劇団IHATOV 5
BGM(それも一曲だけ)担当と言っても、僕も劇団員の一人と認められて、両隣のお店の人が、売り物をただで分けてくれた。ケンタウリがお菓子には困らないと言うのも頷ける。
お菓子の一つは、フライ・ド・ムゥンと言う名前で、フライで飛ぶと揚げるを掛けている。マッシュポテトにチィズを入れた揚げ菓子だ。
お話の中の猫菓子ではないけれど、おいしかった。もう一つは三色菫アイスと言う、緑色の棒に差した菫の花弁の形をしたアイスだった。
水色のソォダ、ピンクのチェリィ、黄色はシトラス。しかもピンクと水色を交互に舐めると、チェリィソォダ、ピンクと黄色だとシトラスチェリィになる。
全部舐めると、シトラスチェリィソォダになってお得だ。
久しぶりに楽器の練習をして疲れた僕は、宿に早々に帰って寝てしまった。目覚めるとまたしても先生はいなかった。
メモが残してあって、最終日の公演の手伝いに行くと書いてある。昨日と違ってリトルガァルに叩き起こされずに済んだのは良かった。僕は、銀の鈴亭の食堂で朝御飯にした。
食堂では五才と三才ぐらいの男の子と女の子の兄妹のいる家族連れが朝御飯を食べていて、眠そうなヒゲ面の男の人が一人で珈琲を啜っていた。
小さい子供達は食事をするのにも大騒ぎだ。ノエルは確かに騒がしいが、リルケや僕は大人しかった。それを言えば双子はいまだに何をするにも、騒ぎを引き起こさないと気が済まない。
兄弟が沢山いるので僕は、騒がしいのも平気だ。
僕は食堂の小母さんに朝食を頼み、気持ち良さそうな窓辺に席を取った。
まろやかなミルクティ、サクサクのクロワッサン。人参・じゃが芋・莢豌豆とヒヨコ豆のミネストロォネ。オレンジ色の黄身がトロリと垂れる半熟のハムエッグ。デザァトに木苺ソォスを掛けたヨォグルトで締め括った。
朝はやっぱり、こうでなくっちゃ。僕が食後の紅茶を飲んでいると、食堂にリトルガァルが入って来た。リトルガァルは僕に気付くとお早うの挨拶だけして、カウンタァで小母さんに料理を注文した。
オォダァした後、僕のテェブルにやって来て、
「昨日はありがとう」
今日は少しは落ち着いている。僕は、
「どういたしまして」と、答える。
寝込んでいる脚本家の代わりに頑張ろうと、リトルガァルは張り切り過ぎている。緊張が切れたら、今度はリトルガァルが倒れてしまうんじゃないかと心配だ。僕は、
「これから御飯なの? それともお昼か十時の軽食を頼みに来たの?」と、聞く。
「十時のお茶も頼みに来たことは来たけど、団長の朝御飯がそろそろ必要だから。病気も峠を越えてお腹が空いて来た頃だから、たっぷり食べて貰わなきゃ」
僕はまだ会ったことのない団長の回復を知って喜びながら、
「おいしい朝御飯をしっかり食べてもう一眠りすれば、きっと良くなるよ」
男の子を助ける為に冬の川に飛び込んだり、仲間の劇団員達にこんなに慕われているのだ。きっといい人に違いない。
リトルガァルは頷くと、思い出したように僕に言った。
「あなた暇でしょう? 私は忙しいから、代わりに食事を部屋に持って行って上げて」
暇でしょうと言われるのは癪だが、公演の準備に奔走しているリトルガァル達に比べれば、僕はやらなければいけないことはない。
食事を運ぶぐらいお安い御用だし、団長と言う人に会う願ってもないチャンスだ。僕は言いなりになる訳じゃないと思いながら、応じた。
リトルガァルは僕が頷くのを見ていない様子で、言葉を続ける。
「ああそうそう。小さなピアノを借りられたの。ポランの広場の歌は弾けるでしょう。あなたの先生に代わって弾いてね。今夜は失敗はなしよ」
僕は反駁も出来ずに押し切られた。やっぱり言いなりになっている。
リトルガァルは劇団員と飲む為のお湯の入った水筒と茶葉を持って食堂を出て行き、僕は朝御飯の載った重たいトレイを、教えられた部屋まで運ぶことになった。
大人の男の人の、それもたっぷりの朝食だから重いの何のって。
ポットに入れた紅茶、ロォルパンの入ったカゴ。バタァにイチゴジャムにカマンベェルチィズ。ウィンナァ入りのクラムチャウダァにポォチドエッグ。ベェコンマッシュポテトと人参のグラッセ、ほうれん草のソテェ。蜂蜜入りのヨォグルト。生のブラックベリィとブルゥベリィ。
冷めないように埃が入らないように、大判のハンカチを被せてある。
僕はひっくり返すかへばるんじゃないかと思いながら、二階まで上がった。リトルガァルに代わって力仕事をして上げるんだと思っても、心は慰められなかった。
僕は部屋の番号を確かめて、扉の前の床にトレイを置いた。僕は両手が空いてようやくホッとして、扉をノックする。
暫く間を開けて、扉を僅かに開けたのは青冷めた不機嫌そうな若い男の人だ。男の人は僕を見て、床に置かれたトレイを見て眉を顰めたので、僕は慌てて謝る。
「ごめんなさい。でも重くて持っていられなかったんです」
食べ物を床に置いたと、怒られると思ったからだ。男の人はドアをそれ以上開けずに、刺々しい言い方をする。
「食事を頼むような金はないぞ」
病気で気分が悪い所為だろうか。男の人は僕のイメェジとは違う。
先生なんて風邪を引いて熱を出している時でも、僕に移さないか、僕がしっかり食べているか心配するが、先生と比べるのは悪いだろう。先生は特別だ。
自分が苦しい時でも他の人に優しく出来る人はそうはいない。
「そろそろ食べられる頃だろうから、リトルガァルがあなたに持ってけって」
劇団のやりくりも大変だから、お金にはうるさい締まり屋なのだろうか。男の人は更に顔をしかめて、
「俺をからかっているのか?」
僕は部屋を間違えたかと一歩後ろに下がって、
「あなたは劇団の脚本家じゃないんですか?」と、聞く。
男の人は訳の分からない顔をして、確かにそうだけどと言う。僕は、
「川に流された小さい男の子を助けて、あなたが風邪を引いたから宿代も払えないって、リトルガァルやケンタウリが困っていたから、先生と僕が二日前から手伝いをしているんです」
男の人は目を丸くして、何度か僕の言葉を遮ろうとしたが、僕の言葉が終わった途端、
「男の子だって? 確かに風邪を引いたのは冬の川なんかに入ったからだが、助けたのは仔犬だ。馬鹿なガキが箱に入れて流したんだ。リトルガァルにケンタウリなんて、それは俺の人形じゃないか」
男の人は、ほら見ろよと言って扉を大きく開いた。身体を斜にして中が見えるようにする男の人の格好は、部屋の寒さからするとひどく薄着に見えた。
銀の鈴亭とは思えない狭くて粗末な部屋は、寒々としている。担架のようなベッドと、洗面台があるだけの独房のような部屋だ。
ベッドの足元には、木を打ち付けただけの舞台が立て掛けてあり、マリオネットがぶら下げたり座らせてあった。
女の子の人形と巻き毛に山羊足のケンタウロス、それに雌牛の人形だ。
鬼の角を付けた女の人、巻き毛で歩きにくそうなケンタウリ、耳の垂れてしまう仔犬みたいな小さな男の子。プロキオンは小犬だから、仔犬が演じるのはぴったりだ。
僕は胸がドキドキして一歩二歩と後退さりしながら、叫んだ。
「嘘だ。リトルガァルはちょっと人遣いが荒いけれど、可愛い女の子だし、ケンタウリは恥ずかしがり屋だけれどいい子だよ」
綾織りの茶色のジャケットと半ズボン、白い長靴下に焦げ茶色の皮靴。艶々とした黒い髪をした、貴族の子弟のように清潔で上品な格好をした子供は、穴が開き反り返った廊下を足音もさせずに走り出し、階段の下にヒラリと消えた。
目の錯覚か。
男には、少年が消える一瞬、三毛の子猫に見えた。
視線を床に下ろすと、ハンケチを掛けた大きなトレイが置かれたままだ。男はハンケチを摘んで外した。
ハンケチの下から現れた物は、まるで魔法だった。
三杯分以上入りそうなお茶のポット。藤製のカゴには、茶色の焦げ目の照りも美しいロォルパンが山盛りになり、持ち手の二つあるスゥプカップには湯気を立てるクリィム色のスゥプ。
芋や人参大粒の蜊がゴロゴロ入っているだけでなく、太いソォセォジが惜しげもなく顔を覗かせている。拳ほどもある、刻んだベェコンのマッシュポテトの塊。緑色も鮮やかなほうれん草。キャベジやハムのヴイヨンスゥプに入った落とし玉子。
バタァやパンの匂いを嗅ぐだけで、ここ数日どころか、まともな食事を殆どしていない男の腹が鳴る。
黄色いバタァ、真っ赤で粒の形が分かる苺ジャム。白いカビに被われたチィズは切り口から、柔らかいバタァのように垂れ掛けている。
太陽の光のような金色の蜂蜜、雪のように汚れのないヨォグルト。極めつけは、冬の最中、手に入る筈のないブラックベリィとブルゥベリィの盛り合わせだった。
男は夢を見ているのだと思う。
隙間風の吹く廊下には、誰もいない。あの、天使と言うより愛嬌のある子猫のような顔をした少年も。
食事の皿は消えることなく、温かい湯気を立てている。
たっぷりの朝食も平らげられるほど、男は腹が空いている。全部食べれば、風邪など完全に治るだろう。男が見たこともないほど贅沢で、おいしそうな朝食だった。
パンとバタァを少しとソォセェジを半分、猫に残しておいてやろうかと思うが止めた。
相棒の猫は時々姿を消しては、丸々とした様子で戻って来る。誰か可愛がってくれる人がいるのか、やまほど鼠を仕留めて来たのかと思っていたが、もっと別な物を食べているのかも知れない。
男は重たいトレイを持ち上げた。
さぞかし運ぶのに、苦労しただろう。
*
僕は、自分が見たり聞いたりしたことが分からなかった。階段を駆け降りると、食堂のソファに踞って暫くジッとしていた。
ケンタウリやリトルガァルが人形だなんて、僕は信じない。
僕は夢でも見ていたんだろうか。そんな筈はない。夢だったのは、あの脚本家の方だ。
リトルガァルに食器を下げて欲しいとは頼まれなかったので、僕は戻らなかった。
午前中は食堂のソファで客の忘れた子供用の絵本や雑誌を眺めて過ごし、お昼を食べた後、宿の人に頼んでバァにあるピアノを弾かせて貰った。
昨日は久しぶりだったのと慣れないアコォディオンだった為に疲れただけで、両手を鍵盤に乗せると自然に曲が溢れて来た。
僕は赤ちゃん用のピアノを、一日中でも触っていたのだ。長時間の練習も、苦にならない。練習と言うより気持ちのいい音を出して、勝手に楽しんでいただけだ。
習った曲を次から次へと弾いて、知っている曲も全部弾いた。先生との旅の間に耳にした音楽も、イィハトォブ劇団の劇で使われていた曲も。
ピアノを弾いていると気分が落ち着いて、あの男の人のことも違った見方が出来るようになった。不機嫌で突っ樫貪だったのは、病気で困窮しているからだ。
それでも川に流された仔犬を助けて上げるような、優しい心を持っている。あんな寒い部屋で男の人は、薄汚れた灰色の襯衣と脛までのズボンしか身に付けていなかった。
薄っぺらな毛布一枚のベッド、鎧戸だけでカァテンもない窓。絨毯一つ敷いていない床に、男の人は裸足で立っていた。ブゥツはベッドの側に倒れていた。
僕が今まで泊まって来た暖炉や薪ストォブ、スチィムのある部屋とは違う。ホテルや宿が見つからなくて、民家の屋根裏を借りたこともあるけれど、ずっと快適だった。
いい匂いのする干し草のベッドと、アヒルの羽でパンパンに膨らんだ枕。
全部農家でとれた蕪と芋とベェコンのシチュウに、分厚いバタ付きパンにチェダァチィズ。オムレツに鶏胸肉のソテェと言う、贅沢な食事を振る舞って貰った。
沢山ある世界の何処かには、貧しい国や食べ物に困っている人もいるのだろう。
あんなに痩せて、看病してくれる人はあったのだろうか? みんな貧しくて、誰も人のことなど構っていられないのかも知れない。そんな中でも男の人は、仔犬を助ける為に冬の川に入ったのだ。
僕が持って行った料理が、あの人の助けになるといい。
僕はそう思うと安心して、ようやく指を止めた。
気付くともう夕方だった。
まずい。公演があったのだ。
僕は慌てて椅子から降りると、いつの間にかお客さんが一杯いて、拍手された。おやつのマフィンやタフィを入れていたバスケットに、小銭やキャンディの包みが入っている。
どうしよう。練習じゃなくて、演奏だと思われたのだ。
思いもよらないことで自分で稼いだお金を、僕はありがたく受け取っておくことにした。僕はお店の人に、長い間ピアノを占領してごめんなさいと謝り、一応心付けを貰ったことを教えた。
ピアノの使用代を取られるかと思ったけれど、良かったねと言われて、泊まりに来た時にこれからも時々弾くといいと言われた。
僕の父さんが演奏旅行に出掛けたり、イィハトォブ劇団が旅回りをしたり、あの男の人が人形劇をしている気持ちが少しだけ分かった。
いいことばかりではないだろうけれど、人が喜んでくれたり、僅かでも気持ちを物で表してくれると嬉しい。お金を稼いだとか働いたと言うより、プレゼントを貰えた気分だ。




