死刑1-29 ルカの語らいへ
「ニコライ……」
彼は殺されてしまったのでしょうか。将軍だけではありません。現在、お城の中にいない者すべての安否が気になります。
スヴェトラーナも気になります。メイド長はとうとう氷の仮面を脱ぎ捨てました。
彼女の部下たち……特に若いメイドが家族を心配して酷く泣くものですから、護衛のかたといっしょに自ら実家へ送り届けに出ています。
彼女たちは毛皮に身を包んで変装をして出て行きました。今や城下では、王女は死を望まれ、その従者も目の敵にされていますから。
わたくしは、身の安全の確保を優先として、無理に城へは戻らないように言いつけておきました。
ほかにも、ひとりでに城から姿を消したかたや、城下に帰りたがったかたや、それを手伝うかたがいます。
わたくしは彼らのために秘密の通路を解放しました。
命懸けの脱出を試みるかたよりも、ここに残るのを選んだかたのほうが多かったのは少し嬉しいです。
でも彼らは実家を焼かれ、家族の心配をしながら石床に引いた絨毯の上で身を寄せて震えて眠っています。
ベッドが足りないのです。
お城に居るのは臣下だけではありません。城下から革命や暴動を嫌って逃げて来た人々だって匿われているのです。
来る者は拒まず、去る者は追わず。
わたくしは、臣民ひとりひとりに直接声をかけて回りました。
それで飢えが凌げるわけでも、身体の震えが止まるわけでも、まして戦いが終わるわけでもありません。
ただ、ソソンの君主はそうあるべきだと思うからです。
そして、サーシャ個人としての願いでもあります。
でも……本当に声をかけてあげたいのは……。
「グレーテ……」
わたくしは、沈んだ人々へ声を掛けるかたわらに彼女の姿を探しました。お城から出ていないはずです。
彼女は家を捨てました。スヴェトラーナにもついていっていません。
つまりは、またも独りぼっちになってしまっているのです。
石ではなく、まるで氷の洞穴のような廊下。
人々は絨毯や暖炉のある部屋に集まって暖を取っているので、好き好んでここへ来る者はいません。
燭台の小さな火で暖を取っている者がひとり。
三つ編みの影を躍らせる光は暖かですが、きっとそれだけでは不十分でしょう。
王女のヒールが石床を叩く音は独特です。それでも彼女は顔をあげず、燭台を見つめ続けているようです。
「グレーテ」
わたくしは、声をかけました。
「サーシャさま……」
彼女は顔をあげてこちら見ました。灯りの逆光が哀しみの表情を深くしています。
「こんなことになって、ごめんなさい。アキムのこと、本当にごめんなさい。わたくしは駄目な君主で、友人ですね」
わたくしは友人から目を逸らしませんでした。罰を受ける用意はできています。
「……謝らなくてはいけないのは、私のほうです」
グレーテは鼻をすすり、涙をぬぐいました。
「サーシャさま、すごくつらかったでしょう? アキムのことが好きじゃなくっても。友達だった私は、彼がそういう考えを持っていたことはずっと知っていました。でも、テロリストになったっていう確証はなくて……。お城にこもるようになったのはセルゲイのことだけじゃなくって、アキムのこともあったからです」
「ありがとう、グレーテ。それは誰にも言いだせないでしょうね」
「はい……。覚悟はしていたつもりだったんです。なのに、いざ腫れ上がった顔の彼を見たらとショックで。小さいころから遊んで来た時のこととか思い出しちゃって……」
わたくしがグレーテの横へと歩むと、彼女はわたくしの腕を取り身を寄せてきました。
廊下は凍てついていましたが、彼女はまだ温かい。良かった……。
「でも、私ってずるいんです。アキムが裏切者だったせいで、私までサーシャさまに嫌われちゃうんじゃないかって。そんなことばかり考えちゃうんです」
「わたくしもです。あなたに嫌われしまったんじゃないかって。少しだけ、アキムのせいにしたくなりました」
「ふふっ、同じですね。アキムはですね。小さいころからとんでもないことばかりしてた子で、彼のいたずらのせいで一緒にいた子が割を食っちゃうんですよ。私も、ニーナも……セルゲイも……今度はサーシャさまもですね」
本当にその輪の中に入れたら、幸せだったかもしれません。
何か一つ歯車が違えば、セルゲイがグレーテを襲うことも、アキムが革命軍に身を投じることもなかったかもしれません。
でもそれは、夢に過ぎないのでしょう。時は過ぎます。再びまぶたを閉じても同じ夢はおとずれません。
「彼、最期まで失礼だったでしょう?」
「そうね。最期まで彼らしかった。スケベでしたね」
「やっぱり」
苦笑いのグレーテ。
「わたくしも、最期まで君主らしくありたいと思います」
「最期までって。大丈夫ですよ、サーシャさま。なんとかなりますよう」
硬い笑顔。わたくしはグレーテを抱きしめました。
「今晩、CHSと接触します。暴動を治めるにはそれしかありません。今求められている君主としての仕事です」
「……駄目、駄目ですよう! 出て行ったら殺されてしまいます!」
グレーテが抱擁を返します。
「そうならないように、手も打ってあります。死にに行く気はありません。いまだわたくしに仕えてくれるかたも多いのです。革命軍だって無闇に……」
「いやです! いかないでください!」
強い強い抱擁。グレーテの背中とともに壁へと倒れかかります。
「我がままを言わないでください。あなたにはまだ、わたくしを手伝ってもらわないといけないのですから」
「いやです。我がままでも何でもいい! サーシャさままで失いたくない!」
泣き叫ぶグレーテ。気持ちは分かります。みんな同じなのです。あのお髭の将軍だって言いました。
「お願いします! あと一日だけでも! ……そうだ! 今晩、いっしょにお風呂に入りましょう。それと、クッキーを食べませんか? 私、最後のぶんを隠し持ってるんですよ!」
親友の懇願。お風呂もみんなのために開放済み、最後にクッキーを焼けたのは二週間は前の話です。
彼女はわたくしが何を言っても、必死に言葉を並べ立てて妨害してきました。
「しかたのない子ね」
わたくしはグレーテの口を塞いでやりました。
「……ようやく静かになったわね。今のは秘密ですよ」
「……でも、今のじゃサーシャさまも口がきけませんね」
ふたりで鼻先を擦り合わせながら笑いました。
「グレーテ、今晩だけは一緒にいてくれない? レオニートもどこかよそへやっておきますから」
「……はい」
その晩、ふたりは語らい、お互いの胸やお腹に顔を埋めて眠りました。
寝返り代わりに役割を入れ替えて、ぬくもりを愉しみました。
愛の種類なんて、どうだっていい。わたくしたちは親友同士。でも、これだけ求めあっても一つになれないのはちょっと惜しいことだと思いませんか?
お互いに、お互いが女であったことを恨みながらも、女であったことに感謝した夜でした。
目を醒ますと、ベッドの中にはわたくし独りだけでした。
ベッドを抜け出し、部屋を飛び出すとレオニートがこちらへ向かって歩いて来ているのが見えます。
「レオニート! グレーテを見なかった!?」
「いいえ、見ていませんが。それより王女陛下。その格好で国民の前へでられるおつもりですか?」
わたくしは化粧もしていなければ、ドレスも身につけていません。毛皮の普段着姿です。
「グレーテか……他のメイドがいなければ着替えられません」
さすがにレオニートに手伝ってもらうわけにはいきません。
「……王女陛下。もう、城内にメイドは残っておりません。私たちふたりだけです」
レオニートが言いました。
「どういうことですか!?」
「サーシャさまが眠っているあいだに。城の明け渡しが決定したのです。攻め入られるよりはましだと、私と大臣たちとで決定いたしました」
「そんな勝手な! 交渉のためにニコライを使いに出していたのですよ! 将軍の意見は聞かなかったのですか!?」
「……将軍は、ニコライ将軍閣下はお戻りになられました。故に、この決定がなされたのです」
「ニコライを呼んで! ほんとに勝手なんですから!」
彼はおつかいも出来ないのでしょうか?
「呼んでももう来ません。彼は死にました」
……死んだ?
わたくしはレオニートの顔を見上げます。彼は相変わらず無表情です。
「深夜に、彼の衣装と装飾品が返されました」
「服が返された? ニコライは裏切ったの?」
信じられません。
「違います本当に亡くなったのです。CHSの交渉への返事といったところでしょう。彼の死の証拠もいっしょに届けられました」
「そんな! 見せてちょうだい! 見るまで信じません!」
わたくしは彼のあいだをすり抜けて走り出そうとしました。
「サーシャ!」
肩をつかまれ揺さぶられます。
「サーシャ王女陛下。しっかりなさってください。CHSの連中はあなたに壇上へ立つのを求めています。仕事を果たさねばなりません。ですが、群衆には好き勝手を働く者も多いのです。もたもたしている暇はありません」
無表情のレオニート。あなたは立派ですね。死なないでくれとは言わないのですから。
「……そうですね。あなたの言うとおりです。可哀想なサーシャはもうおしまい。衣装室へ行きます。一人で着替えられるものを選んできます」
わたくしは衣装室へ赴き、華々しいドレスの数々と面会しました。
あれは薄ピンクを基調としたお気に入りのドレス。今のような危機に陥るまでは、日中はあれをよく着ていました。
あちらの青いサルビアのようなドレスのは、演説のためのものですね。主にお父様の横に立つときに使っていました。
あの檻のような形をしたものはスカートの骨組みです。
知ってますか? 十九世紀後半にみられた大きい傘状のスカートは、針金などで作った骨組みを入れて膨らませているのです。
重たいうえに、あっちこっちにぶつけるものですから、世界で流行ったときにソソンの王室もまねをしたものの、すぐにやめてしまったのだとか。
わたくしも試してみましたが、メイドとぶつかって弾き飛ばしてしまいました。
この小さくて可愛らしいのは十歳の誕生日に初めて一人で演説をしたときのですね……。
そういえば、演説が上手にできたからってお父様にたくさん褒めてもらったんでしたっけ……。
わたくしは想い出をいくつか振り返りましたが、どれも大仰な装飾がついており、コルセットを締める必要もあり、一人ではすぐに着替えられそうもありません。
不格好でも、多少は見られる衣装があればいいのですが……。
「そっか……。これしかないのね」
他の衣装からは離されて置かれているドレス。
色とりどりの花の中に咲く一輪の黒花。血で織られたブラックベルベット。
わたくしは毛皮を脱ぎ去り、鏡の前へ立ちます。
雪の丘と二つの花弁。コルセットの使い過ぎで少しいびつに見えるくびれ。王室儀礼が停止してから手入れの怠りがちになった場所は、自分で見ても恥じらってしまいそうです。
それらを新しい肌着で覆い隠し、黒きとばりを降ろして裸のサーシャとお別れをします。
「わたくしは、アレクサンドラ・ルキーニシュナ・アシカーギャ。ソソン王国の八代目君主。お父様、行ってまいります」
硬い皮手袋を着け、ひとりごちるわたくし。
死刑姫サーシャは従者レオニートを伴い、誰も居なくなった廊下を歩きます。
ここから先に何が待とうとも、どんなことが降り掛かろうとも、ソソン君主の使命を果たしましょう。
「危ない!」
ガラスの割れる音、レオニートがわたくしを突き飛ばしました。
「お怪我はありませんか?」
レオニートはいつかのように一筋の紅を流しています。
「ありがとう、レオニート。ルカの語らいにつくまでの護衛、頼みますよ」
わたくしは微笑みかけます。
「独裁者に死を! マリーアントワネットは消えろ!」
外から罵声。
雪の生垣の向こうで何かが上へと突き出されました。
「……」
わたくしは、言葉を失いました。
突き出てきたのは槍でしょうか。その先には、見覚えのある『おだんご頭の婦人の首』が刺さっていたのです。
彼女はご丁寧にも眼鏡をかけさせられ、顔は寒さによって凍り付いていました。
「スヴェトラーナ……!」
レオニートは腰の剣に手をやります。
「レオ、押さえて。……起こったことは変えられません」
そう言いながらもブリザードのような悲しみと、グレーテへの心配が胸に吹き荒れます。
死後でも顔を見られたのは良かった。あなたはわたくしが幼いころから父の代わりにたくさん叱ってくれたひとなのですから。
ありがとう、さようなら、愛しています……。
わたくしが歩を進めると、またも窓ガラスが割られました。
次に掲げられたのは、帽子を奪われたいくつかの憐れな禿げ頭でした。
それからまた進むとガラスが割れ……。
メイド服やジュストコールを巻きつけた槍が。
それらは、赤い血で濡れており、わたくしに聞かせるためでしょうか、生垣の向こうからは女の子の赦しを懇願する声が届けられました。
わたくしは声を特定しないように脳に命じ、レオニートと同じ貌を装って城を出ました。それでも腹の中には熱い熱い溶岩を煮え滾らせて。
「出てきたぞ! 死刑姫だ!」
「死ね! おまえのせいで俺たちは酷い目にあってるんだ!」
「王室はもうおしまいだ! ソソンは新しい国に生まれ変わるんだ!」
罵倒の嵐。その中には、かつての臣下や、女性や子供までも混じっていました。
群衆から石が投げつけられます。レオニートは盾となりましたが、かいくぐった一撃がわたくしの額を打ちました。
「おまえたちは王女を、一人の人間を殺す気か!!」
レオニートが怒鳴ります。その勢いに人々は怯み、騒めきだけが残ります。
「……」
わたくしは、自身の額に手を当て、ぬめったものを処刑の革手袋へと刷り込みました。
それから、肘を直角に腕を上げます。
……ざわめきが消えてゆき、粉雪の降る音だけが残りました。
新しい雪と足跡の道を踏み締め、門を抜け、丘を下り、街の大通りを進みます。
通りにはたくさんの人が居ましたが、誰もが罵倒を一つも発さず、この歩みを妨げようともしませんでした。
『ルカの語らい』に近付くにつれて、その人数は増えていきます。
彼らはさまざまな目をしていました。敵意、不安、混乱、憐憫、愛情……。
そのすべてがソソンの誰かのためだと思うと、とてもいとおしく思います。
わたくしのために開けられた道の先には、演説と処刑のための木組みの高台。父とわたくしが何度も立った壇上。
わたくしは笑ってしまいました。
壇上に“面白いもの”が立っているのが見えたのですから。
「そっか、あなただったのですね。わたくしに罰を下すのは」
壇上には、金属でできた大きな鐘状の物体。その上部には、王女の顔を模した飾りがついています。
わたくしが近付くのに気付いた刑吏が、それを開きました。
開かれたおとめの中には長い棘付きの椅子と、扉に無数につけられた真新しい刃が光っていました。
「鋼鉄の処女。わたくしにおあつらえ向きですね」
さすがは罪なる儀式を共にし続けた処刑道具師ボグダンです。
「レオニート、あなたはここまででいいわ。今までありがとう。わたくしは、君主の仕事を果たします」
彼を見上げ、その胸を軽く押して歩みを止めさせました。
「ああ、お可哀想なサーシャ王女陛下……」
レオニートが表情と共に崩れ落ちました。そっか、あなたもこんな顔ができるのですね。
わたくしは独り、広場へ向かって歩き出しました。
この道は、思ったほどは長くありませんでした。雪に残された誰かの足跡を見ると、いくつかは赤く汚れています。
わたくしの足跡も、目にはそう見えないだけで、きっとサザンカのような色をしているのでしょう。
願わくば、この降り続く雪がその軌跡を覆い隠してしまわないことを。
わたくしはアレクサンドラ・ルキーニシュナ・アシカーギャ。
世界が『冬眠の国』と揶揄するソソン王国の第八代目君主。
そして、あまたの人間を処刑してきた死刑姫サーシャ。
さようなら、グレーテ。
さようなら、レオニート。
さようなら、わたくしの愛したみなさま。
さようなら、お父様……。
ソソンの春で逢いましょう。




