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サイタオ飯店

  先生は、急ぎの仕事の為に、昨日の午後から宿にこもっておられた。僕は、夜ともなればすぐに眠ってしまったが、先生は遅くまで、下手すると朝までかかって、科学雑誌用の原稿を書かれていたのかもしれない。

  朝食は、僕一人、宿の中にあるレストランで、ベェグルパンとミルクと、野菜のスウプを飲とった。大しておいしくなかったが、僕には先生という道案内人なしで、外に出て食事をする勇気はない。

  この幻想第四次空間は、多分に不確定の要素が大きく、自分の今いる場所が、自分の考えている場所とは違うなんてことは、よくあることだと、僕はここに来てから知ることになった。それだけでなく、別の場所だと思っていたら、同じ場所にいたなんてことも、普通に起こり得ることなのだ。

  その不確定な第四次空間を、座標軸によって確定できないかと、先生は自らの足を使った調査旅行の最中なのだった。

  僕は、その先生の助手と言うよりも、荷物持ちである。三歩下がって師の影を踏まず。師である先生につき従うのが僕の役目。ではあるのだが、僕は昼になるのが待てずに、先生の部屋に押しかけていた。寝台の掛け布団の端から、先生の頭と腕が覗いている。僕は、先生の腕を揺さぶった。

「先生、もうすぐ昼になりますよ。中華を御馳走してくれる約束だったでしょう」

  先生は、ううんと唸り声を出して、サイドテェブルに手を伸ばし金鎖のついた懐中時計を探ると、蓋を開けて時間を確かめた。とても眠そうな目をして、先生は時計をテェブルに戻しながら、またしてもううと唸った。

「私は、朝まで論文を書いていたんですよ」

  僕は、起こして悪いことをしたなと思いながらも、駄々をこねるのはやめなかった。先生が、とても優しい方なので、僕はついつい甘え過ぎてしまうのだ。

  先生はとても眠そうだが、決して不機嫌な様子を見せたりしないし、僕の子供っぽい自分勝手な行動を、戒めてもよさそうなものなのに、叱りつけようともなさらないのだった。

「僕は、絶対、サイタオ飯店のお勧めメニュウを食べないと、ここをてこでも動きませんからね。あそこの白玉あん蜜を食べないと、ここに来た甲斐がないじゃないですか」

  僕がそう言うと先生は、一人で行けるでしょうと仰った。

「ついでに、中華街で掘り出し物を見つけてくるといい。お小遣いをあげますから」

  先生は、サイドテェブルの引き出しに入っていた硬貨入れから、手元も見ずに硬貨を幾枚かとり出すと、それをよく確かめもせずに僕の手の中に空けた。これだけあれば、中華料理のコォスでデザァトまで食べて、まだお金が余るぐらいだろう。僕が、こんなにもらっていいものか考えている内に、先生は頭から布団の中に潜り込んでしまわれた。

「先生がいないと、迷子になってしまいますよ」

  僕は心細い声を出すが、先生は簡単に、心配ないなんて仰る。

「大丈夫ですよ。ラジニ君は、私の畑からトマトを盗っていった三毛猫なんですから」

  時々、先生は訳の分からないことを仰るが、その時の言葉も僕には意味がよく分からなかった。どうして僕が、先生の畑のトマトを盗まなければならないのだろう。そもそも、僕は三毛猫じゃなく、人間の男の子だ。誰かと間違っているのか、それとも先生独特のユゥモアなのだろうか。先生を当てにできないことだけは、僕にも理解できた。

  行こうか行くまいか。お小遣いまでもらってしまったし、どうしようかと僕が悩んでいると、それを見抜いたように、先生が温かい声をかけてくださった。しかしそれは、これから用意しますから、一緒に食事に出掛けましょうというものではなかった。

「星を探しなさい。偶数の倍数の星を探せば、迷子にはなりませんから」

  お寝みと言われて、先生は再びヌクヌクとした眠りの中に戻られてしまう。

  星と言われても、昼間に星など見えよう筈もない。これ以上お邪魔をすることはできないと、流石に僕も悟って、宿の先生の部屋から滑り出て、静かに扉を閉めた。僕は、自分用に当てがわれた部屋に戻ると、皮嚢を背負って宿の外に出た。結局僕は、サイタオ飯店の白玉あん蜜の誘惑には、勝てなかったのである。

  僕は、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、先生に言われた通り、昼間の空に星を探した。勿論、昼間に星が見える筈はないのだが、僕は上をキョロキョロ見ている内に、別の星に気が付いた。十メェトル程先にある二階建ての建物の上の方、ちょうど角っちょの所から、看板が一つ突き出していたのだ。僕は今まで、そんな所に看板があることを知らなかった。

  その看板の青い地の上に、黄色の星型のマァクが二つ並んでいるのを僕は見つけた。これが星だろうかと、僕は上を向いたまま、その建物のすぐ下まで歩いていった。そこまで行くと僕は、もう少し先にある建物の角っちょからも、星印のついた看板が突き出ているのに気付いたのだった。その看板に描かれた星のマァクは、四つだった。

  僕は、上を向いたまま、その星に導かれるようにして歩いていた。十六個目の星を数えた時だった。ふと気が付けば、僕は見覚えのある景色の中にいるのだった。そこらの建物は、中華街の赤や緑の屋根を持つ、お寺のような建物に変わっていた。そして数分としない内に、僕はちゃんとサイタオ飯店の店の前に立っていた。

  僕は、初めての一人でのお出かけの成功に気をよくして、ドキドキしながら店の中に足を踏み入れた。店の主人は、この前先生に連れられてきた僕のことも覚えていてくれて、一人でよく来たねと言ってくれる。僕は、赤ん坊扱いされたと思うより、素直に誉め言葉と受けとめて、得意な気持ちだった。やっぱり来てよかったと思ったのは、昼食の中華麺を食べた後、サイタオ飯店自慢の白玉あん蜜を頼んだ時だ。

  白玉あん蜜は、上品な漆塗りの容れ物に盛ってあり、匙は竹製だ。白い猫目石のようにツヤツヤと光る白玉の上に、たっぷりの蜜と粒餡がかけてある。小豆の餡は、光の加減か何かで、赤紫にも黒にも茶色にも見えるのだが、ベルベッドのように柔らかそうで、思わず触って確かめたくなる程だ。

  僕は、蜜と餡を白玉にからめて、その甘さをゆっくりと味わった。こうして僕は念願の、サイタオ飯店の白玉あん蜜にしっかりありつくことができたのだった。

  僕が店を出る時に、店の給仕係のお兄さんが、

「帰る時には、奇数の星を探すといいよ」 と、言ってくれた。

  僕が、ちゃんと宿まで帰りつけるだろうかと心配していたのに、気付いていたものと見える。それでも、行きがうまくいったこともあって僕は、中華街を散策する余裕まであったのだ。中華街には、何だか訳の分からない物を売っている怪しげなお店なども並んでいる。

漢方薬とか、奇麗な絵皿とか、古い時代の本とか。

  僕は、時の経つのも忘れて、あちらの店こちらの店と逍遥していたが、星印のついた看板を時折確認するのは忘れなかった。星印の看板の見える範囲内にさえいれば、宿に帰る時は、奇数の星を辿っていけば、勝手に宿へと着く筈である。

「あれ」

  ニャーンという声が聞こえて、僕は思わず辺りを見回した。路地の一つに、三毛猫がいた。猫は、僕を誘うように、路地の中に駆け込んだ。僕は思わず、猫を追って路地に入ってしまった。先生が、三毛猫がどうとか言っていたことが、頭にあったからだろう。

  猫は、何度も僕を振り返って、僕がついてきているかどうか確認していた。僕は、待ってよと言いながら、その猫を追い続けた。僕の頭の中には、迷子になるかもという考えはなかった。

  いつの間にか僕は知らない通りに出ていて、いつの間にやら、ずっと僕の視界の端にチラつくようにしていた猫の姿も消えていることに僕は気付いた。そうなって初めて、僕は迷子の恐怖を感じた。慌てて星印のついた看板を探すが、道を幾ら行ったり来たりしても、看板を見つけることはできなかった。街並みは、中華街のものとも、宿の辺りとも全く違っている。僕は、とんでもないところに出てしまったようだ。

  家々は、しっかりと鎧戸を下ろしていて、灰色の通りはガランとして人気もない。すぐに辺りは暗くなった。僕は歩き回る内に、中華街らしい街並みの場所に出ることができた。暗くなると、電飾や提灯に灯りが入る。

  その内、奇妙な楽の音が聞こえ始めた。

  仮面をかぶった人々が無言で、手を振り足を振ってやって来るのが見えた。気が付くと僕は、仮面をかぶり奇妙な衣装をまとった人々の群れに巻き込まれていた。奇妙な楽の音以外に、衣擦れや、靴が地面を擦る音が聞こえるだけで、お祭り特有の、楽しげなざわめきなどはない。

  僕が、彼らの中に混ざっていることにも気付かず、彼らは緩やかに、手を振り足を振って、無言のパレェドを続けている。動かない仮面の顔は、どれも不気味で、僕はだんだん怖ろしくなってきた。僕は、誰かに迷子になったことを知ってもらおうと、何人かの仮面の人間達に声をかけたり、腕に触れてみたりしたが、彼ら、彼女らは全く反応を示さずに、ただ無言のパレェドを続けるのみであった。

  僕は、ついに堪えきれなくなってしまう。

  僕は、怖くて怖くて、ただやみくもに走って逃げ出した。奇妙な楽の音と、電飾や提灯のけばけばしい灯り、不気味な仮面の顔、顔、顔。

  僕は、全てから逃れるように走っていた。心の中で、ただ一人、大好きな人の笑顔を思い浮かべながら。

  その時、僕は誰かに思いきり、ぶつかってしまったのだ。いつの間にか、奇妙な楽の音が聞こえなくなっていることに、僕はまだ気付いていなかった。僕は、怖々と顔を上げる。

「おやおや、どうしたんですか」

  そこには、びっくりしたような先生の顔があった。たった一人、会いたくてたまらなかった人に、ばったりと会った僕は、引きつけたように泣き出してしまった。先生が、慌てるのが分かる。先程までの恐怖が噴出したのと、先生の顔を見てホッとしたことも手伝って、僕は小さい子供のようワァワァと泣いた。先生は、その場に膝を折って、僕が泣きやむのを待ってくださった。

「ほら、泣かないでください」

  先生は、ポケットから自分のハンケチをとり出すと、僕の涙を拭いてくださった。先生は、いつもの優しい表情を浮かべていた。それを見ると、僕は、またしても涙が溢れてきそうになるのだった。

「幾ら何でも遅いんで、書き上げた原稿を出すついでに、探しにきたんですよ」

  僕は、まだしゃくり上げながら、中華街で猫を見かけた時の話をした。

「どこかで見かけたような猫を見かけて、追いかけている内に迷子になってしまったのです」

  先生は、猫なんか追いかけるのが悪いなどと、仰るような方ではない。

「そうですか。では、ラジニ君も、おかしな行列に行きあったでしょう?」

  僕は、先生に、どうしてそれをと知っているのかと聞く代わりに、ブルブルッと肩を震わせた。今、思い出しても、気味が悪い。

「みんな、仮面をつけていて、僕は怖ろしくってたまらなかった」

  僕がそう訴えると、先生は、そうでしょうと、ひどく沈んだ声で仰った。そして先生は、僕が出会ったあの不気味な行列が何者なのかを、教えてくださったのだった。

「あれは、みんな影です。現実の第三次世界の人々の影が、幻想第四次空間に投影されているのです。幻想第四次空間、どのようなものもとり込んでしまう広いキャパシティ、許容量を持っていますからね。三次空間では、色々な規約があり過ぎて、存在できないものも、この幻想第四次空間では当り前に存在することができると、これは、幻影力学的見地から見ても正しいと、立証されているのですがね」

  突然、先生の専門の話になったので、僕はポカンとして先生を見つめるしかできなかった。先生は、僕には難しすぎる話だと思ったのか、そこまでできり上げて、少しだけ苦笑された。僕を笑ったのではなく、何でも自分の学問と結びつけてしまうご自身を笑っておられるようだった。先生は、そういう方だ。

  しかし、すぐに憂いを帯びた表情になると、相変わらず僕の前で膝を折って、僕と目線を合わせたまま話し始めた。

「彼らは影に過ぎませんから、彼ら自体が、私達に何か怖ろしいことをするようなことはありませんが、彼らの存在は、私達を不安にするものと言えるでしょう。彼らが、束縛だらけの世界の中で生きている姿は、決して束縛されない私達のような者の目には、ああして仮面をかぶって、無言の踊りを続けるしかない姿として映るのです。彼らは、何も気付かずに、いつまでもいつまでも、ああして幻想第四次空間の中を彷徨い続けるのです。あの中の一人でも、こちらの世界の存在に気付いて、仮面を脱ぐ人が現れることを、祈らないではありませんね。しかし、あの世界の人々は、色々なものにがんじ絡めにされて、不自由に生きるしかないのです」

  先生の瞳は、泣くのを堪えるかのように、悲しげだった。それを見ると、僕まで悲しくなってしまう。それでもやはり、何も見えず何も聞こえず、ただ決められた動きしかしない、行列に加わっていた人間達は、僕には怖ろしいものとしか思えない。

「猫なんか、追わなければよかった」

  それでも、あの路地の先へと誘った三毛猫を、どこかで見たことがあるという僕の思いは、だんだん強くなってくるのだった。先生は、ちょっと微笑んで、唇を尖らせた僕を見た。

「その三毛猫は、君のもう一つの姿です。私も、時々私の影に行き合いましたが、君も一緒の時には、後を追うのはよしていたのです。それでも、時々は、私も不自由であった頃の自分を思い出す意味でも、彼らのパレェドを見にいくこともありましたがね。ラジニ君が、それ程怖ろしい思いをしたのなら、やはり君を連れていくことはできませんね。まあ、見ていて気持ちのよいものでは、決してありませんから」

  三毛猫が、僕のもう一つの姿? やっぱり、時々先生の仰ることはよく分からない。

  あの三毛猫が、僕にどうしてか、よく見知った気分を起こさせるのは、僕自身のもう一つの姿だから。

  先生の言葉によれば、そうなるのかもしれない。僕の姿が三毛猫なら、先生の姿は、どのように見えるのだろう。たとえどんな姿であっても、僕は先生の目を見れば、それが先生だとすぐに分かる。きっと、もう一人の先生だって、静かでどこまでも透明な目をしている筈だから。先生のもう一つの姿であるという影が、先生にはどのような姿に見えるのですかと、僕は聞けなかった。

  先生は、膝を伸ばして立ち上がった。僕は、ソッと先生の手に僕の手を滑りこませて握る。先生は、僕の手を優しく握り返してくれた。僕の大好きな、静かな目が僕を見て微笑んでいる。

「どうです。夕食も中華にしましょうか。もうすぐそこが、サイタオ飯店ですから」

  僕は、サイタオ飯店からそう遠くない所で、迷っていただけらしい。しかし、ここは、不確定の要素を多分含んだ幻想第四次空間の中である。もしかしたら僕は、信じられない遠い場所を、彷徨っていたのかもしれない。僕は、先生の手を強く握った。もう二度と、先生と離れ離れになるのはご免だ。先生の手の温もりに心を慰められた僕は、ようやく普段の調子をとり戻すことができた。

「白玉あん蜜、買っていただけますか?」

  まだ食べるのかと思われるだろうが、伺うようにそう言った僕に先生は微笑むと、勿論ですよと、仰った。

  僕は、サイタオ飯店に着くまでの間、ずっと先生の手を握ったまま離さなかった。

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