裏庭 4
一晩よく考えた結果、三人、または四人が同一人物だと言うのは、有り得ないと結論した。リジィはともかく、ベッツィやエリィは、僕を覚えている筈だからだ。
しかし、またしても疑問が湧いて、結局僕はちゃんとした結論を出せなくなった。一度しか会っていない人を、覚えていなくても仕方がないからだ。僕はエリィにもベッツィにも、名前を名乗っていない。
だから過去に実際会っていたとしても、エリィはジェフのことで――と言うか、自分の幸せな未来のことで頭が一杯だったから、僕のことなど思い出せなかったのだと思う。
ベッツィの方は、僕のことを見たことがあると言ったではないか。
ただベッツイはそれを、弟の友達だと早合点してしまっただけなのだ。だったら三人が、同一人物である可能性はなくならない。
もしそうなら僕は、リジィの未来を見ているのだろうか。それとも過去だろうか。会う度に、年齢が上がっているのは確かだ。五つ、八つ、十代半ばに、二十五才ぐらいとくれば、次は三十代の後半ぐらいだろうか。
十数年もしたら、ジェフとの間に生まれた子供も、僕と同じ年頃になっている筈だ。エリィは女の子がいいと言ったが、案外やんちゃな男の子ばかりが、何人も生まれたかも知れない。
そしてエリィは僕の母さんみたいに、汚れた服やちらかった部屋を見て、時折女の子が欲しかったのにとボヤいたりするのだ。
ノエルが母さんを喜ばせた時のように、僕は宿の植え込みの中に咲いていた野の花で花束を作って、エリィにプレゼントすることにした。母さんは、もう何年も花束なんて貰ってないわと、ノエルにキスの雨を降らせた。
ノエルは喜んだけれど、もう大きい僕としてはキスされるのは照れ臭い。エリィはそこまではしないだろうけど、きっと喜んでくれる筈だ。次に会うのが、本当に十年後のエリィだとすれば。
勿論全て僕の仮説に過ぎず、全然違う人が現れるかも知れない。エリィよりも年下で、全く似ていない人とか。そもそも、男の人だったり。
僕は帽子をかぶって、お行儀のいい子に見えるように、服装にも気を付けた。花束を持って裏庭に続く路地を探すと、今日もちゃんと路地は見つかった。
リジィに会おうとして会えなかった日、どれだけ探しても見つからなかったのが嘘みたいだ。
裏庭の様子は、それほど変わったようには見えなかった。あの後でもう一度ペンキを塗り直したらしく、扉が壁と同じ色に塗られていた。同じベェジュピンクでも、今回は少し白の強い色だった。
潅木や芝生は、そこそこ程度には手を入れられているようだ。ただ前にはなかった花壇が、家の側に作ってあった。鉢植えも幾つか置いてあって、花を付けている植物もあった。
低かった生け垣は、いつの間にか僕の胸まで伸びている。人の気配か、住んでいる人達の様子を伺わせる物がないかと、僕は伸び上がって中の様子を伺った。その時、思わず生け垣に手を着いてしまった。
途端、生け垣の戸を開けて(その戸は前と同じ、真鍮製の物だった)勢いよく、女の人が出てきた。手に雑草を一束握っていたので、垣根の側でしゃがんで庭の手入れをしていたのだろう。
「ヘンリィ、何度来ても無駄だと言ったでしょう。いい加減にしないと」
女の人は激しい口調でそこまで言った後で、僕を見て人違いだと分かり、はたと口を噤んだ。僕はいきなり怒鳴られてびっくりして、その場にしゃがみ込んでしまっていた。
それは、四十才は過ぎて見える女の人だった。
女の人の化粧っけのない顔は、目の下は黒ずみ、厳しい深い皴が刻まれていた。皴の所為ばかりでなく、女の人はエリィには少しも似ていなかった。
「あら。何、あなた?」
女の人は眉間の皴を更に深くして、険しい目付きで僕を見る。僕は何か言わなくてはと思ったが、すぐには言葉が出てこなかった。
僕が口を開く前に女の人は、地面に落としてしまった花束に目を止めて、怖い顔になった。
「人の家の花を度々盗んでいくのは、お前だったのね。てっきり、あいつの嫌がらせだと思ってたけど」
女の人は、目を吊り上げて僕を見る。これでは、僕を追い帰したあの女の人に、また会ったみたいだ。勿論、あの人の方がもっと年は上だった。
顔付きが似ているとも言えないが、この人とエリィに比べれば、よっぽど似ている。何より排他的な雰囲気が、あの女の人にもこの人にも共通している。
エリィなら、ううん、ベッツィだってリジィだって、こんなふうに人に接したりはしない。この人は、彼女達とは全く関係ない人だ。
顔だって似ていないし、僕の仮説で言えば、次に現れるのは三十代後半の女の人の筈だった。僕は、勘違いから怒られたことに動揺したのと、訳が分からないのとで、ひどく狼狽してしまった。
僕は、膝を伸ばして立ち上がる。
「違います。僕じゃありません。これは、僕が」
僕は何をどう説明していいのか分からなくて、しどろもどろになってしまう。
「何なの?」
不機嫌そうに僕を上から下まで見ていた女の人が、何かに気付いたように不意にハッとなった。女の人の厳しい表情の中に、何か別のものが表れる。
何か古い記憶が呼び起こされ、枯れた大地に水が湧き出すように、皴深い乾いた皮膚の上に、それまでとは違う表情が浮かび上がってきそうになる。
女の人は、目を見開こうとしている。僕は、その様子を最後まで見ていなかった。
僕は、本当に僕じゃないんですと言ってきびすを返すと、今来た道を駆け戻り始めた。
「待ちなさい。あなた。もしかして?」
女の人の声には先程までの刺々しさはなく、何か不思議な感覚があったが、僕は待っていられなかった。あの年老いて頑なな様子の女の人の中に、エリィの面影なんて見たくなかった。
あの時のエリィは、あんなに幸せそうだったのに。ジェフは、どうしたのだろう。どうしてあの女の人は、不幸になっているのだろう。
誰が彼女を、不幸にしたんだろう。ヘンリィって一体。
よりにもよって、あんなふうになるなんて僕は絶対信じない。僕は、また無茶苦茶に逃げ出していた。あんまり急いだので、宿に戻った時には帽子が失くなっていた。
きっと路地に、帽子を落としてしまったんだろう。しかし僕は、到底拾いに行く気になれなかった。
*
僕は裏庭でショッキングな体験をした後、落ち込んでいた。先生は、何もかも分かっておられるのか、僕をソッとしておいて下さった。もしかしてと仰った通り、始めから先生には分かっておられたのだと思う。僕がどれだけそれを否定しようとしても、否定し切れないほど、その事実は強く僕の胸に食い込んでいた。
僕は夕方、ぼんやりと窓の側に立って下を見た。昼見た時から、庭はまた変わっていた。今度は、大きな変化だ。生け垣が、薔薇の垣根になっていたのだ。年とった女の人が、垣根の世話をしていた。
薔薇は育成が難しく、頻繁に手入れをしなければならないので、余程根気が良くないと奇麗な垣根にはならない。今は、花はつけていなかった。いつ頃、垣根は変えたのだろう。
花壇には雑草がはびこり芝生は枯れ、見る影もない。生け垣だけは青々としていたが、その所為で余計に庭が荒れ果てて見えた。
垣根の世話をしている女の人は、五十才ぐらいだったが、もっと年をとっているように見えた。
せっかく植物の面倒を見ていると言うのに、全く楽しそうではない。成果を上げる為に、育てる為に育てているだけで、育てること自体に喜びなどないみたいだ。
義務か、継子いじめでもするように黙々と働く姿は、声を掛けられるような感じではなかった。
その同じ小さな庭でスゥは無邪気に笑い、リジィは跳ね回り、ベッツイは家事を手伝い、そしてエリィは未来に夢を見たのだ。
今この庭にいるのは、疲れ果てた一人の寂しい老女だけだ。幸せそうだった彼女達は、どこにいってしまったのだろう。
何があったのか、話せるのも本人だけだ。
*
僕は全てをはっきりさせる為にも、次の日の朝、裏庭の持ち主の家を訪ねて行くことにした。朝の内に決めたのは、年寄りは朝が早いので朝の方が調子がいいと、大叔母さんの家にやられている下の弟が、いつか教えてくれたからだ。
今度訪ねて行くのはあの家の主人だから、あの怖いお手伝いさんだって、そうつんけんはしない筈だ。
リジィにあげるつもりだった絵葉書を渡して、何度かお会いしたことのあるラジニですと言って、とり次いでもらうのだ。きっと今なら、思い出してもらえる筈だ。
僕は、その日は正面から行くつもりだったが、帽子だけ拾っておこうと思って、その前に路地に入った。そう歩かない内に、いつかと同じ煉瓦の壁にぶち当たった。あの時は幾ら探しても、裏庭に出られる道は見つけられなかった。
しかし今日見た煉瓦の壁は、僕の膝より少し上のところの煉瓦が、一つ外れていた。前に見た時も一ケ所欠けた部分があったが、そこは漆喰で修理してあった。塞がれていたのは、今欠けているちょうどその場所に違いない。
僕はしゃがんで、穴から路地の様子を伺った。覗いて見ると、先の方に何か黒い物が転がっていた。僕が、昨日失くした帽子だ。僕は、それを見ると意を決して、欠けた部分に足を載せて、壁に登った。
身軽なのが幸いして、僕は壁を乗り越え、路地の中に入ることが出来た。そのまま先に進んで帽子を拾い、手に持ったまま歩いて行った。路地は、間違いなく裏庭に続いていた。
その日の裏庭は、花盛りだった。
薔薇の垣根は丹精込めて作った人に応えるように、ピンク色の可憐な花を咲かせている。辺りには甘い花の香りがしていて、夢心地に誘われる。
この庭に今住んでいる人は、こんなに奇麗な花に囲まれて不幸でいるのだろうか。
僕がそう思っていた時、突然声が響き渡った。
「あなた」
僕は昨日のことが忘れられず、咄嗟に逃げ出そうとしてしまう。
「待って、待って頂戴。驚かせる気はなかったのよ」
庭の中に、白髪頭の上品な女の人の姿が現れる。女の人は、白いテェブルの前の椅子に腰掛けていて、僕には見えなかったようだ。




