死刑2-17 罪の償いへ
次の瞬間、僕は背中に冷たさを覚えた。それはふたつの記憶を同時に呼び起こした。
淫らな女の芳香とぬめり、それから情けない幼馴染みの青年の苦悩。
「……?」
何が起こった? まったく覚えがなかった。ひどい頭痛だ。
僕は自室のベッドの上に居た。
暗く静かな部屋でランプの炎が揺れている。
「どうして……?」
下から声がした。
「グレーテ……」
ああ……なんて可哀想な、被害者の顔をしているんだ。
彼女は一糸まとわぬ姿で僕の下に居た。
控えめな乳房、食欲の割に物足りないお腹、それからケアされた茂みと……大量の鮮血!
「ち、違う。僕じゃない」
否定はした。それを証明するかのように僕のシンボルは元気だった。血塗れではあったが。
「い、いや。やめて! 痛い! 寝てるあいだに酷いよ!! どうして!? なんでこんなことしたの!?」
グレーテの侮蔑の表情。処刑し損なった“かれ”の目だ!
「信じてたのに!」
真っ赤な憎悪が僕へと襲いかかる。
だが、僕はやっていない! これはヤツだ! ヤツがやった!!
ああ、僕たちはなんて憐れなんだ! ……違う! そんなことはどうでもいい! とにかく彼女を落ち着かせないと。
「お、落ち着いて聞」
「誰かーーーーーーっ!!」
勇敢なグレーテ。大絶叫は鼓膜を破くかのように。
僕にチャンスなど無かった。ただ、本能が「そのままここに居てはいけない」と訴えかけた。
僕はベッドから飛び降り、服を探した。無い。畜生。何があった。いや、分かるんだ。分かったんだ。
僕じゃないんだ!!
「誰か助けて!! セルゲイが!! 医者のセルゲイが!!」
違う!!
叫びたかったが声が出なかった。グレーテの悲鳴が、その瞳が、僕の知能のほとんどを封じ込めてしまった。
僕は裸のまま飛び出すほかなかった。
机の上に置いたままの日記と、その横に置かれたままの外国の高級ハンドクリームが泣いていた。
「誰か、誰かーーーっ!!」
悲鳴はまだ続いた。僕を追い立てた。体当たりをするように勝手口を開け、凍った世界へ逃げ出した。まるで無数の針の上を行くようだ。
「違う! 畜生、僕は……僕じゃない! あ……ああ……!」
アキム・パンチェレイモノヴィチ・トロツキー!
「たまには、俺に先を行かせろよ」
ヤツの声が脳裏によみがえる。
アキムが仕組んだんだ。グレーテの状態を調べたあと、僕は後頭部に強烈な痛みを覚えていた。
逃げながら頭部に触れて確認したが、裂傷ができていた。
ニーナとのことが気付かれたのだろう。あるいはニーナが話したか……。
ともかく、アキムはワインに薬を仕込み、僕とグレーテを気絶させ、それから、それから……! ああ!!
僕はどことも知れぬ道の上に転がり、うずくまった。診療所からは離れたはずだったが、延々とグレーテの声が頭の中に響いていた。
――どうして?
――なんでこんなことを?
――信じてたのに。
質の悪い薬で狂えばこんな感じなのだろうか? 脳みその中身は阿鼻叫喚だ処刑の広場だ。無間地獄に落とされたに等しい。
誰かこの身を黒縄で縛り、焦熱をもって罰してくれ!!
「うわっ、驚いた。生きてる? 強盗にでもあったの? それとも変態さんかな?」
頭上から男の声。僕は顔を半分隠しながら、恐る恐る見上げた。
ランタンの光が僕の裸体を照らした。身をよじり、どこかへ逃げたかったが、身体を隠したければ雪の山に飛び込むほかに手はない。
「僕は変態じゃない……」
「驚いた。その声は、もしかして、セルゲイ君?」
知り合いか。とんでもないとこを見られた。いや、どのみち僕はもうおしまいだ。グレーテがあの調子ではもう……。
ああ、グレーテ。王女陛下……。
「やっぱり、セルゲイ君でしょ? なんで裸なの? ひょっとしてお楽しみ中に女の子に追い出された?」
親しげで、そして愉しげな声。
「“可哀想なセルゲイ君”。とにかく、うちに来ると良い」
ようやく誰か分かった。毛皮をまとった小太り。この国の重役。
ロジオン・クリメントヴィチ・ウスペンスキー。巡検大臣だ。
彼はコートを一枚脱ぐと、僕の背中へと掛けて立たせた。
「おいで」
それから導かれるままに街の雪闇を歩いた。
「いったい何があったんだい? 可哀想だねえ。可哀想だねえ。……あっ! 曲がり角に人が!」
僕はコートの前を合わせ、身を縮ませた。
「違った。雪の塊だったよ。おや、誰かキミの名前を呼びながら駆けてくるよ?」
「僕じゃない! グレーテ! 僕じゃない!」
僕は駆け出し、滑って転んだ。
「ごめん、気のせいだった。風が鳴っていただけだったよ。走ったら危ないよ。さあ、帰ろうねえ。可哀想なセルゲイ君」
ロジオンは僕を彼の自宅に招くと、風呂を沸かし、暖かなスープまで仕度してくれた。
彼はしきりに「可哀想、可哀想」と繰り返して上機嫌だった。
「私がキミをかくまってあげるよ。裸で逃げ出さなきゃいけない事情が、あったんだよねえ?」
いやらしい男だ。地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸は、お釈迦様というには程遠かった。
だが僕は、そんな彼に頼るほかなかった。彼を愉しませることができれば、助力を得られるだろう。
まったくの酷い誤解だった。
だが、僕はまだ折れちゃいなかった。
何とか誤解を解かないと。最悪に愛を永久に失おうとも関係ない。彼女たちのゆくすえが心配だ。
恥を忍び、ロジオンに起こったことの全てを話した。
「へえ! アキム君がねえ。果樹園の息子だっけね? それに看板娘のニーナちゃんに……あのマルガリータ! これは面白いことになったねえ!」
「面白くなんかない」
「そうだね、そうだね、ごめんねえ。セルゲイ君、キミをしばらく、ここで匿ってあげるよ。服も用意してあげるし、食事だってもちろん! 外出も好きにしてくれていいけど、出入りするときは裏口からで、顔を見られないように注意してね。それだけは約束」
「ありがとうございます……」
僕はロジオンの家に潜伏した。隙を見て何度か外出をした。
黙っていても世界は動いてしまう。塞ぎ込んでいる時間はない。何が起こってるか知るんだ。何とかしてグレーテの誤解を解きたい。
王女とコンタクトをとって、僕の居た世界を救いたい。そこから僕が居なくなろうとも。
僕は毛皮のコートとロシア帽を深く被って、かつての生活圏をうろついた。
だが、どんなに外を徘徊しても彼女を見つけることはできなかった。丘の上の城を見上げるが、僕の視力でも透視なんてできやしない。
噂を探した闇雲な徘徊よりも、ロジオンのくれる情報のほうがよっぽどましだった。
王女陛下は再犯死刑制度に対して、嘆願書による死刑回避や刑の減量のルールを規定しようとしているらしかった。
ロジオンは「実際の回答結果だと踏み切るのには物足りないから、あえて分かりやすく細工してたのが効いたみたい。王女は私を信じてるからね……ズルしてサボるタイプだってね」と言った。
それがどれだけの意味があったかは分からないが、彼はそういった細かな細工やコントロールを愉しんでいた。
今も王女は彼の思惑通りに動き、制度を疑い馬車馬のように働き、漆黒のドレスをまとい、刑を執行し続けている。
グレーテのことをたずねると、彼女が外回りから外されたことを知らされた。
この変化は、あの事件がグレーテの中だけで完結しなかったことを示す。
診療所の鍵は締められていた。外に隠してあった予備の鍵は無事だ。入り口には“休業中”の札がかけられており、食卓は綺麗に片付けられていた。
見習いがやったのか……まさかグレーテがやったのか? いや、調査に来た軍部や星室の職員だろう。
自室のベッドはそのままだった。レイプのあった現場というよりは、殺人現場のようだった。
引きずったような黒い跡や、切り裂かれたメイド服が残されていた。グレーテはどうやってこの場を去ったのだろうか。
デスクの上にあったはずのハンドクリームと日記帳が消えていた。証拠品として押収されたのかもしれない。
だが、ワインは棚に片付けられていたし、沈殿物もそのままだった。
ロジオンは僕が軍部に調べられているかどうかについては分からないと言った。知らないはずはなかったが、彼は愉しんでいるのだろう。
それから、マルクさんの店にも近付いた。さすがに入る勇気はなかったが、通行人のふりをして前を通ってみた。
ニーナがぼんやりと外を見ていた。気付かれたつもりはなかったけど、角を曲がるときに振り返ったら、店の扉が開くところだったので慌てて逃げ帰った。
時計の針は進み。運命の歯車は回り続けた。
ロジオンからは革命団体側の情報も入ってきた。
彼は「スパイ情報を共有する相手ができたのがとても嬉しい」と宣っていた。本当に勝手な男だ。
ゲルト=ゲルトはシードル副将軍を陥落させ、武器の横流しを始めていた。
シードル副将軍は自分の弱さのせいで罪人が増え、人が死ぬことを苦悩した。するとロジオンは嫌っていたはずの彼のことを好きになった。
ゲルトの計画には、内戦を起こすために、商人連中とは別の革命団体を立ち上げる計画があるのだそうだ。
これはアンチ処刑を掲げたグループで、ルカ名誉国王を支持し“死刑姫サーシャ”を糾弾するのが目的らしい。要するに武力による王室の破壊が狙いのようだ。
ゲルトが流した処刑動画のせいで、世界はソソンを、その君主を残酷で後進的な人間としてジャッジしている。
実際にテロ活動が始まれば、それは外の世界からは正義に見えるだろう。そうすれば国レベルの支援や、自慰的な慈善活動を行う団体が釣りあげられるだろうとのことだった。
「困ったね。そうなれば私にももう、止められないよ。貧乏の始まりかなあ……」
ロジオンは本当に困っているようだった。
僕が雲隠れしてから、アキムは違法行為を任されるようになっていた。
王女派の臣下の家へ嫌がらせの投書や投石、放火をしたり、ゲルトに従わない商会の要人への恐喝などをしたり。
ほかにも、子供の誘拐や暴行、国外の人間との接触などの危険な任務にも足を突っ込んでいると聞かされた。
「アキム君はワルだねえ。自分が捨て駒だって気付いてるのかな?」
僕とグレーテをはめたアキムへの憎悪は強かったが、ボタンの掛け違えさえなければ、憎みあうことも憐れむこともなかったかもしれない。それだけが悔やまれた。
だが彼はもう、駄目だろう。テロルの風に乗って風雲児の名が聞こえることもしばしばだった。半面、消えた名医のことは誰もささやいていなかった。
テロ活動が起これば軍部も動き始める。
そしてそれが、新たな悲劇の始まりを告げた。これ以上、何を不幸にすることがあるっていうんだろうか……。
「おい、見ろよ。あの死刑囚、いやに小さいが、子供じゃないか?」
見知らぬ男にたずねられる。王女に気づかれるはずもなかったが、僕は広場の後方で処刑の見学を行っていた。
王女陛下の顔を見ることで、グレーテの状況を粉雪のひとつぶほどでも知れないかと淡い期待を抱いてのことだった。
言うまでもなく、大勢の人間の中に姿を現すことへのリスクとは釣り合わない。でも、何かをせずにはいられなかった。
男の指摘通り、壇上で柱に括りつけられているのは、まったくの子供だった。目が良くなくても分かる。
僕は非難を無視して人々を掻き分け、王女の表情が分かる位置まで移動した。
……。
グレーテを愛し、アキムを見逃し、国のために怒り、汚名を被ってでも気丈であり続けたアレクサンドラ王女。
彼女は、サーシャは絶望していた。これまで彼女の身体から出ていた拒絶は、内面から来る快楽への抵抗だったはずだ。
今のサーシャは露骨に刑の執行そのものを嫌がっていた。わがままな子供のように動かないことで、必死に抵抗しようとしていた。
将軍のニコライは、そんな彼女を怒鳴りつけていた。
「ニコライ将軍の息子が殉職したらしい。殺したのがあの子供なんだって」
「子供が軍人をか?」
権力のバランスの狂った日だった。子供のテロリストが軍人を殺し、壇上では王室の権限よりも、将軍の力のほうが強いように見えた。
ニコライは王女を怒鳴り付け、刑吏の号令を横取りし……。
嫌がる王女に無理矢理ナイフを握らせて……。
子供を殺害させた。
見学者たちからも厳しい非難が投げ付けられた。
それはニコライへの罵声でもあれば、王女への憐れみであり、ソソンの宝たる子供への命乞いだった。
そして、憐れな少年の名を呼ぶ声もはっきりと聞こえた。
王女はレイプされたも同然だった。それも二度。一度はニコライに、もう一度は自分自身の中の悪魔に。
僕は全てが終わった気がした。もう、王女が立ち上がることはないだろう。
彼女を支えるべきグレーテはアキムが……いや、僕が壊してしまっていた。将軍も加害者で、大臣は裏切者だ。
いよいよ僕も絶望すべきなのか。すべてを諦めるべきなのか。
「んんんんん!! サーシャ王女、万歳!!」
その日のロジオンは、あの小太りで毛皮づくめの身体を宙返りさせて喜んだ。僕は酒と薬物が欲しくなった。
ゲルト=ゲルト。恐るべき男。子供をテロリストに仕立て上げ、王女に処刑させたのはヤツの計略だった。
「女を甘やかす国は成長しないどころか、亡びる運命にある。かの指導者の言葉だよ」
ゲルトがそう言ったらしい。それは歴史に名を刻む虐殺者の発言だ。
ゲルトは商館を手中に収め、地下娼館を運営し、弱みのある者のいのちとたましい、欲深い者たちの下半身を掌握した。
「弱ったところがチャンスだ。女は弱い男を支配するよりも、強い男に支配されたがる」
ゲルトの笑い声が聞こえる気がする。
それから、ロジオンから“例の計画”が動いたことを聞かされた。
レオニート・レヴォーヴィチ・トルストイ。王室の馬車の整備も手掛ける馬車屋の息子。
彼を王女のそばへ送り込み、あわよくば王女の恋人に、それかスパイ活動のかなめにする計画。
ゲルトは場合によっては王室を象徴として維持したまま国を掌握するヴィジョンも持っているらしかった。
「あんまり良い噂は聞かないねえ」
レオニートは美形との評判の男で、馬車屋の息子だけあって、彼のムスコも馬並で、あちらこちらで雌馬に鞭打ってる噂をもつ。
顔か。顔は案外役に立つかもしれない。彼は頭のほうはあまり良くない。それに、腕も大して立つというわけではないようだ。
……だって、彼は僕の足元で死んでいるのだから。
レオニートの胴体と頭部は綺麗に分かれていた。
「ちょっと! 人の家に死体なんて! セルゲイ君、キミはなんてことを!」
さすがにハゲ親父もたまげたようだ。だが、許しておけるわけがなかった。
ゲルトは彼を使った忌々しい計画の実行を命じた。
事前にニコライ将軍の居場所を調べ、アキムを利用して彼の付近で群衆を扇動し混乱を起こす。そこへレオニートを投入して英雄的行為を起こさせ、将軍の目に留まらせる。
「ドリャモエゴオッサ!」
これはレオニートがニコライを狙った暴徒を鎮圧した際に叫んだ言葉だ。
ニコライの殉職した息子ロマンの口癖でもあったらしい。ゲルトは人の心をよく心得た冷血漢だった。
計画通り、レオニートはニコライに取り入ることに成功した。
ゲルトは強大だ。そして、ソソン最大の敵だ。僕は自身の不能を打ち破る必要があった。そして、レオニートを王室に近付けさせるわけにはいかなかった。
まさかこんな形で“あの人”に仕込まれた剣技が役に立つとは思わなかった。
今さら『人殺し』だろうが何だろうが、たいした話じゃない。
――ただ、少女たちのために。
迷いのない一閃は、安物のサーベルを伝説の妖刀へと進化させた。
レオニートはどうして景色が急に低くなったのか理解できなかっただろう。
僕が拾い上げたときにはまだ瞬きをしていた。神経の反応ではなく、意図的な動作に見えた。
斬首された者が石にかじりついたりするという逸話を思い出した。どうでもいいことだ。
「どうせ殺すなら、ゲルト君の首を斬ったほうが良かったんじゃない?」
ロジオンは冷たくなったレオニートの頭部を眺めながら言った。
「あれだけ敵を多く作ってるのに誰もしないんですよ。無駄死にをする気はありません」
もちろん、ゲルトの暗殺も考えていた。だが、ヤツにはこちらの顔が割れているうえに、ボディガードが多すぎた。慎重な男へは武器を持って近付くだけでも危険だった。
「知ってて言ってるんだけどね。仮にあいつが死んでも部下がでしゃばるだけ。それに、“これ”をここに持ってきたってことは、キミは捕まるつもりはないんだろう? そして、何か面白い考えが?」
生首を指さすロジオンは笑顔だった。
不覚にも可愛らしいと思った。ニーナとのことを語るアキムや、王女陛下の話をするグレーテに勝るとも劣らない会心の笑みだ。
「彼とすり替わります」
僕は言った。
「へ!? いやいや。確かに体格は似てるけど、流石に無理があるよ」
「世界には整形手術というものがあります」
「あの、女の子が美人になるために顔にナイフを入れるやつだよね?」
「ナイフじゃありません。メスです。レオニートと将軍は一度しか顔を合わせていないはず。騙せると思います。専門の整形外科医でなくとも、無免許でも構わない。何とか手伝ってくれる医者を手配出来ませんか?」
「できなくはないけど……これはまた……面白いね! でも、大丈夫なのかい?」
「整形したことがないので分かりませんが、しばらくは表情は動かせないかもしれません」
「あっはっは! 私が聞いてるのはそんなことじゃないよ! だって、レオニートと入れ替わるってことは、セルゲイという存在が消えてしまうってことなんだよ? マルガリータちゃんとの誤解はどうするんだい? それに、敬愛する王女やキミを憎んだままの彼女のそばに行くってことだ! それは、死ぬよりもつらいことじゃないかい?」
ロジオンは大爆笑だった。腹のひとつも立たなかった。彼は自己中心的であったが、誰よりも僕を理解していた……。
「だからです。僕は罪を償わなきゃいけない」
「マルガリータちゃんを襲ったのはアキム君なのに?」
「そういう問題じゃないんです。哀しませたのは僕だ。今さら元の関係には戻れない……」
ほんとうに、哀しいことだ。もしかしたら、彼女と温かい家庭を築く未来もあったかもしれないのに。
だが、優先されるべきは“僕たちの幸せ”なんかじゃなく“彼女たちの幸せ”であるべきだ。
「王女陛下のこともお支えしなくてはいけないんです。もちろん、グレーテのことも。彼女たちはきっと立ち直れない……」
わけのわからない馬車屋の息子が近付けば、何が起こるか分からない。それなら心を殺してでも僕が行くべきだろう。
残りの人生を全て彼女たちに捧げる。
「そう? 彼女たち、あんがい元気だと思うけど。最近はまたおしゃべりとかしてるみたいだよ。マルガリータちゃんはもちろん、メイドのだいたいが王女と仲良しだよ」
「えっ……?」
初耳だった。ついでに死体がむせて咳き込む空耳までもが聞こえた。
「あーあ。可哀想なセルゲイ君。ひっとごろしー! もしかしたら、弁解するチャンスもあったかもしれないのに……。ま、こんなものを私の家に持ち込んだんだ。私の負ったリスクのぶんだけは愉しませてもらうよ」
ロジオンは僕の肩に手を置いた。
「……わざと黙っていたんですね。でも構いません。彼女たちが笑っているならそれで良い。そのほうが僕は“可哀想”だし、償いにもうってつけでしょう」
笑うしかなかった。だが、自分への慰めが空回りだとしても、彼女たちを護るという任務は残る。それにロジオンに心臓をつかまれているのは同じだ。
「今のキミは最高に素敵だよ。これからも輝き続けて欲しい」
この親父は本当に良い笑顔をする。僕はこうならなくて良かった。
「そうそう、愉しみ以外にも、しっかりと働いてもらうからね。私はただの異常者や自己中ではない。これでも一応、ソソン王国が巡検大臣だ」
「分かっています。国のためにもなんでもしますよ。だけど、彼女たちふたりのことは……」
「うんうん。任せてくれたまえ! ふたりでソソンを素敵な国にしようねえ! セルゲイ君!」
僕は最低で最高のパートナーと握手を交わす。
「巡検大臣、違いますよ。私はセルゲイではありません」
僕は無表情を努めて言った。仮面だ。心身共に仮面をつけて、冷徹に任務をこなすんだ。
「そうだった。ともに頑張ろうね、レオニート君! 新たな罪と血にまみれた罰の道を、いざゆかん!」
太っちょの男は宙がえりを披露した。
こうして、処刑人の息子で慈悲なる名医のセルゲイ・キリーロヴィチ・アサエムは死んだ。
“かれ”はたましいだけになって、悠久の責め苦を受け続けるだろう。
せめてその果てに、少女たちの笑顔のあらんことを……。




