RAJINI
僕が、先生と初めてお会いしたのは、先生の大学の研究室だった。アポイントメントもなしに突然訪れた僕を、先生はまるで十年来の知り合いのように、迎えて下さった。
僕が先生のことを知ったのは、僕が愛読していた少年向けの科学雑誌に、寄稿されていた論文からだった。それは幻影力学の基礎を、子供向けに書き表したものだったのだが、僕には少し難解過ぎた。しかし幻影力学という耳慣れない響きは、僕をひきつけてやまなかった。電子工学よりも、量子力学なんかよりずっと。
但し、僕が殊更その論文を書いた人に注目したのは、こんな訳があったのだ。先生は、論文の序文にかえて、一つの詩をよせておられた。
『(前略)みんなは二千年ぐらい前には/青空一杯の無色の孔雀がいたと思い/新進の大学士達は気圏の一番の上層/煌びやかな氷窒素の辺りから/素敵な化石を発掘したり/或は白亜紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかもしれません(後略)』*引用
僕が、先生にお会いしたいと思ったのは、先生の詩に感銘を受けたからに他ならなかった。その詩を合わせて考えると、何となく幻影力学という学問が、分かってくるような気がする。先生は、分からなくても、感じることができればそれでいいんだと仰られるが、僕としては少しでも先生の助手に相応しくなりたかった。と、それは先生とお会いしてからの話。
僕は、生まれて初めて、雑誌社に電話をした。科学雑誌の出版社の、電話の応対に出た方に、感想の手紙を書きたい旨を伝えた。その時、先生の大学の研究室の電話番号を、教えてもらうことができた。その出版社の方は、青少年が科学に興味を持つのは大変結構だ、おおいに頑張りなさいと僕を励ましてくれた。
僕は、はっきり言って困惑してしまった。科学云々ではなく、僕はその詩を書いた人に興味があったのだから。
先生が、幻影力学の権威であることは、先生とご一緒させて戴くうちに、おいおいと分かってくる。幻影力学に身を捧げている人々にとって先生は、ある種特別な方なのだ。何とかして先生にお目にかかりたいと思って叶わない人々をさしおいて、僕は先生と面会が叶ったのみならず、先生の助手にして戴く名誉まで与えられたのだ。僕はとても幸運だったと言える。
そんな偉い先生だとは知らず、僕のような何も知らない子供が、勝手に訪ねていったのだから、今考えても顔から火が出そうになる。僕は、大学と先生の研究室の場所を調べ、突然そこを訪れたのだった。先生に会わずにはおれない気分だった。
僕は、家出同然にメトロに乗って、学園都市にある先生が講師を勤めておられる大学まで足を運んだ。大学の構内に侵入するのは簡単だった。僕は、小柄な身体を生かして、どんな所にだって潜り込んでしまえたから、誰にも見つからずに、先生の研究室の扉の前まで辿りつくことができた。
そこまできてどうしようか迷った時、まるで僕が来るのが分かっていたかのように、扉が開かれた。
「お入りなさい」
そう言って僕を室内に招じ入れてくれたのが、先生その人だった。研究室というから、何となく雑然とした様子を思い浮かべていたが、室内はすっきりと片付いていた。これから長い旅にでも出るというように。
先生は、濃い茶色のスゥツを着て、ボウタイをしておられた。夜会にだって出席できるような格好だとその時は思ったが、先生の洋服の趣味はとてもよく、いつもどこに出ても恥ずかしくないような格好をしておられるということが、後になって分かる。
先生は、僕を応接セットに案内してくれると、珈琲をご馳走してくれた。珈琲茶碗とは別にボウルが添えられていて、ボウルの中には泡立てたミルクを、たっぷりと盛ってあった。僕はスプンで、ミルクをすくって珈琲に浮かべた。その様子は、まるで黒い海に浮かんだ氷山のようだった。
僕は、その美しさに思わず見とれた。あんまり長いこと僕がそれを見つめていたものだから、先生は僕を促した。先生は、僕がそれから何度も目にすることになる僕の大好きな微笑みを浮かべると、
「氷山が溶けてしまうよ」 と、仰られた。
僕は、注意して茶器に唇を付けたが、心配したように珈琲は熱くなかった。先生は、僕が猫舌だということを知っていらしたかのようだった。僕は、先生の研究室に入ってからそこまで、一言も口を聞いていなかったのだが、先生はそれをおかしいとは思われなかったようだ。
僕は、何を話していいのか分からなかった。ほんの数分で、僕には先生がなくてはならない存在になっていたのは確かなことだ。先生は、珈琲を飲んでいる僕を、あの優しい瞳で見つめながら、
「私はね、君のような、純粋で知的好奇心に溢れた子供を、助手にしたいと思っていたんですが、どうでしょう」
僕は、深い意味も考えずに、コクコクと頷いていた。
「私は、これから旅に出ようと思っていてね」
先生の座られているソファの横には、柳のトランクが置いてあった。
「第四次幻想空間における座標軸の有効性と、不確定性の証明をするのが、私の夢なんです。その調査に向かうつもりなんですよ」
「僕もご一緒させてください」
僕は、考えるよりも先に言っていた。先生は、莞爾として微笑んだ。
「君が、そう答えてくれればいいなと思っていたんです」
先生は、本当に嬉しそうにそう仰った後、それでも不安げに眉を顰められた。
「でも、君の家族が心配するだろうね」
僕は、音がする程強く首を横に振る。
「子供と言うものはいつか親元を離れていくものだって、母さんは言っています。そのいつかが、僕の前に来ただけのことなんです。弟達だって、遅かれ早かれ一人立ちしていくんですから。今を逃したら、僕のいつかはずっと来ないかもしれないんです。どうか先生、僕を一緒に連れて行ってください」
僕は熱心に頼み込んでいた。この機会を逃したら、二度と先生にはお会いできないような気がしていた。僕は、無意識の内に先生と呼んでいた。先生は、先生と呼ばれると照れ臭そうな顔をされるが、僕はそれ以外の呼び方をするつもりはなかった。それは、親しくさせて戴くようになってからも変わらない。
「後で、君のお母さんに、私から手紙を書くことにしよう。時々はお母上に手紙を書き送るんだよ。幾ら子供はいつか親元を離れていくと決まっていても、親であり子であることは変わらないんだから。親孝行はするのだよ」
僕は、素直に頷いていた。
先生以外の人に言われていたら反発したくなることも、先生の口から聞くと、乾いた砂地にスッと染み込む水のように、僕の心の中に吸い込まれていった。
先生は、胸ポケットから切符を二枚とり出した。一枚は君の分だと言って手渡してくれた後、先生は僕を少し眺めていた。僕は、自分がおかしな格好をしているのではと、不安になった。シャツの釦はかけ違えていなかっただろうか、襟は引っ繰り返っていないだろうか。先生に、少しでもよく見られようと、僕はいい子ぶって、白いシャツに膝丈のズボンを身につけていた。モスグリンのズボンをズボン吊りで吊ってある。
それ程おかしくは見えない筈だ。先生は、ソファから立ち上がると、棚を開けたり閉めたり始めた。棚の下の方をゴソゴソと探し回っておられたが、目当ての物を見つけたようだ。背負ってみてくださいと言われて、僕は先生から渡された皮嚢のベルトに腕を通す。
「ちょうど合いますね。それは、私が子供の頃使っていた物なんですよ。入り用な物は、後で揃えていけばいいでしょう」
先生は、ポケットの一つから金時計出すと、パチッと蓋を開けて時間を確かめた。その時、ポオという霧笛のような音が聞こえてきた。
「うまく間に合いましたね。幻想第四次空間へ向かう汽車は、そう三次元上には現れないんですよ。三次元とは言っても、ここは、多分に四次元的な要素を含んでいますがね」
先生はそう仰いながら、柳を編んだトランクを持ち上げた。
研究室の大きな窓の向こうには、駅のホウムが広がっていた。確かにここは三階だった筈だ。蒸気機関車が、煙と轟音を撒き散らしながら、汽車がホウムに滑り込んでくるのがはっきり見える。
「ラジニ君、行きましょうか」
僕は、はいと答えた。先生は、窓枠を扉でも通るように通り抜けた。いつ僕は自分の名前を名乗ったのだろうと不思議に思ったのは、もう少し余裕ができてからだ。
開いていた客車の扉から、僕は先生の後に付いて乗車した。
そして、僕らは車上の人となる。
僕と先生の終わりのない旅は、こうして幕を開けたのだ。