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死刑2-07 遅すぎた安らぎ

 次の殺人が行われたのは『ソソンの拒絶』ではなかった。

 最低のタイミングだったんだ。

 ソソンの歴史が動いた。


 ルカ国王が死刑の廃止を宣言したんだ。


 『人道的な国家』とやらを世界の連合へアピールするためにとった手段だ。命を大切にすることは悪いことじゃない。

 だけど、もう少し早くそうしてくれれば、僕は“かれ”との入れ替わりを感じずに済んだだろう。

 首切りの任から逃れようとも、一度犯した罪が消えることはない。友人たちに隠し続けなければならないのは同じだ。

 それどころか、僕は父を追うことすらもできなくなってしまった。大義のないレッテルだ。これまでの人生の半分を奪われた気がした。


 “代わり”が必要だった。


 ミュコバクテリウム・ツベルクローシス。つまりは労咳、結核。

 その死の肺病を疑われる患者が、血を吐いた後にこう言った。


「せっかく国が活気づいてみんな頑張っているのに、うつして迷惑をかけたりしたくないんだよ」


 誰かの母を思い出す。この女性もまた毛皮に覆い隠されて、末期症状のひとつの皮膚の病変がみられた。

 はじめは風邪と区別がつかないだろう。身体がだるいくらいだ。咳くらい健康体でもする。咳が出た時点でまわりにうつしはじめる。

 それでも放っておかれることは多々だ。そのうちに他の臓器にも症状が出始め、ようやく死の病だと気付く。


「もう、治る気もしないね。あたしにゃね、妹がいるんだ。こっちは独り身だがね、妹には家族がいるんだよ」


 ソソンの医療は後進的だ。はっきり言ってゴミだ。平均寿命を引き下げ、子供の死亡率やそれへ対抗するための出生率を押し上げている要因だ。

 だが、誰しもが“生きること”を考えなくちゃいけないから、人生にまじめだったし、国の変化にも敏感で熱心だった。

 これは怪我の功名でソソンの美点でもあると思う。手を握られて死ぬには大切なことだ。

 だが、僕たちは医者だ。死を避けることも考えなくちゃいけない。とくに、うちの一族は世界と比べることができた。だから苦悩していた。

 新しい治療法だけでなく、判定方法を手に入れることができれば、他者へ感染させる前に大半を発見できるはずだ。そうすればいくらでも手が打てる。

 パンデミックからの国家的な危機が起こればどうなるだろうか? そのときこそ、世界から手を差し伸べて貰うわなくちゃいけない。

 ソソン自身は過去に病の流行や飢饉から立ち直ってきているけど、毎回上手くいくとも限らないだろうから。

 だから、この点ではルカ王の改革は心強い。


「甥がね、咳をするんだ。咳なんて誰でもするじゃないか。だけどね、あたしは自分で自分が肺病なんじゃないかって疑っていたから、うつしたんじゃないかって恐ろしくて仕方がなかったよ」


 そう言う彼女がなぜ頑なに受診に来なかったのかはわからない。医者はときどき思うんだ。「どうしてこうなるまで放っておいたのか」と。

 認めたくないのか、自身を大切にする気がないのか……。

 ソソンに変革の風が流れ始め活気づいたことを切っ掛けに、自身の不調を告白しにおとずれる人は急増していた。


「まだね、バレていないんだよ。いきおくれのおばさんだからね、このまま家の中で独りで腐って死ぬしかないのさ。呪いをまきちらしてね。あたしが肺病だって分かれば、妹の家族はどう思う? どう見られる? あたしの手伝ってるパブは? お隣さんは?」


 そのくせ他者を思いやる言葉を吐く。心境の変化なのか、何かへの言いわけなのかは分からない。

 なにか言いたいのならば聞いてやりたい。だが、こちらからたずねて聞いてやるだけの時間と人手がまったく足りていなかった。

 だいいち、医者は身体を治すのが仕事だし、手を握ってやらない同僚たちにその仕事が上手くできるとはとうてい思われなかった。

 巡検室からの意見書にも人手不足に関したコメントを幾度となく記したが、いまのところそれが反映される様子はない。

 多くの人は苦労をしながらもルカ王を信じ切っていたが、僕には王はいささか外のほうへ目を向け過ぎに映った。

 世界への機嫌取りも必要ならけっこうだが、今を去るひとびとは置いておかれたら永久にそのままだ。

 僕たちは君主の子供のようなものなのにな……。

 

「あんた、若いけど名医なんだろ? あたしを救っておくれよ。治してくれとは言わないからさ……」


 初代君主ザハールがこの地に根をおろしたとき、多くのひとびとはキリスト教を信仰していた。

 だが、厳しい自然と故郷からの拒絶により信仰は敗北し、次代のソソン国王の代では教会と聖書の焼き討ちにまで繋がった。


 ソソンは言った。「宗教とは、侵略と君主の無能への言い訳に過ぎない」。

 この言葉が名言としてまかり通るのは、この国が世界からの無視によって平和で、ある程度の幸福を実現できているからだ。

 いまルカ王がやろうとしていることは、その守りを一つ放棄することだ。そして、その大事業はルカ王がいかに“ソソン的に見て”政治に長けた人間だとしても、簡単なことには思われなかった。


「頼むよ。あたしを殺してくれ。これ以上生きても、つらいことしかないんだよ」


 人々は疲れ始めていた。救いが必要だった。

 心身のどちらかが蝕まれれば、もういっぽうも腐り始める。

 ルカ王の事業が成功を収めたとしても、世界にだって“手遅れ”や“手抜かり”は無数に存在するし、医療は不老不死には到達していない。

 なまじ長く“生きなければいけない”せいで、彼女のように苦しんでいる人はおおぜいいるのではないだろうか。


「いや、違うね。もっと早く死んでるべきだったんだ」

 女はふたたび血を吐いた。


 いくつかの宗教では、死後の世界、天国や地獄。あるいは輪廻転生……前世や来世があるという。

 今世の生が納得のいかないものであっても、精進すれば死の先や来世で幸せになれる。あるいは、精進しなければ先が不幸となる。

 一種の教訓であり、痛み止めだ。だが、過ぎればそれは言いわけとなり、ときに麻薬となってしまう。


 今のソソンに根を張る宗教はない。

 しいて言えば、王室信仰といったところか。だがここは病院で彼女は患者だ。医者である僕を信じるしかなかった。


 隔離された彼女と僕だけの小さな教会。あるいは懺悔の間。


 僕は彼女の求めに応じ、最後の尊厳を守ってやった。

 これまでは、どんな患者にもぎりぎりまで手を打ち続けてきた。手段が消えても身体が死を迎えるまで待ち、声をかけ続けてきた。


 きっと『人殺し』になったせいだろう。生き長らえさせることよりも、死なせるほうが救いだと考えることに抵抗はなくなっていた。

 問題はタイミングだった。患者の手を握る者を呼ぶのは、間に合わないことのほうが多いんだ。


 快楽を呼ぶ葉っぱと、筋肉を踊り狂わせ神経を死に至らしめるニンジン。

 簡単な調合。駆除の対象で交通室の仕事も追い付いてないから、素材は腐るほどにある。


 彼女は血の臭いから解放され、薄汚い天井の代わりに楽園を見て、ゆいいつ信じる神の御手にそのたなごころを包まれた。

 子を持たないことが語っているだろう性への慰めがわりに、僕は彼女の膿で汚れた額へ自身の額をつけてやった。


 吐き出される恍惚の吐息は腐臭に等しかったけど、僕は彼女の最期を汚さぬよう、さも本当のように愛を囁く。


「……ありがとう。セルゲイさん。あたしも愛していますよ」


 死の瞬間。彼女は薬の譫妄から解き放たれた。

 彼女が果てたとき、その震えが僕へ伝播した。じっさいには至らなかったがまるで射精のごとき快感。精神のみの恍惚(エクスタシー)。あるいは涅槃(ニルヴァーナ)

 これは性愛ではないのだから。


 偽りだろうと、快楽と愛の中で最期が迎えられるのならそのほうがいい。独りぼっちの闇で死ぬのはあまりにも可哀想だ。


「人は、誰かに手を握られながら死ねるように生きなければならない」


 父の教えだ。


 僕は、その権利を有さない者、そのチャンスを逃した者のために薬と手のひらをを与え続けた。



 その仕事にはグレーテの哀し気な顔が大いに役立った。彼女への妄想のおかげで、僕と患者は幸せに包まれることができた。

 肉の快楽に至ることのないそれ。グレーテへ感じているのが恋情であるあかしだろう。別に不能というわけではないからね。“オトコ”は疲れていると意味もなく元気になるもんだ。

 まあ、いつか解き放つときは彼女の腕の中であることを望む。


 可哀想なひとびとを苦悩から連れ出し始めてから、僕はさらに慈悲深くなった。本来ならタブーとされる感染症の患者への一次的な接触を行い、こちらから孤独な心へ語り掛けることが増えたんだ。

 意識してではなく、自然にそうなった。あの日のグレーテへ近づいたわけだ。


 すると、周りの態度にも変化が生じた。

 これまでの患者は、さじを投げたほかの医者に投げ込まれるパターンが多かった。

 それが、患者のほうから僕を求めることが増えた。看て欲しいというよりは、「会いたい」とか「話したい」という次元で。

 たずねてくるのは、たいていは可哀想な境遇のひとびとだ。

 ちょっと優しくしてやるだけで、彼らは治るか死んだ。完治はしなくとも症状は寛解した。生への活力を得たか、生に満足をしたかということだ。

 まわりの医者や看護師は、次第に畏怖の目で僕を見るようになった。


 患者へ救いを与え、快楽を共有し、感謝の言葉を貰い続ける暮らし。

 身体はより多忙になったが、僕は幸福だった。慈悲でも名を馳せると、友人たちもまた誇らしげにしてくれた。


 だが、屋根から落ちそこなった雪のように、スッキリとしないことがあった。

 患者の汚れた部分への接触を避けるのは常識だ。もしも触れたのなら洗い清めなければならない。

 医者でなくともやる行為だ。僕は他の医者よりも多くの抗体や特効薬への権利があったから、積極的に触れても寝込むことはなかった。


 ところが、患者から離れて身体を清めるとき、その行為が酷く罪深いものに思えたんだ。

 それでもウイルスや菌を放っておくことはできないし、仕方なしに消毒を続けた。


 接触の残滓を落とすのが罪に思えるのは、これが偽りの愛だからだろうか?

 グレーテならそれを解き明かしてくれるに違いない。だが彼女は最近、“サーシャさま”と個人的におしゃべりをするようになったと自慢をしていた。

 まだそのときには遠い。

 王女でなく死に寄り添い続ける僕は憐れだろう。だが、未来への希望があるだけ、僕に殺された人たちよりはましだ。


 僕は友人たちとの語らいの隙に、何度もそばかすの横顔を盗み見て、彼女が笑ったり、両親との不仲や友人のからかいによりしょげたりする顔を、見えすぎる瞳に焼き付けた。

 そうした日は決まって、帰ってから自身の暖炉と煙突を激しく猛り狂わせた。……終わったあとは虚しい。



 そんな生活が二年以上続いた。


 死刑の執行が停止してから、治安にも問題が出てきていた。

 ひとびとは荒んでいた。これまで、バーのでの怪我を治療しに来る者は『転んだ者』だけだった。『殴られた者』が現れた。

 雪かきを放置すると、助けの代わりに苦情が舞い込むようになった。ニーナは「お父さんが夜の外出を禁止にした」と愚痴をこぼした。


 ゆっくりと悪くなる世間。ゆっくりと罪を重ねる僕。ソソンの君主の仕事はまだ終わらない。


 ある日、一つの転機がおとずれた。


 実家から呼び出しを受けたんだ。突然の宣告だった。


「セルゲイ。俺は“がん”だ。胃がんだよ。もう、メシも食えない」


 僕は多忙を言いわけに長く実家の診療所をたずねていなかった。

 本当は、“あの人”と処刑の役目が消えたことを語り合うべきだった。もっと早くそうするべきだった。


 がんもまた死の病だ。ソソンでは平均寿命の都合で世界ほど多くはないだろう。「だろう」だ。そもそも、ソソンの医学では正確に認知も解明もされていない。

 ルカ王の偉業が達成されれば、ソソンの平均寿命も延び、そのうちにがんの存在が表面化するだろう。

 もっとも、この病は世界でトップクラスの死因でありながらも、不治の病ではなくなりつつあるというから、大した問題じゃないかもしれないが。


 しかし、君主の仕事が間に合えば、尊敬する我が父キリル・イヴァノヴィチ・アサエムは死ぬことはなかっただろう。

 彼が長く生きれば生きるほど、罪人は正しく死へ送られ、病人を生へ招き返し続けられただろうに。おっと、死刑はもう廃止されたのだったか。


 ああ、憐れだ。


 みんなも、父も、その息子も。囚人たちも。なんて可哀想なんだ。


 僕は東の診療所を去ることになった。なるべく多くの人を救ってからと、少し強引に数人を幸せへ導いてから立ち去った。

 感謝と未練の言葉がたくさん投げかけられた。

 それから「名医の親子であろうとも病には勝てなかった」という事実が、世間に『可哀想なセルゲイ』を巻き起こした。


 実家の診療所に戻ってからは父の看病かたわらに仕事だ。そのあいだも憐憫はどか雪のように降り続いた。

 僕の腕前を求めて夜中に門を叩く者、僕らに救われた感謝を届けに来た者。見舞客や友人。ただの風邪の患者。巡検室や国境室の役人。誰しもが憐れんでくれた。


 “憐れみ”とは不思議なもので、心配や哀しみの共有とは違って、孤独を癒さない。

 他者に投げ掛けながらも、自分自身のためにある感情だからだ。つまりは愛がなくともできる行為だ。

 僕は、憐れまれれば憐れまれるほどに孤独となり、城でそそっかしく動き回っているであろうスカートを思い浮かべた。


 そろそろだろう。こっちに来てからは、父の目もあったし、東部ほどに多忙で無かったからあの仕事ができていない。

 多くの人を幸せにするために、父が不幸にならないためにも、僕はまた『人殺し』になる必要があった。


「セルゲイ。いやな匂いがする。踊りニンジン《ホパーク》だ」

 骨と皮になった父が言った。

「胃の腐臭が原因じゃないのか。薬を用意してるから待ってて」

 僕は禁じられた葉っぱとソクラテスのニンジンを調合しながら返す。


「俺は、いい。……セルゲイ。人を殺すのはもう、止めろ」

 心臓を鷲づかみにされた気がした。父には僕の慈悲の使命を打ち明けていないはずだった。


「死刑は廃止されただろ。朦朧としてるんだな。気付けが欲しい?」

 返事がうわずった。

「ルカ王のご決断は、正しいものに思われない」

「不敬だな。それに、死ななきゃ更生して誰かに手を握ってもらえるようになるかもしれないだろ」

「本当にそう思うか? もう一度言う、ルカは愚王だ。勲章を欲しただけの。今の世間の荒れようを見てみろ。再犯死刑制度も失効して、悪人はやりたい放題だ」

「そうだね。それは父さんの言うとおりだ。だけど、世界の技術が入ってくれば、多くの命が救われる」

「……肉の救いのみだ。心の救いは別のところにある。片手落ちの救いは、いっぽうをかえって不幸に陥れる。強引な肉の死で心を癒そうとする愚かなおまえと同じだ」

 その声は父ではなく“あの人”であった。

「何を言っているんだい? 譫妄症状か?」

 僕は“あの人”の目を覗き込んだ。無論、その目はまだ生きている。

「俺のもとで修業させるべきだった。あるいは俺も一緒に東へ行くべきだった。おまえは医者としての力は身につけたが、アサエム家の教えを忘れた」

「忘れていないよ。人は、誰かに手を握られながら死なねばならない」

「違うのだセルゲイ! 人は、幸福な死に向かって生き続けねばならないのだ」

 父が手を伸ばした。僕はそれを包み込み、ベッドの中へ押し戻した。


「……人殺しがよく言うよ」

 口をついて出た言葉だった。


 いつの間にか哀と愛は溶けてしまい、残ったのは土混じりの汚れた雪のような嫌悪だった。


「そうだな。おまえの言うとおりだ。俺は人殺しだ。何人も斬った。方法を知っていながら、何人も助けられなかった。だが、おまえの父親だ。親には子の幸福を願う権利と義務がある」

「それがかえって子供を不幸にする事例は身近にいくつも見ている」

 僕の返事は濡れた氷の上をすべるように出た。

「おまえもまた、そうなのだろう……。親で救えぬのならば、いったい誰が救ってくれるのだろうか」

「それは君主の役目だ」

「一代限りで達せられる業ではない。アレクサンドラ王女、あの娘もまた苦難の道を行くさだめか……憐れな……」


 王女に関して、噂が出回っていた。父であるルカ王が外交にかまけてしまったためにずいぶんと荒れているのだとか。

 立派にやってるニーナや、親と戦い続けているグレーテと同年齢のはずだ。ふたりとくらべて少々情けない気もする。

 だが、幼いころに彼女が可哀想な子だと知っていたから、きっと噂の風に乗り切らなかった部分に事情が隠れているのだろうと納得してある。


 王女のことは今はどうでもいい話だ!


「君主は国民のために、国民は君主のために。王室の宿命だ。僕やあなたが人殺しであることもまた、さだめだ」

 僕は薬を水に溶き、患者に無理矢理飲ませるための漏斗を取り出した。


「違う、違うのだセルゲイ。……だが、俺は答えを示してやることはできない」

「最期くらい、手を握っていて欲しいだろ? 手を出せ」

 僕は少々乱暴に言った。


「俺は間違った。おまえも間違った。ルカ王もまた間違っている。誰かが示さねば。ソソンは……」

 漏斗をうるさい口へ挿入し、黙らせた。


「さようなら、父さん。愛してるよ」

 それから僕は『人殺し』へと薬を流し込んだ。彼は末期患者とは思えないほどの力で抵抗した。

 だが、若く力のある僕に彼がかなうはずはなかった。


 ほかの患者たちにやってきたように、額へ愛を示そうとした。今度は偽りじゃない。父を尊敬していた。愛していた。

 だがそれは、ただの頭突きに終わった。

 見開き、血走り、麻薬の誘惑に抵抗し続けた父の目。


 やっと親子喧嘩が落ち着いたと息をついたとき、“かれ”はもう息絶えていた。


「手が握れなかったじゃないか、父さん」


 笑えるだろう? 『人殺し』たちに相応しい末路。……執行完了(オンナコンチェン)



――ばさり。



 背後で音がした。


 僕は立ち上がり、振り返った。



「お、お見舞い。来たんだけど……」



 彼女の長いスカートの足元には、街の花屋では見かけない珍しい色のサザンカが散らばっていた。

 チアノーゼのような紫。


 きっと、僕の顔もそうだったに違いない。



「ち、違うんだ」

 膝に痛み。いつの間にかひざまずいていた。



 僕は弁解しなければならないと、思考をフル空転させた。だが車輪の浮いた重い荷車だった。


 お見舞いに来た優しい娘。親友。僕の愛しいマルガリータ。優しく死を看取った少女。


 ああ……彼女の目が、僕とその背後の亡骸を見比べている。



 ……彼女はチアノーゼを跨ぎ、こちらへと歩いてきた。



 世界では、処刑される者の多くはその顔を覆い隠されるという。

 肌の触れ合いを拒絶されたうえに、心を語る瞳まで遮断される死。そこには愛どころか憐れみすらもない。


 ソソンは違う。死刑囚と処刑人のあいだでは会話こそは禁止をされているが、一度は必ず見つめ合うんだ。

 父が確かそう言っていた。だが……僕はあのときはたしか、目を逸らし続けていた気がする。


 目の前にいるグレーテは“あの人”だ。

 僕にとっての最大の恐怖。いよいよ断罪のときがおとずれた。拒絶は斬首よりも苦しい。


「セルゲイ」


 ああ、“あの人”が僕の目の中を見つめている。あわせ鏡のような僕たちの瞳!


 やはり間違いだったのだ! 

 父の言うとおりだった! 認める! 僕は人殺しだ! 


 だから、それ以上こっちへ来ないでくれ!


「……大丈夫だよ、セルゲイ。しかたなかったんだよね? お父さんもずっと苦しくて、ご飯も食べられなかったもんね。私だったら、そうして欲しかったと思う」


 視界が塞がれ、鼻を通してグレーテの香りが僕の中へ充満した。


「みんなには内緒にしておくね。お医者さんだから、よく分かってるもんね。ごめんね、ノックくらいすれば良かったよ」


 柔らかくも強い抱擁。物足りないメイドの布地は氷のように冷たく。だが、その下は水脈のように温かい。


 僕はただ彼女に任せ、泣くしかなかった。

 涙が伝播し、僕よりも強い慟哭をしながらも撫で続けてくれるその手。

 これは赦しだろうか。憐れみだろうか。果たして愛だろうか。


 ……分からなかった。


 感じていないということなのか。

 ともかく、もっとも欲していたものを得たはずなのに、僕の心は涅槃に到達することはなかった。いくど妄想と共に果てた肉もまた同じだった。


 僕らは可哀想だった。


 僕らだけじゃない。この国も憐れだ。そして王室のかたがたも……。


「分かるよ、セルゲイ。きっと王様たちが何とかしてくれるよ」


 皮肉にもその日、第七代君主ルカ・イリイチ・アシカーギャを乗せた航空機が墜落した。

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