午后の講義
「それでは、幻影力学的見地から見た、幻想第四次空間における作用反作用の力を考えてみましょう」
先生は、白の指揮棒を伸ばすと、大きさも色も様々な円の描かれた、白いスクリィンを指した。
「思う力は、収束する力であり、膨張していく力でもあります」
八十人以上は入る大講義室に、学生は八分以上入っていた。授業を進める先生の声は穏やかで、僕など聞いていると眠気を催してしまうが、学生はみんな真剣な顔で、先生の言葉のメモをとるのに余念がない。部屋の中で聞こえるのは、ペンが紙をこするサラサラという音と、先生の声だけだ。
「内的宇宙と呼ばれる通り、幻想第四次空間は、何処までも拡散し続けていますが、惑星の引力に引かれるように、引きつけ合うものでもあるのです」
僕は、先生の気持ちのよい声を聞きながら、僕には少し高い椅子の上で足をブラブラとさせていた。
先生は、旅の途中で、ある手紙を受けとられた。その手紙というのが、先生を客演講師として大学で講義を持ってもらえないかという依頼の手紙だった。先生は、学長自身が認めたらしいその手紙に感銘され、その依頼を受けることにされたのだ。
こうして先生は、イィズリィ大学校に、客演講師として招かれたのである。今日は、二回目の講義だった。同大学の幻想文学科では学生の要望が大きい為に、来年度から幻影力学を必修にする計画があるそうで、今回の先生への依頼は、そのデモンストレイションに当たるようだ。
最初の日は、自己紹介や先生が幻影力学を志すきっかけ(とても興味深いお話だった)で終わってしまったので、僕も楽しく話を聞くことができたが、今日は幻影力学の基本を学ぶのがテェマとなっている。
「そもそも幻影力学とは何かといった基本的な命題を、あなた方はしっかり踏まえておかねばなりません」
僕は、欠伸を噛み殺すと、音を立てないように、ソッと立ち上がった。
「シュリル君。幻影力学概論の序文を始めから読んでもらえますか」
学生達が、配られたプリントをパラパラとめくる音がする。僕は、教室の後ろにある扉をスライドさせた。先生に当てられて、立ち上がったシュリルという学生が、先生がご自分の蔵書を印刷したものを、声に出して読み始める。
「幻影力学とはそもそも、あってないものに、科学的なアプロゥチを試みる学問である。その行為自体が無意味とも言えるが、幻影つまり無を考えるものである。無に、夢を当てはめるのもやぶさかではない」
僕は、それを聞きながら、廊下に滑り出た。閉めた扉の向こうから、本当に大切なものは、見えないのだと、学生が本を読んでいる聞こえていた。先生の声は幾ら聞いていても飽きないが、その話している内容は、僕にはチンプンカンだ。先生の助手などおこがましい。僕には、先生の荷物持ちがいいところだと、自認している。
先生も僕に、幻影力学を学べとは仰らない。有り難いような、それでいて寂しいような複雑な気分だ。特に先生が、他の人の先生をしている時は尚更だ。
先生は、物ではないから一人占めにすることなんてできないけれど、先生が僕以外の誰かの名前を呼ぶのなんて聞いていられない。その人達が、僕なんかよりずっと先生の助手に相応しく、幻影力学を学んでいるんだから、余計僕が複雑な気分になるのは当然と言えた。
僕は、その近代的な造りの大学の構内を、ブラブラし始めた。空き教室ばかりなので、物音一つ聞こえてこない。この時間が休講の学生も大勢いるだろうに、辺りには人気はなく、動くもの一つ見えなかった。僕は、探検気分で天井の高いアァチになった廊下を歩いていた。筈だった。
あれと思うと僕は、古臭い木造の煤けたような廊下に立っているのだった。それに何より、長袖のネルのシャツと膝丈のズボンでは、堪えられない程寒かった。その時教室から、教師のものらしい声が聞こえた。
「土と太陽と水、風がうまく合わさって初めで、稲ば育つのです」
教師の言葉を混ぜっ返すように、学生の一人が、
「そったらこと当りめぇだべ」 と、ちゃちゃを入れている。
途端、明るい少年達の笑い声が教室の中に響いた。生徒達が行儀悪く笑っても、教師は叱ったりしなかった。
「基本的なことを、忘れではいけないのです」
その声には苦笑が混じっていたが、言葉の芯には、とても厳かな、何か侵せないようなものがあった。その生物学か農学の教師らしい男の話し方は、心の中にスッと染み込んでくるようだ。
誰かに似ているなと思って、僕はそっと教室の後ろの扉まで寄ると、ほんの少し扉が開いていたのをいいことに、部屋の中を覗いてみた。教室の中には、髪の毛をすっかり刈り上げた、僕より幾つか年長に見える、しかし大学の学生にしては若い少年達の椅子に座った後ろ姿が、整然と並んでいる。みんな、揃いの黒い詰め襟の制服姿だった。
教室の後ろに、丸い薪ストゥブが拵えてあり、パチパチと薪が、陽気な音を立てて燃えている。建て付けが悪い為に教室には隙間風が吹き込んできそうだが、とても暖かそうな光景に僕には見えた。
教師は、黒板に図を描いて、その説明をしている最中だったが、ふとこちらに顔を向けた。その教師も、少年達と同じように髪を短く刈り込んでいた。茶色のジャケツは些か草臥れていたし、野暮ったかった。
その男の教師は、先生と同じ年頃に見える。どこがどう似ているという訳ではないのだが、僕はその男と先生がとてもよく似ているように思えた。どこがどうどころか、その男は本当はちっとも先生に似ていないのだが。
その朴訥で正直そうな男の教師は、僕に気付くとにっこりと微笑んで、
「お入りなさい。そごでは寒いでしょうに」と、言ったのだった。
僕はドギマギして、思わずパッと扉の裏に隠れてしまった。何と失礼なことをしたのかと思ったが、後の祭りだ。
「先生、誰かそごにいるんですか」
ナントカ先生と、生徒はその教師の名前を呼んだが、僕は聞き逃してしまった。誰かいるのかと生徒達が、ザワつくのが分かる。僕の胸は、ドギドキと早鐘のように打ち始めた。どうしよう。どうしよう。見つかったら、怒られるだろうか。その時。
「違うな。まーだ、先生のいつもの癖じゃ」
と、誰かが言った。それを聞くと、生徒達の間に笑い声が起こった。それは嘲りなどではなく、とても好意的な笑いに聞こえた。
「先生には、一体何が見えでいたのかのぉ」
少年達は、僕に気付かなかったのだ。不思議そうにそんなことを言っているのに、そのナントカ先生は、
「目の大きな、可愛らしい男ん子ですよ」
と、答えた。この教師であれば、僕の先生と同じで、授業を邪魔したと怒ったりしないだろう。僕がそう思って、ソロソロと顔を出そうとした時、またしても誰かが、今度は素っ頓狂な声を上げた。
「あっ、猫じゃ。何で猫が入り込んどるんじゃ」
猫? 猫が、どこに潜り込んでいるんだろう。その猫を捕まえる気か、誰かが、こっちに向かってくる気配がする。相手は、ドアを開けようとしている。僕は、パニックに陥った。扉を開けて僕がいたら、きっと腰を抜かすに違いない。
どうしよう。どうしよう。
僕は、何が何だか分からなくなった。
「こっちゃこい。猫」
「ラジニ君」
「ほれ、ほれ、怖がらんでええ」
「ラジニ君」
「おめぇさん、どっがらきた」
ふと気が付くと僕は、ぼんやりと先生の顔を見上げていた。講師の控え室の机に突っ伏していた僕を、先生が覗き込んでおかしそうに笑っておられた。
「ラジニ君。今日の講義は、これで全部終わりですよ」
先生は、幻影力学概論の本や幻影力学の基礎、講義ノォト等をブックバンドで留めた物を手にされている。僕は、まだぼんやりとしていた。まだ耳には、先生によく似た教師や少年達の声が残っている。先生は、僕がぼんやりしているのを、不機嫌な所為だとでも思われたようだ。僕の気を引くように、
「待たせたお詫びに、学食のマトン定食をご馳走してあげましょう」
と仰って、僕に優しく微笑まれた。
「とてもおいしいと、学生に評判のようですよ」
僕は、別にぼんやりしていただけで、怒っている訳ではない。しかし勿論、そのマトン定食は食べてみたい。
僕は、先生を見上げて聞いてみた。
「僕、寝てましたか」
先生は、僕が寝惚けていただけと分かったようだ。先生は、相変わらずおかしそうに笑いながら、
「ええ、ぐっすりと」
少年達が、猫がいると騒いだ為に、僕はその場にいられなくなって、逃げ出してしまったのだ。
逃げて逃げて、それで・・・・。
そうだ。僕は、大講義室横にある講師の控え室の方に飛び込んだのだ。どうせ、講義を聞いても分からないので、机に座ってぼんやりしている内に、今度は僕は居眠りしてしまったのだろう。
僕は、怖い夢でも見たみたいに、ようやく人心地ついた気分になった。しかし、よくよく考えると、僕は随分馬鹿なことをしてしまったに違いない。せっかく沢山の人達と知り合うチャンスだったのに、よりにもよって逃げ出してしまうとは。
「僕、大学の構内を歩いている内に、突然、古い木造の校舎に出ていたのです。そこで僕、ここの学生さん達より年下の人達が、授業を受けているのに出喰わしたんです」
先生は、別に不思議な顔もせずに、
「予科生でしょう。旧校舎の方を使っているんでしょうかね」
と、仰られただけだった。きっと、その通りだったのだろう。
「僕、こっそり覗いていたら、教師に見つかってしまって」
僕はそこまで言うと、しょんぼりと肩を落とした。あの男の人、先生に似ているような気がしたけれど、どこがどう似ていたのか結局分からずじまいだった。もう少し話をしたら、似ているか似ていないか分かっただろうに。先生が案じ顔で、僕を覗き込まれた。
「何か、嫌なことを言われたのですか」
「いえ、優しい言葉をかけて戴きました」
僕は、慌てて首を振った。それなのに。僕は、またしてもしょんぼりとしてしまう。
「何も言わずに僕、逃げてしまったから、きっと不愉快な気をさせたと思います」
僕は、どうしましょうと、縋りつくように先生を見上げた。先生はあの、いつもの全てを包み込むような眼差しで、僕を受け止めてくれた。
「大丈夫ですよ。不愉快などとんでもない。愉快な目に遭ったと思っていますよ」
先生の口振りは、何かを知っておられるようだった。
「もしかして、その方が誰なのか、先生は、知っておられるのですか」
僕のその質問に、先生はただ微笑まれただけだった。
「知っておられるなら、失礼をして済みませんと伝えてもらえますか。あっ、勿論僕がまた会えれば自分で言いますけど」
先生は、ポンポンと僕の頭を軽く叩いて、
「いいんですよ。何も言う必要はありません」
と仰って、そのまま部屋を後にしようとしている。僕は、まだ腑に落ちなかったものの、とにかくマトン定食は食べられるのだと、半ば意気揚々として先生の後を追ったのだった。
マトン定食は、子羊肉のシチュウと、サラダとバケット(か、ライス)に、デザァトまでついていてボリュウムたっぷりだった。
味は先生曰く、学食にしては、なかなかと言ったところだろうか。僕は、学食なんてこれが初めてだから、こんなものかといった感じだった。
マトンシチュウはル・ラタンだし、サラダを詰めた惣菜バゲットは、七曜堂だろう。デザァトの珈琲ゼリィは、僕にはちょっと苦かった。大人の味だ。もう少し、そう。僕がイィズリィ大学校の学生ぐらいの年になったら、きっとおいしく感じられるのだろう。
やっぱり僕には、喫茶店『鉱石亭』のマスタァの作る甘い珈琲ゼリィが一番だ。砕いた珈琲ゼリィは、茶色と言うより黒で、まるで黒大理石の破片のようだ。それらが、真っ白な肌理細かい雪花石膏のようなホイップクリィムに浮かべられていて、その上からチョコレェトソォスと砕いたアァモンドがまぶしてあるのだ。
と言うことで、僕は次の日に、先生にねだって鉱石亭の珈琲ゼリィを奢ってもらったのだった。
先生は、あと一度、それが最後となる講義をイィズリィ大学校で行われた。その時も僕はご多分に洩れず、先生にくっついて行った。勿論、講義を聞く為ではなく、もう一度あの教室で行われている授業を覗きに行って、今度こそこの前の非礼を詫びるつもりだったのだ。しかし、構内を隈なく歩き回ったものの。
旧校舎なるものは見つかったが、あの古い木造の校舎は見つけられないという結果に終わった。
僕は、全然似てないようで先生によく似ているような、あの生物か農学の男の教師には、二度と会えなかった。会えなかったものの、先生を見ていると、時々ふとあの男の教師と重なってしまうことがあった。あの教師も先生と同じで、包み込むような暖かい笑い方をしていた。
もしかしたらあの教師は、もう一人の先生その人だったのではないか。それとも先生が、もう一人のあの教師なのか。もう一人の僕が、三毛猫だと先生が言うように・・・・。
僕は、甚だ不可思議な経験をしたことだけは、確かだと言える。しかし、ここは何処ででもあり何処でもない幻想第四次空間だ。もしかしたら僕は、たった一人で、不確かな幻想第四次空間を駆け巡ったのかもしれない。
時空すら越えて、もう一人の先生に会ったのか、たまたま先生によく似た印象を持った人に巡り会ったのか。
それとも、全ては僕が見た夢だったのだろうか。