裏庭 6
葉書は、やっぱり壁の側で見つかった。壁を降りる時に落として、気付かずに来てしまったのだ。
僕は、絵葉書に着いた埃を払ってポケットに突っ込んでいて、思わず目が壁に釘付けになってしまった。さきほど僕が足を掛けた煉瓦の穴は、漆喰によって塞がれていたのだ。
僕は良くない予感がして、慌てて今来た道をもう一度引き返した。
僕の胸は、早鐘を打ち始める。
再び裏庭に戻った僕は、愕然として足を止めた後、場所を確認するように周りの建物を見回してみた。
〈懐風荘〉の、僕らの部屋の真正面にある家に間違いない。しかし、ほんの一分程前まで辺りを満たしていた薔薇の甘い香りはなく、生け垣には花どころか、葉っぱ一つ着いていなかった。
ほんの少し前まで僕とエリザベスがお茶を飲んでいた庭は、冬枯れの光景に変わっていた。庭は荒れ果て、白いカフェテェブルは雨晒しのまま、庭の隅に放り出してある。
僕がほんのちょっと離れた隙に、再び庭は変貌してしまっていた。
僕には、その変わり方が一番残酷に見えた。この裸の木々が、ピンク色の可憐な花を付けていたなど、この様子から誰が想像することが出来るだろう。
僕の鼻腔には、花の香りだけでなく、紅茶の匂いまで残っていると言うのに。
エリザベスは、薔薇が手入れを怠られても、一つ二つ花を付けてくれることを願っていたのに、その夢は無残に食いちぎられてしまったのだ。
貪欲な毛虫が食い尽くしたのは、薔薇の葉ばかりではない。僕は、毛虫がお腹を壊したかも知れないと言って、エリザベスと笑い合ったことを強く後悔した。幾らでも、お腹を壊せばいいのだ。
僕は、どこをどう歩いたのかも分からないまま、宿へと戻っていた。最初の予定のように、正面玄関から訪ねて行く勇気は、僕には残っていなかった。
病の床に伏したエリザベスに会うのは、今はどうしても出来なかった。
僕は、たった今まで元気に笑っているエリザベスに会っていたのだ。エリザベスにとって、それが一年か二年か、それとも十二年と十ケ月前かも知れなくても。
もしエリザベスが僕に会って、僕の言った通り一年どころか十二年は保ったわと言われても、僕にとっては何の慰めにもなりはしないからだ。
僕が宿に戻ると先生が、何処に行っていたんです?と、リビングから慌てて飛んでこられた。先生は、何事かとポカンとしている僕をリビングに連れて行き、ソファに座らせた。
先生は、テェブルに置いてあった四角い箱を僕の前に差し出すと、開けてご覧なさいと仰った。
先生は、真剣な顔をしている。僕は訳が分からないまま、何かに動かされるように箱に手を伸ばした。先生は、気を落ち着けて聞いて下さいと前置きして、話を始められた。
僕は、開いた箱の中に入っていた物に目を奪われていて、先生の話は耳を擦り抜けていった。聞こえていなかった訳ではないが、僕には何を言われたのか分からなかった。
「今、先生、何と?」
僕はそう言いながら、箱の中から、ついさっき椅子に残してきたばかりの、自分の帽子に手を伸ばした。先生は、僕の声が聞こえなかったかのように、言葉を続けられている。
「その方のお世話をされていた君が一度会ったことのある人が、君が留守の間に届けに来てくれたんです。君も傷付いたでしょうが、その方も君に失礼をしたことを、本当に悔やんでおられました。知り合いとは知らずに、せっかく会えた最後のチャンスを奪ってしまったと言って。君のような小さなお友達がいることは、知らなかったそうで、ラジニ君に直接謝りたいから、また来ますと仰って下さいました。ご自分も、お辛い時でしょうに。やはり、決して厳しいばかりの方ではなかったのですよ」
僕には先生が、何を話しているのかさっぱり分からなかった。何だか先生の大学での講義を聞いているみたいに、チンプンカンだ。僕は、先生の言葉を遮ろうとする。
「いえ、そうではなく」
先生が、悲しい結果になってしまいましたねと沈んだ顔をされる理由が、僕には分からない。帽子を持ち上げると、その下に何かが隠してあった。僕は、それが何かすぐに分かった。
「これは」
僕の上げた声を質問ととった先生が、
「ああ、去年出来た薔薇のジャムだそうです。それを箱に入れて、中に入っている物と一緒に届けて欲しいと、それが彼女の遺言になったそうですよ」
大きめの瓶に詰まった、薄い金色の蜜の味は、僕の舌にまだ残っている。
「遺言?」
僕の頭に、最初に先生が口にされた言葉が、ゆっくりと浸透していく。
「ええ。病気で患われていたその家の女主人が、先程ついにお亡くなりになったのだそうです」
先生は初めに、あなたのお友達はお亡くなりになったそうですよと仰ったのだ。一瞬の内に、僕は先生の言葉を一つ残らず理解した。
僕は、思わず椅子から立ち上がっていた。先生が慌てたように、僕の肩に手をお掛けになる。
「これからお忙しくなるでしょうし、親戚の方なども見えられる筈ですから、落ち着いてから、お悔やみに一緒に参りましょう」
僕は、先生の言葉を聞いていなかった。立ち上がった拍子に、帽子の中から何かが椅子に、転がり落ちたからだ。
僕は小さな花柄の、猫の形をした人形を拾い上げた。水色のリボンで、ぶら下げられるようになっている。人形からは、乾燥した植物の香りがする。
最後の記念に、ポプリのクッションでも作ろうかと言っていたエリザベスの、朗らかな声が聞こえたような気がした。
来年も、再来年も残ると言っていた彼女。
「あっ、ラジニ君」
僕は先生の制止も聞かずに、人形をポケットに突っ込んで、再び宿の外へと走り出していた。今回は、正面玄関へと回る。
僕が家の前まで行った時、ちょうど玄関の所に人が何人か立っていた。親戚の人か何かが、着いたところらしい。
この前僕をけんもほろろに追い払った女の人が、若い女の人と抱き合っていた。女の人は、目を真っ赤にして泣いていた。
若い女の人の方がそれを慰めているようで、もう一人のまだ若い男の人も、心を強く持つようにと励ましの言葉を掛けている。
僕はあの怖い女の人が泣いているのを見て、本当にエリザベスがもういないことを実感した。エリザベスと僕は、何度も過去の中で出会っていたが、同時間上で出会うことは決して出来なかったのだ。
僕は、馬鹿だ。絵葉書なんかとりに戻ったばかりに、最後のエリザベスとの時間を縮めてしまったのだ。
それでもエリザベスは、一旦別れれば、もう会えないことを知っていたような気がしてならなかった。
どうしてエリザベスは、僕を送り出したりしたのだろう。後でもいいでしょうと、言うことは出来たのに。それとも、また会えると信じていたのだろうか。
エリザベスは、遊ぶ約束をしていた僕を、ずっと待ち続けていたのかも知れない。
今度こそ、僕が家を訪ねて行くのを待っていたのだ。それなのに僕は、約束を破ってしまった。僕は、一筋零れた涙を手の甲で拭ってギョッとなった。
小さな女の子が、いつの間にか僕の側に来て、しゃがみこんで覗き込んでいたのだ。僕は泣いているところを見られたかと思って、恥ずかしくなった。
僕が二、三歩、後退るのを見ると、その四つぐらいの女の子は、目をぱちくりとさせた。
僕は、ドキリとしてしまう。だってその様子は、小さい頃のエリザベスにそっくりだったからだ。
僕が口を聞けないでいると、女の子はエリザベスそっくりに首を傾げた後、そのままさっさと僕の側を離れて駆け出して行ってしまう。女の子は、
「ねぇ、ママ。この家に、住むって本当?」
と、たどたどしい声で言いながら、玄関の前にいた若い女の人に走り寄った。女の人は、エリィより幾つか年上のようで、エリィには似ていなかった。女の人は、
「ええ、大叔母様がそうしていいって言って下さったのよ」と、女の子に応える。
エリザベスには子供がいない筈だから、弟のロバァトの子供夫婦と孫に違いない。血の繋がりがあるのなら、エリザベスとその女の子が似ていてもおかしくはない。女の子は無邪気な様子で、声を上げる。
「ふぅん。でも、このお家、ボロボロー」
「ペンキを塗ったら見違えるよ。裏には、ちゃんとお庭もあるんだよ」
父親が、機嫌をとるように言う。女の子は機嫌良く、はしゃいだ。
「お庭。見たい。見るぅ」
子供は嫌だと言っていた女の人だが、女の子の無邪気な様子を、ありがたいもののように見ていた。女の子の母親が、僅かに嗜める声を出す。
「いい子にしていて頂戴。今はまだ大叔母様が、お休みになっている家なのよ。大叔母様の魂が安らかでいられるように、騒がしくするんじゃないのよ。出来るわね、スゥ」
僕は、最後の言葉にハッとしていた。
あの子もスゥと言うのだ。スゥザンだろうか。それともスゥジィだろうか。もしかしたら、エリザベスのスゥかも知れない。何だか、頭がゴチャゴチャになってきそうだ。僕が会ったのは、誰だったのだろう。
僕が見ていたのは、年老いたエリザベスの過去だったのだろうか、今ここでスゥと呼ばれている女の子の、未来だったのだろうか。
エリザベスが、長く使っていると身体にガタが出てくると言う、年寄りなら誰でも言いそうな言葉が、今もう一人のスゥに会ったことで、別の意味を持つように僕には思えてくる。
そんなこと、ある訳ない。エリザベスが古くなった身体を捨てて、新しい身体を得て戻ってくるなんて、そんなことがある筈がない。
但し、その前にエリザベスが言った言葉の方は、何となく分かるような気がした。
家は、住む人がいて初めて家となる。エリザベスは去ってしまっても、彼女はちゃんと次の住人を残していったようだ。
これで家はまた新たな命を得て、その生命を長らえさせることが出来る。
あの子もあの裏庭で、様々な思い出を育んでいくことだろう。
いつの日かあの子が、あの庭で薔薇を育てる日がくるのだろうか。エリィは果たせなかった夢を、あの子は叶えることが出来るのかも知れない。
何にしろ、喜怒哀楽を繰り返しながら、人の一生は続いていくに違いない。
僕もまたいつの日か、もう一人のリジィに会うことがあるかも知れなかった。その時は、間違っても六十年も待たせて、挙句の果て約束を破るなんて真似はするまい。今度こそ、僕はリジィと裏庭で遊ぶのだ。
そしてリジィがもう少し大きくなったら、このポプリの人形を見せて、昔、スゥやリジィと呼ばれていた、女の人の話を聞かせて上げるのだ。
僕は風の中に、今を盛りと咲き誇る薔薇の香りを嗅いだような気がした。




