夕闇の中の少年
駅を出て宿を取り、小さなソファで一休みしていると、空の色が徐々に鮮やかな橙色へと滲みゆくように変わっていった。
きれいな夕焼けだ。
窓から通りを見下ろすと、家路を急ぐ人がだんだんと増えてきている。
そういえば、そろそろ晩ご飯の時間だな。初めての夕食は、どのお店でいただこうか。
期待を膨らませながらドアを開け、宿の玄関先へと向かう。
「あっ、お客さん、夕食用意できなくて悪かったねぇ」
カウンター越しに振り返りながら、恰幅の良い女将が私に声をかけてきた。
「構いませんよ。コンロ、早く直るといいですね。」
「煤が詰まったみたいでね、掃除すれば使えるようになるってさ。明日からは食事を作れるから、用意が必要なときは言っておくれ。」
「お気遣いありがとうございます。そのときは声をかけますね。」
言葉を返すと、女将は安心したように笑いながら頷いた。
「そうそう、ここから西へまっすぐのところに美味しい洋食屋があるのを知ってるかい?小さいけど、シャレイドスコロプの中じゃ知らない人はいないお店さ。どこで夕食食べるか決まってなかったら、そこへ行ってみなよ。」
これはありがたい。
「ええ、どのお店にしようか、ちょうど迷っていたところなんです。ぜひそうさせてもらいます。」
人懐こそうな笑顔の女将に見送られ、宿を出て西へと進んでいく。
この街はずいぶんと路地が多い。
大通りとも呼べる広い道から、何本もの細い横道が葉脈のようにいろんな方向へ伸びている。
急にさっと何かが脇を通り抜けた。
驚いて目で追う。
大きな帽子を被った小さな少年だ。
ときどき立ち止まって空を見上げながら、早足で駆けながら通りの向こうへ消えていく。
これから更に暗くなっていくというのに、一体どこへ行くのだろう。
女将から教えてもらった洋食屋に辿り着いた頃には、空はすっかり暗闇を招く濃紺に染まっていた。
「はい、おまちどおさま。」
オーダーした鶏の香草焼きとスープが鈍く輝く銀の盆にのせられて運ばれてきた。
どちらもほかほかと柔らかい湯気と食欲を誘う香りがふんわりと立ち昇っている。
「いただきます。」
急に空腹を感じ、そっと手を合わせてからナイフとフォークを手に取る。
ハーブの香りが付けられた鶏肉はほろほろと柔らかく、スープには旨味のある野菜がたっぷり入っていて非常に美味しい。
宿に帰ったら、こんな美味しい料理を出すお店を教えてくれた女将にお礼を言わないとな。
食事をあらかた終えたところで、他のテーブルの給仕から戻ってきた店主に感想を伝えた。
「お料理、とても美味しいです。」
そう言うと人柄のよさそうな店主はにっこりと笑い、ぽんと手を合わせて頷いた。
「それはよかった!お客さん、厚着しているから南の方の人でしょう?味付けがお口に合うか少し心配だったんですよ。」
朗らかな店主とたわいもない雑談をしていると、突然、店のドアが軽やかに開かれて明るい声が響きわたった。
「ごめんください。回収に来ました。」
ドアを開けて顔を覗かせたのは、夕方に見たあの小さな少年。
店主はにこりと笑って、少年を店内に招き入れた。
「おお、いらっしゃい。今日は裏に数個落ちてるよ。昼に作ったパンが余っているから、いくつか持ってお行き。」
「はい!ありがとうございます。失礼します!」
少年はぺこりとお辞儀をしてから店に入り、店主に促されてバックヤードへ入っていった。
「あの子は『星くず拾い』ですよ。」
私が不思議そうに見ていたのが分かったのか、戻ってきた店主が教えてくれる。
「星くず拾い…?」
「尻尾月の夜を過ぎると、星の欠片が少しずつ空から落ちてくるじゃないですか。それを探して拾い集め、星くず鑑定人のところに持っていく者たちのことです。」
そういえば、駅でも「星くず」という単語を聞いたような気がする。
まるで絵本や童話の世界に飛び込んだ気分だ。
目を白黒させている私を見て、慌てたように店主が説明を加える。
「ああ、お客さんは知らないんですね。この街では三日月のことを『尻尾月』と呼ぶんですよ。方言のようなものです。月の形が猫の尻尾みたいだからでしょうね。」
なるほど。
細くてしなやかなカーブを描く三日月は、丸めた猫の尻尾に似ている。
「そうなんですね。それで、星くずはどのように落ちてくるんですか?」
私がそう質問すると、店主は困ったように首をかしげた。
「それがねえ、滅多に見られないんですって。気づいたら地面に落ちてるんです。私も生まれてから一度も見たことがありません。」
つまり、星くずはいつ拾えるのか分からない、とても希少なものということだろうか。
「集められた星くずは鑑定人によってランクが付けられて、装飾品などに使われていますよ。お客さんも駅の床に埋め込まれているあれ、ご覧になったでしょう?」
これは面白いことになってきたぞ。
旅行先にこの街を選んで本当によかった。
「なるほど。星くずが名産品なんて、シャレイドスコロプは素敵な街ですね。」
にこりと笑いながら頷き、ほかのテーブルの注文を取りに向かった店主の背中を視線から外して、空になった皿を見つめながらしばし物思いにふける。
「ごちそうさまでした。いろいろ丁寧に教えてくださってありがとうございます。」
あたたかみのある木のカウンターで代金の支払いを済ませながら、店主にお礼を言う。
「いえいえ、旅の方とお話しするのは久しぶりなので、とても楽しかったですよ。またお待ちしておりますね。」
店主はにっこりと笑い、カウンターから出て私のためにドアを開けて見送ってくれた。
外はすっかり墨色のフィルターがかかり、山吹色の柔らかい光を滲ませている街灯がないと地面が見えないほどだ。
空気も少し冷たい。
早く宿へ向かうことにしよう。
ふと振り返ると、先ほど出た洋食屋の裏庭で星くず拾いの少年が手に持った棒を使い、コツコツと地面を叩いているのがほんのりと見えた。
一人きりで暗闇が怖くないのだろうか。
湧き上がるたくさんの疑問と想像を抱えながら、宿に向かって歩みを進めた。