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裏庭 5

「もう走れるような年じゃないから、逃げないで頂戴。さぁ、入ってらっしゃい」

 六十代半ばぐらいだろうか。皴だらけで小さくて、真っ白な頭をしていたけれど、若々しく華やかに見えた。

 女の人は、優しく微笑みながら手招きする。

「まぁまぁ、怯えた子猫みたいね。怖がらなくていいのよ」

 僕はそう言われても、すぐには動けなかった。怖かったのではない。

 いや、やっぱり怖かったのかも知れない――真実を知るのが。

 女の人は、優しく僕を招き寄せる。

「おいでなさい、坊や。お茶菓子はないけれど勘弁して頂戴ね。誰かをお茶にお招きしてお菓子を御馳走するなんて、もうずっとしていないから。そうでなくても私は、お菓子作りの腕があまり良くないのよ」

 僕は、エリィとジェフの作った、油っぽいドォナツの味を思い出していた。引き寄せられるように、木戸も何も付けられていないところから庭に入る。女の人は椅子に腰を下ろして、僕に椅子を勧めてくれた。

 僕は、畏って椅子に腰を下ろす。女の人が、飲み物の用意をしている間、僕はそれとなく家の様子を眺めていた。壁はもう長い間塗り替えられていないようで、ペンキは随分剥がれていた。

 剥がれた部分によって微妙に色が違っているのは、何度も重ね塗りをしてあったからだろう。扉も、赤やオレンジ、ベェジュピンクなどのマァブル模様になっている。

 それらは決してみすぼらしい印象がなく、時間を重ねたことで独特の風合が出ていて、落ち着いた雰囲気になっていた。

 僕は〈懐風かいふう荘〉の建物を、見上げてみた。いつかのような違和感はなく、すぐに泊まっている宿だと言うのが分かる。

 現在の時間軸に、近付いている証拠だろう。

 僕がぼんやりしていると女の人が、お砂糖は?と聞いてきた。僕は慌てて、二つお願いしますと言う。地に足の着いたこの女性は、気配りも忘れていない。

 女の人は、甘い物が好きならジャムを入れないかと、聞いてくる。僕は、すぐにその意見に飛びついた。ジャムの瓶を開けて、小皿にたっぷりジャムをよそってくれる。

 薄い金色のジャムは、苹果りんごだろうか、アプリコットだろうか。女の人に舐めてみていいのよと言われ、ティスプゥンに掬って口に含んでみる。

 苹果でもアプリコットでもないジャムは、強いて言えばお日様の味のする蜜のようだった。

 僕はお世辞ではなく本心から、おいしいですと言った。クッキィに載せても、スコォンに着けても良さそうだ。

「去年、家で出来た物で作った薔薇のジャムよ。今年はジャムだけでなく、薔薇の花全部使って、ポプリクッションを作ろうかと思っているの」

 僕は薔薇のジャムをたっぷり掬って、ルビィ色の紅茶の底に沈めた。陽炎のようにジャムが、紅茶の中に揺らめきながら溶ける景色は、夕焼けを思わせた。

 僕は、八分咲きまで咲き揃った薔薇を見て、口を開く。

「咲いている内に摘んでしまうのは、勿体無くありませんか、奥様?」

 女の人も、薔薇の垣根に目を向けた。その横顔に、僕は別の人の横顔を重ね合わせる。女の人は静かな様子で、

「来年は花を咲かせられないでしょうから、最後の記念にしようと思って。クッションにすれば、来年も再来年も残るでしょう?」と、言った。

 僕は嫌な予感を押し込めるように、思ったこととは違うことを聞いた。

「家を手放してしまわれるんですか?」

 女の人は、長い時を重ねてきた人だけが出来る、全てを知り尽くしたような笑みを浮かべた。先生の笑みに、少しだけ似ているようだった。

「いいえ。おうちが、私を手放してしまうのよ。この身体は、随分長く使ってきたから、もうあちこちガタが出てきてね」

 僕は、何と言っていいのか分からなくなってしまう。女の人は、ホホと優しい声で笑った。皴の中でキラキラと輝く目は、誰かを思い出させてくれる。女の人は口元を笑みの形にしたまま、

「あら、小さい方を困らせてしまったようね。でもね、聞いて頂戴。私は病気なの。お医者様はって、一年でしょうって」

 慰めの言葉でも励ましの言葉でも、言わなければいけないのは僕の方なのに、女の人の瞳は心配しなくてもいいのよと、反対に僕を慰めてくれていた。

 女の人は愛おしそうな視線を、すっかり古びた家へと向けた。

 昔、その視線の先に、男の人がいたこともあるのだ。

「この家には六十年は住んだわ。この身体で生きた時間にもほぼ等しい時間よ。少しは寂しいけれど、これだけ長く生きたんだもの、そろそろ休ませて上げなくちゃね。身体が動かなくなってしまったら、庭の手入れも出来なくなるから、花は無理でしょうね。一つ二つは咲いてくれるといいのだけれど」

 女の人の視線は、また薔薇の垣根へと向かう。僕は、胸がドキドキと脈打つのが分かった。

「そんな。絶対大丈夫です。僕の大婆おおばあ様と言う人は、後一年でしょうとお医者に言われてから、十二年と十ケ月生きましたよ。大婆様は、吉凶や占いなどに凝る人で、十三は縁起が悪いから、きっとそうなる前に一足先に出かけてしまわれたに違いないって、親戚の人が言っていました。だから奥様も、来年も再来年も、毛虫とりに追われて、てんてこまいさせられるんだと思います」

 僕は願いも込めて、必死でそう言った。女の人は、おかしそうにクスクスと声を上げて笑う。

 あっと、僕は思う。こんなところに、エリィはいたのだ。女の人は、顔をしかめておかしな顔になる。

「そうね。毛虫には参るわ。ちょっと手入れを怠ると、葉っぱを丸坊主にしちゃうのよ。一度失敗した時は、悲惨なものよ。一足先に冬が来たみたい」

 僕の頭の中に、弟の悪口を言った時のリジィの姿が甦る。僕は思わずクスリと笑うと、

「毛虫も、お腹一杯食べ過ぎて、お腹を壊したかも知れませんね」と、言った。

 リジィ――いや、女の人はそれは考えてみなかったわと、目をぱちくりさせ、僕と一緒に声を上げて笑った。

 女の人は優雅に茶碗を持ち上げて、お茶を飲む。僕もジャム入りの紅茶を、ゆっくりと味わった。僕がエリィとお茶を飲んだのが、もうずっと前のことのように思える。

「何十年振りかしらね。こんな可愛い子とお茶をするのは」

 本当に、ずっと前のことなのだ。女の人は眉間に縦皴を寄せて、考え込む顔付きになる。そうすると、昨日のあの人のようだった。全然厳しくはなかったけれど。

「名前は、何だったかしら。リ、ラ。年をとると駄目ね」

 女の人は、小首を傾げる。・・・ベッツィ。僕は、

「ラジニです」と、二度目の自己紹介をした。

 女の人は、小さい子供のように無邪気にポンと両手を打った。

「そう。ラジニだわ」

 僕と女の人は、ジッと見つめ合った。ようやく、ちゃんと会えたような気分がした。女の人は手を伸ばすと細い指で、僕の髪を撫でてくれた。

「あなたは、本当にいい子ね。弟も、可愛い子になるかと思ったけど、とんでもないやんちゃでね。年をとった今じゃ、可愛げのない爺さんになったわ。あなたは、間違ってもそうはならないわね」

 僕は、エシャロット頭と罵るリジィを思い出して、心の中がポワンと温かくなった。僕は、ホッとしたものを感じながら、

「奥様は、とても素敵なお婆様でいらっしゃいます」と、言った。

 女の人は、やんわりと微笑む。

「あなたも知っての通り、そうでもない時もあったのよ」

 女の人は僕を見ながら、もっと遠くを見るような目をした。僕を通して、過去を見ているに違いない。

 過ぎ去っていった日々。

 この家と庭と歩んできた日々。

 女の人は、思い出を語り始める。僕が聞きたくて、同時に聞きたくなかった彼女の物語を。

「若い頃もあったわ。両親の愛情を一身に受けて何も知らずにいた幼い頃、狭い世界で守られていることも知らずにいた子供の頃、幾度か恋をして幸せだったことも、愛が壊れて傷付いたこともあった。一番辛かったのは、幸福な結婚の後、子供が生めない身体だと分かって、不幸な別れ方をしてからね」

 その時の苦しみも悲しみも、今の彼女の笑顔に影を落とすものではなかった。時が、それらの傷を癒してくれたのだ。

 春には結婚するのよと言っていたエリィ。ジェフは、その相手ではなかったんだね。女の子が欲しいと、オモチャを欲しがるように無邪気に言っていたエリィは、夢を見ていたに過ぎないのだ。

 甘くて優しい、でも儚く消えてしまう。紅茶の中で溶けるジャムのような、陽炎のような夢だったのだ。

 女の人は暗澹たる過去のことも、淡々と話していく。

「結婚してから始めた庭作りだけが、私に唯一残されたもので、趣味にのめり込むことだけが、私に出来ることだった。庭だけが、生きる全てになっていた。自分で自分を不幸にしていた。つまらないわね。たった一度の人生をそんなふうに過ごすなんて。それと同じくらいつまらないわね。こんな話は?」

 女の人は、苦笑して言葉を切った。僕は首を横に振る。

 彼女の人生だ。つまらないことなど一つもない。女の人は、首を横に振る。

「いいのよ。年をとると愚痴っぽくなるだけだから。もっと楽しい話にしましょう」

 そう言って女の人は、そうだわと明るい声を上げた。そして厳かに、しかも悪戯っぽく言った。

「私の名前はね、エリザベスと言うのよ」

「エリザベスですか?」

 僕は、その名前を繰り返した。ようやく何もかもが、一つに繋がったようだった。女の人が、にっこりと微笑む――リジィの顔で。

「ええ。でもね。ベスなんてありきたりに呼ばれるのも、改まって親にエリザベスと呼ばれるのも嫌だったわ。改めて呼ばれる時は、叱られる時と決まっていますものね」

 僕は、フフッと声を出して笑う。エリザベスは、懐かしげな顔をした。

「家族も恋人も、色々な名で私を呼んだわ。自分で作った名前もあるわ。子供の頃は、リズじゃなくリジィで通していて、傑作なのはベッツィよ。なかなか頭の回転のいい子だと思わない?」

 僕はもう一度声を上げて笑い、

「もしかして、もっと小さい頃は、ご両親にはスゥと呼ばれていませんでしたか?」 と、聞いた。

 これにはエリザベスも驚いて、目をぱちくりさせた――彼女のやり方で。

「ええ、そうよ、よく知ってるわね」

 これで残っていた最後の1ピィスも、正しい位置に填まったことになる。

 僕は、そうだと言って、彼女に上げようと思っていた絵葉書をポケットに探した。しかし絵葉書は、ポケットになかった。きっと、壁を登る時に落としてしまったに違いない。

 僕は思い着くと、いても立ってもいられなくなった。だって、もう五十年以上もプレゼントを渡しそびれているのだ。

 僕は、椅子から立ち上がった。

「あの、あなたに上げようと思って、絵葉書を持って来たんですが、途中で落としたみたいです。ちょっと待ってて下さいますか? あの、失礼でなければ、拾って来て差し上げたいんですが」

 エリザベスは「あら、嬉しいわ」と、言った。僕は帽子を椅子に置いて、庭から出た。

 来た道を引き返しながら、絵葉書が何処かに落ちていないか探す。

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