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船舶ラヂオ 4

 僕はそれ以上動けずに、先生を見つめた。先生は、いつものようにおっとりと笑いながら、

「危険なこと、悪いことでないなら、したいと言う者を止めることは出来ません。木登りが出来ないならともかく、出来るなら危険と言うこともないでしょう」

 兄さんは、まだ納得出来兼ねるようだった。

「しかし」

 何か言い掛けるが、先生の制止もなかったことだし、僕はそのままマストに向かって駆け出した。手を繋いでいるので、ジョゼも一緒に走って来る。僕はマストの前で足を止めると、背中の皮嚢ランドセルを下ろした。

 雨や霧の中では重宝した上着も、この日差しの中では苦痛になっていたので、僕は気持ち良く上着を脱いだ。脱いだ上着は皮嚢に掛けて、靴を脱ぐ。ジョゼは靴下を脱いでいる僕に向かって、

「無理だと思ったら、すぐに言えよ」

 と、言った。僕は靴下を靴の中に突っ込んで顔を上げながら、

「過保護な兄さんは、一人で十分だよ。双子なら絶対僕をけしかけて、しかも降りようとしたら棒で突ついて、上に上がったままにさせておくね」

 と、吐き捨てる。ジョゼは、

「双子って、クレイブのすぐ下の弟達?」と、聞いてくる。

 兄さんは、家族の話をしたりするのだろうか。僕は自分が赤ん坊じゃないことを見せたくて、年上のジョゼにも同じ年の相手のように振る舞った。

「そう。きっと君よりも年上だと思うけど、ずっと子供だよ。寄宿舎に入ってるけど、頭の中は新しい悪戯のことしか入ってない。しかも、二人でセットだから最悪」

 僕は、ついつい顔をしかめてしまう。ジョゼは、何とも言えぬ表情を浮かべて、

「ふぅん。いじめられてるんだ」

 と、呟く。同情されるのも馬鹿にされるのも嫌なので僕は、

「ノエルは本当に赤ん坊だから、手を出したら母さんが怒り狂うし、リルケはすぐに母さんに言い付けるから、双子の標的は専ら僕さ。勿論僕だって、お返しはしてやるけど」

 ジョゼは、もう一度ふぅんと言った後、マストにとり付いた。ジョゼは慣れた様子でスルスルと、マストを登っていく。すぐに最初の横木にまで辿り付くと、横木の上に立って僕を見下ろした。ここまで登れるかと言いたげだ。

 僕は、マストに飛び付く。柱を抱くようにして、裸足の足の裏で柱を挟んで、僕は確認するようにマストを登っていった。手垢でツルツルになっているかと思ったけど、潮を浴びているからか、マストはサンドペェパァのようにザラザラしていて、滑ったりはしない。

 登れないことはなかった。僕が最初の横木に辿り付くのに合わせてジョゼは、一つ上の横木目指して登り始める。僕は横木に立って柱に手をついたまま、ジョゼの姿を見上げていた。ジョゼは、リスのように身軽だ。

 帆は全て張られていたが、風が弱いので、帆は殆ど風を孕んでいない。心配しているのか面白がっているのか、船員達はマストを囲むようにして、僕らを見上げている。

 その中には、不安そうな兄さんの顔もある。兄さんは、言って寄越す。

「すぐ下は見てもいいけど、周りは見るな」

 そう言われて僕は、つい周囲を見てしまった。

 船端からは、絵の具を溶かした色水のようなエメラルドグリンの海が、何処までも広がっている。

 目の届く限り海、海、海があるだけで、見事に何もない。

 空は青いと言うより、あまりにも日差しが強い所為で、白光りしていた。水平線は遥か遠くで、そこまでいくと海の色も空の色も曖昧模糊として暈やけている。

 マストは、白い発光板のような空に突き刺さったまま、海の真ん中に固定されているように見える。

 僕は自分がとてもちっぽけな存在に過ぎないのだと分かって、急に怖くなった。僕はマストを抱き抱えたまま、ヘナヘナと座り込んだ。下の方で、騒ぐ声がする。

「クレイブ。余計なことを言ってどうする。子供なんて一つのことに夢中になっちまったら、周囲も見えないってのに。気付かせてどうするんだ? うまくすりゃ、望遠鏡で船の姿の一つも追って、興奮して降りて来ただろうに」

 大丈夫か?と下から声を掛けられるが、僕は答えることが出来ない。木登りしていて、マストに登っているつもりで、枝の上を手放しで歩いたこともある。バランスを崩して、枝にぶら下がったこともあるけれど、今ほど怖いとは思わなかった。

 兄さんが、自分が悪かったと謝る声がする。

「下りておいで。柱に抱き付いて、ズルズル滑り降りてくりゃいい。その高さなら何とかなる」

 猫撫で声で船員達に言われて、僕はさっきより強く柱を抱き締めながら、辛うじて、

「出来ない」

 と、だけ言った。兄さんが腕を広げて示しながら、

「じゃあ、飛び降りな。兄ちゃんが受け止めてやるから。それならあっと言う間だ。飛び降りた時には、もう兄ちゃんの腕の中だ」

 僕は半分泣きそうになりながら、言う。

「出来ない」

「兄ちゃんを信じろ。絶対に受け止めてやるから」

 兄さんは焦った様子で、叫ぶ。頭の上から、ジョゼの声が降ってくる。

「そこまでか。オレなんか、初めてでもマストのてっぺんまで登ったってのに」

 ジョゼは、一段上の横木に腰掛けて足をブラブラさせながら、僕を馬鹿にしたように見下ろしている。僕は、ジョゼに腹を立てる気にもなれなかった。どうして登ったりしたんだろう。兄さんの言う通り、ジョゼの挑発なんて無視すれば良かった。

 僕はシクシクと泣きながら、顔をマストに押し付けた。下がザワザワとし始めるが、僕は顔を上げなかった。泣いていると、誰かがマストを登ってくる気配がした。下を見ると、登っているのは先生だった。

 先生は上着を脱いで、僕と同じような格好をしていた。僕は驚いて、一瞬涙も止まってしまう。先生は、僕と反対側の横木を掴んで身体を引き上げると、横木に跨った。

 先生は僕の腰を掴んでグルリと回し、自分の腕の中に抱き取った。先生は僕の顔を見ると、身体を動かした為に顔を赤らめながら、

「もう大丈夫ですよ」

 と、言ってくださって微笑まれた。いつも通りの先生の笑顔を見ると、僕はまた涙が出そうになる。

「先生」

 先生は僕を横抱きにすると、下に向かって声を掛けられる。

「行きますよ」

 僕が、え?と思った時には遅かった。僕の身体は、支えのない宙にあった。悲鳴を上げる暇もなく、身体を掴まれる。気が付いた時には、床に座り込んだ兄さんに、僕はしっかり抱き締められていた。

 兄さんは僕を受け止めた時に態勢を崩したようだが、それでも僕を離さなかったようだ。兄さんは、僕の頭をしっかり自分の肩に押し付けながら、何度も僕の頭を撫でて、良かった良かったと繰り返していた。

 僕は何が起きたのか分からずに、暫くポカンとしていた。

 僕の意識は、上がった歓声によって引き戻される。

「気の弱い学者先生かと思っていたが、なかなかやるじゃないか」

 船乗り達から、そんなふうな誉め言葉が上がる。先生が、マストから降りて来たのだ。

「私だって怖い。実際、自分のしたことを考えるとほら、足が震えています。それでも目の前で苦しんでいる人を放っておくなど、出来ないでしょう?」

 先生は裸足になるだけでなく、ズボンの裾をまくって脛を出していた。先生は、一旦言葉を止めて悪戯っぽく笑われた。

「それに御忠告通り、周りは見ませんでしたからね」

 船乗り達は、まるで十年来の仲間のように、親しげに先生の背中や肩を叩いて、健闘を祝福している。  ジョゼが僕を赤ん坊だと馬鹿にしていたように、船乗り達も最初は先生を馬鹿にしていたのかも知れない。それは、先生の立派な態度を見て吹き飛んだのだろう。

 しかし僕は・・・。

 兄さんは、先生に気付くと深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。あなたのお陰で、弟は無事でした」

 先生は、自分のしたことを少しも立派だと思っておられない様子で、仰った。

「いいえ。受け止めたのが、お兄さんのあなただからですよ。受け止める人が信頼出来る人だからこそ、出来たことですよ」

 兄さんは、僕を抱いたまま立ち上がると、

「俺は、兄貴だから当り前です。他人のあなたが、弟の為にすぐに駆け付けてくれるなんて、弟は本当に恵まれています。本当に立派な方で、俺も安心して弟を預けられます。母に代わって、お礼を言います。弟を選んで下さってありがとうと」

 と、言った。僕は恥ずかしさと悔しさで一杯で、兄さんの肩から顔が離せなかった。先生は、兄の言葉を素直に受け取ったようだ。何喰わぬ顔をして、いつの間にか降りて来ていたジョゼが吐き捨てる。

「やっぱり赤ん坊じゃないか」

 僕は何も言い返せなくて、兄さんに抱き付くと鼻を啜って泣き始める。船員達は僕が本当に赤ちゃんだと思ったのか、慰めるように、最初は誰でもそんなものだと言う。

「港で繋がれている船のマストを遊び場にしているような奴でも、海の真ん中で初めてマストに登った時は足が竦んじまうもんだ。お前はどうだったか知らないがな」

 皮肉っぽく言われてもジョゼは動じずに、言い返した。

「オレは、あんな泣き虫とは違うよ」

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