劇団IHATOV 7
僕は真っ赤になりながら、ピアノでポランの広場の歌を演奏し始めた。
僕は袖から舞台を眺めていたのだけれど、仔犬の男の子が劇の台詞を言った時、たまらず僕まで叫んでしまった。だって先生のことを、僕より先に好きだなんて言われたくなかったんだもの。
勿論僕の先生ではなく、劇の先生に向けて言われた言葉だったのだけど、僕は一瞬お芝居だと言うことも忘れてしまった。
動物の生徒役をしていた子供達の幾人かは、舞台袖を振り返ったけれど、何事もなかったように劇は続けられた。
お客さんも、あの声はどこから聞こえたんだろうと訝ったに違いない。幕が下がり、お客さんからは盛大な拍手が起きた。
人間には悪いところもあるけれど、中には立派で素晴らしい人もいる。
子供達が先生のことは人間でも好きだと言う場面と、最後の先生の台詞が良かった。涙を零すような感動とは違うけれど、胸の中に深く残る。
止まない拍手の中、もう一度幕が上がる。劇団イィハトォブのポランの広場での公演は、今日が最後だ。
舞台を始める前に、リトルガァルの挨拶があった。観客はそれもあって、カァテンコォルを望んだ。付け耳やしっぽを付けた子供達は、他の楽団や芸人や雑用の子供で、この劇の為に集められた。
インコの女の子達だけは、これまでにも何度もイィハトォブ劇団の仕事を手伝っているようだ。
劇の出演者が全員並んで、ポランの広場の合唱をする。僕も伴奏しながら、口ずさんでいた。
「星の豆電球瞬く夜 月のラムプに灯を入れませう 螢のカンテラ吊って ポランの広場に行きませう 風の手が掻き鳴らすクモの糸ハァプ ナズナ スズラン ブルゥベル 口笛吹き吹き ポランの広場に行きませう 悲しみを置き去りに 喜びを胸に 夢と希望を呼び覚ます 明日へと続く ポランの広場に行きませう ポランの広場に行きませう」
沢山の拍手をお土産に、こうして三日間の興行は終わった。舞台の幕が閉じた途端、ウサギの付け耳を付けたリトルガァルが、ぱたりと舞台に倒れた。
僕は一瞬、彼女が人形に戻ったのかと驚く。リトルガァルを中心に輪になった人垣に、袖から駆け付けた僕も割り込む。
ケンタウリがリトルガァルの頭を自分の膝に乗せて介抱しながら、ちょっとホッとしたように、
「疲れてたんだ。この三日張り詰めどうしだから」と、言った。
リトルガァルは人形なんかじゃなかった。スヤスヤと寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている。僕もその寝顔を見ると、何だと思って安心する。急に倒れたりするからびっくりした。
でも本当の舞台人は、舞台が引けるまでは何があっても立っているものなのかも知れない。ケンタウリは、
「寝かせておいてやろう。一晩休んだら、リトルガァルなら元気になるさ。片付けは俺達だけでしよう。リトルガァルが文句の付けようのないぐらいに完璧に」と、言う。
子供はみんなケンタウリの言葉に文句も言わずに頷いたが、猿の先生役のお爺さんが、
「子供達は遊びに行きなさい。片付けなんてものは大人に任せて」
と、言い出した。大道具さんも、今回は出演した。ケンタウリは戸惑った顔をする。
「えっ、でも」
それを制するように牝牛の校長役をやった大柄な女の人が、太い声で、
「大人と違ってチビちゃん達は、片付けなんかしてたらすぐにお眠になっちまうよ」
ケンタウリにしてもインコ役の女の子達にしても、チビと呼ばれる程ではないと不服げだったが、それらの申し出は何よりも魅力的なものだったのは言うまでもない。先生も、
「さぁ、みんなでお客さんがくれたおやつを分けに行ったらどうです」
と、仰って、僕に頷いて見せた。僕達はリトルガァルを起こさないよう忍び足で舞台を離れると、嬉しさにはしゃいだ。
僕はその夜、劇の出演者達と遊んだ。
月の光の中で見る世界は、いつもと違って見えるけれど、それは月の光に魔法の力があるからなのだ。夜は子供の時間じゃないけれど、大人ですら夜の魔法には抗えないから、闇の中に消えていく。
回転木馬に乗ったり、輪投げや射的をしたり。芝生の上で、影踏みをした。月の光の中でする影踏みは、太陽の下でするのと違う。
淡くて薄くて、それでいていつも以上にしなやかに動く。影自身も逃げ惑っているようだ。
みんなで遊ぶことは少ないので、僕はとても楽しかった。家にいた頃は友達がいなかった訳じゃないけれど、ぼんやりしていることが多かったから、こんなふうに大人数で遊ぶことはなかった。
兄弟で遊ぶにしても、双子にオモチャにされるのが関の山だった。
沢山遊んで、おやつも沢山食べた。
サイコロ型のダイスケェキなんて面白かった。1はレッドカラントで、他はレェズン。内にはホイップクリィムとカスタァドが入っていた。
芯を繰り抜いて、輪の形にしたリンゴのフリッタァ。
レモンの器にレモン汁と実と蜂蜜を入れて固めたレモンゼリィ。
チキンクリィムとブロッコリィを詰めた、鶏の顔の形のパイ。
あらゆる種類の、様々な形と味と作り方の食べ物を見ると、人間って本当に素晴らしいと思う。ただ食べるんじゃなくて、芸術や創造に高めている。
でも行き過ぎたら、食べることだけで頭が一杯の動物と変わらなくなる。そのあたりが難しい。
食事と食事の合間に、芸術や文学や学問に思いを働かせられるから、人間は立派だと言うのだ。朝御飯を食べて昼御飯のことを考えているようじゃ、豚と代わらないと言ったりする。
もしかしたら豚の方が、黙って自分の生まれながらの定めに就いて哲学的思索に耽っているかも知れない。人間は知らないだけで・・・。
時間が遅くなると眠くなって精彩に欠けるだけでなく、親や芸人仲間の大人が、子供達を探しに来て、叱ったり宥めたりしながら連れて帰り出した。
熊役の子ダンストンは、もっともっと大きなお父さんの背におぶわれて帰って行った。形は大きくても、まだまだ赤ん坊なのだ。
一人いなくなり二人いなくなりして、最後にはオウムみたいに喧しい女の子達も、母親二人に引きずられて姿を消した。
母親が姉妹なのかそっくりで、娘と同じく――いや、娘に遺伝するようなお喋りだった。
結局、僕とケンタウリだけになる。ケンタウリは途中何度か姿が見えなくなっていたが、リトルガァルや片付けが心配で見に行っていたのだろう。
星の広場に戻ってみると、イィハトォブ劇団の舞台は、殆ど片付けられていた。荒れ果てた宿の一室で見た人形劇の舞台にそっくりな、木枠だけが残っている。
枠の前に、マントを羽織った人が立っていた。ケンタウリが、驚きと喜びと心配が混じった声を上げる。
「団長。出て来て平気なんですか?」
男の人は振り向いて、
「だいぶマシになったよ。食事をしたのが良かったようだ」と、言う。
先生よりも若い男の人で、羽織っているのはマントではなくて毛布だった。僕はつい、
「あなたが?」
と、言ってしまう。リトルガァルに代わって食事を届ける筈だった相手。イィハトォブ劇団の団長にして脚本家は、僕を穏やかな榛色の目で見つめて、
「君が時空を越えて、私の許に食事を届けてくれたんだね。もう一人の私に代わって、ありがとうと言っておくよ。これでもう暫く、舞台を続けられそうだ」
声には力がないし、病気の所為か窶れているが笑顔だ。
僕が出会った男の人は、僕は無愛想に見るだけだったが。笑顔一つ見なかったにも関わらず、最初に会った人と目の前の男の人の顔が重なって、あの部屋で見た顔を思い出すことが出来ない。
顔の作りは違った筈だし表情も違ったのに、本質の部分ではあの人とこの人は同一なのだ。僕は不思議な気分で男の人には頷いて、話を逸らすようにケンタウリに聞いた。
「そう言えば、小さい男の子がいない。先に連れて帰ったの?」
眠くなって、何処かで踞って眠り転けていたら大変だ。団長兼脚本家がケンタウリに代わって、
「あの子は、友達が迎えに来たよ。すっかりしょげてた。船で流してごめんねって。危ないとは思わず、ちょっとした冒険のつもりだったんだそうだ。あの子は友達と帰ることを選んだよ」と、言った。
船で流されたのは仔犬で、船で流されたのは男の子で。僕は訳が分からなくなってしまう。
「仔犬の男の子が」
団長は微笑むと、
「男の子の仔犬が」と、言った。
仔犬で男の子で。男の子で仔犬で。仔犬がしっぽを追いかけるようにグルグル回ると、仔犬みたいに目のクルンとしたはにかんだあの男の子の顔に落ち着いた。
多分それでいいんだろう。ケンタウリは、
「そんなに役には立たなかったけど、一生懸命でいい子だったんだけどな」と、呟く。
ケンタウリは少し残念そうだ。劇団長は、骨ばった大きな手でケンタウリの肩を叩くと、慰める。
「今度は二人で舞台を見に来ると言っていたよ。きっとまた会えるさ」
そこに暗がりから声が割り込んでくる。
「あの子ロッキィって言うのよ。そんな強そうな名前は似合わないよね。チャックとか、ティムの方が合ってるわよ」
僕とケンタウリの声が、重なる。
「あっ、リトルガァル」
リトルガァルは劇団長の隣まで歩いて来て、僕とケンタウリをジロリと睨んだ。
「よくも私を置いて遊びに行ったわね」
張り切っていなくたって、リトルガァルは十分手強い。リトルガァルの後から、先生も現れる。
劇団長はパッと顔を輝かせて、先生との間で一頻り初対面の挨拶や握手が交わされる。片付けをしていた先生とも、それが初顔合わせだったようだ。一段落してまた劇団長は、両手で先生の手を握ると、
「あなたがあの劇を、完成させて下さったんですね?」
僕は訳が分からず首を傾げる。劇団長は興奮して頬を赤くしながら、喋り出す。
「あなたが付けて下さった台詞こそ、あの劇に必要なものだったんです。私は人間嫌いで人間を信じていないから、人間を肯定する言葉がどうしても思い付けなかった。劇としては、良い面悪い面どちらも描いた上で、人を信じたいと言うメッセェジを出したかったけれど、私にはどうしても出来なかったんです。人は人に生まれたからと言って、人ではない。人に生まれるのではなく、人になるのだと言う台詞。私もそうあるべきだと思うし、それを何よりも願います。あなたの言葉で初めて気付きました。あの言葉でようやく完成したんです。あなたがいなければ、きっと一生日の目を見なかったでしょう。あれは、あなたの作品だ」
先生はそんふうに言われて、慌てて首を振られる。
「とんでもありません。あれはあなたの作品ですよ。私はただ、あなたが気付いていない本音を、あなたの望みを形にしただけです」
そうなろうと努力する姿が、素晴らしくて尊い。先生が劇で最後に使った言葉は、先生のオリジナルだったのだ。
人に生まれるのではなく人になると言うのも、いい言葉だ。
僕は科学雑誌で以前、人間の胎児の成長写真を見たことがある。魚や両生類の成長過程と並べてあったが、人間の胎児は魚や両生類にそっくりなのだ。
卵から魚、魚から両生類、哺乳類へと。お腹の中で、生物の進化の過程を辿っている。生まれてすぐも、猿に似ているだけじゃなく、人間の子供と猿の子供の行動や反応もそっくりなのだ。
成長するに従って、言葉を話すのとは別の、違いが育まれていくのだろう。
ただ年齢を重ねればいいと言うのではないのだ。そう思うと人間であることは責任が重く、その分やり甲斐があるように思える。
先生の言葉に劇団長は、納得がいかない顔付きだ。
「でも」
僕がそこに助け船を出す。
「共作と言うことにしたらどうですか?」
先生がそう言うことでしたらと仰り、先生が言うのならと劇団長も認め、共作と言うことで落ち着いた。リトルガァルが、
「団長。顔が赤いのは、熱がぶり返しているからですか? 男の人の手を握って頬を赤らめていたら、変に思われますよ?」
と、咎める。団員の自分達より先生に夢中になっている団長に、嫉妬でもしたのだろうか。
団長は慌てて先生の手を放すが、先生はそのまま手を伸ばして団長の額に手を押し当てた。
「熱はないようですが、夜風に当るのはあまり良くありませんよ」
先生はにっこりと微笑み、団長はその笑みに見とれた。先生の笑みは性別を問わず、人の心をとろかせる。
団長だって、変な意味はなかったんだろうけれど。自分で自分の態度を恥じたようで、団長はしどろもどろになった。動揺しながらも、これからも御一緒出来ませんか?などと言っている。
先生はやんわりと微笑んで、それでもはっきりと自分の意見を口にされた。
「旅から旅の生活は代わりませんが、私には学問を究めると言う旅の目的があるのです。お誘い戴けて光栄ですが、御一緒は出来ません。それでもまた会うこともあるでしょう。その時は是非お手伝いさせて下さい」
先生の落ち着いた様子に、団長もようやく落ち着きを取り戻し、都合を考えずに誘ったりして済みませんと謝った後、次には一緒に舞台にも立ちましょうと言った。
先生は僕の側に来て、僕の肩に両手を置くと、
「今度はこのラジニ君も出演出来る話にして下さい。今回は一度も舞台に立たなかったから」と、仰った。 僕は嫌ですと言うように首を振る。舞台に立つなんて絶対ごめんだ。リトルガァルが僕を見下したような流し目で見て、
「だから台詞だけ参加したのね。僕も仲間だって」
僕が舞台袖から叫んだことを、言っているのだ。何か言われると思ったけれどやっぱりだ。僕とリトルガァルは睨み合う。
しかしおかしくなって、僕とリトルガァルは同時に吹き出した。先生は微笑んでいらっしゃったけど、団長は訳が分からずきょとんとしていた。
僕らは、銀の鈴亭で最後の晩を過ごした。
次の日、僕と先生とイィハトォブ劇団のメンバァは、それぞれ別々の目的地に向かって旅立った。リトルガァルとケンタウリと、再会を約束して。
団長は風邪を引いたのに懲りて、暫く暖かい地方だけを旅して回るつもりだ言う。勿論僕と先生の旅は、行き当たりばったり、出たとこ勝負だ。
リトルガァルは猫が帰って来るまででも一緒にいればいいのにと、最後まで言い続けていた。猫は結局、三日の内には姿を見せなかった。どんな猫か、僕も興味はあるが。
リトルガァルはフィドル弾きの猫が、絶対に僕の父親だと信じ込んでいる。団長は、あちこちに子供がいると言う以外は名前など知らないと言っていた。
もしリトルガァルの勘が正しいなら、団長の言葉はどうなるんだろう。
僕ら兄弟以外に子供がいるってことか。船に寄宿舎、旅暮らしに田舎に、子供はみんなバラバラに暮らしていると言うだけなのか。あんまり確認はしたくない。
リトルガァルは送別代わりか、ポランの広場の歌を歌いながら歩き去った。
悲しみは置き去りに、喜びを胸に。夢と希望を呼び覚ます。明日へと続く。
それがポランの広場だと歌は言っている。
リトルガァルの澄み切った声は、だいぶ遠くなるまで聞こえていた。
リトルガァルの声が聞こえなくなる間際、僕は伴奏する滑らかで美しいフィドルの響きを聞いたような気がした。




