杏花雨を忘れて
桜が咲き始めていた。桜は受粉するまで散ることがないと聞いたことがある。だとしたら、桜はきっと人間と同じ生き物だ。
かつて、コスモスを秋桜と書くのが好きだった。ずっと昔の話だ。本当に好きだったのかと考え直すと、あるいは初恋の相手の癖を、ただ真似ているだけだったのかもしれない。
初恋なんてそんなものだと、今でも思う。初恋だけではない。いつだって恋というものはそれが本心である保証なんてない。ただの気の迷いかもしれない。だからこそ、それを形として示したくて恋人を作る。形があるからこそ、本当だと信じられる。そうして見ないふりばかり続けるのだ。
「先生、おはようございます」
「ああ、おはよう」
その生徒、琴乃はドアの隙間からひょこりと顔を出して、長い髪の毛を揺らしながら靴を脱ぐ。
「校則違反だ、髪は結べ」
「まだそんな時間じゃないです。ちゃんと後で結びますって」
朝礼まで一時間半。ごく一部の生徒を除けばこんな時間に登校しているのは琴乃だけだろう。彼女は毎朝この時間から、ピアノを弾いていた。音楽室の鍵は俺が管理しているのだが、琴乃の頼みによって毎朝練習に立ち会っていた。
一人の生徒のために一時間以上の時間を割くのは、最初は億劫だった。職員室に乗り込み、土下座をしてまで頼み込まれた以上、断るに断れず、周りの先生の目もあったため、請け合ってしまったのだ。
しかし、その演奏を聞いて以来、それを日課にするのも悪くないと思い始めた。奇才とまで呼ばれた演奏を聴きながら、授業の構成を見直し、生徒の学習状況の確認や、休日の予定を立てるなど、その一時間はそれなりに有意義だった。
「先生、寝癖とか付いてませんか?」
「付いてないこともないな。後ろ髪が跳ねてる」
「じゃあこれ、お願いします」
琴乃はヘアブラシを手渡すと、ピアノ椅子に腰掛ける。
「そのくらい自分でやれ」
そう言うと、琴乃はあざとく頬を膨らませる。
「むー、私は演奏で手が空かないので、先生お願いします。それに、自分でするより先生にしてもらいたいなあ」
この朝の一時間はそれなりに有意義な時間なのだ。ただ一点、琴乃自身の扱いを除いて。
「冗談はよせ」
「うーん……先生は私の演奏のために朝の時間を浪費しているわけですよ」
「そうだな。それがどうした」
「だったら、一分でも長く私に演奏させてくださいよ。それとも、寝癖のままクラスに顔を出せと、そう言うんですか……?」
「ぐ……」
普段正論を振りかざす職である故に、正論に弱い。
「ああ、分かりました! 先生は髪を梳くことにやましさを感じるんですね。生徒の髪を梳くだけなのに、先生ったら、もう」
「断じてそんなことはない」
「はい、だったらお願いしますね」
琴乃はそうしてピアノを弾き始める。いつも通り、最初は指慣らしから始まる。バッハのインベンションだったろうか。何曲かはメロディーと曲名が一致するようになったが、何ゆえ歌詞がなければ覚えづらい。
誰も来るとは思わないが、念のため鍵を掛ける。
「きゃー、鍵なんて掛けて何されるんですか」
「馬鹿言うな」
戯言を重ねながらも、心は真っ直ぐ音楽に没入しているようだった。
そのまだ若い髪を手に取ると、甘く爽やかな香りがする。その香りは知っている花のものだった。
「カサブランカか」
「なんで使ってるシャンプー分かるんですか、もしかしてストーカーさんですか? あ、もしかして陰では私のことラブなんですか?」
「違うよ。花は好きなんだ」
琴乃の冗談を受け流しつつ、本心かも分かっていないことを言う。インベンションが止まり、ショパンの何かが始まる。
「先生って、梳くの上手いですね。姉妹とかいるんですか?」
「いないよ」
琴乃の髪が梳きやすいだけだ、とは言わなかった。
「先生って、朝はご飯派ですか、パン派ですか」
「脈絡がないな。ご飯派だ」
「同じですね、これも運命ですかね」
「調子に乗るなよ」
「だったら私のこと受け入れるか突き放すかしたら良いじゃないですか。そうしないどころか、毎朝こうして付き合ってくれるんですから、なんだかんだで私のこと好きですよね」
「何回も言ったはずだ。俺と琴乃は教師と生徒だ。そういうことに答えるわけにはいかない」
かれこれ半年、こんなやり取りを続けている。だからこそ、今日の琴乃がいっそう落ち着かないことを気に掛けていた。
「なあ、琴乃。何かあったのか」
「何か、なにか。ええ、まあ、多分」
妙な言い方だった。一瞬演奏が止まった気がしたが、琴乃はピアノを弾き続けている。
「私の父は作曲家で、母は作詞家で、私って音楽に囲まれて育ったんです」
「ああ、聞いたな」
以前、どうして学校で弾くのかと尋ねたことがある。家にピアノはないのかと。すると、琴乃の家は音楽一家だということ。そして、家で弾くと父親の機嫌を損ねるということ。その他諸々を聞いた。
「それで、卒業したら東京の方で本格的にピアノを学ばされる予定なんです」
「そうか」
学ぶのではなく、学ばされるのだというその言葉から、既に察していた。琴乃が弾きたいピアノは、もっと自由なものなのだろう。
ショパンが終わって、琴乃が振り返る。もう寝癖は十分に直っていた。
「私、お嫁さんになりたいんです」
「お嫁さん」
その顔はやけに真面目だった。こういう顔をするときは、冗談を言うつもりではないときだ。
「はい。朝は旦那さんより早く起きて家事をして、少しして起きてきた旦那さんにおはようって言ってあげて、時々は大胆に、おはようのキスみたいな真似もしてみたりして、二人で朝ご飯を食べるんです。テレビからは政治家がどうとか、事件がどうとかばっかり流れて、二人して「嫌だねえ」って言うんです。それからは、旦那さんを見送って、帰りを待ちわびて、ようやく帰って来た旦那さんに抱きついてあげたいですね。もちろん、夜はおやすみまで言います。そんなお嫁さん。あはは、古いですよね、今どき」
そんなことない、と言いかけて、止める。簡単に答えるものじゃない。
「俺は笑わない。琴乃が夢だと言うなら、それは良いことだ」
「なんでそんな中途半端な言い方してるんですか」
琴乃は鋭い。俺のことをよく見ているし、よく知っている。
「…………この指輪、見えるか」
右手を見せると、琴乃は頷く。
「知ってますよ。でも、それってあれですよね。恋人がいる振りして、私みたいなのを諦めさせるためのおまじない。だって先生から女の人の匂いがしたこともないですし、そんな気配もないですし」
「そうかもしれないな」
「だからなんでそんな中途半端な」
「死んだんだ」
「……え? あ、えっと……ごめんなさい」
琴乃は急にしょぼくれて、しおらしくなる。
「良いさ、琴乃が気にすることじゃない。それで、彼女もまた、お嫁さんになりたいと言っていた。だから、俺はお前を笑わない」
琴乃の言うことも一理あった。あくまで俺は彼女を恋人と呼び続けている。それはきっと、俺の弱さそのものだ。
琴乃はばつが悪いのか、またピアノに向き直った。
「あの、先生」
「なんだ」
「私の夢って、叶いますかね」
「さあ、どうだろうな」
聞きなれたメロディーが始まった。ここで聞くのは初めてだが、カノンだ。
「だったら、もう一つ」
「なんだ」
「先生って、その彼女のこと好きなんですか」
「ああ、好きだ」
「どうしてですか」
「そう誓ったからだ。俺は彼女を愛している」
「そうですか」
一呼吸置いて、琴乃は続ける。
「だったら、私も誓います」
「何をだ」
そう尋ねながらも、その続きは知っていた。
「私も、先生が好きです。ずっと、愛しています」
「勝手にしろ」
決して答えは返さない。俺たちは教師と生徒だから。
窓の外では、雨が降り始めていた。彼女が嫌いだったから、雨は嫌いだ。