ふたりの艦長
小用を済ませてからも、橘花の艦内見学(いわゆる「旅行」)は続いていた。
「非科研会議室。本日1700(※午後5時)より出発前会議ですのでお忘れなく」
「あまり参加したくないなぁ」
「こちら資料室。新設されたものです。ここは元々…おっと、何でもないです」
「…」
「こちら我々用の食堂です。といっても海軍さんの士官食堂と共通になります」
「時間ずらして使うのね。なるほど」
「機関室―ですが、我々は立ち入り禁止です。機関科のみなさんの聖地ですね」
「頼まれても入りませんよ」
「大浴場ですが、こちらも士官用と共通です。真水は貴重ゆえお湯は海水です」
「噂に聞く海水風呂ね。飲まないようにしないと」
「こちらが後檣と四番主砲塔です。この艦の顔と言って差し支えないでしょう」
「見れば分かります。かっこいい…のかな?」
「鶴舞さんタバコ吸われます?でしたらあちらの艦尾側に夕方からタバコ盆が」
「あいにく吸いませんね」
「あら、吸いそうな風貌なのでつい」
一時間ほどあちこち連れまわされ、いよいよ艦長へお目見えとなる。茅子ももちろん案内役としてついてくる。それにしてもこないだお互いを知ったばかり(それ以前に彼女は陰陽省庁舎内で文句を垂れていた橘花を見かけたらしかったが)のわりに、この中尾茅子という陰陽師はずいぶん気やす…気さくに橘花に接してくるが、彼女も久しぶりに同僚に女性が増えたのが嬉しいのだろうか。相手がどう思っているかはともかく。
艦長室の扉をノックし、返事を待つあいだに襟を正す。
「ン、入り給え」
待っていたのは紳士的な言葉遣いと声色とは裏腹に、潮焼けした顔がいかにも海軍さんらしい叔父様であった。八の字カイゼルひげがなんといっても目を引く。
促されて出された椅子に掛けた。従兵が紅茶を煎れてくる。茅子は部屋の外で待機しており、さすがに室内まではついてこない。
「きみが噂の女性天文学者かね。なんでもこの派遣に同行することにいまいち納得がいっておらんとか」
「いえ天文『学者』までは…と、あらま、ご、ご存じで」
「ンム、心中察するが、陰陽省長官は梃子でも動かん。世界の主流を占める非科学排斥派だろうとも、泣こうが喚こうが連れて行ってやると息巻いておる」
大変な人が最上層の時に陰陽省に所属してしまったもんだ。橘花はそんな思いを紅茶で流し込んだ。
「申し遅れた。私は須崎和哉大佐だ。この特務艦『伯耆』の特務艦長をしておる。普段は職務故そちらに顔を見せる事はないが、会議のたびに顔を合わせることになるだろう。手始めに今日の夕方にもな」
「鶴舞です。この度は御世話になります」
「そう畏まりなさんな。そちらは軍人ではないので、我々とはほぼ対等な関係にある。さもなくばこのように会話をするようなこともあるまい」
そういわれても、偉い人ならではの覇気に圧されることは避けられない。無理。
「貴女の優秀さもまた噂のうちに聞いておる。良い働きを期待していますぞ。ではまた、夕刻の会議で」
「とまあ、あれが特務艦長さん。悪い人じゃないですよ、気圧されますけど」
会議まではまだ少し時間があるので、引き続き艦内旅行である…のだが、茅子の視線がどうも定まらない。何かを探している様子である。それも、やたら狭い所を覗いている。失くしものだろうか。
その謎は舷側に並んで配置された副砲郭を前から順に案内されること5カ所目にして解けた。「ここが9番副砲塔です」と言いかけた茅子は、ようやく目当てのものを見つけ出したらしい。茅子は顔をほころばせながら、畳まれた布(ハンモックらしい)にもぐりこんでいた「探し物」を抱き上げた。
猫だった。
茶色と白の毛並みをもった猫である。おそらく性別はメス。
軍艦で猫を飼うことがそれほど珍しくないことくらいは橘花も知っていた。船に湧くネズミを狩る目的で、古くから猫は軍艦のみならずともあらゆる船で飼われてきた。その愛らしい風貌は娯楽の少ない殺伐とした乗組員の心を癒し、ネズミ退治と給餌という互助関係は単なる愛玩動物以上の関係を築き上げる。 それに橘花も猫好きである。可愛い、なんて名前ですか?その質問の前に茅子はだらしない恰好で抱き上げられる猫に話しかけた。
「ここにいらしたんですか、艦長。艦内の見廻りご苦労様です。何か獲れました?」
…艦長?いまこいつこの猫を「艦長」と呼んだか?
心のうちに留めておいたはずだったのだが、どうも漏れていたようであり、すかさず茅子が説明した。
「そうでした、ご紹介しますね。こちらこの艦の名誉艦長、ヘンリエッテ大佐です」
「ヘンリ…欧州風のお名前ですのね。しかし…その…」
今度の疑問も、茅子は先回りして答えた。
「『艦長』が被ってないか、という疑問でしたら問題はないですよ。先ほどの“人間の”艦長は『特務艦長』、対してこちらは『名誉艦長』です。もちろん実質的な艦の責任者は“人間の”ほうですし、あと“猫の”艦長に関しては須崎艦長の承認済み…というか本人も乗り気でした」
ヘンリエッテという名前らしい猫は、茅子の束縛から離れようともがきだした。
納得したようなしないような。いくらなんでもたかが猫に「艦長」の肩書は大仰ではないか。あと…
「もう一つ質問が。さきほどから須崎大佐の事は『“特務”艦長』と…本人も皆さんも…呼んでいますが、戦艦の艦長の呼称はそれが正式なのですか?いえ、私の知識不足ですが」
「そですよ?」
即答された。橘花は戦艦の艦長に「特務」を付加するという話は聞いたことがない。先ほどからそれが引っかかっていたのだ。と思っていたら、
「この艦は測量艦や運送艦と同じ『特務艦』で『戦艦』ではないですからね。一応正式には『特務艦長』と呼ぶことになっています」
驚いている橘花を尻目に、ヘンリエッテは音もなく床に降り、一度振り返った後通路の方へと歩いて行った。茅子は「お疲れ様です」とか言いながら敬礼を送ったりしている。
訳が分からなくなってきた。外観はどう見ても戦艦だったので「戦艦」の艦種に類別されると思っていたのだが、実態は「軍艦」ですらない「特務艦」だという。「伯耆」という艦名(明治の末期に「戦艦の名前は旧律令国名」と制定されていた)がその誤解をより大きくしたし、何よりそんな艦は今まで聞いたことがない。しかもやたら陰陽省に配慮した改造がなされているらしく、それが元々どんな形だったかすら隠されているようだ。何より出所が不明。
そして極めつけが猫の艦長と、それを認めている本物の艦長である。
独りになりたかった。独りになって、とりあえず状況を整理して、話はそれからである。橘花は怪訝そうにこちらを見る茅子に、
「ごめん、ご不浄をお借りしたく。先ほど出されたお茶が…」
といい、足早に離れた。どうせ彼女は相部屋なので、自室までついてくるだろう。何か言っているようだが、気にしないで厠を目指す。多分あそこなら独りになれる。
ある程度歩いて、ふと気づく。お手洗いはどこだったかしら。
「鶴舞さん!お手洗いならあちらですよ!」
追いついた茅子は、ちゃんと覚えて下さいね、と言いたげであった。
老朽化した戦艦は基本「海防艦」に種別変更されるんですが、そういう訳でもなく…何者でしょうね「伯耆」(すっとぼけ)