ウィッシュ・ド・ノエル 2
冴え冴えとした月の光に照らされた、廃墟のような眠る町。
夕暮れの光の中、見渡す限りに続く麦畑。
朝日を受けて硝子がキラキラ輝く、のっぽのビルディングの群れ。
初めて見るような、何処かで見たような沢山の景色は、小さなノエルの心を捉えて離しません。
暗い夜の中を汽車は抜けて、白い銀世界を後に、立派な駅舎の中に滑り込みます。
「『白鳥の停車場』。雪の為、特急が遅れております。特急の到着を待って出発します。十分ほど時間が掛かります。降車してお待ちの方は、出発の際にお気を付け下さい」
兄さんがノエルに、聞いてくれます。
「十分はあるって。ちょっと降りて広場のツリィを見てみる?」
ノエルはうんと頷きました。ノエルは足の付かない座席から、床の上に飛び降ります。途端に兄さんが、顔色を変えました。
「あっ、しまった。靴を忘れた。僕が行って買って来ようか? ここで降りる暇はなくなっちゃうけど、また別の町で停車するかも知れない」
オゥバァは言われましたが、ノエルは裸足です。兄さんは立ち上がって、座席に置いていた皮嚢を取り上げようとします。
ノエルは慌てて兄さんの腰に抱きつき、放ってっちゃヤだと駄々を捏ねます。せっかく久しぶりに会えた兄さんです。一分だって、離れたくありません。
兄さんは困り切った顔をします。
「今日は人が沢山いるから、お前をおんぶして靴屋を探すなんて無理だよ」
靴ならいいとノエルは言おうとしますが、その前にノエルの上に突然手が伸びてきました。
「足のサイズ幾ら? 俺が買って来てやるよ」
見上げると、兄さんと同じ年頃に見える大きなお兄さんが、兄さんに向かって手の平を突き出しています。
ダボダボのダンガリィシャツは、子供用とも思えません。肩を詰めた大人物のような上着を、コォト代わりに羽織っています。癖のある髪は縺れて、肩近くまで垂れています。
あまりにもだらしのない格好に、ノエルは目を見張りました。ノエルは普段から大人に、お行儀が悪いのは悪い子だと言われています。
ジャケットに皮靴で汽車の中で騒ぐことも、ウロウロすることもない兄さんは、流石に行儀が良く立派で、自分も大きくなったら兄のようになりたいと思わされます。
見知らぬ少年は、ノエルには不良少年にしか見えません。
ノエルはその少年が、金を巻き上げようとしているのではないかと思いました。
ノエルはまだ小さいですが、双子の兄に玩具やお菓子を度々巻き上げられている為に、親切めかして近付いて、取り上げてしまう悪い人間がいることを知っていました。
兄さんは途惑ったように少年を見つめ、いいの?と聞きます。
ノエルは信用したら駄目だと言いたかったのですが、その少年は双子よりずっと恐ろしくノエルには見えました。
だって双子は、ママに怒られないよう、ママの目に付くところでは礼儀正しい格好をしています。見られていないと思えば、ズボンから襯衣を出したり、靴の後ろを踏ん付けたり、ネクタイを緩めていますが。
「俺、家に帰るんでここで降りるけど、その前に一っ走り買うぐらいしてやるよ」
少年は、手の平を差し出したままで言います。兄さんは手にしていた皮嚢を開けると、ノエルの靴のサイズを言って、出来るだけ安い、紐のないブゥツを買ってくれるよう頼みます。
ああ、兄さんがお金を取られてしまう!
少年は兄さんの手からお札二枚を摘むと、ちょっくら言って来ると独り言ちるように言って、身を翻しました。
少年は通路から、瞬く間に消えてしまいます。兄さんは座って待っていようかと静かに言って、座席に腰を下ろしました。
兄さんは、確か甘草キャンディがあった筈と呟きながら、皮嚢の中を掻き回しています。兄さんは、ノエルの視線には気付きません。ノエルは兄さんの隣によじ上って、元通りに座り直しました。
兄さんはキャンディの入った筒を取り出し、ほらと言ってノエルに手を出すように言います。ノエルは手を上に向けて――あの少年!――コロンと出された楕円形のオレンジ色の粒を口に含みました。
兄さんも、自分の手にキャンディを一粒出して口に入れます。歯磨きの後ですが、今夜は構わないだろうとノエルは思います。
石のホォムには別の汽車を待っている人でしょうか、旅行鞄を手にした人がチラホラ見えます。
座部が木で他は鋳鉄製のベンチや、鋳鉄製の透かし模様の屑篭などが置かれています。
ノエルは、兄さんが教えてくれた鉄製蔓薔薇のことを思い出します。幼馴染みのマァシャは、成長する鉄の薔薇なんてないと信じませんでした。
マァシャが夢の中で兄さんと会ったと話したのも、ノエルだって信じていないので、お合いこですが。
兄さんは、ああ言う綺麗な鋳鉄の道具を見て、あの話を作ったのでしょうか。
ノエルは飴を右頬に押し込んで、別な質問をしました。
「本当に買って来てくれるかな?」
兄さんは、別にどうでも良さそうに頷きます。
「うん」
鉄で縁取られた時計は停車してから、五分近くが経っています。ノエルはオズオズと、再び口を開きました。
「間に合うかな?」
「うん」
兄さんはまたしても、おざなりな返事しかしません。ノエルはぴったりと兄さんにくっつくと、兄さんを心配し、慰めるように言いました。
「お金、いいの?」
その時だけは兄さんは顔を上げると、にっこり笑って強く頷きました。
「うん。クリスマスだしね。プレゼント代わりでもいいよ。間に合わなかったら、先生に買って貰おう。それまで降りられないけど、いい子だから我慢してね」
兄さんはノエルの頭を撫でてくれます。知らない町に行けるのは、勿論嬉しいですが、本当は兄さんさえいればそれで満足なのです。
兄さんと一緒なら家でお留守番だろうが、大嫌いな病院だろうが構いません。
取られたんじゃなくてプレゼントに上げたつもりになればいいなんて、流石兄さんは言うことが違います。
ノエルは安心して、ようやく身体から力を抜きました。
「特急北極星号は十二分遅れの到着となります。幻影鉄道御利用の皆様には大変お待たせしてご迷惑をお掛けしました。降車してお待ちの方は、お乗り遅れのないようにお願い致します」
改札を抜けていた人達が、駅のアナウンスに慌てふためいて戻って来ます。
旅行鞄を手にしたホォムの人は、自分の懐中時計と駅の時計を見比べていました。
発車の合図を知らせる、柔らかい汽笛の音が鳴らされます。
ホォムは俄かに慌ただしくなりますが、その中に少年の待って待ってと言う高い声が響きます。ノエル達の座る席の窓辺に、先程の少年の顔が覗きます。
兄さんは立ち上がると、力を込めて木枠の窓を押し上げました。冷たい空気と共に、紙袋に小銭と次々と押し込まれて来ます。
「子供用の靴が売ってる店がなくてさ。もう駄目かと思って路地を探したら、昔見たことがある店がまだやってた。でも流行ってないんで、古い靴しか置いてなかった。その分安かったけど。ほらチビ、広場で配ってた、ジンジャアマンクッキィ。俺ぐらいの子供には配ってないって言われたけど、靴を見せて俺の弟にやるんだって言って、一つだけかっぱらってきた。俺からのクリスマスプレゼント代わりだ」
少年はポンポンと矢継ぎ早に喋りながら、透明な袋に入ったお菓子をノエルの手に押しつけます。ノエルはびっくりして、目を大きくしながら、
「僕チビじゃないもん」
とだけ、言い返しました。
「お前みたいな小さいのは、チビって名前と決まってる」
「違うもん。ノエルだもん」
少年は軽く目を見開き、からかう調子はなく、本気で言いました。
「こいつはお見それしました」
いつの間にか汽笛は止んでいて、人の動きも止まっていました。
兄さんが、ノエルにお礼は?と聞きます。言われて初めて、ノエルは忘れていたありがとうを言いました。少年はいいってことさと、軽く言います。
アナウンスが、危険ですので線の後ろにお退がり下さいと告げます。少年がそれに従い汽車から離れるのに、兄さんが今度は矢継ぎ早に礼を言い出しました。
汽車がガタンと動き出した時、兄さんはお礼代わりにこれ上げると、リコリスキャンディを筒ごと少年に放りました。少年は見事にキャッチします。
「家で素敵なクリスマスを」
兄さんが言えば少年も、
「兄弟でいいクリスマスを」と、言います。
汽車が動き出し、少年の姿は見る見る後方に取り残されます。ノエルは見失うまいと、窓の外に首を出して、少年を見送ります。
少年は大きく手を振りながら、叫びました。
「ノエルとその兄のチビ、じゃあな」
兄さんは、大きく身を乗り出して叫び返します。
「僕だってチビじゃない。ラジニだよ」
少年に、兄さんの声は届いたでしょうか。ただ、手を振る姿だけが見えました。
兄さんは分かってんのかなぁと小さくボヤきながら、首を引っ込めました。




