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死刑2-15 どうしようもないほどに人間

 彼女が笑わなくなっていた。

 最初の処刑で微笑を浮かべていたのは知っていたが、それ以降はどうだったか分からない。

 僕は盲目となり、彼女がエクスタシーに近付くのにシンクロすることに忙しかったし。

 自身の腐った性癖を自粛するようになっても、彼女の公務は欠かさず見学しにでかけた。

 観察し直してみると、彼女の身体はやはり血や残虐行為へ素直に反応しているように思えたが、顔は明らかに拒絶を語っていた。

 僕と同じように自身の異常性を自覚したのだろうか?


 磔刑(タッケイ)、石打ち、火あぶり、それから鞭打ち。自身で定めた法だ。どの処刑においても、王女は“かれ”に一撃を下さねばならない。

 これまでは、彼女に僕自身とグレーテ、それから“あの人”の影を見ていた。罪、慈悲に慈愛。可哀想への恍惚。

 今の王女も充分に憐れではあった。だが、それは罪を犯し続けなければならない、他人の罪を拾わなければならいというものではなく、単なる被害者的な可哀想に過ぎなかった。

 今の彼女は、神そのものというよりも、神を必要としている者に見えた。


 彼女が変わったのではなく、僕が変わっただけかもしれない。

 僕は王女にではなく、死刑囚に自身が重なる気がした。つまらない昔の窃盗の再犯や火付けの罪人、王室批判の活動家でさえも僕に思えた。

 執行しているのは王女陛下ではあったが、彼女は菩薩でなく、地獄で罪人と獄卒の両方をするのに忙しそうに見えた。


執行完了!(オンナコンチェン)


 処刑終了の合図が虚しく響く。王女は王室の人間である限り、永遠にその刑期を終えることができないというのに。


「グレーテ、キミはちゃんと王女を支えてやっているのか? ここのところあまり姿を見せないが……」

 人ごみの中、僕はつぶやいた。

 石を投げる者もそうでない者も、すべてが罪人に見えた。処刑は容易に取り止めていいものではないが、処刑を愉しむ連中は残酷だ。

 これまで群衆をたいして観察してこなかったが、よく見ると酷い人間だらけだった。


 どうやって手に入れたのかは分からないが、「○○の刑のときの布きれ」だの「○○の血を吸った土」だのを見せびらかしている者。

 恋人か配偶者か、肩を抱き合いながら他者の不幸を肴にして自分たちの幸せをかみしめている者。

 飲み食いと並行して惨劇を見物している者。

 もっと酷い奴もいた。ズボンに手を突っ込んでしきりに身体を揺すってる男だ。

 あれは僕みたいなものだ。いや、僕はもうちょっとましかもしれない。そいつは汚れた手を、よその夫人の毛皮でこっそりと拭くのが楽しいようだった。


「こんな国を、王女陛下は本当に救えるのだろうか。世界は本当に間違っているのだろうか……」


 酷いありさまだ。阿鼻叫喚。まさに地獄。いや、これが“人間”なのかもしれない。

 僕らはどうしようもないほどに人間だ。きっとどこの世界でもやっていることは同じで、尺度や見掛けが違っているだけの話だろう。


 これだけならともかく、裏での革命活動やゲルト=ゲルトの企みも知っているのが苦しみに拍車をかけた。


 僕は半ば(ウロ)になりながら診察室に戻った。

 処刑の日は不思議と客が少ないんだ。普段は診療所を閉めると、必ずまちぼうけを食う人やドアを叩く人がいるんだが。

 自身の健康よりも、他人の死を見るほうがそんなに良いのか?


「くそったれ……」

 僕はその辺にあったエチルアルコールをひとくち口に含んだ。



 翌日、マルクさんの店をたずねた。今度は昼だ。アキムをぶん殴ってからはグレーテに会っても良いような気がしていた。


「あら、セルゲイ。昼に来るなんて珍しいわね」

 ニーナが笑顔とともに迎える。いっぽうカウンターに座っていた男が露骨にいやそうな顔をした。

「お邪魔だったかい?」

「いや。どっちかというと夜のほうが邪魔だね」

 不満顔一転、いたずらっぽい笑みに変わるアキム。

「夜だって食事を済ませたらさっさと帰ってるだろう? これでも気をつかってるんだぞ」

 僕も笑い返す。

「ま、その気づかいも親父さんがいたら無意味なんだけどな」

「アキム君、勘弁してよ!」

 奥でマルクさんが声をあげた。ニーナはサイレントで怒ると恋人の包帯頭を叩いた。

「でも、ナイスタイミングかも。グレーテがうちに来ると思うのよ」

 ニーナが言った。

「今日かい?」

「たぶんね。買い出しの当番なのは確実。そろそろワインを取りに来るはずなの」

「うちのワインだぜ。グレーテのお城勤めの記念に持たせたやつが料理長の目に留まったらしくてな。じいさんの代で作った年代物だ。今は、お得意様と城の料理の隠し味にしか使ってないレアな一品だ」

「キミの仕込んだのも、いつかは世界中の高級料理屋が欲しがる一品になるかもしれないぞ」

 僕はあえて離れたテーブルに向かった。

「そうよアキム。諦めちゃ駄目」

 ニーナが言った。アキムは全てを話したんだろうか。

 腰を掛ける瞬間、ふたりはまるで僕もマルクさんも店内にいないかのように振る舞った。それから二人はカウンターから離れた。


「せっかく久々に全員が揃うんだ。雪を取ってくる」

 アキムが器を持って外の新雪を取りに行った。ニーナはその隙にボトルを一本テーブルに置いてやっていた。

「みんなそろうのか。じゃあ、あとで何か作ってあげよう」

 マルクさんも楽しげだった。


 グレーテはすぐには現れなかった。いつもたずねる時間を少し過ぎていた。

 アキムは我慢ができなかったらしく、そうそうにアルコールが入った。


 僕は愉し気に話すアキムとニーナを眺める。こいつらは勝手に幸せになってくれればいい。それが叶うかは分からないが。

 お互い相手が居るだけ、僕よりはマシだろう。


「おじさーん!」

 裏手のほうで馬鹿っぽい声が聞こえた。僕たちは吹き出して会話を中断してしまった。

 グレーテは相変わらず元気だ。たぶん、僕たち全員にとって天使のようなものだ。マルクさんがドタドタと木床を鳴らして店の奥の勝手口へ向かって行った。

 彼女に会うのは本当に楽しみだった。難しい話やいやらしい話を抜きにしても、本当に。


「おっ、ソソンのお騒がせ者の登場だ」

 アキムも楽しそうに言った。グレーテはローベルト侵入の一件以降、その英雄的な行為で有名になっていた。

 噂にはついでにつまらない失敗が多いことも付随したが、王女のお気に入りへの妬みを回避するにはちょうど良いようだった。


「よう、グレーテ。王女陛下とねんごろになったメイドなんて前代未聞だぜ?」

 アキムがいつもの調子でからかう。酒のせいもあるだろうが、ニーナと添い遂げれたのもあるだろう。いつもよりもいやらしい言いかただ。

「あたしもサーシャさまとお友達になりたいな-」

 ニーナも乗っかりつつ、からかうような笑いを見せた。以前ならアキムを窘めた気もする。

「お友達以上の関係って噂もあるよ。僕はそっちに一杯賭けよう」

 グレーテの怒る顔が見たかった。たぶん僕ら全員が。彼女はちょっとの意地悪なら、いつも赦してくれていた。

「男にモテないグレーテなら、さもありなんだな。俺もそっちだ」

「じゃ、あたしもそっち!」

「それじゃ、賭けにならないじゃないか」

 僕たちは笑った。だが、グレーテは珍しく、本当に不快そうな表情を見せた。

「ねえ、アキムは何で怪我してるの?」

 グレーテはアキムの頭を指差した。不快の原因はそれか?

「飲んで階段から落ちたんだって! 夜中にうちに来るからびっくりしちゃったわ!」

 ニーナも少し酔っているようだ。肉の面倒を見ていたマルクさんが「えっ?」と声をあげた。


「……」

 繰り返し言うが、グレーテは本当に不快そうだった。彼女は振り返った。


 彼女の後ろには、別のメイド服の少女が居た。

 しまった。同僚を連れてきていたんだ。


「ところで、そっちのメイドさんはどちら様かな?」

 僕はいまだ笑いの消えないカップルに気付かせるように、少し大きな声でたずねる。


「うお、マジだ。すげえ美人じゃん。グレーテ、こんな子がいるならどうして今まで紹介してくれなかったんだよ!」

 アキムが即効で反応してメイドへと近寄った。酔ってるせいか、グレーテのことを強く押し退けた。

 本人曰く、あの反応は“ほんものの美人”を見たときの反応らしい。

 僕も眼鏡をずらして彼女を見た。プラチナブロンドをポニーテールにした美人だ。どこかで見た覚えがある気がした。


「この子はルフィナ。最近になって配属された子なの。今日は買い出しのことを教えるために一緒に……」

 最近? メイドの試験シーズンではないし、ローベルトの件以降、公募は停止していたはずだ。ゲルトですら難儀していたのに。何者だろう?

「俺はアキムだ。ルフィナ、俺と一緒に世界を変えないかい?」

 お決まりの口説き文句を言うアキム。

「こら、アキム!」

 ニーナが邪龍ズメイのごとき形相で席を立つ。

「いいじゃんか。“王室かぶれ”になってないメイドなんて貴重だぜ。今のうちにツバつけとかなきゃな」

「油断も隙もないんだから。ごめんなさいね、ルフィナさん。あたしはニーナ。あれは馬鹿のアキムで、そっちは賢いセルゲイ」

 ニーナが割って入り、ルフィナさんが一歩下がった。


 ふわりと揺れるプラチナの毛並み、白黒のシンプルな給仕服がいっしゅん、華やかなドレスに見えた。


 アレクサンドラ王女陛下……?


 次の瞬間、僕は思わず立ち上がり、深々と礼をしていた。


「セルゲイ・キリーロヴィチ・アサエムです」


 顔を上げると、見知らぬ少女の友好的な表情。整った顔立ち。その瞳とくちびるは忘れない。僕は目が良いんだ。

 彼女はルフィナではない気がした。

 化粧、服装、髪型、多くにおいて違っていたが、このかたはソソン王国の君主、かつての僕の神、アレクサンドラ・ルキーニシュナ・アシカーギャ王女陛下その人に他ならないのではないか?


 もうしそうだとしたら、グレーテは、いや彼女たちはいったいどういうつもりなんだ?


「さあさあ、自己紹介が済んだら互いをもっと深く知らねえとな。ルフィナ、こっちに座りな」

 アキムがいつもの調子で自身の横の椅子の背を叩いた。

「ルフィナはこっちに座ってね」

 グレーテは素早くその椅子に座ると、僕の隣の席を指差した。


 “ルフィナ”の着席の所作を観察したが、判断材料にはならなかった。丁寧で毅然としていたのは確かだ。メイド全員がそうなのかもしれない。グレーテが例外というだけで。

 彼女が座ったときには、ニーナと少し似た女性の芳香とフレグランス、それからなぜか、ふかし芋の混ざった甘い香りがした。

 やはり、近くで見たら王女陛下だ。間違えようがない。

 だが彼女は、僕の中の幻影の神とは違い、この前処刑台で見たのと同じ、どうしようもないほどに、まったくの人間に思えた。


「ルフィナはどこの出身だい? 城下じゃないよな? あんたみたいな美人は一度見たら忘れないし、学校では見かけなかったぜ。同年代だろ?」

 アキムがたずねる。彼は何も気付いていないらしい。

「北の断崖の出です。王室や城下の暮らしに憧れてこちらへ出てきました。今は王城住まいです」

 丁寧だがもの怖じしない口調。田舎出身の素人メイドが王女寵愛の先輩メイドの行きつけ先でとれる態度ではない。

「北の出か。あの辺りは何にもねえよな。ギザギザの岩山くらいだ。同じ岩山でも、南のほうは氷湖の掘削計画で少しテコ入れがあったんだぜ。北はソソンじゃいちばんの田舎だね」

「人の故郷を田舎呼ばわりして。あたしの親戚もそっちに住んでるんですけど」

 口を尖らせるニーナも疑うそぶりは見せない。

「ま、田舎なんて言ったら、ソソンは全部田舎だけどな。俺が城に務めてりゃ、もっと近代化させるんだけどな。ルカ王は何をモタモタやってたんだか」

 そう言ってアキムは残っていた梨ワインのボトルを咥えた。

 まずい、彼は完全に酔っている。

 “ルフィナ”たちの真意は読めないが、今ここで僕らが全ての情報を彼女に伝えれば、国や友人たちを救う手助けになるかもしれない。


 確信には至っていない。だがもしそうなら、なんとか切り出さないと……。


「名誉国王の事業は未完だけど、それでも評価はされるべきだよ。石油や石炭は有限だし、計画に時間が掛かるとしても、新たな資源の開発はソソンの未来のためになる。今はちょっと国がごたついちゃってるけど」

 とりあえず適当に話に乗っておく。

「あんたたち、初対面の女の子相手に政治の話する気?」

 ニーナが苦言を呈した。

「険しい山なんか無きゃ良かったのによ。そうすりゃ、こんなつまんねえ国にゃならなかったぜ」

 アキムは駄目そうだ。酔っているのはまずい。だが、彼の勢いに頼りたい気持ちもあった。

 僕には自分の手で王女陛下へ新たな負担をかけるだけの勇気が足りなかった。テーブルの上のナイフとフォークを自身の腿なり股なりに突き刺してやりたかった。


「その山の石がソソンの恵みになっているので、何も無いと言ったら少々失礼ではありませんか? それにこの立地ゆえにソソンという国があるのですから」

 “ルフィナ”が言った。かなり棘があった。まるで自身の身内を馬鹿にされたかのように。


「まーね。でも、原始的だぜ。今は二十一世紀なんだ。我らがルカ王陛下様が生きてりゃ、今ごろもっと面白い世界になってたんだろうになー」

 完全に酔っていた。やはり彼は馬鹿でしかない。


「ソソンは永久に凍り付いたままだぜ。あんな……“死刑姫(シケイキ)”が君主じゃあな」


 “死刑姫(シケイキ)”。忌むべき名。憎き世界のつけた不名誉なレッテル。彼女が自身の処刑に苦しみ始めてるのに気付いた今、その呼び名はあまりにも残酷すぎる。

 怒りを通り越して、ただただ哀しくなった。


 ……そして“ルフィナ”もまた、氷湖の底のような表情をしていた。


 そうか。やっぱり彼女は王女だ。だが、今の彼女は神でもなければ、君主でもない。たぶん、新人メイドですらなかった。


 ただのサーシャだ。


「アキム。ルフィナさんに嫌われるぞ」

 僕は震えをともに息を吐く。以前の僕なら、たぶんこの場でアキムを殴り飛ばしていただろう。

 もはやそういう怒りは無意味だった。


 このいたずら(?)の手助けをしているグレーテはきっと、親友といっても差し支えない立場なのだろう。

 だが、親友だろうと天使だろうと、人間は人間。ひとりはひとりに過ぎない。王女だってそうだ。

 彼女たちはきっと、これからもっとたくさんの助けが必要になるはずだ。

 国の混乱と世界との睨み合い、それを少女たちだけに押し付けるのはあまりにも残酷だ。


「分かんねえぞ。まだ城に務めて短いんだろ? なあ、俺とソソンを変えようぜ」

 アキムは身を乗り出して“ルフィナ”に言った。無礼というよりは、もはや虐待に見えた。

「ソソンを変える? ソソンは幸せです。間違っているのは世界のほうでしょう。世界が変わるべきです。変革には大きな力が必要です。一個人や小国に手に負える話ではありません」

 彼女は気丈に返した。

「へえ、良いね。思ったよりキツい感じだけど嫌いじゃないね。自分の考えが持てるソソンの女は珍しい。あんたは今の死刑制度についてどう思う?」

 ふっかけるのをやめないアキム。もう止めてさしあげろ……。

「……人が人を殺すのは罪でしょう。国主導の処刑であっても。それでも、即興の死刑停止よりは遥かにマシです。人道的かどうかと議論の的にはなりますが、もとより、罪を犯さない人には関わりあいのない話です!」

 “ルフィナ”は怒っていた。アキムは口笛を吹いて笑った。


 やはり、助けを求めるどころの話じゃなかった。助けてさしあげなければいけなかった。

 王女陛下だけじゃない、向かいのグレーテはすでに泣いていた。


「惚れたね。ルフィナ、俺といっしょに来いよ。給仕室に入ったってことは、王室に幻想を抱いてるんだろうけど、今や世間知らずのお姫様が一人いるだけだ。仮に王室が尊く、アレクサンドラが国のためを思っていようとも、あれは……」


「アキム!!」

 ……怒鳴れて良かった。そうでなければ僕は今晩、川へと身を投げていただろう。


「ここにはグレーテも居るのを忘れたのか? いい加減にしろ!」

 僕は付け足す。アキムは少し首を傾げたが、とりあえずは浮いた尻を椅子につけた。

「おっと、悪い悪いミス・マルガリータ。自分の恋人を悪く言われちゃ腹も立つよな」

 それでも憎まれ口を止めない。

「ほんと、あんたって酒が入ると最低なんだから。もう政治の話は禁止。あたし、お父さんに言って何か作ってきてもらうよ。奢るからさ。ルフィナさんも、グレーテも機嫌を直してね」

 ニーナも少し酒が抜けたか、場の雰囲気を察したようだった。彼女は逃げるようにカウンターのほうへ行った。


「酒も、もう一本頼むぜ」

 懲りない男め!

「いい加減にしなさい。あんたには氷の張った桶の水を用意してあげる」

「いや、料理も酒も無しだ。ふたりは仕事中なんだよ。彼女たちまで噂のメイド長から凍った水を浴びせられることになってしまうよ」

 これ以上、彼女たちをこの場に居させるわけにはいかない。ここへ来た理由は分からないが、良い結果を招くようには思われなかった。

氷のメイド長(リョート)ねえ。そういう封建的なやつが組織を悪くするんだ」

 百八遍どころじゃない。那由多に土下座を続けたとしても足りない。だが、そんなことがこの場でできるはずがない。


 それでも僕は席を立ち、“ルフィナ”のためにひざまずいて謝罪した。

「ルフィナさん。僕の友人が、たいへん失礼をしました。どうか、彼の王室への無礼を秘密にしておいていただけませんか?」

 今の彼女は“ルフィナ”か“サーシャ”であって、絶対的な君主ではないのは分かっている。


「え、ええ……」

 動揺する“ルフィナ”。やはり、王者ではなく、一人の少女だ。


「ありがとうございます、ルフィナさん」

「グレーテ、ごめんね。アキム、二度とやらないで。もう、うちではあんたにお酒だしてやらないから」

 ニーナが早口に言った。


 ふたりは帰って行った。店内の空気は最悪だった。しばらくは暖炉の音だけがものを言っていた。


「メイドちゃんいっぴきに大げさなんだよ、セルゲイもニーナも」

「キミは気付かなかったのか」

 僕は落胆した。あの謝罪は彼らにそれとなく正体を伝える意味合いもあったのに。

「ルフィナさんは王女陛下だ」

 僕はニーナにささやいた。

「……嘘」

 ニーナは青くなった。


「なんだよ。ふたりして。グレーテも無いぜ。せっかく仲間が揃うってのに、部外者を招いてよ」

 酔っ払いには何も分からないようだ。この馬鹿はテーブルに突っ伏した。


「駄目だよアキム君。もうちょっとしっかりしてくれないと」

 マルクさんが溜め息をついた。それから声をあげた。

「あちゃー! グレーテがまたやらかしたよ!」

 紙袋を振ってみせるマルクさん。

「あの子、ワイン忘れて行ったの?」

 ニーナが額を押さえた。

「僕が届けて来よう」

 僕は立ち上がった。


 するとニーナは、僕の腕を掴んで、首を振った。

「私が行くわ」

「……分かった。くれぐれもよく考えて行動するんだ。さっきの無礼もそうだけど、グレーテのことや“僕たちの今の立場”も考えて」

「分かってる」

 ニーナは、いびきをかき始めた馬鹿野郎を見て唇を噛んだ。心中は穏やかではないだろう。彼女の安定にとっては、アキムの世話を焼いているほうが良い気もするが。


 ニーナは紙袋を手に店を飛び出した。ちゃんと届けられたようで帰ったときは手ぶらだった。

 すぐに追い駆けたにしては、ずいぶんと時間が掛かったようだ。


「おかえりニーナ。上着も着ないで、寒かったろう」

 マルクさんは肉を切り分けてテーブルに並べている。

「ただいま。雪は降ったり止んだりね」

「ご苦労様。二人はどうだった?」

 僕はたずねる。


「大丈夫そう。グレーテとあのかたなら、お互いを任せられると思う……」

「そうか。でも、彼女たちもやっぱり人間だ……」

「そうね、ただの女の子だと思ってた。本当に驚いちゃった……」

 ニーナは窓の外を見て言った。

「無理もないさ」

「セルゲイ。あなたにお願いがあるの」

「なんだい?」

「グレーテのことを励ましてやって。それはきっと、私たちにとっても、あの子にとっても、この国にとっても良いことだと思う」

「僕にできるかな」

「できるわ。私にはしてくれたじゃない。勝手だけど、グレーテにはもう、あなたが食事に誘ってたって伝えたから」

「本当に勝手だな。……でも、ありがとう。僕じゃ、誘う勇気はなかったと思うから」

「上手くいくように願っているわ」

 そう言ってニーナは泥酔した包帯頭を撫でた。


「それとなく、“ルフィナさん”に伝言もして貰うようにお願いね。こいつが処刑台にあがらないように」


 付け足された言葉は親友でも臣民でもなく、女の声だった。


 仕方のないことだろう。僕たちはみんな、自分の世界を生きるのに精いっぱいなのだ。

 たまたま行く道が重なり合っているだけ。目的地が同じとは限らない。


 せっかくのチャンスを逃してしまった。

 ともあれ、ソソンは狭い。すれ違ってもきっと、どこかでまたまみえるだろう。

 僕たちが歩き続ける限りは。

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