死刑1-25 愛とはなんでしょうか
抱擁は十秒だったかもしれませんし、一時間だったのかもしれません。
別の臣下のノックがそれに終わりを告げ、ようやくばらばらになった心と身体を繋ぎ合わせることができました。
わたくしはレオニートに「明日からはまた頑張ります」と誓い、礼を言って部屋を出てもらいました。
他の臣下の額へキスすることも、グレーテとちょっとしたおふざけや愛撫の交換をすることにも馴れているのに、あの抱擁はどうして不快だったのでしょうか。
ええと、求めに応じてもらえた事実はとても良かったと思います。断られなかったのは本当に幸福でした。離れた今はもう一度求めたい気持ちさえもあります。
このアンビバレントな反応は、いったい何なのでしょう?
……。
「愛です。この国には愛が必要です。イエスは悲しんでいらっしゃります」
はい。二人目の観光客さんが捕まりました。また女性で、今度はアレッサとは別の慈善活動を行っている団体の手引きだそうです。
世界はよっぽどソソンを可哀想な国だと思っているようですね!
この女性……シスター・マリアは強敵でした。ことあるごとにイエスの言葉を引用して戒めようとするのです。隙あらば聖書の暗唱!
わたくしも聖書そのものには触れたことはありませんが、外国の文学作品で引用文を見かけたことがあります。
ソソンは拒絶をしましたが、わたくしは考えかた自体は嫌いではありません。
ニコライ将軍は彼女を逮捕した時点ではまだ憤怒の戦士だったらしいのですが、わたくしへ捕縛を報告したときは首を傾げていました。
「あなたはあなたの敵を愛するべきでしょう」
ニコライは顔を合わせたときにこれを言われて面喰ったようです。そのうえ、目の下のくまや髭の手入れから疲れを見抜かれて、こともあろうかスパイの被疑者に心配をされてしまいました。
「待ってください。人はパンだけで生きれるものではありませんよ」
食事を運んだ刑務官は、これを「もっと食べたい」の意味だと解釈しました。刑務所ではおかわりは禁止ではないそうです。調理の係に当たっていた囚人たちもさすがに断ったようですが。
マリアは多分、刑務官とお話をしたかったのでしょうね。
「アレクサンドラ王女、他者を裁くべきではありません。いつかあなた自身が裁かれることとなるでしょう」
わたくしは、すでに裁かれているのではないのしょうか。あるいは本当に処刑に掛けられる日が来るというのでしょうか。
アレッサの諫言のひとつがわたくしに降りかかったように、あなたの言葉も実現しなければいいのですが……。
それを望むであろう革命団体“|CHS《シャルル=アンリ・サンソン》”。その名前は有名な処刑人からの借用です。
サンソンはルイ十六世やマリーアントワネットの処刑に携わった男です。その名から、最終的にわたくしを同じ目に遭わせようと考えているのは明らかでしょう。
マリアからは革命がどうとか、公開処刑がどうとか、連中と繋がる具体的なワードは一切出てきませんでした。本当に“教え”に来ただけのようです。
わたくしは、彼女にもアレッサと同じく、自身の考えを話しました。話さなければわかりませんから。
マリアもやはり処刑には反対だそうです。彼女は石を投げる群衆を見て泣いてしまったのだとか。またあれですね「罪なき者だけが石を投げよ」。
二代目君主ソソン王の遺した言葉にこんなものがあります。
「教えるな、学ばせよ」
やはり彼の言は正しかったようで、マリアの“教え”とわたくしの“説明”は平行線をたどりました。
誰しもがマリアの教えた通りのことが実行できれば『ソソンの拒絶』は無かったでしょう。
こちらも口頭説明ではなく、彼女に正式にソソンの民となってもらい城内にも出入りさせれば、わたくしの仕事の意図をちゃんと理解していただけたかもと思います。
けっきょくのところ、神の敬虔な使徒には丁重にお帰り頂くことにしました。今度はニコライ将軍が自ら護衛して国境まで送り届けます。わたくしは心配でしたが、誰が狙われようとも心配は同じです。
ニコライはしっかりと仕事をこなしました。マリアを狙う者、あるいはスパイの仲間を捕まえて自らCHSの尻尾を捕まえる気だったようですが、それは空振りに終わったようです。
マリアは国境室にちょうどおとずれていた隣国の交易団に混ざって難なく帰って行きました。
ですがその後、わたくしはディスプレイの前でため息をつかざるを得ませんでした。
――ソソン王国はとても悲しく、恐ろしい国でした。誰しもが寒さに震え、後進的で不衛生な暮らしをし、こぞって罪人へ石を投げるのです!
大人も子供も処刑を楽しんでいたのです! 囚人へは粗末なパンが与えられ、じめじめとした地下室には拷問器具が置かれていました。
私はイエスの愛を説いたのですが、王女や将軍はまったく聞く耳を持たないで……。
あれだけ愛を説いていたのに。彼女はどういうつもりなのでしょうか。もともとこういう人だったのか、経験がそうさせたのか、あるいは記事になるさいに何者かにゆがめられたのか。
ともかく、迷惑なお客様です!
念の為に言っておきますが、刑務所地下室の不穏な道具は処刑具作成人のボグダンの家に預けてあります。アレッサが去ってすぐにです。つまりは虚偽です。
これまであえて言及してきませんでしたが、子供も処刑の見学や参加ができます。
ソソンでは死者は、自宅で亡くなったのちに知人や巡検室の者に発見されるか、雪の中に埋もれてしまうことがほとんどです。屠殺のある農場も城下からは遠いのです。
つまり、死が覆い隠されているのです。
できることなら、愛するひとと手を握りあいながら逝くことができれば良いのですが、それは難しいことです。
人の死、殺されること、殺すこと。悪と正義と愛との関係。それらを知らずして、正しい生を生き抜くことはできないと思うのです。
だから、子供でも処刑を見学することができるようになっています。あとは親と本人の選択次第です。
死を知ることもきっと、愛へ至る道なのです。だからわたくしは悪夢に悩まされるのでしょう。
スヴェトラーナと王室儀礼の一時的な内容変更の会議をしていたときでした。
「愛とはなんでしょうか……」
「愛?」
悩み過ぎてどうやら口をついて出てしまっていたようです。
ここのところ、ベッドでは死者の声に悩まされて、椅子では愛について考えてしまいます。シスター・マリアのせいではありません、レオニートのせいです。
氷のメイド長はぼんやりしていたわたくしを叱ることもなく、会議と無関係だと切り捨てることもなく、ちょっとだけ頬を染めました。
それから、さっと表情を引き締めると「愛とは誇りに思うものへの執着です」と答えて、眼鏡のずれを直しました。なるほど、それも一つの愛でしょう。
最近、隣国から取り寄せる品に臨床心理学の本を入れました。公務へ身体が動かない代わりに、読書は捗ります。狭間の人々や将来のソソンの民を救うことは諦めていませんから。
レオニートに勧められて試した諸外国の本でしたが、まったく意外なことに、愛や対話がときに化学療法を越えると考えている医者や学者は世界にもたくさんいるようです。
わたくしの頭脳は温泉に雪を投げ込むようにつぎつぎと知識を溶かしていきました。
それらの書物の中でも、与太話として愛の種類を挙げていましたので、いくつか拝借してみましょう。
家族愛、友愛、性愛。それから渇望や慈悲。
スヴェトラーナの言う執着や若いメイドたちの大好きな恋愛も加えてもいいでしょう。
どれもが確かに愛だと思うのですが、それぞれがどこか不完全なものに思えませんか?
わたくしは愛という言葉をよく口にします。日記にも記します。幼い頃からです。でも、その正体は未だにはっきりとしません。
君主とソソンの民のあいだで交換される気持ちは愛だと考えていますが、わたくしが与えないときに、彼らは与えてくれるのでしょうか?
ローベルトがわたくしへ向けた行動には愛が含まれていますか? セルゲイがグレーテへ向けたものには? グレーテが赦せるかも知れないと言ったのは?
グレーテとわたくしとのあいだにあるものは、どの愛?
血だまりや叫びがわたくしの“女”へ響くのは性愛? あれは身体的な反応で性癖ではありますが、愛だとは思えません。心では恐怖です。
しかし、レオニートに抱き返されたときにも似た恐怖を感じたのです。でしたら、状況からして性愛だと言われても、それほど否定はできないかもしれません。
「愛とはなんでしょうか……」
「あひ?」
グレーテはほっぺたにクグロフの欠片をくっつけながら栗色のおさげをかしげます。彼女はこのお菓子が大好きです。これも愛でしょうか。
「あなたは愛はどういうものだと思いますか? 愛にもいろいろあるようですけど」
「愛は、大好きってことですよ」
単純明快。さすがはグレーテです。
「恋人だったり家族だったり。お菓子や植物、ペットの犬だったり。中には悪い人や知らない人でも好きになれる人もいたり。その範囲がそれぞれ違うだけだと思いますよ」
彼女はいっきに説明すると、むせて紅茶を飲んでその原因を押し流しました。わたくしの顔にも何か飛んできた気がしますが、不問としましょう。
誰しもが誰しもを愛せるようになれば、素晴らしいことです。観光者たちの目指すところもそこのはずです。わたくしだってそうです。
「では、レオニートへのハグに感じたのはなんだったのでしょう。愛と恐怖は共存するものなのですか?」
「それ、私に聞いちゃいます?」
グレーテはそう言うと、食べかけのクグロフを見つめたまま固まってしまいました。
「……たぶん、私と同じですよう。サーシャさまだって、ローベルトに怖い思いをさせられたんですから」
「ごめんなさい、グレーテ。でも、わたくしはあなたと抱きあっても平気ですし、ほかの臣下へ抱擁や額へのキスをすることだってあります。それらのときに特にあの夜のことは思い出しません。そもそも、あのときの恐怖はすぐに勇敢なあなたが追い払ってくれましたし、いちばん強かったのはあなたへの心配でした。誰も助けてくれなかったあなたたちとは同じにはなれないんです」
「うーん。怖いと感じたなら怖い。つらいと感じたらつらいでいいと思いますけど。彼とハグをしたときは怖かったんですよね?」
「ええ。でも、拒絶されなかったことには、とても安心したんです。それだけ嫌われたくないってことは、やはり恋愛なのではって……」
「私はあんまり彼のこと好きじゃないですから、ちょっと分かりません。でも、サーシャさまに抱き締めてもらったら、安心しかないです」
そう言ってグレーテは両手を突き出してきました。ティータイムのテーブル越しではちょっと無理です。
「恋愛ではないのでしょうかね。恋って、そういうものではないでしょう?」
「単に男の人が駄目になったのかもしれませんね。私はいまでも、ときどき怖くなっちゃいますから……」
愛をもってしても簡単に癒せない傷はたくさんあります。傷を作らせないようにする“教え”は不可欠でしょう。
罪人たちを見ていると、そのためには幼い頃からの愛が必須なのではないかと感じます。
そして、不幸のひずみを手早く埋めるためにはルールと理屈が必要なのです。ただ、愛を説くだけでは愛は達せられません。
「……グレーテ、ゆっくりやっていきましょうね」
グレーテは頷きました。
「それとも……わたくしと新しい世界に行ってみる?」
「やっぱりそうします?」
そう言ってわたくしたちはどちらからともなく、くすくすと笑いました。
「でも、同じ行くのなら、私は南の海に行ってみたいです。前に“あれ”で見せてもらったのが忘れられなくって」
グレーテは部屋の隅のコンピューターを指差しました。
「あなたも、ソソンは閉じた退屈な国だと思いますか?」
「まさか! 違いますよう。サーシャさまが城下に行きたがったのと似た感じですよ」
「では、行ってもがっかりしてしまうかも知れませんね。ソソンの民は大抵は泳げませんし、海中には危ない生き物も多いらしいですから」
わずかに自分の言葉に意地悪を感じました。
「怖いところかも知れませんねえ。でも、いっしょに砂山を作ったり、きれいなお魚を眺めたり、したくありませんか?」
「いっしょに……そうね。したい。ふたりいっしょに海で遊んでみたい」
「でしょう? 水着とかいうものなんか着ちゃったりしてね、えへへ……。たぶん、ふたりなら何をしても、どこへ行っても楽しいと思いますよう」
そばかすの娘が笑顔になります。
「危ないところや悪いことでも?」
「そうです! サーシャさまといっしょなら!」
グレーテは胸を張ります。
「そうかもしれませんね……」
「でしょう? サーシャさまはルカ名誉国王様と外国へ行かれたことがあるんですよね? 面白かったですか?」
「……大抵は、お父様は外国の要人とお話をしていて、わたくしはそれを横で聞いているだけでしたから、退屈でした。屋内でしたので、別に面白いものもなかったですし。あの人と居ても、楽しくなかった。でも、連れ出してもらえたときは、嬉しかった」
「うーん。何も変わったことをしていないんじゃ、しょうがないですねえ。いっしょに空の下へ出るとか、身体を動かしたりしたら楽しかったはずです!」
そうでしょうか。愚王はグレーテとは違うのではないでしょうか。ユーコ・ミナミと城にふたりきりで残されても、まったく面白くありませんでしたし。それと同じです。
「サーシャさま、またお子様の癖が出てますよ。頭の中で考えたって分かりはしませんよう」
ちょっと馬鹿にしたような笑い。失礼な子です。
「……じゃあ、確かめてみましょうか」
わたくしは席を立ち、グレーテの前へ行って手を差し伸べます。
「え、えーっと……な、なにをするんですか?」
グレーテは首を傾げてわたくしを見上げます。
「身体を動かすんです。グレーテ、わたくしといっしょに、悪いことをして、怖いところへ行きましょう」
「へ……?」
可愛いグレーテはまっかになりました!
それからわたくしたちは、『悪いこと』をしました。邪魔が入ったときには、お互いにすっかり汗だくで、息も絶え絶えでした。
……何をしたと思いますか?
中庭へ出て、お互いに雪玉をぶつけあったのです!
グレーテは手慣れていて容赦もありませんでした。これだけ人に乱暴に扱われたのは初めてです。
ほかの臣下たちは目をまんまるにしてこちらを見ていました。
わたくしは早々に負けを認めるとグレーテと停戦協定を結び、あたりへ無差別攻撃を仕掛けました。革命団体なんかに怯えている場合ではありません。
敵は内部にあり。それもまさかの王女です!
そのうちに気の良い臣下がグレーテへ雪玉を返し始め、遠慮がちにわたくしの足元にも雪が散り始めます。
そうして、いよいよ君主も銃弾に晒されて愚かな大戦争になろうかというところで……ふたりは逮捕されてしまいました。
書庫に監禁されて、たっぷりとつらいお説教。お互いに顔を見合わせて笑えば一時間の延長です。
スヴェトラーナにしてはいい迷惑だったでしょうが、お説教をしているときの彼女も心なしか生き生きとしている気がしました。
もちろん、臣下たちの普段は見せてくれない一面も、いくつか見つけることができました。誰しもが暑くなって毛皮を脱いでいたのです。
ニコライがいなかったのは幸いです。メイドはともかく、衛兵まで王女に向かって庭の雪を投げつけたんですからね!
まじめな副メイド長のエンマさえもまじったのです。ほかのメイドたちがここぞとばりに彼女へ集中砲火を浴びていたので、わたくしが助けに入ってあげました!
雪は冷たくて、痛くて、ハイスピードで迫ってくるのはまったくの恐怖です。あたりまえです。
でも、わたくしがたっぷりと愛を込めた雪玉を投げれば、それはちゃんと投げ返されたのです。
……誰しもがあるがままに。
感じるものが変えられないのなら、そのまま受け入れましょう。安心も、恐怖も、痛みも、等しく愛してしまえばいいのです。
レオニートとのあの一件について無理に解明しようとするのはもうやめです。ただ抱きしめて欲しかった、抱かれて怖かった。それだけです。
わたくしは自分の信じる道を生きます。片手に愛を、片手に死をたずさえて。
レオニートも、グレーテも、すべての臣下や国民、そして革命を謳う者たちも。
夜の死者の怨みも、昼の生者の心も。血塗られたナイフも、涙の罵倒も、汚れた壇上も。ソソンを裏切り続ける世界すらも。
全てに等しく寄り添い、歩き続けます。
それがわたくしの、たったひとつの愛なのでしょう。




