死刑1-19 置き去りにされた娘たち
グレーテ。わたくしの大親友。
グレーテの様子がおかしくなったのは、わたくしがあの子供を処刑した日が境だったかと思います。
もしかしたらそれより少し前だったかもしれませんが、わたくしが避けられる理由なんて、それくらいしか思い浮かびませんから。
最近はわたくしの部屋をたずねてくれないのです。城内ですれ違えば当然、挨拶はします。それが常識ですし礼儀ですから。
ここのところ、彼女の姿を頻繁に城の中で見かけます。買い出しのローテーションから外れたようで、お洗濯や料理室の小間使いとして活躍しているようです。
それなのに……。
白状しますと、あの処刑から今日までのあいだ、どれだけグレーテを求めたか分かりません。彼女のはっきりした物言いと、誰よりも深いわたくしへの愛と友情。
泣き虫の日も、暴君の日も、小さな三つ編みが揺れる姿を見るたびに温もりを欲しました。
ですが、心が離れてしまった可能性を考えてしまい、こちらからは彼女へ声をかけることができないままでいます。
騙された子供の処刑に関わった人を友人に持ちたい人なんて、世界中のどこにもいらっしゃないでしょうから。
わたくしには拗ねたところもあったのでしょう。少々意固地になって自身の仕事に集中しようとした矢先のことでした。
メイドたちの噂話の中にグレーテのことがあったのです。
「あの子、また独りで泣いていたわ」
グレーテと相部屋のメイドの娘の声です。
「どうしちゃったのかしらね。急に氷のメイド長が配置換えしちゃうし」
「王女陛下と仲が良いって噂、本当だったけど、最近は部屋を抜け出してる様子もないのよ」
「なにか機嫌を損ねることをしたんじゃないの? ま、別にいいけど。あの子のことは嫌いじゃないけど、王女陛下のお気に入りだと思ったら、ちょっととっつきにくくなっちゃったし」
「静かなのは良いんだけど、やっぱり少し寂しいわ」
グレーテが泣いている。それも独りで。
わたくしのせいでしょうか? そうでなくとも、今の彼女は給仕室でも孤立しているように思えます。
ここはわたくしが行くほかにないでしょう。でも、嫌われているかも知れないし……。
「アレクサンドラ王女陛下。何をなさっていらっしゃるのですか?」
頭の上へ呆れ声が降ってきました。メイドの休憩室のドアから耳を離して見上げると、氷のメイド長スヴェトラーナが立っていました。
「臣下の仕事ぶりや生活についての情報収集です。これも君主の務めです」
わたくしは立ち上がり、堂々と答えます。
「それは結構ですが。何も、そのような手段をとらなくとも。王女とあろうものがはしたない」
スヴェトラーナは三角眼鏡を指で直すと溜め息をつきました。
「そうです、王女です。メイドたちは王女相手にはお話ししづらいこともあるでしょうから」
「そうでございますね。……ところで、そのメイドとの関係の話ですが。グレーテは、少しは元気を取り戻しましたか?」
「……えっ?」
どういうことでしょうか。スヴェトラーナの口から、思ってもみない質問が飛び出しました。
「あの子から相談を受けていらっしゃりますよね? 私も聞くには聞きましたが……ああいう話でしょう? いちばん力になってくれそうなかたへ相談するのが良いと言っておいたのですが」
「何も聞いていません。あの子とは会っていませんし」
「えっ!? どうして!?」
スヴェトラーナの眼鏡がずれました。
「だって、わたくし……」
自身の両手を見つめます。室内用のシルクの手袋がはめられていますが、いっしゅんそれが真っ赤に見えました。
「王女陛下。私も“あの場”には居合わせたのです。ソソンの全ての罪が君主にも降り掛かるというのなら、王室に仕える私たちも例外ではございません。グレーテとのあいだに何があったかは存じませんが、彼女はあなたを必要としております。私が思うに、あなたもまた、あの子のことが必要なのではございませんか?」
さすがわたくしの元教育係。スヴェトラーナはお見通しのようです。
「……鼻持ちならない料理長と掛け合って、今晩はあの子を外して貰うように言っておきますので」
メイド長はそう言うと一礼して、厨房のほうへ去って行きました。廊下で王族と会話をした場合、王族のほうが立ち去るのを待たねばならない決まりです。
わたくしは遠ざかる背中へ礼を言うと、グレーテの部屋へと急ぎました。
四回のノックはするものの、返事を待たずにドアを開けます。給仕たちは複数人の相部屋で暮らしていますが、わたくしは構いませんでした。
中では、憐れなメイドの娘が独り、ベッドに突っ伏してその身体を震わせていました。
「グレーテ?」
わたくしが声をかけると、グレーテは凍り付いたようになりました。
「グレーテ、泣いているのね。お話……よろしいですか? 出来ればここでなくて、わたくしの部屋で」
しばらくの沈黙。わたくしも何も言わずに待ちます。
「……支度して、必ずお伺いします」
「待っています」
わたくしは自身の部屋へ戻り、ベッドに腰掛けて待ちます。
抜け出しているあいだに陽はずいぶんと沈んだようで、部屋は暖炉からの明かりだけが照らしています。
グレーテにいったい、何があったのでしょうか。
あの子がよそよそしくなっていたのはわたくしのせいではなく、別のことでずっと助けを求めていたからかもしれないのです。
そう考えると、胸が張り裂けそうになります。罪人に実際に会って話をするべきだという答えを出したくせに、いちばん近しい者へはそれができていなかったなんて。
三度のノック、わたくしは慌てて返事をしました。
「お呼びですか、王女陛下」
「ごめんなさい。ちょっと待って、灯りをつけます」
「あ、あの。……できれば暗いままで宜しいでしょうか?」
「分かりました。椅子……ベッドに掛けて」
お茶用のテーブルは暖炉のそばにあります。たぶん、そちらはグレーテの希望とは遠いでしょう。それに、わたくしも彼女の顔を見るのが少し怖かったのです。
「お話って何でしょうか?」
グレーテはベッドへ腰掛け、たずねました。気配だけでも分かります。所作一つ一つが硬い。まったく彼女らしくありません。
「えっ!? あ、そうね……」
わたくしは虚をつかれました。話を聴くために呼んだのでした。でも、こちらにも聴いて欲しい話はあります。
「わたくしが子供を処刑したという話、どう思いますか」
グレーテの横へ腰掛けながらたずねます。あれだけ怖くて避けていたことが、いともたやすく言葉にできました。
「その処刑は見てませんけど……。でも、お話を聞いただけでもつらそうだなって。ごめんなさい、サーシャさま。本当はこちらから声をかけさせてもらうべきでした。みんな、言ってるんです。最近のサーシャさまは酷くおつらそうだって。だけど、私は……」
グレーテの言葉が途切れます。
「やはり、処刑を止められなかった情けない君主だと思いますか?」
「とんでもない! 私なんて、ローベルトをぶつことすらできなかったのに」
「子供を処刑したときにも、例のあれが出ていたんです。それで気を失うことができればって思って、あの子が苦しんでいる前で……気持ち良くなろう、気持ち良くなろうって努めたの。最低でしょう? 身も心も、本当に卑しくて汚い女なのです」
わたくしは何を言っているのでしょうか? グレーテに嫌われるのがあんなに恐ろしかったというのに。
「……そんな! そんなはずありません! サーシャさまは私たちのことを考えてこれまでずっと頑張ってきたんです。みんな知っています。サーシャさまのお心が砕かれてしまったら、ソソンはおしまいです。逃げていけないはずなんてありません!」
優しいグレーテ。わたくしの心は、まだ砕けていないのでしょうか。分かりません。でも、あの日から何かが違ってしまったのは確かです。
「スパシーバ、グレーテ。あなたは、わたくしのことを嫌いになったりしていませんか?」
「していません! しません、絶対に! そんなこと、ありえませんよう!」
グレーテがわたくしの前へ回り込み、両手を取ってくれました。暖炉が明る過ぎて、その表情は分かりませんでしたが。
わたくしはこの一言だけで、すっかり救われた気持ちになりました。明日からまた小娘でなく、誇り高い君主に戻れるでしょう。失われた正義を取り戻す勇気すら湧いてくるのを感じました。
「では、どうして今日までわたくしの部屋をたずねてくれなかったのですか?」
「えっと……。それは」
グレーテの手が離れました。わたくしはそれを逃がさず、彼女がしてくれたように捕まえ返します。
「グレーテ。なにか、大変なことがあったのでしょう? あなたのほうこそ、みんなが心配してます」
友情は失われていませんでした。でも、このままでは彼女が永久に失われてしまう。そんな気がしてなりません。
「……」
グレーテは答えません。
「教えて。わたくしとあなたの仲じゃないの。わたくしの秘密を何でも知ってるのですから、あなたの秘密も分けて。何か苦しいことがあるなら、いっしょに悩みましょう」
きっと、両手だけでは足りないのです。わたくしは親友の身体を抱き締めました。
「やめて!!」
わたくしは強く突き飛ばされて、ベッドに背中を打ち付けて悲鳴をあげてしまいました。
「ご、ごめんなさ……」
グレーテは立ち上がり、わたくしに背を向けます。振り返りざまに照らされたそばかすの横顔には、これまででいちばん悲しい雫が見えました。
子供の腹をえぐった死刑姫の手。快楽と恐怖で情けない小鹿と化した脚。迷子になってしまった愛と正義。
……今度はきちんと、わたくしの願いを聞き届けてくれたようです。
「待ちなさい!」
「やめて! 放して!」
「放しません!」
グレーテは激しく嫌がり、栗色の三つ編みが逆光にステップを踏みます。
「どうしたの!? 落ち着いて!」
「放して! 助けて! 誰か、誰か助けて!」
助けて!? わたくしは何もしていません。彼女は一体どうしてしまったのでしょう。あまりにも強く身体をよじるもので、せっかく届いたはずのわたくしの手が離れてしまいます。
ああ、離れていってしまいます。わたくしの親友が。大切なグレーテが。
「待って! 待ってグレーテ!」
わたくしの願いをよそに、グレーテは扉を激しく揺すっています。別に鍵も掛かっていないはずなのですけど……。
その滑稽な姿が、慌て者の姿が、扉を揺するたびに闇に溶けて消えてしまうんじゃないかと思えました。
「お願い、わたくしを独りにしないで……」
扉の揺れる音が止まりました。それから衣擦れの音がして……すすり泣きが聞こえ始めます。
「ごめんなさい。サーシャさま、ごめんなさい」
「謝ることなんてありません。どうしたんですか? あなたが助けて欲しいというのなら、わたくしは何でも力になります。だから、わたくしのことを置いて出て行ってしまわないで」
彼女のそばへ歩み寄り、同じように座り込みます。今度は無闇に触れたりせず、ただ隣へ。
「私も、私も独りになるのが怖い。でも、でも!」
「……うん、うん。落ち着いてから話しましょう。寒くなってきましたし、ちゃんとどこかへ座って。ここだと、廊下の冷たい空気が来て風邪をひきます」
わたくしは毛皮の肩掛けを上着掛けから外し、グレーテへ掛けてやります。
「いけません。サーシャさまのお召し物なのに」
「何を言ってるの。ドレスの取り替えっこもしたことがあるのに」
わたくしはおかしくなって吹き出してしまいました。
「違うんです。それは、前のことだから……」
「今はどうしていけないの?」
少し不安になります。今のわたくしの服は着たくないということでしょうか。
しかし、それはすぐに否定され、わたくしはもっと大きくて恐ろしいショックに襲われたのです。
「だって私は、汚れてしまったんですから……」
暖炉の薪の崩れる音がしました。今のひとことで、多くの疑問や不安が一挙につなぎ合わさりました。
とにかく、グレーテをもう一度ベッドへ座らせ、ゆっくりと彼女の身に降りかかったことを話してもらわなければなりません。
話し始めるまでに給仕が夕食のためにノックをしましたが、王女の権限でそれを退けます。
どれくらい時間が経ったでしょう。いつの間にか暖炉は力を失い、冷たい空気と闇が部屋を支配しています。
ようよう語られるグレーテの悲劇。
やはり彼女は、襲われてしまっていたのです。要するに、性的暴行。レイプです。
城下での出来事です。彼女が城内勤めの専門になったのも、わたくしに話し掛けられなかったのも全てはこのためだったのです。
ことはまったくの最後までは至らなかったそうですが、そんなことは何の慰めにもならないでしょう。
不幸のもとに永久に失われてしまった、はじめて。繰り返し夢にたずねる、恥辱と恐怖。
でも、それよりも多くのものが彼女を深く、深く傷つけていました。
「信用していたんです。ずっと一緒だったし、アキムのほうならまだ分かるんですけど」
グレーテを襲ったのは、彼女の友人の青年セルゲイでした。
一度会ったきりですし、酔っ払いのほうがインパクトがあったので、今まで忘れていました。たしか彼は、眼鏡をかけていて、礼儀正しく挨拶をし、無礼者を静止してグレーテのことも気遣えていた立派な青年だったはずです。
セルゲイはグレーテを食事へ招待をしました。そしてグレーテは食事中に急な眠気に襲われたのだそうです。
目が覚めたときは、すでに痛みの中でした。それから混乱、恐怖、出入りする他者。
もう一度気を失い、目覚めたときには信じていたはずの顔。
グレーテは褒められるべきです。恐怖を乗り越え、わたくしを救ったときと同様の勇敢さで叫びをあげました。
助けが来ることはありませんでしたが、その一撃は確実に暴漢の余裕を打ち砕き、追い払うことができたのです。
「戻って来なかったんですよ、彼。謝ってくれたら、もしかしたら赦せたかもしれないんです」
どこまでも優しいグレーテ。
「そこは、セルゲイの家だったのでしょう?」
「はい。それきり戻っていないようです。少し前までお父さんがいたんですけど、病気で亡くなってしまってて。彼は色々つらいことがあって、だから、あんなことしたんだって考えたんですけど……」
グレーテの声は震えています。
「やっぱり、赦せない」
「当たり前よ。その様子だと逮捕はされてないのね? 探して捕まえさせる? その気になれば、わたくしの権限で……」
処刑もできるでしょう。
「それはやめてください。彼のことはもういいんです。特に探さないようにお願いもしています。外回りから外して貰ったので、二度と会うこともありませんし」
「あなたのほうが引っ込むなんて間違っています」
「あはは。ですよねえ。でも、怖いんです。角を曲がるときとか、家から誰かが出てくるときとか、あとは……雪かきをしてる人が目だけしか出してなかったりとかすると、まったく駄目で」
「それでスヴェトラーナが配置換えをしてくれたのですね」
わたくしたちの姉や母のようなスヴェトラーナ。薄氷の下には暖かな地下水が流れているのですね。
「はい……。ここはみんな顔が分かるし、サーシャさまやメイド長もいるから安心です。でも、廊下の角を曲がるときは少し怖い。ベッドに横になると、勝手に涙がでてきちゃう。前は、休憩時間によく寝過ごしていたんですけど、今は夜すらもちゃんと寝られない……」
「そう、つらいわね……。ご両親には?」
「実は、それが一番ショックで。メイド長と衛兵さんに付き添ってもらって、一度実家に戻ったんです。それで、事件のことを話したら……」
グレーテは黙りこくってしまいました。
催促したいのをぐっとこらえ、彼女が再開するのを待ちます。
「お、お父さんは、セルゲイは良い血筋だから結婚してしまえって言ったんです」
「酷い!」
「お母さんも、噂になるようなことばかりするのはやめてって。私が、したわけじゃないのに……! アキムやニーナなんて、信じてもくれなかった!」
グレーテはせきを切ったように、声をあげて泣き始めました。これまでの涙の多くはすすり泣きで済ませていたのに。
分かりますか? グレーテは元居た世界から切り離され、すっかり独りぼっちになってしまっていたのです。
きっと、彼女は嫌がるでしょう。恐がるでしょう。それでも、わたくしは抱き締めるのをやめられなかった。やめてなるものですか!
「あなたは独りじゃないわ。わたくしがいます。サーシャがいます。王女がいるのです。スヴェトラーナだって、他のメイドたちだっています! わたくしが何でもしてあげます。ずっと寄り添うのが君主の愛です。友人です。だから、哀しまないで」
「放してください! 汚れた私には、愛を受ける資格なんてないんですから!」
暴れるグレーテ。本当にいやそうで、つらそうで。わたくしは彼女を放しました。決意が揺らいだからではありません。
「……そうです。資格なんてありません。人は誰しも、資格や権利など無しに愛されてよいはずなのです。独りぼっちで取り残されることが許されるなんて、あってはいけないのです」
「でも、私は汚いんですよ! 悪い子なんです!」
激しく首を振る憐れな娘。
「グレーテ。穢れているのは、あなただけではありません。わたくしもつらくて、寂しい。受け止めるのが怖いのなら、わたくしが受け止めて差し上げます」
わたくしはもう一度両腕を広げました。
グレーテ……。




