あがる産声
予報では雪が降ると言われていたほど冷え込みが厳しい朝だった。鼻の頭が氷のように冷えている。横向きに眠っていた姿勢から重い体を上体からお越しソロリと起き上がる。体重の増加と二人分の心拍を刻んでいるせいか寒さに強くなった。大きく膨れた腹部を擦りながら朝仕事に取り掛かる。窮屈そうに蹴った足の形が胸の下で盛り上がる。実弥≪みみ≫はイタタと庇いながらコンロの前で身を竦めた。
「今日はタクシーで病院に行けば?雪予報だしなぁ。」
味噌汁の湯気の向こうで実弥の夫多都貴≪たつき≫は心配をしている。出産予定日を経過しても尚、生まれる気配がなく送迎の都合もつかない日だった。本日の診察の後3日以内に陣痛が始まらなければ促進剤を投与され強制的に出産させられる。実弥はひどく痛むと聞くその処置を恐れていた。
「診察は午前中だから、降ってもそんなに積もらないでしょ。体を動かして早く出してあげないと窮屈そう。」
予定日を1週間経過した腹部は日ごとに大きくなってゆく。
「初めては遅れるものらしいから、きっとこの3日で産気づくさ。」
同い年の多都貴は首都圏から離れた勤務地に就職していて、実弥の実家から程近かったので出産前に義母に力を借りようと近所に引っ越しを済ませた。実弥はこれまでショッピングモールの一角で歩合制の占い師として収入を得ていたが、繁盛していたので同い年の収入よりは多少実入りが良かった。出産後1年くらいは育児に専念し定職ではないという不安から早々に復帰したいと考える。呑気で鷹揚な多都貴は玄関先の実弥の腹に手を当てて、生まれたくなったらお父さんを呼んでくれよ、カガリと漢字は決まっていなくても名前は相談済で事あるごとに呼びつつけている。寒さに丸くなる背を見送って健診に向かう準備を始める。
健診の結果、胎児は順調に成長していて、予定通り3日後の入院手続きを行って帰宅した。その日も陣痛はこなかった。
点滴を始めますーーー
今からゆっくり10まで数えてくださいーーー
1、2、3・・・・・10---
あの、10数え終わりました?ーーー
頭を擡げて足の方にいるであろう医師を探す
腹部の先に
大きな冷たい銀のトレイが見えて急に不安になり身を起そうとする
やはり、嫌です。点滴を止めてーーー
ひゅっ。自分の息を吸い込む音で実弥は目を覚ました。心臓は早鐘のように鼓動し息苦しく、暗い部屋の中で肩で深呼吸を繰り返す。嫌な夢だったがその覚えていない。陣痛が始まらないから気持ちが昂ってしまっているのかも知れないと蛍光板の時計に視線を走らせた。午前4時5分前。その時低い地鳴りを聞いた。直ぐに部屋の中は軋み揺れる。横揺れで長かったがさほど大きくなかった。暗い所でひとりモヤモヤを抱えていたくなかったので起きだしてトイレに行く。膀胱が圧迫されているのですっかり頻尿になっていた。のろのろ下着を降ろすと中心に赤い丸が付いている。これが’おしるし’かと咄嗟に思った。子宮口が開き始めた時に下着が赤く汚れる。促進剤が不要となり胸を撫で下ろして、7か月に入った時から準備していた入院時用のバックに最後の荷を詰め込んだ。
多都貴が起床した午前6時になると陣痛は10分刻みになっていた。まだ耐えられる痛みであったこともあり、にこにこ笑って陣痛が来ているよと告げる。
「そうか。今日にはお父さんになれるか。痛そうだからすぐに病院に行こう。」
大きい荷物を持って扉を開ければ景色は白い薄化粧で覆われていた。
病院までは車で1時間弱かかる。振動が辛く感じたが、それ以上に大変だったのは病院の階段だった。産科が減ってゆく一方、最も近くの総合病院の中の産科しか選択の余地がなかった。受付が始まる前の病院は薄暗く陰気な印象だ。長く通った場所にも関わらず、何か拒絶されている雰囲気を醸し出している。
ぼうっとした光量の夜間受付で声を掛ける。守衛が座っていて、陣痛が始まった事を告げると、どこかに内線をかけて短く話をした。
「夜間救急は終わっていまして、一般外来で診察するそうです。一般外来の電源が入るのは8時30分からなので、すみませんが3階まで階段を使ってください。」
実弥はうんざりした。最も東の端にあるこの夜間受付から産科は正反対の位置にあり、しかも3階まで痛む腹を抱えて登らなければならない。歩いた苦労の分、早く生まれてくれるかも気持ちを取り返して、外来に向かう。定期的な痛みのヤマをやり過ごしながら産科を目指した。
廊下は暗く冷えている。行き交う職員もない。再診外来の自動受付機が下りた柵の向こうで煌々としている。暗い場所から明るい方向を見ると取り残された気分になる。手すりを頼りながら階段を登り、通い慣れてた待合で名前を呼ばれるのを待った。痛みで額がしっとりと汗ばむ。足元だけ冷えてかじかむ。上着を腰の回りに巻きつけて、痛みを逃がすふーふーという呼吸を繰り返した。産科に灯りが灯ってすぐに呼ばれた。荷物と多都貴を暗い中に残したまま診察室に入り、問診、内診を受ける。子宮口は開いていないから24時間以上かかるだろうという診断だった。こんな痛みが1日続くことに既に辟易した。続いて呼ばれた多都貴にも出産は遠いと説明し、完全看護であるからと近づいたら連絡すると帰宅を促され、入院の支度は看護師が持ち、陣痛室に移った。
消灯時間となった。非常灯だけになった病室に苦しい呼吸音だけ響く。6人部屋は万床で実弥より先に入院していた4人と後から入ってきた1人全員眠れる状態ではなかった。最も長く陣痛室で痛みと格闘している妊婦は双子でお産が進まず苦しんでいる。昼食、夕食と味もよく判らないまま半分程食べて、横になるより座っている方が楽なので背もたれ付の椅子をベッドの横に置いて貰い、規則正しくくる痛みだけに集中した。
午後9時にまだ3cmしか開いていないって。5cmまで開けばあっという間らしいけれど。夜は辛い。と、多都貴にメールを送信した。返信はすぐにあり、心配だよ。ふたりとも何事もないように。と、心配する文面だった。親になるからには最初の関門くらい楽に乗り越えて見せないといけないなと、陣痛の隙をついてトイレに行く。膀胱を胎児の頭が押すせいで尿意だけが増々頻繁になる。洗面台の灯りの下で目の下に隈を作った同室の妊婦がペーパーで手を吹いていた。互いに会話をする気力もなく頭を下げてすれ違う。寒風がどこかの換気扇から入り込むのが寒い。便座に座ってそろりと尿を絞り出す。ウォシュレット温風を押したのに何が温水が出てきているように濡れる。止めるボタンを押し立ち上がり便器の中を覗き込む。便器から溢れて赤い水が流れ出して床に流れ出ている。咄嗟に腹部を見る。萎んでいない。病院で借りた入院着の下半身がびっしょり濡れて赤く染まっている。スリッパが赤い汚れを広げる。
お腹が痛いーー
痛いーー
痛いーー
呼び出しボタンを押した。
--どうしましたか?
「あっ。」
てきぱきとした声にはっとした。便座に座っていた。立ち上がるって振り返っても水が流れているだけで出血の跡はない。
「すみません。触ってしまいました。」
ぷつっと通話が切れる音がする。一瞬眠っていたのか。汗だくが不快で洗面所で顔を洗う。先ほどの妊婦のように黒い隈がくっきりできていた。
翌日の夕方はまだ生まれないまま夜を迎えようとしていた。流石に食事をする気力もなくなりただ疲弊をしていた。痛みの合間に寝入ってしまい、ピークの痛みで目覚め悶えることが負担だった。
「先ほどご主人がいらっしゃいましたよ。赤ちゃんも苦しい時ですからお母さんもがんばりましょう。」
はい、と、弱々しく返事をした。この看護師は昨日からずっと勤務している。昨夜万床だった内4人は出産を終えて病室へ移っている。その後新たな患者が増えないまま、ふたりでふーふーと喘ぎながら暗い部屋に取り残された。その日はスマートフォンに触ることもなかった。
夜、あまりに足が冷えるのでベッドの上で正座をしたり、胡坐をかいたりして過ごす。消灯前の内診では未だ3cmとのことだった。深夜の陣痛室に電気がついた。新たな入院患者が来る様子だ。人が沢山いる内にトイレを済ませておこうと歩く。いつの間にか単身になることを恐れ始めている。
部屋に戻るともう一人の妊婦が、水をくださいとナースコールしている。完全看護とはいえ急患が来れば手薄になってします。痛みに苦しむ新たな患者がベッドに入った時に、繰り返し欲しがっていた水を貰えたようだ。ずっと、息を吐き続ける単調作業は呻きと悲鳴を封じる。持続する痛みに疲労感だけ積り、急ぎ足で入院手続きをしている看護師に、今夜、生まれなかったら帝王切開にしてほしいと叫ぶ。
「苦しいのは赤ちゃんも一緒です。少し呼吸を止めていきんでみてください。」
2日目も同じ夜勤の看護師が顔色が白く石膏のように無表情に昨夜と同じ言葉を繰り返す。構っていられないというようにさっさと立ち去る。仕方がなく痛みに合わせて腹部に力を込める。強い痛みが跳ね返ってくる。朝方までに、もう2名の患者が入院し、一緒に陣痛に耐えていた妊婦もいよいよ子宮口が全開となって分娩室に移動した。
腹部を見下ろすと痛みに合わせて収縮を始めた。これが本来の陣痛かも知れないと焦点の合わない頭で悟った。明け方近くに力を込める。ひときわ大きな痛みが引いたときに、すとんと疲労の坩堝に落ちた。周囲の呼吸音も耳に届かない。沈黙と暗闇。座っているベッドの足元の白い物体と向き合っている。得体の知れないモノはソラ恐ろしいが逃げ場がない。体を横に向け右手で自分の腹を庇い、突っぱねるように左手を前に出す。固唾を呑んで見守っていると縮こまっていた姿を伸ばした。暗闇で淡く発光する物体は、2等身で顔はできていなかった。目にあたる部位がややへこんでいる。透ける心臓、短い手、毛虫の足を連想させるつぼんだ様子。まるで稚魚だ。しかし、母子学級で目にした妊娠初期の胎児だと確信した。我が子を守らなければという焦りと、胸に迫る寂しげな胎児の気配に感情が揺れた。
ーどうしたの?
つい、問いかけた。
胎児はもそりと這った。手足がないから毛虫のように体を揺らして近づいてくる。
腹が痛む。大きな痛みが下腹部と腰に響く。
声を上げられずに忙しく呼吸を繰り返す。
-はあはあはあ
胎児の動きは緩慢だ。しかし、目を話すことが恐ろしい。ベッドの端で身を固くしていると伸ばされた腕になる部分が左手に触れた。湿って粘り気のある冷たさに戦慄した。
「ぎゃっ。」
スプリングが軋んだ。自分の悲鳴で我に返った。直後、陣痛の激しさに顎をカクカクさせる。必死でナースコールを押した。返事がない。もう一度ボタンを押す。詰所から微かにオルゴール音が耳に届くが応答がない。なんとか頭上の電気をつけて左手を見る。ロウで塗りこめたように白い。胎児が這ってきた後はナメクジの跡のとうに赤くテラエラ光っている。
「うあー!」
叫んで取り乱す。股に違和感を感じる。これはカガリの頭か。どうする、医師は愚か看護師もこない。痛みの強さにあわせてここで生もうと覚悟を決めた。ベッドの柵を掴みあちこち痛む下半身に力を入れる。何回か息んだところで看護師がカーテンを捲り顔を覗かせる。うるさい患者に迷惑しているという不機嫌な表情を張りつけたままで。
「破水しましたね。分娩室に移る準備をします。」
もう、頭が出かけている、生まれそうだという訴えを聞かないままに足早に去って行った。この部屋から出られることに安堵して、孤独に策を握る拳に力を込めた。
「ちょっと何息んでいるの!」
2日半で初めて会った看護師に怒鳴りつけられた。顔色悪い無表情で接していることに不快を覚えていたが怒鳴られても気分が悪い。さあ、行きましょうかと血みどろのベッドごと分娩室に移動する。股に頭の感覚があるから腰を浮かせたままだ。微かな振動でも耐えられない刺激になる。分娩室の扉にベッドは入らない。さあ、と促されても歩ける状態ではない。
「歩けません。」
「ゆっくりでいいですよ。」
「生まれる感じが。」
「もう少しかかりますよ。」
足の間を確認しようとしないで看護師は自分の主張を繰り返ばかりだ。仕方なく力の入らない足を奮い立たせ床に足を下ろす。直立した瞬間に息が詰まった。シャワーの後のように汗が流れて滴る。どろりとした血液が滴り落ちて明らかに頭が出た気配だ。そこら中トマトケチャップをまき散らした惨状の渦中で廊下に落下させたくないと堪えようとしても出産は止まらない。漸く入院着を捲った看護師が頭を押さえる。逆流する痛みが脳天まで突き上げる。
なんとか分娩台に昇って、急患の産後の処置をしていた医師が来ると同時に息を着いただけでカガリは誕生した。すぐに産声が上がらず、どうしたのかと看護師を見詰める。大きな産声が響いた。胸元にきた嬰児は女の子で、白い肌と赤い唇を持っている。可愛い子だな、にこりと笑いかけた。
6時間の安静時間は病室で過ごした。疲れ果てて眠ってしまうと思っていたが、あちこち痛んで睡眠の気配は来ない。安静時間が終わるとベビーベッドが横に付けられる。ここは母子が一緒に過ごすんだ。小さな手やぱくぱく動く口元を珍しく眺めてそっと胸に抱いた。
出産の連絡を受けて多都貴が駆けつけてきた。入院中は新生児室のカガリとガラス越しの対面で張りついて食い入るように見ている姿を、ドーナツクッション付の椅子に座って待つ。感動に高揚しながら、大変だったね。メールが返ってこないから随分外線で問い合わせてしたと陣痛の時間の動向を報告された。女の子だった、どんな漢字にしようかと興奮が冷めやらずおしゃべりが止まらない。そうしている内に多都貴の実父と実弥の実母がやってきた。双方、片親しかいないので少人数だったが、おめでとうと祝福を受け心から喜びを分かち合った。
「じゃあ、今日夜にもう一度くるから。」
「ねぇ、左手だけとても冷えているの。触ってみて。」
「そうかな?冷たくないけど。ゆっくり休んでみて。」
「そうだね。」
病室は2人部屋だった。実弥一緒に長く陣痛室で痛みに耐えた妊婦であることに気付いたのは、食事の配膳が来た時だった。締めきったカーテンの奥に赤ん坊はいないようで、暗く沈んだ気配に気軽に話しかけることができない。カガリが泣き出すと気を遣って授乳室に急いで向かった。病室はいつも寒く居心地が悪いのに対し暖かで明るい授乳室は遥かに気が楽だった。
「いつもここに入りびたりですね。」
顔見知りになった授乳仲間が声をかけてきた。乳房マッサージもそこそこに粉ミルクを与えている。
「何か、泣き通しで。」
「出産後、退院近くになるまで母乳はでないから、お腹、空かせて泣いているのかもね。」
泣き疲れて眠ってしまったカガリを覗き込んだ。話しかけてきた産婦は経産婦で授乳も手慣れていた。あっという間に粉ミルクを飲み干して、肩口でゲップをさせている。
「次に泣いたら、満腹にしてご機嫌になるか試してみます。同じ部屋の人、赤ちゃんがいないみたいでウチが泣いてばかりだと居づらくて。」
「ああ。」
歯切れが悪く沈黙した後に、あの人、死産だったみたいと声を小さくして教える。1週間も前に破水していて、羊水がひどく濁っていて、赤ちゃん酸欠状態で出産に耐えきれずって、ナースセンターの一角であの家の旦那さんに説明していたの聞こえてしまったから。私は6人部屋にいるけど明日、退院するから、部屋を変えて貰ったら?と、気を回してくれる。これが入院5日目の出来事でで足の脛が冷えて思わず身震いをした。
アドバイスの通り、腹が膨れた赤子はスヤスヤ寝ている。そっと病室に戻りベットに置いてみた。起きない。ホッとして柔らかなケットでよく包む。この部屋は、どうも寒くていけない。エアコン温度を上げたかったが、隣に話しかけるのが億劫で着ているものを脱がないで横になる。早く、退院したい、と無意識の頭が切望した。
「あんた、酷い顔だ。」
「出産っていう大仕事の後だし、こんなものじゃない。カガリは疳の虫が強い子みたいで泣いてばっかり。」
「なんか、嫌な空気がまとわりついているよ。」
ぴくりと肩を揺らした、居心地が悪い病室だと、付け足した。快適な環境ではない他に嫌な気配と調子が戻らない体調は母親から指摘されされると具体的な現実となって鼻先に突きつけられ気がする。奇怪な体験は自分だけに起こることは踏まえていたので騒がずに病院を出たかった。その時、浮遊感を感じた。
「地震?」
「揺れてないよ。」
周囲を見渡して 揺れている気配がないことを確認する。退院を早めることはできないのだろうか。後5日とあるのだ。母親は売店で塩を買ってくると、清めになるからと手渡される。占い師の実弥は母からのこうした信心深い体質を受け継いだのかも知れない。
その日、希望していた6人部屋に移動できず、料金面も含めて文句を言うと、現在の部屋を大部屋料金で提供すると、期待外れの譲歩をされ落胆した。左手の冷たさは肩まで這い上がり背中を覆っている。我慢ができず、除霊もしている同僚に、助けを乞うメールを送信した。
赤子に乳を含ませながら柔らかく暖かい背を摩る。井口カガリ。視力はまだ伴わないと黒い瞳がこちらを見つめている。白目は青く綺麗だと飽きずに見入る。脳裏に結婚前の一場面が蘇った。義父が実弥の苗字を聞いて口にした一言だ。
「千秋?終わる意味がある家とは相性がいい。」
心で反芻する。義父は千秋楽を連想し終わると言い表した。疑問は相性がいいの部分だ。今頃になって湧き上がったこだわりがこびりついて離れない。こっそりと多都貴の携帯を鳴らした。
「どうした?」
呑気な応答があった。人目がない内に聞き出したいが為に性急に問う。
「気になることがあって。結婚前にお義父さんが私に、終わる意味がある苗字は相性がいいといったのはなぜ?」
「さして意味がないだろ。」
「小さい事でも聞きたい。」
言いたがらない多都貴な、無言で催促をする。渋々重い口を開く。
「実は、井口の家は女が短命らしい。俺の上に女の子がいたらしいけれど生まれず流れたって。終点みたいな名前の家と婚姻すると防げるという伝えがある。縁起が悪い話はもういいだろう。」
「井口の女?嫁いできたお義母さんはどうして、多都貴が小さい時に亡くなったの?」
「母親も遠縁の井口なんだよ。変な家の言い伝えを信じるなよ。カガリ元気なんだよな。」
「元気で私がクタクタ。変に気になって電話しただけ。早く退院したいよ。」
通話に切る指が震えた。職業柄スピュレチアルに否定することはない。何か明らかにおかしい。
実弥の不調
泣き止まない子供
病室は極力避けて授乳室で夜を越そうと決めた。睡眠が足りないからノイローゼになっているだけなら良いが、見えない恐怖の包囲が狭められている気配は払うことができない。
その日は、早朝に同日の患者の容体が悪化したらしく、ストレッチャーで運び出された。青を通り越して白くなっている顔色が異様だった。火がついたように泣き始めたカガリを抱いて部屋を出てしまったので詳細は判らずじまいだった。
「井口。」
昼食を済ませた時に、昨日助けを求めた同僚の鏡水花≪きょうすい≫が早速訪ねてきてくれた。存在感のある頭から足先まで黒一色の中で白い肌と赤い唇、切りそろえたまっすぐ長い髪とで整っているにも関わらず無気味な印象が残る。新生児室が視界に入る隅のテーブルに向かい合わせで座る。まずは、呼び出した要件を聞こうと言うので、繰り返される生々しい白昼夢、優れない産後の体調、居心地の悪い病院、泣いてばかりの赤子、井口の因縁の全てを話した。時間が掛かり授乳の時間近くになっていた。じっと耳を傾けていた鏡水花は、ふーんと頷いた。
「左手見せて。」
黒い大きな瞳は感情を削ぎ落としたかのように無心で手を眺めた。両手で力を込めて握り込む。
「どう?」
「久しぶりに温まった感じ。」
「そう。じゃあ、次のミルクが終わって、カガリちゃんが眠るようなら、井口も眠りなさい。そして、夜は起きて過ごしなさい。明日、また来るから。」
実弥は慌てた。結局、悪いモノはあるのか、産後の混乱なのか知りたいことを伝えて貰えていない。鏡水花は紅い唇を釣り上げて豪胆な微笑みを浮かべた。
「もう1日待て。私は同僚のよしみで解決を試みる。不安ならこの鏡をやろう。部屋に身につけていろ。後は、井口が私を信用するか如何だ。」
「明日を待つから。」
「鏡水花、もしもだよ。もしもの時はカガリ優先で。」
「ふん。それは自分の伴侶にいいな。」
シャワーが飛沫を上げる。授乳と子育てセミナー以外は食事とシャワーしかない。ここに来てからシャワーが嫌いになった。水がぬるぬるとまとわりつく。粘りがありまるで血液、実弥の目には赤い液体が身体を伝って足元に溜まり排水溝に吸い込まれていくようにしか見えない。入院して6日目、毎日のように血を眺めていると赤に関して無頓着で、どうせ消えるからと無視ができるようになる。これは実弥しか感じない異変なのだ。拭うバスタオルに血のシミはない。髪を洗うと指の間に長い毛がごっそり絡む。無反応のままにテッシュに包んで捨てる。
面会のスペースには、毎日、足を運ぶ多都貴がいて、シャワー後の湿った実弥の肩に腕を回した。
「ミミ、無表情だし、ボロボロだし、目の下はパンダだし、元気になるように、俺と担当の先生に相談しに行こうか。」
鈍感な多都貴が気を揉む程やつれていた。
「えー、大丈夫だよ。早く家にカガリと帰りたい。」
占い師を生業にしていても現実主義なので、摩訶不思議な話をして変わり者という目で見られたくなかった。強がって笑おうとしたものの、上手くいかず、押し付けられていた感情が大粒の涙となって滴り落ちた。そんな実弥に驚き、どうしたのかと覗きこむ。
「とても怖い。でも、多都貴のおかげで耐えられるかも。明日、ほら、迫力ある鏡水花が対策してくれると思うし。頼むことがあったらお願い。」
「じゃあ、明日、また相談してみようかって聞く。」
ひどい事続きの中で、多都貴の心配が嬉しく、明日は少し話してみようかと考える余地ができた。カガリを満たされた思いで抱いて病室に戻る。解放した扉の向こうに数人の人影がある。実弥に気づいたが看護師が病室の前に立ち塞がり、少し授乳室にいて欲しい。迎えに行くからと告げる。室内は男がひとり荷を詰めていた。微かな線香の香りに気づいた。看護師も機材を片している。男は両手一杯の荷物を持ち、窓際から腕の中でピンクを纏ったカガリを放心したように見つめる。我に返って取ってつけたように、もう、終わりました。お構いなく、と、こちらに向かってくる。端に避けるとすれ違い様に口の中で呟く。
「かみさんは井口の籍を抜けた。あなたは井口で健在だ。うちは不幸な事故にあっただけだ。」
実弥は俯いた。病室入り口の名札は実弥の「井口」だけになっている。カガリに聞かせたくない言葉から逃げるように授乳室へ急いだ。
夜は長い。入れ替わり立ち代り新生児の授乳にやってくる患者とたわいない話をしていると気持ちが凪だ。午前3時になると流石に誰も来ない。カガリの暖かさが眠気を誘う。立ったり座ったりしていたがどうしても怠くなり、ベットで眠らせる。静かで何かの機械音だけ低く唸っている。
ー可愛い赤ちゃんが胸にいる
ーしかしカガリではない
-よく乳を吸っている
-強く吸っている
ー痛み、我慢する
-離そうとする
-離れない
-酷く痛い
-力任せに引きはがした
-乳房が裂けて血が溢れ、赤子の顔を汚す
-顔がわからない
-血を飲む
-成長に必要なら与えよう
-痛い
実弥は自分の絶叫で意識が戻った。荒い息を吐く。胸元は血で汚れている。カガリを探す。元の通りベッドで眠っている。恐怖に囚われ髪を掻き毟りながら叫び声を上げる。
「井口さん!どうしたんですか?」
入院時から最も良く見かける顔色の悪い看護師が駆けつけてきた。婦人病などで入院している身が軽い患者の姿もちらほらあった。血で汚れた前身を冷静に見て、入院着の下の傷の具合を確かめる。
「ひどく切れてしまいましたね。このガーゼで幹部を強く圧迫してください。先生を呼んできますので、赤ちゃんは新生児室で預かります。大丈夫ですか?ゆっくり呼吸をして。」
「口も手も痺れていて。」
「では、車椅子を持ってきます。」
野次馬が増えてきたところで病棟から連れ出される。立ち直れない実弥の背後で、看護師は自傷したと言えという。
「今年はもう2組の井口の家で不幸がありました。カガリちゃんの家は回避できたのかも知れません。強く授乳した傷を掻きむしってしまった、と、無理がある説明ですが、事故として明後日、退院した方がいいと思います。」
「何かご存知なのですか?」
「井口の血脈はこの月に2組不幸に合います。長年勤めていますので、案内では有名な話です。病院の外はわかりませんが、離れた方がいいと思います。」
「私は何かの怒りに触れているようなので。」
「この場であまり話をしないで。元気で退院してください。」
振り返って見た看護師の顔は優しく暖かだ。本来はこのような表情の女性だったのかと驚いた。
進言された通り不用意につけた傷として手当を受け、病室に帰された。朝はすぐそこだった。部屋の枕元で鏡が割れていた。
スマートフォンが点滅している。確認したところ鏡水花からで、鏡割れたね、とメッセージがあった。迷わずに電話をかける。コール音の後抑揚なく切り出された。
「明日、病院、出る気だね。必要な準備は?」
「どうしたの、こんなに朝早く。」
「あのね、今日は面会時間が始まったらすぐに来て欲しくて。病院を出たいよ。だから、教えて欲しいの。」
まだ、この国が国家として産声をあげていなかった頃の話に遡る。水が濁りやすい地域に結界を張り地鎮する血脈があった。血を守るための婚姻で濃度が濃くなった一族の子供は産まれにくく、育ちにくかった。生まれる前に水に流れた赤子を冥界に送る役割の女がいた。それが現在の井口なのだ。小さな体を結界の切れ間の井戸に沈める。ある時、悪天候続きで、飲み水に事欠いた夏があった。正気を失った身重の女が井口の井戸に飛び込んだ。底は泥であったがおびただしく血を流して底で事切れた。死体はそのまま土を被せられ子どもと共に葬られた。すると水の濁りが晴れて、これ以降長い閉塞期のなかで夏場に井口の女が結界の一族の選ばれた身重の女から胎児を引き出して井戸に沈める事が慣例となるように形を変えた。血の因縁は、人を守るように研ぎ澄まされた能力は、井口への呪いとして残る。遠くへ離散しても呼び寄せて冥府の仲間としてむかえている。
実弥は入院着脱ぎ着替えて、スマートフォンだけ持つ。昼食の配膳が始まった騒めきの中、カガリを託した母親の待つロビーに急いだ。途中、話をした看護師とすれ違い、身を硬くしたが、微かに微笑むとそのまま足を止めずに進んで行った。三人合流すると鏡水花の車に乗り込む。
「手を。」
鏡水花が実弥と実弥の母とカガリとそれぞれ繋ぐ。
「水、封印のずれ、神社。」
実弥は相槌を打つ。初めは血かと信じ混んでいた。それは、根本で、多分、水が中心にあると整理していた。鏡水花はありのままを写し取る。封印のずれが知りたかったことだ。場所まで探索できている様子だった。複数を写し取ることは負担が大きかったことだろう。神社の役割は既に理解していた。
「今朝、あんたが聞きたいと言っていた七五三田家の結界の張り方。お母さんは本筋ではないから、通り一遍の形式しか知らない。人形を奉らない代わりに憑代になって貰う。」
「私の母方は七五三田なの。」
「古から繋がる結界の血筋か。」
白い顔を歪める。言葉を発することなく、カーナビにあるポイントを入力する。
「神社に向かいましょう。」
「うん。」
「ごめんね。仕事中。ううん。元気だよ。だから病院、抜け出しちゃうくらい。うふふっ。後で謝っておいてね。私はすべき事をするから。カガリは神社にいるから、病院には行かないで、カガリとお義父さんのところへ行ってね。じぁあ、また後で。」
何かを言っていた気もするが、未練になるから通話を切る。そして、メールを送信する。柔らかい体を抱きしめて借り受けた車をカーナビの案内に添って発信させる。その時が来れば迎えが来るはずだ。隣に向かって話かける。
ーあのね。お母さんの家系は神社で長く続いているの。何か特殊な能力があるんだって。カガリのおばあちゃんは血が薄くて普通人で、もちろんお母さんも普通の人。お父さんはお母さんの神社と対だったけれど、お母さんの家の子供を殺していたの。結界が歪むから、本当は結婚てしてはいけなけなかったの。だからお父さんは家からもお母さんの家からも怒られているんだよね。出ないように岩で押さえたのをうごかすくらい。
鬱蒼とした山深い山道に入る。注意を払いスピードを落とす。鏡水花の示した場所を目指す。万が一の時はドライブレコーダーが生き残ってくれたらいいなと考える。身体中に冷たい生き物が張り付いて動き難い。
ーねぇ、見ている?赤ちゃん、数え切れない程の赤ちゃん。いっぱい甘えているでしょう。いい子で寂しくてもずっと待っていたの。これを見たら、カガリは遠くで育てて、ここには近づかないでね。
実弥の母は封印の場所へ自分が行くと言った。しかし、私の死相、見えているでしょう?七五三田の血では収められない。ならば生きる可能性があるカガリが最優先だよ。悟りきって淡々と説き伏せた。
鏡水花から借りた車は多分返却不可能になる。
「あんたの道行きの土産。友達でしょ。」
「用が済んだら、名前を、教えて。友達らしくね。」
古来からの禁忌を破った実弥は自分の命を諦めたとも思えた。しかし、母の感情が古の心細い子どもへの感傷も多分にあった。カガリは生きる。死んだ子どもの慰めは自分でしか埋められない。悲しい子どもたちを抱きしめよう。
残されたドライブレコーダーの画像は科学で分析が不可能だった。実弥の身体にみっちりと張り付く白い影と子猫の鳴き声のような音。突然の加速と転落。身体がフロントガラスを破り岩肌に当たり落下する。下半身がもげて、古井戸に転がった。動かない身体をギシリと動かして抱えた人形を抱えて、苦悶に歪み眼光が飛び出した血塗れの悪鬼のようなデスマスクの口元は僅かに微笑んでいるようにも見えた。
私がこの世にいない理由は色々な人から聞かされるでしょう。大好きでした。幸せでした。この分の幸せをカガリにバトンタッチです。名前は縫物の始末を終えるかがり縫いのようにしてください。名前は大切です。私は、カガリを引かないようにカガリに見立てた人形と逝きます。だから、寂しくありません。そして、どんな事があっても二人ともこの土地に近づかないでください。最後のお願いです。