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理科備品取扱マス

 天体倶楽部は、裏通りの狭い店舗の並んだ通りにある店だ。扉の硝子窓の部分には、内側から理科備品取扱マスの文字をしたためた黄ばんだ紙が張ってあって、中の様子は伺えない。扉は奥に引っ込んでいて、扉の横にはショウケェスが突き出していた。

 そのショウケェスの中を、一人の少年が熱心に覗き込んでいた。少年は、白いシャツを着て、モスグリンのズボンをズボン吊りで吊っている。少年は皮嚢ランドセルを背負っていて、旅行者のように見えた。

 少年の視線は、ショウケェスに飾られた星座早見表に、ジッと注がれている。黒曜石の盤に填められた色硝子が、星空を表している。とても美しいが、他に陳列ケェスに並べられた物と比べると、星座早見表は、どうしても見劣りがするのだった。

 しかし少年は、複雑な形をした寒暖計や、細かい金の細工のある月天儀などには、目もくれずに、その星座早見表に見とれていた。しかし、早見表の前に置かれた値段のタグを見ると、少年は諦め顔になった。少年の小遣いで買える範囲より、ゼロが一つばかり余計に多いようだ。

 その時、背の高い二十代の後半程に見える男が、少し離れた店から出てきた。男の顔は、どこか憂いを含んでいるように見える。男は微笑むと、天体倶楽部の店の前に立っていた少年に声を掛けた。

「ラジニ君。行きましょうか」

 ラジニと呼ばれた少年は、はいと返事をして、その場を離れて男の元に駆け寄った。ラジニは、男の持っていた柳のトランクを受けとって、自分の手に提げる。

「何かいい物があったのですか。遠慮せずに言ってくれて構わないのですよ」

 男の声は、包み込むような愛情に溢れている。その申し出に、ラジニの顔が一瞬明るくなった。しかしラジニは、遠慮深い性質であるだけでなく、男に物をねだるのは我が侭だと考えたらしく、きっぱりと頭を横に振ったのだった。

「いえ、何でもないんです。ちょっと見てただけですから」

 歩き出した男の後について、ラジニも歩き始めたが、名残を惜しむように、天体倶楽部のショウケェスを、振り返って見たのが最後だった。

 その旅行者らしい二人連れは、裏通りから去って行った。

  *

 夜になると、天体倶楽部のショウケェスには、灯りが入る。青いセロファンを被せたスポットライトが、月天儀や星座儀、天体望遠鏡のミニチュアや、惑星の模型を、幻想的に浮かび上がらせていた。

 一人の少年が、そのショウケェスの中を食い入るように見つめている。天体倶楽部の陳列用ケェスには、その年頃の少年が興味を引きそうな物が、色々と並べられていた。店の扉には、理科用品取扱マスとあるように、実験セットや顕微鏡なども置いてある。それらが幻想的な光に照らされながら、機械仕掛けの為に、色々な動きを見せる様は、その年頃の少年の心を捉えて離さないのだろう。

 泡入りの琥珀や、化石などの載せられた台が上下し、吊されたモビィルが回転しているが、それらの機械仕様ではなく、少年の目は、星座早見表だけに向けられている。少年は吊りズボンの上に、ネルのシャツを着て、黒いビロォドの上着を羽織っている。背中には、皮嚢を背負っていた。

 ショウケェスを、熱心に見つめていた少年の横に、一人の男が屈み込んだ。仕立てのよいスゥツ姿のまだ若い男で、少年の連れらしいが、少年との間に血の繋がりがあるようには見えない。

「何を見ているんです」

 近くにある店から、連れの男が出てきたことに、少年は気付かぬ程、真剣に陳列ケェスを眺めていたのだった。少年は、星座表を見ていたことは言わずに、

「機械仕掛けになっているんですね」と、興味深そうに言った。

 星座表だと言ったら、男に気を使わせるかもしれないと、考えたからだろう。二人は暫くそれを見ていたが、男は膝を伸ばすと、

「どうです。これから、ル・ラタンで、夕食にしませんか」

 と、少年を誘った。少年の顔が、パッと輝く。

「わぁ、僕あそこの、デザァトのチョコレェトケェキが、とても好きなんです」

 それを聞くと男は、優しい笑顔を浮かべる。

「では、決まりですね」

 少年は、男から柳のトランクを受けとって、いそいそと歩き出した。

 二人の旅行者は、裏通りから出て、見えなくなった。

  *

 雨が、細かい霧のように、裏通りの中にも降り込んでくる。

 そこに、黒い傘をさした二人連れが、裏通りに現れた。二人は、親子のようにも兄弟のようにも見えなかった。傘を差しているのがまだ若い男で、もう一人の少年はレインコォトを着ていた。

 防水性の黒光りするコォトの下からモスグリンのズホンが見えている。少年は手に、柳のトランクを提げていた。男は、一軒の店の前で足を止めると、少年に傘を渡して、代わりにトランクを受けとった。そして、男は、少年をその場に残して、店の中へと入っていった。店は、郵便物を取り扱う出張所だ。

 少年は、大人用のその大きな傘を持て余すようにしながら、裏通りを奥に向かって歩き始めた。天体倶楽部の黒い鉄製の看板の下まで来て、ショウケェスの中が見えると、少年はアッと声を上げて、皮のブゥツに泥が跳ねるのも気にせずに、ケェスの側に駆け寄った。

 岩石の標本箱の隣に隠れるようにして、星座早見表が置いてあるのを見ると、少年は明らかにホッとした。早見表が売れてしまったのかと、思ったようだ。

 前に星座表の横に置いてあった月天儀が、売れたかして無くなって、代わりに岩石の標本が置いてあった。それで、星座表が見えなかったのだ。

 少年は暫く、その星座早見表を眺めていたが、先程連れの男が入っていった店の扉が開く音に我に返ると、慌てて店の前に駆け戻って行ったのだった。傘を片手に、もう片方の手で、少年は早速男からトランクを受けとっている。

「ほら、ミルクキャンディです」

 男は少年に、手に持ったキャンディの包みを見せた。少年が、どうしたんですかと聞くと、男は優しく微笑んだ。

「店の主人が君にとくれたんです。いつも感心な子だと誉めていましたよ」

 男は、傘とトランクで両手が塞がっている少年の為に、その場で飴の包みを剥いた。そして、飴玉を口の中に放り込むと、傘を受けとって、二人して傘の中に収まりながら、裏通りを出て行ったのだった。

 二人がいなくなった後も、雨は静かに、石畳を濡らしていた。

  *

 その裏通りに、スゥツのよく似合う男が、一人入ってきた。男は手に、柳で編んだトランクを提げている。旅行者のようだ。男は、一旦、郵便物を取り扱う店の中に入っていったが、暫くすると出てきて、今度は更に路地の奥まで歩いて行った。

 男は、天体倶楽部なる名の店の、突き出たショウケェスの前で、今度は足を止めた。男は、暫くショウケェスを見ていたかと思うと、おもむろにその店の理科備品取扱マスと張り紙された扉を押して、中に入って行った。男はすぐに、紙袋を手に店から出てくる。

 そこへ、裏通りの入口から、一人の少年が駆け込んできた。モスグリンのズボンをズボン吊りで吊り下げた、ネルのシャツを着た少年は、背中に皮嚢を背負っている。

「先生。僕の前の人がお釣りを落としてしまって、それを拾うのに時間がかかってしまったんです。はい、これ、先生の分の薄荷水」

 少年はそう言いながら、男に駆け寄って来ると、男に向かって手にしていた瓶の一本を差し出した。その少年の視線が、男の手にした天体倶楽部の店名の入った紙袋へと注がれる。

「先生、何をお買いになったのですか?」

 少年は、男のことを先生と呼んでいる。その呼称には、尊敬と敬愛の念がありありと溢れている。先生は、にっこりと穏やかな笑みを浮かべると、

「当ててごらん。君にと思って買ったのですよ」

 と、抑揚のある、男の人となりに相応しい声で言った。少年の顔が、驚きに変わる。

「僕に、ですか」

 少年は、目をパチクリとさせて、何だろうと考えている。先生は更に、

「ショウケェスに、飾ってあったものですよ」

 少年は、顔に出そうになった期待の色を隠すように、わざとケェスの中に何が飾ってあったか覚えていないような、素振りを見せた。

「ケェスの中ですか」

「えっと、泡入りの琥珀ですか」

少年は、先生を上目遣いで見るようにして、聞いた。先生は、いいえと首を振る。

「じゃあ、ルゥペかな?」

朗らかにそう言う少年に、先生は相変わらず優しい微笑を送りながら、

「それも違いますね」と、言った。

 その二人連れは、裏通りを入口に向かって歩きながら、時折言葉を交わし合っている。少年の答えは、なかなか当たらないようだ。

 天体倶楽部のショウケェスの引き戸は、客の要望によって開けられたまま、まだ閉じられていなかった。

 店の店主は、売れていった品物の代わりに、別の品物を飾ろうとしている。

 店主は、さっきまで星座早見表があった場所に、今度は紫の皮張りの装丁も美しい、星座の図鑑を置いたのだった。

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