。
箱には外国製のハンドクリームと、私への愛の詩が書かれたお手紙が入っていた。
ソソンではね、結婚したい女性にハンドクリームを贈る文化があるの……。
そして、セルゲイの日記には、大きな大きな秘密と、深い深い悩み、それに私やサーシャさまへの愛が綴られていた。
まさかそんな小さいときから私のことを見ていたなんて。私に会う直前にも楽しみにしていることを書いていたみたい……。
セルゲイは本当に、私を襲ったの?




