死刑2-05 置き去りにされた僕たち
グレーテはけっきょく、両親に認めてもらえないまま城へ行った。
大喧嘩のすえに荷物をまとめて家を出たらしい。しかも、断りの手紙は本当に提出されていて、彼女はそれを弁解しなければならなかった。
あとから聞いた話だが、城への就職希望者は毎年数千人にも上るそうだ。給仕室への応募は年間五百。衛兵を除いての城内に出入りできる人間の人数に匹敵する。それに対して採用者は抜けたぶんを補充するだけだ。
グレーテは針の穴に糸を通すような難関を潜り抜けたということだ。親と衝突してでも手に入れる価値のあるものだろう。
だけど、彼女はやはり「笑って送り出して欲しかったなあ」と寂しそうだった。
僕もとうとう実家を出て、東部の診療所へと修行へ出た。
東部は暮らしやすいとは言えないが、物質的には城下に次いで栄えている。紙業を始めとした産業が活発で、木材の加工品や道具の類は、たいていこの地方で生産されている。
大雑把に分けて、東が加工産業なら、西は畑、放牧場、果樹園、醸造が活発で、北は採石、南は氷湖と泥炭地があるので漁業とライ麦ウイスキーや黒ビール作りを担っている。
寒いとアルコールが欲しくなるのか、ソソンでは造酒産業は活発だ、梨ワイン、ブドウワインやシャンパン、ウォッカ、蜜酒、ウイスキー、ビール。ソソンにも近代ヨーロッパ流行りのカクテル『ブラック・ベルベット』がある。
ソソン国民の生命線である狩猟や毛皮の加工は、全国どこでも行われているが、材料となるオオカミ、シロウサギ、ギンギツネは山に近い位置に生息するため、猟師の人たちが専門に調達している。
東部は職人気質のひとびとの多く住む産業の町で、木工と鍛冶で名を馳せるボグダンや、端材から作った紙のリサイクル方法を発明したイサイ、氷湖の犬ぞりやソソンの大動脈を走る馬車の生産で有名なトルストイ夫妻の工房などが有名だ。
細工師ボグダンは、アサエム家と秘密を共有するゆいいつの一般国民で、処刑道具の片刃の剣の修理や手入れを請け負っている。
僕は彼らと会ったことは無いけど、父が言うにはボグダンの家は跡取り関係でもめているようだ。
加工業以外も活発だ。城下にほど近い立地に温泉の湧くポイントが複数あって、各地から湯治におとずれる人でにぎわっている。
たいていはどの家にも湯を沸かせてその中で暖まる風習があるが、温泉の濁った水は怪我や病気の治療に効果が高いとされている。飲用はお勧めできないが。
もちろん、地面が暖かい都合で西部に次いで農業も行われている。
そんな東部は僕が移り住んだとき、ソソン史上最大の活気に包まれていた。
ルカ国王陛下がソソン王国の方針を転換を発表したからだ。
国外に対して輸出入を検討、氷湖に眠っているとされる天然ガスの掘削を目指し、ゆくゆくは発電所の建設を行い、ソソンに電気・電子の文明を持ち込むというヴィジョンが語られた。
アキムは諸手を挙げて褒めちぎっていたが、僕には王の政策はあまり賢いようには思われなかった。
僕たちソソンは、生死のはざまに直結した生活を送っている。
身体を直接殺す寒さとの戦い、空腹の回避が常にいちばんだ。国を挙げてみんなで協力しているからやっていけている。
そこに新しい産業を追加するだけの余裕がないように思えたんだ。
それでも、僕らだって娯楽や幸福を求めている。だけど物質的である必要はない。
食の追求だって仲間との語らいが何よりの調味料だし、ファーメイクもおしゃれよりも個人の認識が一番の目的だし、宝石や貴金属のプレゼントに関したって、それ自体よりも贈ってくれた相手との関係性が大切だ。
人と人との繋がりは、いくら追求しても人生のうちに完成に至ることは滅多にない。新しいものなんてなくても生き甲斐があった。
僕もグレーテのおっちょこちょいな失敗や優しさと、アキムとニーナの掛け合いを眺めていれば生きるのには飽きない。
みんなそれぞれに悩みだってある。プラスの追求だけでなくマイナスの消去にも人生を使わなきゃいけない。
つまり正直なところ、僕は改革には反対だった。
アキムがああいう調子だったから、世間はもっと盛り上がっているものかと思ったが、実際のところは八対二くらいの割合でひとびとの反応も冷ややかだった。
そこで国王は、先進技術の品々を公開するフェスティバルを開催した。
国民は楽しんだ。国王主催の催しだったし、話の種としてちょっと見てやろうくらいの感覚で。
国王だってユーモアを交えて演説をしていたし、方針転換自体が冗談だと思った人もいたくらいだ。
雪かきのつらい老人のために、除雪用の自動車を導入? それを作って運用するのにどれだけの人と物が? 誰かがシャベルをもってたずねればいいだろう。
電子レンジという、調理のできる魔法の箱? 常に暖炉が燃えていて、そこでも調理のできるソソンでは椅子にしかならない。
電灯で夜も明るく照らせられる? 陽が沈んでも活動する人は確かにいるけど、僕らにはあの晴れた日の雪のような光はまぶしすぎる。
電灯を前にして、雪焼けクリームを塗り忘れたのを気にしている婦人も文句を言っていた。
だいたいこんな調子で、会場でも本気で近代化を望んで騒いでいる連中はほとんど見当たらなかった。
僕も医療に関連したものがないかと見て回ったが、それはやはり命に直結するものだから話は別だ。もっとも、収穫はなかったけど。
それでも僕たちはソソンの君主を信じていたし、じっさいに新しい暮らしが始まれば考えが変わるかもしれないと思っていた。
だからみんなも、ルカ王の計画のためにたくさんの仕度を始めた。
便利のための便利には、材料のための材料と加工のための加工が必要だからね。
「よう新入り。また来たよ」
頭から血を流した男が診療所をたずねた。
「また? ああ、骨折の? どこで怪我をしたんですか? 仕事は休んでるんですよね?」
「まさか。休んでる暇なんてないさ。木を切らなきゃな。集まって根を掘り起こしてたら横のやつのクワがガツンってな」
血みどろの彼は頭を指差して笑った。
「なんて馬鹿なことを! あなたは今、肩の骨が折れてるでしょうに!」
僕は声をあげた。この男はつい先日、新入りが切り倒した木の下敷きになって大怪我をして、それを僕が診てやったのだ。
「ちょちょいと縫って、包帯を巻いてくれればいいからさ」
彼は平気な顔をして言う。
「仕事に戻る気ならお断りです」
警告したが、彼は気にせず診察用の椅子に腰掛けた。
「うちのルーキーどもが仕事のコツを覚えるまでは休めねえんだ。新しく人を増やしたから、木の倒れる方向すら読めねえ馬鹿が多くてな」
「そんなに忙しいんですか?」
僕は傷の洗浄をしてやり、針と糸を支度する。
「忙しいさ。ソソンは変わりどきらしいからな。採石場でもかなり怪我人や死人が増えたそうだ」
「うちも大繁盛ですよ。せっかく世の中が新しくなるって言うのに、死んでしまったら意味がないですよ」
それに、事故死じゃ暖かなベッドも誰かの手のひらも求められないケースが多いだろう。即死ならば斬首よりはましだろうか?
「なんつーかな。みんな焦ってるんだ。置いてかれるんじゃないかって。そのうちに、今まで使ってた道具や技術が用無しになるかもしれないだろ?」
「それなら、みんなそろって置いてかれれば良いんですよ。これまでどおり。世界とソソンの関係みたいに」
「できることならそうしたいがね。一部の連中は本当に張り切ってるし、何より国王様のためだろ? 国王様が俺たちのことを思ってやってることなら、ゴールに辿り着くまでは支えなきゃな」
「それはそうですけど。……はい、縫い終わりましたよ」
「おう、スマンな。やっぱりあんたは、ほかのベテランよりも手際が良いな。城下のイヴァノヴィチ氏のせがれなんだって?」
男がたずねる。そのあいだに看護師が彼の頭をぐるぐる巻きにした。
「はい。修行のためにこっちに来ました」
「イヴァノヴィチといえば名医で名高い男だ。こんなところに来ないで、親父さんのところで修業したほうが良くないか?」
「見聞を広めるためです。城下は地方よりも物があるので、治療も少し楽ができてしまうってところもありますから」
「なるほどな。ありがとよ、若先生。またな」
男は手を振った。
「もう来ないでください」
僕は苦笑で返す。
「すまん! 誰かこいつを診てやってくれないか!?」
包帯の男が退室しようとすると、緊迫した声が飛び込んできた。それから毛皮をまっかに染めた男が現れた。彼は背中に何かを背負っていた。
「こいつ、スチェパンか!?」
退室しかかっていた男も声をあげた。
「ああ、おまえもここに来てたのか。スチェパンは足を滑らせて木に串刺しになりやがった」
男は背中から別の人間を降ろした。僕と変わらない年齢の青年だ。
スチェパンは毛皮の肩を赤黒く染めていた。彼らの通った床には赤い軌跡ができあがっていた。
スチェパンの顔色を見て悟った。彼はもう駄目だ。血を流し過ぎている。
「串刺しになったのなら、その場で抜かないで木を切って連れて来ないと。出血が多すぎる」
「慌てて誰かが降ろしちまったんだよ。ほかの医者にも断られちまった。若先生、スチェパンを助けてやってくれ」
連れてきた男が懇願した。
「すみません。助けられません。手遅れですよ」
ソソンには輸血の技術はない。
「……スチェパン、あなたの家はどこですか? 誰か看取って欲しい人はいませんか?」
スチェパンは浅く呼吸をしているものの、返事ができないようだった。
「こいつは南部の端っこから出稼ぎに来てるんだ。家族はいるはずだが……」
間に合うわけがない。
「……もう長くはもたないでしょう。あなたたちで手を握ってやってくれませんか?」
僕が依頼すると、彼らはすぐにそうしてくれた。
「冷てえな。ほんとに血が抜けちまったのか」
包帯の男の握った右手は雪のようにまっしろになっていた。
「左手はまだ少し暖かい。おい、スチェパン。最期に握り返してくれ」
運び込んだ男が言った。
「……父さん……母さん……疲れたよ」
青年は天井を見てぼやいて、それから永久にまばたきをしなくなった。
僕は彼のまぶたを閉じてやった。
「馬鹿野郎。俺を下敷きにしたくせに、先に死んでるんじゃねえよ」
包帯の男がぽつりとつぶやいた。
南部からの出稼ぎ。天然ガスの眠る湖では、掘削施設の建設のためにその一部が封鎖された。
開発の余波で、氷湖で生計を立てていた人の一部が仕事にあぶれ、多忙になった東や北へ足を延ばすことが増えたという。
すべてが消えたわけじゃないが、分厚い氷の上を走る犬ぞりや氷の穴へと釣り糸を垂らす人の姿が見えなくなるのは寂しいことだ。
そして、自宅から離れた地で果てれば、とうぜん不幸だろう。僕は何人もの孤独な死を看取った。
医者の数の割に患者の少ない城下町では、患者と医者は友人のようなところがある。
名前はもちろん覚えるし、会話をしているうちに彼らの暮らしや生い立ちまで知ることもしばしばだ。
そういった関係同士の“最期の握手”は暖かい。
いっぽう、仕事の多忙となった東部ではそんな余裕はない。患者は掘り出された石や芋のように選別され、ベッドへ転がされる。
常連ともなれば向こうが医者の顔を覚えることもあるが、こっちは毎日、何十という人数を相手にしているのでそれも難しい。
先輩医師たちは僕より腕前が劣ることを気にしているうえに、余暇は泥のように眠らなければならないから、患者の友人にはなり得なかった。
僕は、多くの死をひとりぼっちで見つめ続けていた。
「そっか。東はそんなことになってるんだね。セルゲイ、今日はゆっくりしていってね」
マルクさんの店。ニーナが暖かな紅茶を差し出してくれた。
「ありがとう。でも、そうも言ってられない。診療所は忙しいから。父さんにも挨拶をしないといけないし、今日は雪が積んでるから、もう少ししたら出るよ」
「残念。ごめんね。アンラッキーなことに、グレーテの買い出しは今日はないの。下っ端のうちはパシリみたいなもんだからって言ってたんだけどね」
「そう、仕方がないね」
「仕方がないって顔じゃなくて、とっても残念って顔してるわよ」
ニーナが苦笑する。
「大げさだな」
僕は紅茶をすすった。シナモンティーだ。
「セルゲイって、グレーテのこと好きなんでしょ?」
思わず吹き出して、熱い紅茶が鼻先にかかった。
「なんでそんなことを?」
熱い。軽い火傷だ。
「見てたら分かるわよ。よく、ぼんやりとあの子の顔を見つめてるじゃない。セルゲイがああいう馬鹿っぽい顔をするのは、グレーテを見てるときだけなんだから」
「……好きは好きだよ」
僕は紅茶のカップを傾けて、ニーナから少しでも顔が隠れるようにした。
「やっぱりね。本当はあの子のお城勤めも反対だったんでしょ?」
「……反対してないさ。あのとき保留にしたのはグレーテと両親の関係も大事だと思ったからだ。好きといっても、友人としてだ。ニーナのことも好きだし、アキムのことだって」
「友達として? ま、念のために言っておくけど、あの子は気付いてないからね。あと、たぶんアキムもね」
「俺は気付いてたよ」
カウンターで店主のマルクさんが言った。彼はまた太っていた。
「アキムに感付かれると面倒そうだ」
僕は苦笑いをした。
「そうね。余計なことをしそう。でも、最近はそういうこともやらなくなっちゃったかな」
「彼も忙しいのかい?」
「みたいね。仕事はしっかりやってるし、配達や他の用事ついでにうちにもご飯食べに来るけど、お皿を空にしたらさっさと出て行っちゃうのよね。話を振っても、改革とか外の世界のことばっかりだし……」
ニーナは寂し気に窓の外を見た。長いまつ毛に、暖炉で温められた頬。彼女はいっそう美しくなっていた。
「グレーテはどう?」
「……あの子も、ちょっと変わっちゃったかな。買い出しついでによく顔を出してくれるんだけど、メイドの作法だとか言って、言葉づかいも硬くなったし、うちの勝手口を三回ノックしてからたずねて来るようになったのよ」
グレーテは以前のグレーテでなくなってしまったのだろうか。僕は心配になった。
「ううん、やっぱり変わってないかな?」
ニーナが僕の思考を打ち消すように言った。
「見掛けがメイドになったって、中身は相変わらずなのよね。書庫がお説教部屋なのは本当だったって。最近はよく外国の文学を読んでるそうよ」
「彼女も外国にかぶれたか」
「どっちかというと“サーシャさま”自慢のほうが多いけどね。顔を合わすたびに今日はすれ違ったから挨拶ができたとか、ローテーションで肌着の洗濯係に当たったとか報告してくるよ」
「そうか。元気そうだね。ご両親とはどうしてるんだろうね。喧嘩別れしたままだったけど」
「それは聞いてないかな。っていうか、セルゲイはやっぱりグレーテのことばっかりね」
ニーナは頬を緩ませた。
「そうでもないよ」
「私のことは聞いてくれないじゃない」
表情くるり。美人の看板娘は口を尖らせた。
「たずねたら必ず居るし、見たら分かるからね。相変わらずなんだろう?」
「そうでもないわよ」
彼女は表情を落とした。
「いや、分かるよ。寂しくなったよね、ちょっと」
僕がそういうとニーナは少し笑った。
「やっぱり分かってないわね。寂しいのはちょっとじゃなくて、すごく、よ。私も、あなたもね」
反論の余地もなければ、意味も無いだろう。
幸いなのは、グレーテやアキムとの関係が完全に切れてしまっているわけでないことと、その寂しさを共有できる仲間が残っていることだ。
世の中の変化は一度限りとは限らない。また四人そろってテーブルを囲む日も来るだろうと信じている。
ルカ国王の性急な改革は国民たちを置き去りにし、グレーテやアキムは僕たちを置き去りにした。
そして、ニーナが僕のグレーテへの恋情を見抜いたせいで、それがはっきりとしたものに変わった。
それまで僕は、ただグレーテが素敵だとか美しいと思っただけで、そういう感情に対して名前を付けないで済ませていた。
恋愛感情。具現化されたされたそれは、さらに僕を孤独に陥れた。
マルガリータ。グレーテ。お城に憧れる不器用な女の子。家族との関係に悩む可哀想な娘。
死を看取った美しき女。もしも、この東部の診療所に彼女がいれば、僕は東部すべての人が事故死しても平気だろう。
不謹慎なのは分かっている。僕は医者でもあるのだから。
それでも、いや、それだからこそ、彼女の価値を知っているんだ。
どうして給仕室になんて入ってしまったのだろう。なぜ僕は止めなかったのか。
いつか彼女とふたりで話す機会をもうけて、それとなしに気持ちを確かめてみたい。少し怖いけれど、彼女が手酷く突っぱねることはないだろう。
鼻の曲がるような死の医療のかたわら、胸のうちに熱い孤独が宿った。
仕事は熱心にうちこまれ、多忙が孤独を誤魔化した。
優しきマルガリータを自身の手に重ねて患者の手を握り、可哀想な患者へ自身の孤独を重ね続けた。
心の中に彼女がいれば、精神が不死身になったような気さえしてくる。それはある種のディオソニス的な興奮を孕んでいた。
次第に患者たちの名前は覚えられ、患者たちは僕を友に数えた。僕は笑顔とさかしまに、心でそれを拒絶して孤独に入り浸った。
いつか、母が死んだときに周りに言われた言葉を思い出す。
「可哀想なセルゲイ」
いつか、この手の中で患者が果てるときの言葉を思い出す。
「ありがとう、優しいセルゲイ坊や」
患者がそれに似通った言葉を言うと、自身の中で何かが勃起していくのを強く感じた。
さいわい、それは生理的な反応には反映されなかった。異常な性癖ではない。
ただ僕は、慰めと感謝を求めて、人々を治し、看取り続けた。
北部の採掘現場で大事故が起こったときにはヘルプのために遠征した。北は東以上に酷かった。
そのせいでグレーテと会いそこなったのだが、それがまた自身の暖炉へと石炭をくべた。
城下を出て一年。僕は東部と北部で一番の医者として名を馳せていた。
たまに顔を合わせた友人たちは、それをからかいながら褒め称えた。
もちろん、グレーテの屈託のない笑顔も拝めた。それだけじゃない。彼女は勢い余って僕を抱きしめてくれたのだ。
普段はゴシップの源泉になる給仕室に、外から友人の名誉が聞こえてきたものだから、早く祝いたくてしかたがなかったのだそうだ。
……大丈夫。少しづつ近付いていこう。グレーテだけじゃない。アキムやニーナもいるんだ。
ソソンが変わっても、僕らは僕らでいられる。
だが、そんな僕の希望を一撃で打ち砕く出来事が起こった。
父の急な呼び出しだった。刑務所『ソソンの拒絶』で病死した囚人の遺体がでたのだ。
使いの刑務官が診療所をたずねて、仕事中の僕を引っ張っていった。
そして刑務所の広場で、僕は父の剣を持たされた。見掛けよりも遥かに軽い、ぬれた黒鉄のやいば。
「斬ってみろ」
“あの人”は言った。医者でも父でもないときの彼は冷徹で厳格だった。
「練習でも斬れたがことないのですが」
「これも練習だ。東部では切断処理や縫合を経験しなかったのか?」
「しました。でも、首をどうこうすることなんてありませんでした」
「そうだろうな。とにかく、斬っておけ。死にたてだ。生体に近い感触を憶えろ」
粉雪の広場に立たされた“かれ”。……いや、“かれ”だったかどうかすら分からない。罪状や刑については聞かされていない。
だがこの人は、自宅から遠く離れたこの地で生を終えたのだ。看守や囚人仲間は彼の手を握ってくれただろうか?
どちらにしろ、自身の背負った罪によってこんな結末を迎えることになった。
僕ももしかしたら、誰にも手を握ってもらえないまま終わるかもしれない。
寒い屋外だというのに、身体が火照って額から汗が流れる。
腰に差した鞘から剣を抜き放ち、一閃、その首をはねる。……果たして僕にできるか?
今はまだ、『人殺し』じゃない。さいわい、遺族に罵倒されたりもしていない。
僕はこの人と同じ孤独なのかも知れない。
ひょっとしたら彼は孤独ではなかったかもしれない。だけど、見知らぬ人間に自分の抜け殻を切り刻まれる可哀想な肉の末路。
僕もいつか永久の孤独に囚われ、憐れな世界へ足を踏み入れる日が来るのだろうか。
――そう思った瞬間。僕と“かれ”が重なった。
試し斬りは一発勝負だった。
切り口は驚くほどになめらかで、血はぬるりと溶け出た。
「できたじゃないか! さすが俺の息子だ。今の感覚を忘れるな!」
“あの人”は消え、父は笑顔で僕の肩を叩いた。
僕はぎょっとした。肩にかけられた手が血塗れに見えたからだ。錯覚だ。
「おまえも、アサエム家の血に恥じない男になるだろう。また遺体が手に入ったら呼ぶ。それまでは、東で医療の腕を振るうがいい」
父はくるりと“あの人”に返り、僕から剣を受け取ると立ち去って行った。刑務官たちが憐れな残骸を片付け始める。
やはり僕は『人殺し』を約束された男なのだ。
アキムもグレーテも、やがてはニーナすらも僕から離れていってしまうだろう。
違うな。正確には、僕が彼らから離れなければならないのだ。憐れ。憐れか。
僕はセルゲイ・キリーロヴィチ・アサエム。『人殺し』を約束された男だ。




