ウィッシュ・ド・ノエル 3
石造りの駅舎を出て、雪の積もる野原を汽車は進んで行きます。兄さんは、ノエルを窓から離して、元通り窓を閉めました。
ノエルは既に、少年から渡された袋に注意が向いています。紙袋には、包装していない白い紙箱が入っています。早速開けると、小さなブゥツが出て来ます。それを見た兄さんは、
「ノエルにはちょっと地味かな」
と、感想を洩らしました。ベェジュ色の柔らかな鞣革のブゥツは爪先と踵に、茶色の当て皮をしてあります。
ノエルの今のお気に入りの靴は水色のブゥツで、折り返しに白いボアが着いています。側面には青い糸でクロスステッチがしてあり、折り返しの正面の縁には、青いビィズの着いたリボンが付けてあります。
「僕、これがいい」
ノエルは言って、ブゥツを抱き締めました。兄さんが履いているのは、黒い脛まである編み上げ靴です。とても地味ですが、紐の結び方を工夫してありました。
ノエルの目には複雑で、どこをどう引っ張れば結び目が解けるのかも分かりません。
新しいブゥツは、ノエルを少しだけお兄さんになったような気分にさせてくれました。
兄さんはブゥツを掴むと、座席の間でしゃがんで、ノエルの足に履かせてくれます。
「靴下がない分少し大きいけど、大丈夫そうだね」
ノエルは新品のブゥツを足に填めて貰い、嬉しさに足をブラブラさせながら兄さんに言います。
「いい人だったね」
「そうだね。彼の名前は聞けなかったけど、まさかチビじゃないよね。チビばっかりじゃあ、どのチビか区別が着かないよ」
「ラジニ兄ちゃんが水族館で会ったのはチビで、今の人は僕にブゥツをくれたから、ブゥツさんにすればいい」
「でもチビも長靴を履いていたんだよ。それにしてもブゥツは名前としてどうなのかな。どうせならクッキィもくれたんだし、ジンジャアかクッキィの方が良くないかい?」
ノエルは兄さんと、クスクスと笑い合います。何気無い会話が、何よりの喜びです。一緒に話が出来るのは、何て素敵なことなのでしょう。
兄さんは毎日のように手紙をくれますが、ノエルは殆ど字が書けないので、言いたいことを言うことが出来ません。
ノエルは、兄さんが側にいるってやっぱりいいなと思いました。
『白鳥の停車場』を通った後、再び汽車は、遠く近くに別の世界を眺めながら通り過ぎて行きました。
汽車から見えるどの道もどの路地も、兄さんの行った場所に続いているように見えます。
ホテル〈西海岸〉、流星通り、漂流博物館に〈天文倶楽部〉。それらの道は、全ての場所に通じているようでした。中には、ノエルとそして兄さんの家も。
途中車掌さんが、切符を確認しに現れました。兄さんはノエルが切符を無くさないよう、自分で管理していましたが、見せるのは自分でしたいだろうと、ノエルに持たせてくれました。
やがて兄さんの言った通り、アレドの谷に差し掛かりました。汽車は、谷に渡された長い鉄橋を通ります。
駅で停まる度にお客さんが乗り込んで来て、ノエルと兄さんの乗っている客車も満員になりました。谷の奥には町があって、皆その町に行くようです。
お祭りを楽しみにする華やかな会話が、幾つも聞こえてきました。
別名お化けの谷とは恐ろしげですが、こう言う謂われがあるそうです。煙突や塔の沢山ある町で、汽車の動きに連れて町は生き物のように姿を変えます。
煙突や塔の数が増えたり減ったりするのと、谷には良く霧が出て、霧に浮かぶ煙突や塔が如何にも怪しげな為、お化けの谷と呼ばれているのだそうです。
今夜は霧は出ていませんでした。
町では盛大な過ぎ越しの祭りが行われています。煙突からは幾つもの花火が打ち上げられ、色様々な火花が噴水のように吹き出しています。
一際大きな青い花火が上がると、客車の中まで青く染められ、汽車はまるで海の中を走っているようでした。
真っ赤な薔薇の花火も、空を明るく染め上げます。
乗客は皆左側の窓辺に寄って、花火を楽しみました。峡谷を渡り終えた先にある停車駅で、お祭りに行くのに、街行きの汽車に乗り替えようと、沢山のお客が降りました。
お客を吐き出すと汽車は、すぐに運転を開始します。
お弁当やお菓子・飲み物を積んだワゴンが、汽車の中に回って来ます。兄さんはワゴンを押している男の人に、馴れた調子で声を掛けます。
「何か変わった物はありますか?」
「今夜だけの特別、フィッシュ・ド・ノエルがあるよ」
男の人の言葉に、ノエルは頓狂な声を上げました。
「僕の魚?」
兄さんがクスリと笑って僕の肩を抱いて、僕を紹介します。
「彼はノエル、僕の弟」
男の人も笑いながら、
「魚の身をほぐしてハァブで味付けして、魚型のパイに詰めてあるんだ。熱々でおいしいよ」
と、言って、ワゴンの一番上の銀色の四角い蓋をちょっと持ち上げて見せます。
香ばしいパイとハァブの爽やかな暖かい匂いが、ノエルの鼻を擽り、ノエルは思わず一杯に息を吸い込みました。兄さんが皮嚢に手を伸ばしながら、
「二つ下さい」
と、注文します。男の人は、ワゴンの取っ手に提げてあった紙袋をちぎり、トングを使って、パイを一つずつ紙袋に入れました。兄さんがお金と引換に、紙袋を受け取ります。売り子の男の人は小声で、
「お金は一人分でいいよ。何てったって、坊やの魚だからな」
と、言って、ノエルにニヤリと笑って見せました。ノエルはやったと言いますが、兄さんがお礼を言うのを聞いて、慌ててそれに習います。
こっちにもパイ一つと言う声が掛かり、売り子はただいまと言いながら、ワゴンを押して通路を歩いて行きました。
紙袋を水平にして中を覗いて見ると、薄茶色の輝く魚が入っています。鱗の刻み目から、中身のサァモンピンクが見えています。ノエルは魚を引っ張り出そうとしますが、兄さんに注意されて諦めました。
「パイの粉が落ちるから、袋に入れたまま食べるんだよ」
魚を空中で泳がせたいのは山々ですが、そう言うことをするので、ママもノエルはお行儀が悪いと叱るのです。
しっぽから食べるか、背中から食べるか、お腹から食べるか。
でもノエルは兄さんと一緒に、袋に入っていた通り、魚の頭にかぶりつきました。兄さんは旅先で食べたおいしい物に就いて書いてくれますし、送れる物なら送ってくれます。
自分で食べるより、兄さんが書いてくれた物の方が、余程おいしそうに見えます。
フィッシュ・ド・ノエルのことを、兄さんならどんなふうに書くか、ノエルには想像も出来ません。ノエルに分かるのは、ノエルの魚は、確かにノエルの好みにぴったりだと言うことだけです。
特別なお夜食に特別なお喋り、特別な兄さん。
今夜は特別が一杯です。
話をしたり景色を見ている内に、山の上にある氷の都まで来ました。
兄さんは何と呼んでいましたっけ。シュバ? ノエルは不思議に思って、兄さんにもう何度目が分からない質問をしました。
「氷で出来ていたら、中で火を焚いたら溶けちゃわない?」
あれは何、これは何と四六時中聞いているノエルに、ママはいい加減黙っていて頂戴と言いますが、兄さんは説明出来るのが嬉しそうで、ノエルの質問に嫌な顔一つしません。
「建物の外を氷で覆っているんだ。建物の外壁が透けて見えたり、氷の中に花や綺麗な物を沢山埋めてあるんだよ」
氷の街は、硝子や水晶で出来ているようにも見えます。遠くから見れば、飴細工で出来たデコレェションケェキのようでしょう。兄さんが教えてくれたお菓子を思い出し、ノエルは言います。
「おっきな氷飴だね」
「本当だ」
兄さんも目を見開いて同意しました。
シュバルツヘルツの駅から乗り込んで来た乗客の一人はおばぁさんで、ノエル達を見ると一緒の席に着いてもいいかと尋ねてきました。兄さんは礼儀正しく、四人掛けの前の席を勧めます。
おばぁさんは黒くて膨らんだスカァトに、黒いコォトに赤や黄色の鮮やかな色遣いの毛織りのストォルを巻き付けていました。灰色の髪は、ストォルと同系色のスカァフの下にきっちり収めてあります。
おばぁさんはノエルを見て、うちの孫の小さい頃にそっくりと言って、ニコニコと笑います。兄さんも嬉しそうに、
「僕の弟です。僕の自慢です」と、言います。
ノエルも負けじと言いました。
「お兄ちゃんこそ僕の自慢だよ」
おばぁさんは、真ん丸な風呂敷包みを解いて、クッキィの丸い缶を取り出しました。蓋を開けて、一つずつお取りと勧めてくれます。
「孫は大きくなってもいまだに、私の作ったボンボンが大好きなんだよ」
兄さんは申し訳なさそうな顔をしつつ、
「この子にはまだ早いって、母さんはボンボンは許していないんです。酔っ払ってしまうからって」
「これなら大丈夫。熟れた葡萄をチョコで包んであるんだ。中で熟成して、トロリと甘い蜜になる。濃い葡萄ジュウスはワインの味がするけれど、それで酔う人はいないだろう」
兄さんはじゃあお言葉に甘えてと言って、ノエルにも摘むように言いながら、自分も一つチョコを摘みました。ノエルは兄さんが口に入れるまで、ジッと見つめていました。
口に含んで味をみていた兄さんの顔が、パッと輝きます。
「おいしい」
ノエルはドキドキしながら、ボンボンを口に入れます。寒い外から来た為、チョコレイトはひんやりしています。ずっと口に入れていたら自然に溶けてきますが、ノエルは待てずにチョコを噛じりました。
チョコの中から、蜂蜜みたいに甘い果物の汁が出てきます。
ノエルはびっくりして、危うく吐き出すところでした。ノエルは目を真ん丸にしたまま、暫く固まっていました。おばぁさんはお口に合わなかったかねぇと言いながら、缶を元通り風呂敷に包みました。
兄さんも少し笑って、大丈夫?とノエルに聞きます。チョコが溶けてきて葡萄の蜜と混じると、とてもおいしく感じられます。
「ワインってこんな味? おいしいね」
ノエルが言うと、兄さんが慌てて言いました。
「駄目だよ、ノエル。母さんの料理用のワイン、勝手に味見しないんだよ。身体を温めるにはいいからってお湯で薄めて作るホットワインなんて、たっぷり蜂蜜を入れなきゃ飲めたものじゃないよ」
おばぁさんは笑って、リキュウルのボンボンならともかく、お酒は坊やにも早いと言います。
ノエルからすれば五つ上の兄さんは、更に年上の双子よりもずっと大人のように見えますが、おばぁさんからしたら坊やに過ぎないようです。
そのおばぁさんは、孫の家がある町で降りて行きました。




