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死刑2-04 変わり始めたのはその頃

 奇跡と言うべきか、事故と言うべきか。

 グレーテが給仕室の試験に合格した。

 彼女がそのしらせを持ってきたとき、ちょうどソソンは年に一度あるかないかの大快晴が三日も続いていた。異常気象だ。


「まさか本当に合格しちゃうなんてね」

 ニーナが言った。彼女のしなやかな手が、炒められた食材を鍋の中へと導いていく。

 まっかなビーツ、タマネギ、ニンジン、刻んだキャベツ、それからラム肉だ。


「ほんと! 私もびっくりしたよう。スヴェトラーナさんに褒められちゃった!」

 グレーテは笑顔の花を満開にさせている。ソソンに春があるとしたら、今の彼女のことだろう。

 ……ボルシチといっしょにいただくはずのスメタナが、すでに頬についているのが玉に瑕だが。


「試験は上手くいったみたいだね。ニーナに感謝しないと」

「覚えは悪くないんだけどね、この子。いつも何か変な失敗がひとつ混じるんだから」

 鍋を見るニーナの横顔は苦笑いだ。


「試験のときは逆だったかなあ」

「逆ってどういうこと?」

 僕はたずねた。

「失敗ばっかりでズタボロだったの! でも、ひとつだけ大成功したから合格したんだよ。作法は入ってからじきじきに教えてさしあげますからって」

「ふうん? 何をやったの?」

「それはね……アキムが来てから話すね。実は彼のおかげだったりして」

 グレーテは紅茶の入ったカップを持ち上げ、下から眺めてニコニコしている。

「アキムのおかげ? どういうことだろう」

 謎は深まるばかりだ。


「あいつ、最近ちっとも姿を見せないよね」

 つぶやくニーナ。

「そうなのかい? 僕のうちには来たよ。ベッドを貸してくれって。知り合いの家を転々としているらしい。日雇いで適当に食いつないでるそうだ。少し痩せてた」

 つい昨日の話だ。

「なんでそんなことしてんの? うちには来てないわ」

 ニーナは不満気に言った。

「家族と折り合いが悪くなって家を出たんだとか。家業を継がないって言い張ったせいらしいよ」

「そう。寝るところがないならうちに来たらいいのに」

「アキムを泊めたら、ニーナは襲われちゃうかもねえ」

 グレーテが楽しげに言った。

「それは困るけど。アキムにはもうちょっと落ち着いて欲しいのよ。ちゃんと食べられてるのかしら……」

「配給があるからへーきへーき。私は足りない気がするけど」

 グレーテが言った。

「あいつ、配給の申請も拒んでるそうだよ」

「はあ!? なんで? 飢え死にしたいわけ?」

 ニーナは声をあげた。

「その日暮らしのスリルがどうのって言ってたね。平凡に暮らすよりも、そっちのほうがマシなんだそうだ」

 正確には、「生きるか死ぬかの瀬戸際を味わっている」と言っていた。

 医者の卵としての見立てでは、まだ栄養失調には遠く見えた。うちでも買いおいていたパンプーシュカを食べ散らかして行ったし。

「バッカじゃないの!? それでセルゲイはどうしたの?」

「どうって、どうも。ただ、倒れるときはひと目につく場所で倒れろとは言っておいた」

「引き止めなかったの?」

 ニーナは鍋を放って、こちらへ詰め寄ってきた。彼女の豊かな髪と食事の香りの雑駁した空気が漂う。

「好きにさせたらいいさ。今日ここでグレーテのお祝いがあることは伝えてあるよ」

「心配してないの?」

「してはいるけど、無理にやめさせても荒れるだけだよ。彼が放蕩を始めてから、逆にやんちゃな噂を聞かなくなったろ?」

「お客さんも最近、騒がせ坊主が静かだって言ってたから、そうかも。……でも、心配だよ」

 ニーナは手を胸に瞳を閉じた。


「はあ、愛ですねえ」

 グレーテが音を立てて紅茶をすすった。


「愛とかじゃない。ただ、心配なだけ。仲が良いのに隠しごとをされたりするのが苦手なの」

「隠しごとかあ……。じゃあ、私もふたりに相談していい?」

 グレーテが言った。

「なんでも言いなさい」

「なんでも聞くよ」

 僕たちは答える。そもそもそんな前置きは不要だ。

「はい! えっとね。私は給仕室の試験にパスしました。来週から晴れてお城暮らしになるのですが!」

「そうね」

「なんと、お父さんとお母さんが、今からでもお断りに行って来なさいって言うんです! どうしましょう!?」

「ええ……。両親の許可くらいとっておきなさいよ」

 ニーナが肩を落とす。

「とってたよ!」

「もう大人なんだから許可なんて要らないと思うけど。グレーテのご両親は反対してなかったよね」

 僕は首を傾げた。グレーテは自宅でも家事を抱え込んで、手伝いついでに特訓をしていると言ってたはずだ。

「……うん。反対はしてなかったの。まさかおまえが合格するはずはないと思ってたからだったって」

 さもありなんだ。ニーナも合点がいったという顔をしている。

「いちばん最初に教えたくてお城から走って帰ったのに、喧嘩しちゃった」

 グレーテは苦笑いを披露した。

 僕は気付いた。彼女はかなりこたえている。いつもの失敗隠しでは、言いわけよりも笑いが先にくるんだ。

「気にせずメイドになっちゃいなさいよ。お城のことだし、合格ももらってて今さら断るとみんなに迷惑がかかるよ。それに、セルゲイの言うとおり、私たちはもう自分で自分の道を決めてもいい年頃なんだから」

 そう言ってニーナは窓の外を見た。外では静かに雪が降っている。

「私にはまだ無理かなあ。お城に住み込みだと思ってなかったのも悪かったみたい。近かったら通いで務める人も多いけど、私って朝弱いし。でも、お父さんやお母さんが手伝ってくれてたのは、花嫁修業のつもりだったんだって」

「お見合いでもさせられるの?」

 僕は思わずたずねた。

「ううん。相手なんていないよ。お嫁というよりは、お婿さんを捕まえて来いって。じゃあお城で探してくるからって言ったら、生意気言うなってお父さんが凄く怒った」

「うーん。うちのお父さんでも同じこと言いそう……」

 ニーナがカウンターの脇にある階段を見た。上からくしゃみが聞こえた。今日はマルクさんは風邪でお休みだ。お店もグレーテのお祝いのために閉めている。

 そもそも、そうでなくとも今日の城下のひとびとは“別の場所”に集まっているだろう。

「私のお父さん、星室の採用試験を何回も落ちて諦めた人だから。お母さんもお父さんの言いなりだし反対だって。そうでなくっても、私は迷惑を掛けるからやめてって」

 グレーテが溜め息をついた。

「グレーテのお母さん、昔っからそうだったよね」

 ニーナも溜め息をついた。

「私がいけないんだけどね。小さいころからずっと失敗ばかりしてるし。改めて反対されると、合格したのは偶然だし、お城に入ってもけっきょく追い出されるんだろうなって考えちゃって。そうなったら、みんなに迷惑をかけるのは同じだから、始めからお断りしておくのも手かなあって……」

 今度は苦笑いの上書きも追い付かなかったようだ。グレーテは今にも泣き出しそうに思えた。

「お父さんにべったりの私が言っても説得力はないかもしれないけど、グレーテが決めるべきだよ。王女様にお仕えするの、夢だったんでしょ?」

「うん……」

「マルガリータ、しっかりしなさい! 今生の別れというわけでもないでしょうに」

 励ますニーナ。

「実はね。今朝も喧嘩してから出できたんだけど、ふたりはお城にお断りの手紙を書くって言ってた」

「ただの脅しかもしれないでしょ。勝手に断る権利なんてない!」

「でも、これ以上こじれたら、お城から帰ったときに、おかえりも言ってもらえなくなっちゃうかも……」

 それは寂しいことだ。

「……そのときはここに帰って来なさい。ここはみんなにとって、第二の家みたいなものなんだから」

「う、うーん……」

 グレーテは頭を抱えてテーブルにつっぷした。

「うじうじするな! セルゲイも何か言ってあげて」

「僕からはちょっと。僕も親にはずっと従ってるから……」

「頼りないなあ!」

 ニーナはかんかんだ。

「酷いよニーナ! セルゲイはお医者さんになってたくさんの人の命を救うんだよ!」

 グレーテが反論した。

「あんたを励ますためにやってるんでしょ!」

 ニーナがツッコミを入れた。


 僕は幼いころから両親の教えには忠実だった。父の仕事は世間的に見ても、個人の価値観に合わせても、正しいし誇り高いことだと思う。

 診療所の仕事は好きだ。運命や家族に見放された憐れな患者たちを救うのが悪いことであるはずがない。

 大人と認められる最近はもう、褒められることもなくなった。いつか心ない遺族に『人殺し』と罵られる日もくるかもしれない。

 それでも、人を救う医療の道への迷いはない。


 いっぽうで父親のもう一つの仕事については理解と感情がどんどんと乖離していっていた。

 一律に研いだ冷たい刃でどんな罪人の首も雪の上に転がしてしまうその仕事は、死にゆく患者の手を握ることとは正反対に思えた。

 こっちのほうがよっぽど『人殺し』だ。


 だが、僕がグレーテの背中を押してやれなかった理由を白状すれば、彼女と滅多に顔を合わせられなくなるということがいちばんだった。

 いまだに幼い彼女が死にゆく患者の手を握り続けていた光景が忘れられない。


 ……医者の僕が延命治療をして、助手の彼女が看取りを行う未来。もしもそうなれば、僕は自分の人生にどれほどの幸福を感じられるだろう。


 しかし、うちの医学はあくまでも処刑人の隠れ蓑で、首を斬り落とすための技術の副産物として存在するものだ。

 僕が『人殺し』になったのちに友人たちに知られれば? グレーテがそれを知ったら? それを想像したら、いっそのこと離れて過ごしたほうが楽かも知れない。

 どのみち僕ももうすぐ家を出ることになっている。誰しもが変わらなきゃいけない時期なのだろう。


「とにかく、後悔しないためにも辞退は絶対に駄目よ」

 ニーナはそう言うとボルシチの鍋へと戻って行った。

「ニーナは辞退に反対。セルゲイは保留。アキムはなんて言うかなあ」

「彼はどうだろうね。王室儀礼で堅苦しいメイドは嫌ってたし、でも彼も両親とは絶賛喧嘩中だから、グレーテの味方をするかもね」

「じゃあー。アキムがなんて言うかで決めようかな。多数決!」

「彼が辞退しろって言ったら全員の意見が割れるんだけど」

「あー、そっか。じゃあ、そのときはセルゲイが決めて」

 グレーテはそう言ってそばかすの頬を緩ませた。

「マルガリータ・ユーリエヴナ・チャロアイト! 人生の大事な決定を他人任せにするもんじゃないわ」

 ニーナが怒った。

「ニーナ・マルコヴナ・クシチェンコさん! 他人じゃなくて家族みたいに思ってるよ!」

 グレーテはへらへらしている。

「まったく。……そもそも、あいつ来るのかしら?」

 ニーナは溜め息一つつくと、ボルシチの横で脂を滴らせている肉の様子を見た。そろそろパーティを始めなければいけないだろう。

「どっかでナンパでもしてるのかなあ」

「のたれ死んでなきゃいいけど……」


「おい! 聞いたか聞いたか!?」

 店の扉が勢いよく開け放たれた。空の話をすれば雪が降る。くだんの放浪者だ。


「来たし。ひとんちのドアなんだから丁寧に扱ってよね」

 ニーナの頬が緩んだ。

「じゃあ、ここを俺んちにしちまおうかなーって。そんな冗談を言ってる場合じゃないぜ!」

 肩や頭の雪もそのままに入ってくるアキム。

「そうだぞアキム。今日はグレーテの……」

「さっきの演説、興奮したよなあ! いよいよソソンにも春が来るぞ! ルカ国王陛下万歳だよなあ! 万歳(ウラー)!」

 遮られた。が、悪い気はしなかった。ずいぶんと元気になっているようだ。

「演説? あんた広場に行ってたの?」

「おまえたちは行かなかったのかよ? いよいよソソン王国も方針転換をして、外交や交易を始めるんだとよ! 賢王の代に生まれて俺は幸せだねえ!」

「演説も噂も全部お客さんから聞けるし。そもそも、今日は親友のお祝いの日! セルゲイから聞いてたんでしょ!?」

「あー、そうだった。忘れてた。まさか合格するなんてな。これで我らがミス・マルガリータもお堅いプライド連中の仲間入りか」

 頭を掻くアキム。グレーテは少し寂しそうな顔をした。


「……アキム。グレーテは悩んでるそうだ。彼女は両親に反対されている。辞退の手紙も勝手に書かれたかもしれない」

「へっ! 親に従うなんてダサいぜ。自分からせまっ苦しい城に行くのもな」

 アキムは吐き捨てるように言った。

「お城はみんなの憧れなんだけどなあ。アキムはお城、やっぱり嫌い?」

 グレーテはいっそう表情を曇らせてアキムを見た。アキムはなぜか天井を見ている。

「城どころか、古臭い風習と雪に閉ざされたソソンは嫌いだったね」

「だった?」

 僕は首を傾げる。

「……でも、それもおしまいだ! 改革の風が吹き始めた! 王室や給仕室にだって陽の光が差し込む!」

 アキムは天井を指差して叫んだ。

「楽しそうなところ悪いんだけど。あんたはグレーテを応援するの? しないの?」

 ニーナが腰に手を当ててたずねた。

「するに決まってるだろ。賢王とそのご息女を支える立派な勤めだぞ? 親の反対意見なんて後回しだ。手紙なんて奪って破って捨てちまえ。メイドはソソンのゴシップの泉だ。おまえが立派にやってるって噂が聞こえてきたら、手のひらを返して自慢し始めるに決まってら!」

「でも、悪い噂が流れちゃったら……」

「合格は貰ったんだろ?」

「うん、できてないところは入ってから教えるからって」

「じゃあ平気だ。スヴェトラーナは氷のメイド長(リョート)って呼ばれる女だが、若くして王女様の教育係に就いたエリートだ。そんな人が無責任におまえをクビにするわけがない。今が変わりどころだぞマルガリータ! ソソンも、おまえも、新しくなるんだ!」

 アキムはグレーテの背中を叩いて言った。


「うん……! 私、頑張る! 今度は相談や喧嘩じゃない。私が決めたことをもう一度ふたりに言う!」

 グレーテは両手のこぶしを握った。


「そうしなさい。ところでアキム。ソソンが変わるのなら、あなたにもちゃんとして欲しいんだけど」

 ニーナが言った。

「そうだな。帰るよ」

「え? いやにあっさり言うわね」

 ニーナが眉を持ち上げた。意外だ。僕だって、熱に浮かされてまたたわごとを言い始めるだろうと思った。

「うちは城に果物を献上してる果樹園だぞ。今後、世界へ輸出するために白羽の矢が立てられるかもしれない。俺も計画を練らなくちゃな」

「なるほどね。世界への夢はまだ諦めてないのね」

「当たり前だろ。たいていの連中は興味なさげだったがな、俺と同じくわくわくしてる連中だっているぜ。これから国王陛下とともにソソンを変えていくのはそういう連中だ。商人の時代が来るぞ。出遅れてたまるかよ!」

「けっきょくそれなのね」

 ニーナは不満気だ。

「旅行が自由にできるようになったら、いっしょに世界を見に行こうぜ」

「せっかくのお誘いですけど、うちには風邪ひきがいますから」

「親父さんもいっしょで構わないさ。俺の家族もな」

 上からくしゃみが聞こえた。

「そ、そう。考えとく」

 ニーナも少し熱っぽい顔色になった。

「なんだったら、セルゲイやグレーテもいっしょでいいぜ」

「……あっそ! 期待しないで待っててあげるわ」

「待ってたら置いてかれるっての。ついて来いよ」

「はいはい。そろそろ座って。グレーテのお祝いをしなくっちゃ」

 ニーナは鍋を火から離すとボルシチを器へ盛り始めた。鼻歌混じりだ。


「なあ、セルゲイ。世の中が変わったら、おまえんところの仕事も変わるかもしれないな」

 アキムがとなりの席へ腰掛け言った。うちの仕事、か。

「そうだね」

「診療所の手伝いはけっこうやったけどよ、やっぱり残念なことも多かったもんな」

 輸入している書物からソソンの医学の遅れは承知している。だけど、僕は延命が確実に良いことだとは思っていなかった。


 今わの際に家族が間に合えば良い。間に合わなかったり、しかるべき人がいなくても、幼いころの僕やグレーテのような者がいれば救いがあるだろう。

 だけど、そうでない人にとっては苦しみが延長されるだけに過ぎない。

 治れば幸福へのチャンスがあるが、最新の医療でも人は不死身には遠い存在だ。

 どうせ死ぬのなら、生きた長さよりも死ぬタイミングのほうが重要だと思う。


「人の死を看取らなくて済むようになれば良いな、セルゲイ」

 アキムが歯を見せ笑いかける。

「みんなが笑顔でいられると良いな」

 僕も笑って返した。


「さあ、今日はごちそう。チキンだよ!」

 テーブルにニワトリのローストが加わった。

 寒いソソンでは家禽はあまり食べない。寒さに弱く育てづらいこともあるが、肉は他の動物のほうが食いでがあるし、彼らには卵を生むという大切な役割があるからだ。

「そういや、世界トップの国のアメリカじゃ、臆病者のことをチキンっていうらしいな」

 さっそくチキンに手をつけながらアキムが言った。

「じゃあ、私はチキンなのかなあ……」

「日本じゃ、寂しさで死ぬ人のことをウサギって言うらしいぜ」

 どんな国だ。医学的にありえるのかそれは。まあ、僕が東に行けば実験できるかもしれない。

「意外と博学ね。どっからそんな話を仕入れてくるのよ」

「メイドちゃんだよ。給仕室にはラジオってのがあるらしくて、世界のことを語る声が聞こえてくるらしいんだ」

「ふーん……。グレーテ、知ってた?」

「知らない! でも、そのラジオっていうので面白い話が聞けたら、みんなにも教えてあげるね!」

「頼むぜ。ついでに美人のメイドも紹介してくれ」

「あんた、メイド嫌いなんじゃなかったの?」

「メイドは好きさ。おしとやかな女や仕事に誇りをもつ女はたまらないね。俺が嫌いなのは堅苦しいルールなの」

「調子良いんだから」

 ニーナは呆れている。


 僕はみんなのおしゃべりを聞きながら静かに料理を食べた。

 ボルシチは酸味と旨味のバランスが絶妙だ。肉も役目を終えた老鶏ではなく、若鶏を使っているのだろう。


「おっとっと」

 グレーテがパンを取り損ねてテーブルに転がした。


――ごろんごろん。


 赤いボルシチ。脂の滴る肉。ソソン王国が世界に注目されたとき、僕の一族の役目はどう見られるだろうか。

 機械任せにしない処刑は廃れていっているはずだ。「先進諸国の連中は残酷にも憐れみにもふたをしている」と父が言っていた。


「どうしたの、セルゲイ?」

 いっしゅん、意識が悪夢に呑まれかけていた。引き戻されれば優しいグレーテの顔だった。


「いや、ちょっと目が疲れただけだよ」

 僕はそう言って眼鏡を外した。

「そっか。身体は大事にね。みんなの元気がなくなっちゃうと、私も困っちゃうから」

「お城に行ったらそうも言ってられないと思うけど。これからは自分のことは自分で決めなきゃ駄目だからね」

 ニーナの諫言。

「善処します」

 グレーテが笑った。

「ん? まさか、俺が反対したらやめてたとか?」

 アキムがたずねた。

「この子はね、私たちに意見を聞いて、多数決で決めるって。私は辞退するなって言った。セルゲイは保留」

「なんだ。どのみちメイドにはなるつもりだったんだな」

「どうしてよ? 意見が割れたらセルゲイに決めてもらうって言ってたわ」

 そう言ってニーナはグレーテを睨んだ。グレーテはそっぽを向いた。


「どうしてって、セルゲイが応援しないわけないだろ。だってこいつ、俺と賭けをしたときに“グレーテが合格する”ほうに賭けたんだぜ。俺は絶対ないと思ったんだがな」

「友達を賭けの対象にしないの。でも、私もそっちに賭ける勇気はないかも。じっさい、慰めの言葉も考えてたし」

 ニーナが肩をすくめた。

「そういうことでセルゲイ。賭けの支払いは今度にしてくれ。今は無一文だからな。出世払いで」

 何が「そういうことで」だ。僕は溜め息をついた。

 とはいえ、僕も合格するとは思っていなかった。勝手にアキムが持ちかけて、勝手に有利なほうに賭けた。それだけだ。


「セルゲイ」

 グレーテが僕を呼んだ。


「スパシーバ。ありがとうね」

 照れくさそうな笑顔。熟れた梨のように染まった頬。


 ま、賭けの払い戻しとしては、大穴を当てたといったところかな。

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