船舶ラヂオ 2
「先生、この赤い針が動いてるんです。ずっと付けっ放しにしていたから、電池切れが近いって印なんでしょうか?」
飾りかと思っていた赤い針が、いつの間にか半円を描いて、もう少しで振り切れそうになっていた。先生は僕が示した針を見ると、興奮した様子で言われる。
「ああ、これこそ船舶ラヂオです。お兄さんの船が近いと言う証拠ですよ」
僕は訳が分からなくて、
「兄の船、ですか?」と、聞く。
窓の右側に着いていたランプが、チカチカと赤く瞬き出す。僕は、やっぱり電池切れだと思っていた。ランプの明滅が激しくなり、先生が、さぁ船が来ますよと、僕の肘に手を置かれた。
そして、船は本当に来たのだ。霧を割って突き出たのは、確かに船の舳だった。それも大きな木造船だ。僕は思わず後ろに下がりそうになるが、先生が僕の肘を掴んだので、下がることは出来なかった。
船首には、金色の船首像が着いていた。船首像は綺麗な女の人だが、下半身は魚の尾鰭だった。
人魚――ううん、セイレェンだ。
そう思った時には、僕の足元には甲板が広がっていて、頭上には晴れ渡った空が広がっていた。先生の手が相変わらず僕の肘に触れていたので、先生がすぐ側にいるのは分かった。僕は茫然として、これは?とだけ呟く。
その時「甲板にいるのは誰だ」と叫ぶ、大きな声が聞こえた。僕は驚いて、キョロキョロと辺りを見渡す。帆柱の側に立っている男の人が、目を丸くして僕と先生を見ていた。
男の人の叫び声を聞いて、甲板のあちらこちらに人の姿が現れる。男の人達は、誰がどう見たって船乗りだし、僕と先生がいるのもどう見ても船の上だった。
船乗り達はザワザワとどよめきながら、僕達の方に近付いて来る。僕は怯気付くが、先生が安心するようにと、僕の肩を抱いて下さった。ヒゲだらけで海賊みたいないかつい男の人が、僕らを胡散臭そうに眺めて、
「その形で、密航者ってことはありえねぇよな」
と、最初に言った。先生は、僕が抱えていたラヂオを示しながら、
「船舶ラヂオのお導きです」
と、いつもと変わらぬ穏やかな声で言われた。僕らをとり囲みつつあった人の群れから、驚いた声が幾つも上がる。少し離れた所からも、素っ頓狂な声で、
「船舶ラヂオだって?」
と、言うのが聞こえた。しかも声は続けて、
「それはうちの弟だ」
と叫ぶなり、甲板を走って来た。
「ラジニ」
僕は、目を丸くする。
「兄さん?」
集まっていた人を掻き分けて僕の側に来た若い男の人は、会いたかったぞと言うなり、僕を抱え上げた。僕は焦って、言う。
「わっ、止めてよ。僕はもう、赤ん坊じゃないんだよ」
それは確かに、クレイブ兄さんらしい。僕も背が伸びたけれど、僕と兄さんの差は少しも縮まっていない。兄さんの顎や鼻の下には、疎らにヒゲが生えているが、完全にはまだ生え揃っていない。兄さんは僕の抗議には耳を貸さず、僕を胸に抱え上げたまま、僕を微笑みながら見つめた。
「大きくなったなぁ。それに立派になった。いつもボウッとしていて、夢でも見ていたようなお前がなぁ。時々は口も開けたままボウッとしていて、俺はこんなので大丈夫か心配していたもんだよ」
船乗り達から、クスクスと笑い声が起きる。僕は真っ赤になって、兄さんのシャツに包まれた肩を打ち据えた。服の上からでも、兄さんの肩の筋肉が発達しているのが分かる。
「そんなことしてないよ。一体いつの話」
兄さんの船乗り仲間達から、口々に声が上がる。
「クレイブの弟は思えない程、素直そうなチビじゃないか」
「クレイブ。お前のうっかりだって相当なもんだぜ」
「いやはや、全く。こんな立派な紳士方を迎えてこそ、クインの名にも恥じないと言うものさ」
誰も僕達がいること自体を不思議だとは思っていない。仕事仲間の家族を船に迎えて、ごく普通に歓迎しているのと変わらない。
騒ぎの間に、船室から白髪の混じった威厳に溢れた人が呼ばれてきた。他の人達はその人が近付くと、自然と道を開けた。
「クレイブ。船舶ラヂオを貰ったって言ってたけど、本物だったんだな。どれ坊や、そいつを、おじちゃんに見せてくれるかい?」
兄さんは、やっと僕を甲板に下ろしながら、
「彼こそが我等が英雄。クインセイレン号の船長だ」
と、その人のことを紹介した。言われなくても、その人が身に付けている風格から、船長だと言うことが分かる。顔の皴を刻んだのは海風で、口の周りのヒゲの白い毛を染めたのは海水だと言い切れるような、海の男だ。
日に焼けた肌は砥めし革のようで、差し出された手の平は、グロォブのように瘤があり固そうだ。僕は船長に敬意を表して、ラヂオを捧げるように差し出しながら、頭を下げる。
「こんにちは。いつも兄がお世話になっています」
船長はチラリと兄さんを見上げ(僕からラヂオを受けとるのに中腰になっていたから)からかうように、
「クレイブ。お前貰われっ子だったんじゃねぇのか」
と、言った。兄さんは、小さく肩を竦める。
「寄宿舎に追いやられたすぐ下の弟二人は、手の着けられない悪ガキですよ。後二人の弟は、俺が家を出た頃は母親べったりの幼児と赤ん坊でしたから、性格までは分かりませんけどね」
船長は僕からラヂオを受けとった後、一回僕の頭を大きな手で鷲掴みにするように撫でた。がっしりした手は、撫でられたと言うより小突かれたような感触を与えてくる。
僕は頭が大きく左に揺すられて、乱暴だなぁと心の中でだけ口を尖らせる。今度は、兄さんの手が僕の頭の上に置かれた。兄さんは先生に向かう。
「あなたが、ラジニと旅をしている方ですね。母から聞きました。弟がお世話になっているようで、あなたのお陰で、弟もしっかりしてきたようです」
兄さんが僕の頭を撫でたので、僕の頭は今度は右に振られた。聞いたと言うことは、手紙と言うことはなさそうだ。先生は、兄の言葉に笑みを湛えたまま、言葉を返す。
「お世話になっているのは、私の方ですよ。いつもボウッとして夢ばかり見ている私の側にいては、しっかり者にならざるを得ないのでしょう」
確かに時々、先生は放っておけないことがある。僕がしっかりしなければと思うことはあるのは本当だけれど、だからと言って先生が人としてだらしないとかそう言うことではない。僕は心配になって、弁護する。
「先生は、言葉に出来ないぐらい素晴らしい人なんだよ」
「ああ、そうだろうとも」
兄さんは笑って、言った。船長は黙ってラヂオをひっくり返したり、耳を近付けたりしていたが、ようやく気が済んだらしく、これが船舶ラヂオかと呟いた。船長は、ラヂオを近くにいた男に差し出し掛けながら、言う。
「せっかくだから、物の話にみんなも良く見せておいて貰え。見習いでも何でも、見たい奴にはみんな見せてやれ。勿論丁寧に扱うんだぞ」
その後で船長は僕に向かって、構わんか坊主?と聞いてきた。僕は、はいと返事をする。船長は僕の返事を聞いてから、ラヂオからは手を放した。
「俺は前にも一度、船舶ラヂオを持った人間が船に現れるのは見たことがある。その時はまだ小僧だったんで、こうして近くでは、見せて貰えなかったがな」
船長はそう言って、顎を手でさすった。平の船乗りの手に渡ったラヂオには、他の人達も群がるようにして覗き込み始めた。僕は、それを視線の端で捉えながら、船長に向かって聞いた。
「そのラヂオって、一体何なんですか」
船長は、僅かに目を見開く。
「坊主。船乗りの兄貴がいるってのに、船舶ラヂオの話を知らないのか?」
僕は上目遣いで兄さんを見ながら、
「兄さんはクリスマス休暇に帰って来ないどころか、カァドまで忘れるから」
と、当て付けがましく言う。今となっては先生は、どうやらこの展開を読んでいた気がする。教えてくれなかった先生を恨むより前に、船舶ラヂオを送って寄越した兄さんが、説明を書いておいてくれるのが筋だろう。僕の言葉に船長は笑いながら、
「こいつならやり兼ねん」
と、応じた。兄さんは困った顔になると、短髪に後ろ髪だけ伸びるままになっている頭を掻いて、言い訳した。
「カァドを送るのを、忘れた訳じゃないんだよ」
僕は、我ながら子供っぽいとは思うけれど、どうしてもこだわりを捨てられなくて、
「じゃあ、クリスマスを忘れたの?」
と、突樫貪に言う。兄さんは、更に情け無い顔になる。
「宛名を書き忘れたんだ。休暇と言っても、嵐や時化・凪にあったりすると、休暇に入っても海の上で身動きとれないってことが良くあるんだ。そうやってやっと港に帰って来て、協会の受付に行ってみれば、宛先不明でカァドが戻って来ていたと言う訳なんだ」




