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船舶ラヂオ 5

「船長に怒られて、マストのてっぺんまですっ飛んで逃げたはいいが、降りられなくて一晩中泣き喚いていたのは何処の誰だ?」

 太い声が言う。僕はオズオズと顔を上げた。今下を向いているのは、ジョゼの方だった。チョビヒゲを貯え、お腹の突き出たお爺さんが、両手にオレンジを持って突っ立っていた。お爺さんは、

「知らないと思って、大きな口を叩くんじゃないぞ、ジョゼ。前の船で一緒だった儂だけは、知ってるんだからな」

 と、大きな声を出す。この人が、この船のコックなんだろう。格好は他の船員と似たり寄ったりだけれど、突き出たお腹の下に、色の変わったエプロンを締めている。船長は難しい顔をすると、腕を組んで、

「誰にでも、経験のあることだ。恥ずかしいことじゃねぇ。でもな、自分を棚に上げて人を馬鹿にするのは、恥ずかしいこったぞ」

 と、ジョゼに小言を垂れる。ジョゼは、船長にまで嗜められて俯いていた。僕は、コックのお爺さんに向かって、

「その時はどうなったんですか?」

 と、聞かずにいられなかった。ジョゼを虚仮にしようとしたのではない。本当に、気になったからだ。お爺さんは、

「一晩晒してお仕置きも済んだから、船長自らが背中に縛り付けて降りてきたよ」

 と、言った。僕は、船の上で悪いことをしなくて良かったと呟く。せいぜい僕なんて、納戸に閉じ込められるくらいだったもの。

 お爺さんは僕の言葉を聞くと、カラカラと声を上げて笑った。お爺さんは、俯いたままのジョゼの背をオレンジを持った手の甲で押して、一緒に僕達の方に歩いて来た。

 お爺さんは、オレンジを一つ僕に差し出した。

「ほら坊主。珍しいお客には何を出すのが一番いいか迷ったんだが、何の変哲もないオレンジも、海の上では格別じゃろうと思うてな」

 僕は涙に濡れたままの目を瞬いて、手を出すとオレンジを受けとった。

「ありがとう」

 兄さんが小さく呻くと、僕を甲板に下ろした。

「腕の力も付いたと思ってたけど、ずっと抱き上げてるのはきついな。お前も大きくなったってことだよな」

 兄さんはそう言って、僕の肩に手を置いて僕に笑い掛けた。僕は俯いて、僕はまだどうせ子供だよと拗ねる。お爺さんは空いた手の平で、ジョゼの背中を強く僕の方に押した。ジョゼはたたらを踏んで、僕ともう少しでぶつかりそうになる。お爺さんは、

「ジョゼはの、この船ではクレイブの弟分じゃ。弟同士、兄弟は仲良くせんとの」

 と、僕に向かって言った。その後でお爺さんは、

「クレイブはお前の兄貴か知らんが、この子はお前の弟だ。いつも面倒見て貰ってるんだから、今度は弟の面倒を見てやる番じゃ」

 と、ジョゼに向かって言った。ジョゼは、いたたまれない様子で下を向いている。ジョゼはもしかして、僕に嫉妬したんだろうか。僕だって、兄さんからの手紙にジョゼと仲良くしていることが書かれていたら、嫉妬するかも知れない。僕は、出来るだけ何でもないように肩を竦める。

「双子は、僕の血の繋がった兄さんだけど、僕の面倒を見たりしないよ。いっつも、僕をからかってくる」

 ジョゼはちょっとだけ顔を上げて、窺うようにした。

「嫌な兄さん達だな」

「そう。想像より悪いってことはあっても、いいってことは有り得ないからね」

 僕は、今までのことを水に流すつもりで、

「ねぇ、オレンジ半分こする?」

 と、ジョゼに聞いた。ジョゼは小さく首を振る。

「いや、さっきもくすねて食べたところだから」

 それを聞いて怒ったのは、コックのお爺さんだった。

「やっぱり貴様か。ジョゼ。一番熟れていたのがないと思ったら」

 ジョゼは、お爺さんの拳骨が飛んでくる前に僕の手を掴むと、その場から引っ張り出した。

「行こうぜ」

 僕はジョゼに引っ張られて走りながら、チラリと後ろを振り返った。お爺さんは渋い顔をしていたが、諦めの色が強かった。あれなら、そんなひどいお仕置きはなさそうだ。

 お爺さんは、今度はもう一つのオレンジを先生に渡したようだ。その時、

「クインセイレン号にようこそ」

 と、言った。他の船乗り達も、同じ言葉を唱和する。ジョゼは何も言わなかったけれど、僕と並んで船端に立って、さっぱりした様子で息を吐いた。

 それから僕は船端で、海を眺めながらオレンジを剥いて食べた。

 その後で兄さんとジョゼに案内して貰って、先生と僕は船の中を見せて貰った。ジョゼはオレンジは食べなかったけれど、僕の上着のポケットの中で溶け掛けていたチョコレイトを上げると、喜んで食べてしまった。いつまででもいたいぐらいだったけれど、そうもいかない。

 先生が、船舶ラヂオの赤い針が再び動き出しているのに、気付いたのだ。今度は僕らのいた場所が、近付いていることを示す証拠だった。僕は兄さんやジョゼと別れたくない気分だったが、船員達は皆、ラヂオの言うことは聞いた方がいいと言った。

 これを逃すといつ戻れるか分からないし、次の港まで後十日も掛かるのだそうだ。僕と先生は、甲板にいる間ずっと裸足でいたけれど、戻る為に身支度を整えた。

 来た時と反対に針が振れ、最終的にはピカピカとランプが光った。

 何処かの港で会えるといいなぁと、船員達はみんなして僕らを見送ってくれた。僕と一緒にいた間、ずっと気まずそうでぎこちなかったジョゼも、僕に一生懸命手を振ってくれていた。

 兄さんは、目を潤ませていたような気がする。兄さんに言えば、潮風の所為だと答えたかも知れない。  ずっと明るく輝いていた太陽が、不意に陰ったような気がして、僕は空を仰いだ。その途端、真っ白な霧に船は突っ込んでいた。

 打ち寄せてきた霧に飲み込まれて、僕はむせそうになる。よろめいた僕を、先生の腕が掴んで止めてくれる。僕が態勢を立て直した時には、僕の踏んでいるのは甲板ではなく石畳に変わっていた。

 僕と先生は、霧に包まれた人気のない町角に佇んでいた。

 町は霧の所為で薄暗く、肺の中までジメジメしそうなほど湿気ている。強い陽射しをそれまで浴びていたのが、嘘みたいだ。でも勿論、幻なんかじゃない。

 乳緑色の海に流したオレンジの皮の鮮やかな色は目に焼きついていたし、水気たっぷりで温かいオレンジの味を口中に思い出すのはたやすいことだった。

 オレンジの味は、太陽の下にこそ似合うのだから。

 先生はラヂオの電源をパチリと切ると、仰った。

「どうやら少し霧が晴れて来たようですし、もう少し歩いたら、夕暮れが見えるかも知れませんよ」

「きっと、オレンジのような綺麗な夕焼けですよね」

 先生も微笑みながら、

「ええ。きっと」と、請け合われた。

 僕はまた船舶ラヂオで、兄さんやジョゼと会えないものかと思っていたが、既に十分長い間使っていたので、電池が切れてしまった。 ラヂオは、だんだん海が遠くなるようにして波音が消えた。

 電池を入れ替えようにも、合うのが見つからない。ずっと古い形の電池なのか、海の魔女が作っている電池しか合わないのか。

 港近くの露店や骨董屋を見つけたら、何としても僕は、合う電池がないか捜すつもりでいる。

 電池が見つかった時の為に、ウンともスンとも言わなくなったラヂオも、僕は大事に皮嚢ランドセルの中に仕舞っていた。

 ラヂオが使えなくなったことや、船に乗った時のお礼など、僕は早速兄さんに向けた手紙を書いた。ジョゼへの手紙も同封したが、手紙は出されることなく僕の皮嚢に入ったままになっている。

 兄さんは結局、僕に住所を教えるのを忘れていたので、手紙を出すことが出来ないのだ。

 お陰で兄さんに、あれが実際に起きたことだと確認することも出来ない。僕と先生の二人で見た夢で、ジョゼなんて少年はいない、とか。でも、きっとそんなことはない。あれは、絶対に本当に起きたことだ。

 兄さんは言ったつもりになっていて、手紙がこないことを、僕の機嫌でも損ねたんだろうかと、悩んでいるかも知れない。

 だとすれば、本当に困った兄さんだ。

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