死刑2-16 太陽のおしゃべり
グレーテとの逢引き。僕はニーナの助けを得て、自宅兼診療所に彼女を招くことにした。
食事の日は数日前から休業することを張り紙で知らせておいた。邪魔が入るといけないから。
僕は今、独り暮らしだ。午前中に医者志望の見習いが出入りするくらいで、診察もたいていは単独でやっている。
入院患者はアキムに革命活動に誘われてからは断るようにしている。今はどのベッドも空いたままだ。
むろん、 炊事洗濯掃除なども自分で行っている。
ニーナやマルクさんには到底及ばないが、他人に食べさせられるくらいの調理もできるつもりだ。
ボルシチが良いだろうか、梨のシャーベットは外せないだろう。彼女は辛いものも好きだから、スパイスの利いた柔らかい肉料理を用意するのも良い。
グレーテはけっこう食べるほうだ。それでいてけっこう細身に見える。痩せていることは、メイド服になるまでは気付けなかった。
もう少し太ったほうが健康に良い。食事は少し多めに用意しておこう。
普段は消毒液のせいで食卓まで食欲も失せるありさまだが、今日は寝室から診療所までも、どこのパブにも負けない温かな香りでいっぱいにしよう。
今朝からずっと晴れている。太陽が出ていた。こういう日はアキムが野良仕事に精を出す。ニーナも西の果樹園へはるばる彼へ弁当を届けるかもしれない。
王女陛下はどうしているだろうか。天気の良い日は庭に出たりするのだろうか。彼女は化粧がなくとも雪のように白い肌をしていた。
“サーシャさま”、今日だけはマルガリータを僕へ貸してやってください。
僕はがらにもなく、はしゃいでいた。グレーテのために、“ある計画”を仕度していた。
もちろん、そのためだけの逢引きじゃない。この前の話をちゃんとしておきたかったし、王女陛下についても語らいたかった。
“ルフィナ事件”には冷や汗が出た。そのうえ、この国の裏でうごめく悪の告発をするチャンスだったのに逃してしまった。
だが、王女は以前の僕が思っていた神などではなく、ひとりの人間だということをはっきりと語ってくれていた。誰しもが同じだ。
それは僕の苦しみをほとんど拭い去ってくれたんだ。つまらないことでくよくよ悩むのはもう終わりにしよう。
食事の約束は夕方だ。
待ち遠しくて仕方がなかった。
診療所の扉がノックされた。二回の適当なノック。これだけで落胆した。グレーテは王城暮らしになってからは、三度ドアベルを使うメイド方式で僕たちをたずねている。
休診の札もだしてはいたが、それでも無視したら悪いだろう。この時間ならまだ、患者を診てやっても平気だ。
僕は応答し玄関に出ると、ジュストコールに羽つきの毛皮の帽子を被った男が立っていた。
「どうも、先生。先日のアンケートの回収を」
アンケート。巡検室だ。
「ご苦労様です。すぐに持ってきます」
部屋へ戻り用紙をとり、係員に渡す。
「そうそう、それと、これです」
彼はなぜか、ボトルを僕へ手渡してきた。
「ワイン?」
「じゃないですかね。さっき、クシチェンコさんところの店へ回収に行ったときに、青年からあなたへこれを渡すように頼まれたんです」
クシチェンコ。ニーナの姓だ。青年はアキムだろう。つまりは彼からの差し入れということか。
「ありがとうございます」
「近いんだから自分で届けりゃ良いと思うんですけどね。私を配達員かなにかと勘違いしているんじゃないんですかね?」
「ごめんなさい。彼には言っておきますから」
「頼みますよ」
苦言を呈する係員の背中を見送りながら、僕は少し笑ってしまった。
彼が回収したアンケート。それは「罪の見逃し」に関するアンケートだった。
身内や親しい間柄の犯罪行為を見逃したり、揉み消したりしたことがあるかという内容だ。それに再犯死刑制度への意見を書く欄もあった。
たぶん、王女陛下の仕事の中に、現在の死刑制度の不平等を均すためのものが含まれているのだろう。
僕は子供の頃のアキムが面倒をかけたエピソードをいくつか書いてやった。今まさに、その面倒の被害に遭った人に用紙を渡したのだから笑える。
「続け脱童貞! ニプハニペラ。親友より……か」
ボトルの首にはカードが下げられていた。僕は苦笑いだ。
格好をつけたつもりだろうが、相変わらずの下手糞な字だ。アキムは子供のころから字が下手なままだ。でも、それがかえって温かく思えた。
僕は自分で用意していたワインを片付け、友人からの贈り物を飾るように置いた。
……が、少し考えてそれはテーブルには乗せないでおいた。応援は受け取るが、これは僕の戦いだ。グレーテはラベルを見たら気付いてしまうかもしれない。
ちょっとした嫉妬心で、注ぐときだけに登場して貰うことにした。
「グレーテ、まだかな」
彼女を待ちながら何度も暖炉の具合を確認した。シチューは仕度をしておいたが、肉はいっしょに焼いて食べようと計画している。
それから部屋に戻って、机の上の日記の横に置いてある“贈り物”を何度も確認した。
僕は、彼女に将来の約束を求めようと考えている。そのときに渡そうと考えているプレゼントだ。
アサエム家の特権を使って外国から仕入れた逸品。効果はきっと確かだろう。処刑人としての仕事がなくなったから、顔見知りの国境室の役員に首を縦に振らせるのにかなり苦労した。
「たのもー!」
明るい女子の声。続く三度のノックは無意味だった。僕は慌てて贈り物を置くと、玄関へと走る。
「いらっしゃい、マルガリータ 」
僕は口元がほころんで痛いくらいだった。
「まだ、お日様はてっぺんですけど!」
そばかすの少女が上を指して笑った。
「仕度は済んでるから平気だよ」
僕がそう言うと、グレーテはひょいと僕と扉のあいだに身体を滑りこませて、中で鼻を鳴らした。
通り抜けたあとに不思議な香りが漂った。覚えのない香りだったけど、彼女によく馴染んでいる気がした。
「うんうん、薬臭くないね……よろしい! それでは、お邪魔しましょうかねえ」
涎らしきものをすする音が聞こえた。
「グレーテ」
「はい、何でしょう?」
振り返り、栗色の三つ編みが跳ねる。
「似合ってるよ、それ」
今日のグレーテはメイド服姿じゃなかった。ニーナをまねてか、ドレス風のアレンジの加えられたしゃれた毛皮のコートを着込んでいた。
「……ヘヘヘ。おめかししたのがばれましたか」
グレーテがはにかむ。
「隠すものじゃないだろうに」
僕も笑う。
「お給金で仕立ててもらったのは良かったんだけど、着るタイミングがなくって。でも、なんでもない日に着るのももったいないし……」
「……」
今日はただふたりで食事をしようと言っただけのはずだった。
これまでだって彼女がたずねて来てふたりきりで食事をしたことくらいはある。それは何でもない日なのだけれど……。
「ヘヘ……」
グレーテはもう一度はにかんだ。
「と、とにかく奥へ」
部屋へと案内すると、グレーテはさらに笑った。
「暖かい。意味無かった」
そう言うと重ね着していたコートを脱いだ。それから、慣れた手つきでそれを上着掛けへと引っ掛ける。
「あれ? 下はメイド服だね。今日はオフじゃなかったの?」
「午前中はちょっとお手伝いをしてました!」
そう言って彼女はポケットから黒いリボンのついたヘッドドレスを取り出すと頭に装着した。なんでわざわざ?
僕が首を傾げているとメイドがのたまった。
「セルゲイ君が喜ぶかなあ、なんて。見て見て。こっちのほうが可愛いでしょー?」
サービスのつもりだったらしい。てっきり仕事が忙しくて早く帰らなければいけないとか、そういうことを想像してしまった。
僕は勝手な仕返しに、眼鏡を外してまじまじと見つめてやった。
「……あんまり見ないで」
「どっちだよ」
「あはは。セルゲイの眼鏡外した顔、けっこう格好良いよねえ。眼鏡で損してる」
「城じゃないんだから、顔なんて二の次さ。僕は医者だぞ」
そう言って眼鏡を掛け直す。
「あっ、性格や能力にも自信ありって物言い!」
「駄目かい?」
「駄目じゃありません! けっこうです! それじゃあ、さっそく、お料理のほうの腕前も……」
グレーテは食卓の席についた。僕はそちらへは行かずソファの近くにある丸椅子に座った。
「まだお昼だよ。シチューは少しでも寝かせたいし。もしかして、何も食べずにここへ?」
「あっ、ううん。しっかり食べてきました。お食事という名目だったので、つい」
グレーテは慌てて席を立ち、こちらへとやってくる。
テーブルとソファー、向かいには僕。グレーテはすぐには座らず、僕とソファを見比べた。
「どうしたの? 座りなよ」
「セルゲイはそっち?」
僕の椅子のことを言っているのだろう。診察室ではこれと似た、背もたれのないスツールを使って仕事をしている。
「お客様をこんな椅子に座らせちゃ駄目だろう? というか、キミがたずねて来るときはいつもこのスタイルじゃないか」
「そうだけどー」
グレーテはソファの中心からややずれて座った。それからとなりを叩いて見せた。
「となりに座れって?」
僕がたずねるとグレーテはまっかになってうなずいた。……何? “脈あり”じゃないかって? そうじゃない。
「ニーナにやれって言われたんだな」
僕は溜め息をついた。
「正解です。そのほうがセルゲイが喜ぶからって」
頭を掻くグレーテ。この手のからかいは十年来のお約束だ。
「馬鹿正直に実行しなくても。もしかして、そのメイド服も?」
「あっ、これはサーシャさまからのアドバイスだったり……コート着て行くって言ったら、どうせ脱ぐでしょうからって」
「王女陛下に今日のことを話したのかい?」
秘密にしておいて欲しかった。今日のことは、ふたりだけで共有したかったが……。
「違うよ? だって……」
だけど、グレーテは言いかけてやめた。
ならばこういうことだろう。
「ニーナが伝言をしたときに、となりに居た、だろ?」
僕がそう言うと、グレーテの顔から血の気が引いていった。とても分かりやすい反応だ。
「ニ、ニーナとサーシャさまが会うはずないじゃありませんかあ」
両手をぶんぶん振って否定するメイドの娘。
「そうだね、会ったのはルフィナさんだよね」
「そ、そうです! ルフィナさんですよう!」
「ノーメイクだったし、髪型が違ったからほとんど別人に見えたよ。でも、美人だった。さすがは王女様だ」
「そうなんですよう。サーシャさまはほんとに美人で……」
そう言ってから自分の口を塞ぐグレーテ。
「王女陛下とふたりで、屋台でクジマ芋を買い食いしただろ。隣に座っていらしたから匂いで分かったよ」
「ああああああ!」
グレーテは革のクッションを抱いて顔を隠し、ソファの上を転げ回った。からかうと本当に面白い子だ。
「それはともかく、あの日は本当に失礼なことをしたと思ってる。アキムは気付いていないようだったけど、ニーナには教えておいた。彼女はアキムが処罰されないか酷く気にしていたよ」
僕は冗談めかした言いかたを止めた。
「……へへへ。大丈夫だよ。サーシャさまも、あのときは王女じゃなかったから不問にするって仰ってました」
グレーテは抱いたクッションから顔を出して言った。
「そっか。それなら良かった。ところで、どうしてあんなお忍びを?」
「それは、私がオトコあ……」
グレーテは何か言い掛けたが、またクッションで顔を隠した。
「何だって? まあ、話せないことなら無理に訊かないけど」
「えっとですねえ。やっぱり王室のかたって、ルールが厳しくてお城から出られないので、城下の庶民の暮らしが知りたいと仰ってまして」
グレーテが座り直す。三つ編みが歪んで間抜けな感じになっている。クッションも抱いたままだ。
「それは光栄だね。でも、幻滅させてないか心配だ」
「うーん。どうでしょうね。やっぱりアキムの酔っ払いには怒っていらっしゃいましたし……。でも、王女ではなく普通の女の子としてお出かけしたかったと仰っていたので、アキムの失礼にもちょっと喜んでいらしたんですよねえ」
メイド調で話すグレーテ。
「そうか。僕も、初めは分からなかった。目が良いからさ、離れた壇上に立たれていても顔が覚えられるんだ。たぶん、普通の人だったら服装やメイクだけで騙せるんだろうけど。ニーナも教えるまでは気付いていなかったし」
「私たちもそれで騙せるかなって思って。お城や城下ですらバレなかったし、帰ってからも抜けだしたことに気付いてた人は一人もいなかったんだよ」
「それなら良かった。お忍びを言いだしたのは陛下から?」
「……半々かな」
グレーテはいたずらっぽい笑みを浮かべた。僕は溜め息をついた。
「陛下が同意したから出てきたんだろうけど、あまり危ないことをさせちゃ駄目だぞ。治安は戻ったけど、変なやつがいないとも限らないからな」
治安が戻ったのは表向きだけだ。実際は、地下で悪人たちが跋扈している。
「そうだよね。ローベルトみたいなのも居るし」
「あいつはとんでもないヤツだった」
「うん。サーシャさまのこと無理矢理襲うつもりだった。そういうの、良くないよ……」
哀し気にうつむくグレーテ。最低の極みに対しても「良くない」で済ませるのは優しすぎだ。
僕は胸が痛んだ。彼女が可哀想だったからというのもあるが、王女とグレーテへのよこしまな気持ちが抑えられなかった時期は、そういった類の妄想にも世話になっていたから。
「悪いことをしたら死刑になっちゃうのに、どうしてそんなことができるのかな。死んじゃっても良いのかな?」
「死にたいはずはないさ。だけど、人間の何パーセントかには、罰を恐れないパーソナリティを持った者が産まれてしまうらしい。ものの本で読んだ」
「それじゃあ、痛いことをされる死刑でも関係ないね……。私はそういう人じゃなくって良かった。セルゲイも、ニーナも……」
グレーテは腕を組んで唸った。
「アキムもそういうタイプじゃないと思うぞ」
「そうなの? でも、小さいときから悪いことばっかりしてるよ?」
「あいつにも色々あるんだよ。彼は彼なりに悩んでる」
「……そっか。そうだよね。みんな、ずっと一緒にいるけど、ちっとも自分のことを話してくれないしなあ」
グレーテは寂しそうだった。
「話してないかな。顔を合わせてるたびに、喉が渇くまでおしゃべりをしてる気がするけど」
「話してくれてません! 最近は元気になったけど、ニーナだってなにか悩んでるみたいだったけど言わなかったし。セルゲイだって、お父さんが亡くなったとき……」
彼女は鼻声になってしまった。
「ごめん、そうだね。暗い話はやめよう」
「駄目だよ。セルゲイ、悩みとかがあるなら、ちゃんと言ってね?」
グレーテは席を立つと、僕の後ろへ回り込もうとした。
僕は背もたれがないのをいいことに、ぐるりと回って彼女の企みを阻止した。
グレーテはさらに僕の後ろへと回り込もうとした。
「じゃあ、前から」
両手を伸ばし迫ってくるグレーテ。抱きすくめる気だ。ニーナにやってるのを何度も見たことがある。小さいころには僕もよくやられた。
「こら。それは大人の男に対して軽々しくすべきじゃない」
「男の子には……セルゲイにしかしないよ」
「それでもだ。キミも年頃だろうに」
「それでもです。ちゃんと話してくれないなら押し倒しますよ!」
と、言うなりグレーテは僕へ飛びかかろうとした。
「アキムじゃないんだから。……っていうか、背もたれがないから勘弁してくれ」
「危なかった……」
本気で飛びつく気だったらしい。グレーテに抱き着かれるのは嬉しいが、後頭部と床がキスするのはごめんだ。
「でも、傷付いちゃうなあ」
グレーテはソファに戻り、拗ねるように言った。
「スキンシップは節度をもって頼むよ」
「はあい。ところで、本当にお悩みはありませんか? 今日はふたりきりですよ?」
「メイド調で話すのか普通に話すのかどっちかにしてくれよ。調子が狂う」
「ごめんごめん。すっかり癖になってて」
「悩みというか、話はなくはないよ。ふたつだ。片方はキミに、片方は王女陛下に話したい」
「サーシャさまに?」
「うん。国の問題について直接お耳に入れたいことがあるんだ。巡検室を通す投書じゃなしにね」
「それなら、どっちも私に話したらよくない?」
「いくらキミでも聞かせられないな。長くなるし、専門的な話もでてくるけど、ちゃんと伝えてくれるかい?」
「それはちょっと無理」
にへらと歯を見せるグレーテ。
方便だ。グレーテでもゲルトの名前くらいは知ってるだろう。だが、王室に仕える者たちの中にも裏切者が存在することは聞かせたくなかった。
彼女にとっては素敵なお城のままであって欲しい。
「じゃあ、もうひとつのほうは? 私におはなしでしょ?」
「それは……食事のときか、後にするよ。プレゼントもあるんだ……」
僕の語尾は弱々しかった。
「うん……そっか、分かったよ。おはなし、楽しみにしてる!」
反対にグレーテは両手のこぶしを握って言った。
ほとんど内容を言ったようなものだったが、彼女の場合は案外変な方向に勘違いしている可能性もある。過度な期待はやめておこう。
「それまで、王女陛下の話を聞かせてくれないか? 仲が良いんだろう?」
「任せてください! えっとね……」
グレーテは普段の王女とのやりとりを聞かせてくれた。
いっしょにつまみ食いをしたり、おしゃべりをしたり、お風呂に入ったり、服の交換をしたり、互いに互いのヘアメイクをしてみたり……。
ふたりのことで不埒な妄想は慣れたつもりだったが、こっちの人間くさい事実のほうが愛おしく思えた。
ところどころ、グレーテが王女へ向けている感情が、異性に対する愛情と同類のものではないかと感じて嫉妬を覚えた。
面白かったのは、チェスやチェッカーの話だ。
ふたりでよく遊んで、初めのうちはグレーテは王女陛下に全くこてんぱんだったそうだが、今ではたまに勝てるようになったと言っていた。
ボードゲームの類は僕ら四人、それとマルクさんとのあいだでも遊ばれたけど、グレーテはいちばん駄目だった。
アキムは勉強はできないが、こういう遊びになると急に頭が回るようになるタイプだ。
僕たちの中では僕がいちばん勝率が高かったけど、あいつはたびたび僕を出し抜いた。
グレーテが「今の私ならセルゲイにも負けないよ!」と豪語するものだから、陽が沈むまでの時間つぶしとしてチェスをやってみた。
……が、彼女はまったく素人のままだった。
「えーっ!? どうして勝てないの!? 私、上手くなったのに!」
グレーテが頭を抱えて声をあげる。
僕は数年振りにチェスを遊んで、駒の動かしかたまでも少し怪しかったのに。
どうやら、普段から“接待”をしているのはサーシャさまのほうだったらしい。
ふたりがずいぶんと普通の女の子らしく余暇を過ごせているようで、ほっとした。
仕事と残酷な処刑の任務に追われ、あまつさえ幼少から城に閉じ込められ続けた王女にとって、これ以上の癒しはないはずだ。
おはなしや本の世界でだって、お姫様というのはそういう感じだろう。
グレーテもグレーテで、アキムに引っ張られる形でおしとやかとは疎遠でもあったし、僕はニーナといっしょになってそれを心配したことがあった。
メイドの技術や王女の趣味の縫物だとか、そういったグレーテのやり損なっていたものが埋め合わされた形になっていたようだ。
彼女の城行きに反対しなくて本当に良かった。
僕は、落ち着いて夜を迎えられそうだと思った。
一つだけ心配なのは、自分の中に居る獣だ。ヤツはグレーテや王女が可哀想になることを望んでいる。
精神に対しては理性で戦うことができるが、肉体的な反応は抑えられない。
この性癖は、いまのところふたりへ実害を与えていない。患者を死なせた罪は消えないが、これからの医者としての生で精一杯償い続けると誓う。
だから、僕にも幸せになる権利をください。
僕は心の中で、名前も知らない神様へ祈りを捧げた。
……。
「このお肉美味しいねえ」
いっしょに暖炉で焼いた肉をほおばるグレーテ。食事中の彼女は本当に幸せそうだ。
「ワインもあるよ」
僕は戸棚から贈りのものワインを引っ張り出して、栓を抜き、赤い液体をグラスに注いだ。
グレーテがやりたがったが、ワインの正体を知られるのがしゃくで素早く仕事を片付けた。
「へへへ……おいしい。私を酔っ払わせて、どうするつもりですかねえ」
「どうもしないさ」
僕もワインに口をつける。専門的な批評はできないが、これはたしかに見事な代物だ。濃厚なブドウのあとを梨の味がさわやかに追いかける。
「変なことは、まだ、しちゃ駄目だからねえ」
グレーテはもう酔っ払っているのか、頬が赤かった。
「セルゲイさん!」
「はい」
「あのね。私ね。考えたんですけど……」
「うん」
「もしも、サーシャさまがご結婚なされたら、お城を出ようと思うのです」
「出るのかい? スヴェトラーナさんみたいに教育係を目指したりは?」
「しません。私じゃ、ちゃんと教育なんてできないし。それに、自分の手でちゃんと育てたいってサーシャさまもおっしゃってましたから」
「王女陛下は生まれた日にお母上を亡くしていらっしゃるからね……」
哀しいことだ。
「うん。サーシャさまには、立派なお母さんになって欲しい」
「グレーテは城を出たあとどうするんだい? うちに帰るんだよね?」
「帰りません! お父さんとお母さんとは喧嘩中なので!」
「いや、仲直りしなよ……」
「あそこにいたら、私たぶん幸せになれないよ」
さらりと言ってのけるグレーテ。
「じゃあ、どうするんだい?」
「サーシャさまとお約束をしていてね。サーシャさまのお子様と、私の子供をお友達にしようって!」
「できるの? それに、友達なんて親同士が決めることでもないと思うけど」
「できる……気がします。何となくだけど」
グレーテは歯を見せて笑った。歯のあいだにお肉のすじらしきものが挟まっている……。
「それで、ですねえ……」
グレーテはフォークを置いた。
「うん」
「その、お手伝いをですねえ……」
目が座っている。
「セルゲ……」
グレーテはテーブルに突っ伏してしまった。
「グレーテ!? どうしたんだ?」
立ち上がり声を揺さぶり声をかけるが、返事はない。
「……眠ってる。気絶したか。何か病気か? 気付けを」
僕はキッチンを振り返る。視線に立ちはだかるは赤黒い液体をたたえた深緑のボトル。
いや、気付けなら診療室の棚にある炭酸アンモニウムのほうが……。
「ワイン……?」
僕は違和感を感じて、ワインのボトルを手に取った。
ボトルを暖炉の光にかざす。
「何か沈んで……」
次の瞬間、気付いてしまった。
「まさか……!?」
慌ててグレーテの首筋に触れた。
脈はある。毒ではない。
グレーテ……。
彼女は純粋無垢で、美しくて、愛らしくて少しだらしのないくちびるから唾液を垂らしながら、まったくの無防備で眠っている。
当たり前だ。
このワインには睡眠薬が仕込まれていたのだから。




