漂流博物館 5*挿し絵付き
僕はその時、座っている僕の腰の高さに掛けられた一つの絵に気付いた。僕は前屈みになって、額縁に付けられたタイトルを読もうとして驚いた。
「あっ、これって。博物館館長肖像画。あれ、この人って誰かに」
博物館館長肖像画と銘打たれた絵には、中年の男の人の上半身が描かれていた。燕尾服に蝶ネクタイをして、口元には焦げ茶色の口髭を貯えている。
僕には、そのピンとした姿勢や、浮かべているとり澄ましたような表情に、見覚えがあるような気がした。先生も絵を覗き込むようにすると、にっこり微笑まれた。
「勿論、これは、あの人ですよ」
僕はそれで、あの燕尾服を着た初老の男性が、ここに描かれている男性と同一人物であることに気が付いた。
博物館館長!
「先生、もしかして、分かっておられたんですか?」
先生は、僕と違って驚いていなかった。
「ええ、まあ、そうではないかと思っていただけなんですが」
先生は、僅かに笑われた。そう考えてみれば、思い当たる節もある。
僕は館長に向かって、知らずに飲み物を配膳したり、礼を言っておいてくれと頼んだりしたのである。最初に男の人は、自分も観覧者の一人に過ぎないと言ったではないか。
もしかしたら館長としてではなく、博物館の物を愛する一観覧者として、今日は過ごすつもりだったのかも知れない。しかし、人が悪い。今からでも遅くない。非礼を謝って、お菓子のお礼を言うべきだろう。
しかしその時には先生は、絵の方に注意が削がれていた。僕も、先生が夢中になっている絵を見て、その理由に合点がいった。
いつの間にかその辺りの壁の絵は、みな何処かで見たことのある光景に変わっていた。絵の中に描かれた沢山の額縁、そして絵。書架のあるアルコォブ、蝶の標本箱、それにガラスケェスに陳列された古代の土器。僕と先生は、喰い入るように絵を眺めていった。僕の見覚えのない場所も、沢山あった。
高い天井の部屋の中の、ティラノサウルスの骨格。硝子の屋根と壁のテラスのベンチとテェブル。高い梯子の着いた書架や、大きな読書台に乗せられた古い聖書。僕と先生は、この博物館の一部すら見ていないに違いない。
そして全ての扉が閉じたロビィの絵の横に、また何処かで見たことのある絵があった。
「博物館の正面だ」
僕は思わず、声に出して言っていた。初めに僕と先生が見た通りの、木立の中に立つ小さな洋館の絵だった。絵の中の扉も開いていて、看板の文字は全て見ることが出来ない。本当の名前は、誰も知らない博物館。
僕は出る時に必ず扉を動かして、看板の文字を読んでいこうと決めた。絵は、博物館の建物を描いた物を最後に終わっていた。その後の壁には絵が掛けられていない。僕はそれを不思議に思ったが、その時吸い込まれるように建物の絵を見ていた先生が、驚いた声を出したので、僕の注意もそちらに移った。
先生は、木がと仰る。木がどうしたのだろうと僕が思って絵を見ると、何と絵の中の木が、風でもあるように揺れていた。
僕は絵の中に吸い込まれるような、絵がグングン大きくなるような奇妙な感じがした。
とにかく絵が僕に近付いてきて、目の中一杯に広がったのは確かだ。僕が最後に覚えているのは、博物館の扉が、僕を締め出すようにパタリと閉じたことだった。
僕は扉が閉じた瞬間、看板の隠されていた部分を見た。
「ムス、ゴルエ?」
僕は首を捻って、そう呟いた。言葉にはまだ続きがあって、ムスゴルエ、何々館物博となる。しかし僕が看板を見られたのはほんの一瞬のことで、続きの言葉を読んでいる暇はなかった。
気が付けば先生と僕は、薄い緑色のカァペットを敷いた部屋の中ではなく、落ち葉の積もった林の中に立っていた。
そこは僕と先生が、木洩れ日に誘われて道を逸れた、あの林の中のようだった。しかし僕の目の前には、あの小さな洋館の姿はない。
僕は、辺りをキョロキョロと見回した。太陽の様子を見ると、建物の中に入ってから、それ程の時間が経過しているようには見えない。僕は、何処にもあの博物館の姿が見あたらないことに、途方に暮れてしまった。
「先生、博物館は?」
先生は、残念そうな面持ちで、言われる。
「また、時と場所を、漂流して行ってしまったのですよ」
その言葉でようやく僕は、漂流博物館と言う名称に納得がいった。しかし狐に騙されたか、白昼夢でも見ていたみたいだ。先生は如何にも残念そうにされる。
「ふぅむ。またいつか、何処かで会えるかも知れませんが、それまでは名前を知るのはお預けのようですね。これでは、分からないのも無理はない。帰り際に、絶対に看板を確かめて行こうと思っていたのですがね」
先生も、僕と同じことを考えていたのだ。
「今度は、入る前に、見て行くことにしましょう」
先生は、子供のようにムキになってそう言われた。僕は、最後にチラリと見えた看板の文字のことを考えていた。僕が難しい顔をしているのに気付くと、先生は、
「もう嫌ですか?」
と、聞いてこられた。僕は慌てて首を振ると、顔を上げて、
「多分、博物館、何々エルゴ、スムだと思います」
先生は、見えたのですねと驚いた顔をした後、僕に確かめた。
「コギト・エルゴ・スムとあったのですか?」
コギト・エルゴ・スム。まるで、魔法の言葉みたいだ。
「最後まで読めなかったんですが、エルゴスムは確かです。それって何なのですか?」
「コギト・エルゴ・スム.我思う故に我あり。ラテン語ですよ」
先生は、にっこりと笑ってそう言った後、その考えにとり憑かれたようだ。
「ふぅむ。そんな名前を博物館に付けるとは、やはり、意味深長ですね。自己の認識が確立されて初めて、自分と言うものも確立される。だからこそ、人とは思惟をして初めて人となると言える。つまり、人とは意識の塊だ。と言うことは、どう言うことでしょうね。全てが人間の脳内活動に過ぎない。見たり聞いたりしたものを認識し、自分自身を認識するのも、それは全て脳の役目だ。博物館も、脳の産物に過ぎない。確かに博物館も展示品もみな、この幻想第四次空間でしか存在出来ない幻に過ぎない。しかしコギト、エルゴ、スム。考えれば、想像すればこそ、それは存在する、そんな思いが込められているのかも、知れませんね。今度、館長に直々に尋ねてみましょうか」
先生は、ブツブツと独り言を言った後、自分の考えに満足したように、にっこりと微笑まれた。
〈我思う故に我あり〉もし僕が考えることが出来なかったら、僕と世界の違いも分からなかったのだろう。
僕がいて初めて、僕ではない世界、他人が存在するからだ。だから僕と言う意識があって初めて、違いが分かるのだろう。でも、僕って誰だろう。ここで、こうして、先生と旅をしている僕とは何者なのだろう。
僕は・・・僕だ。先生が先生であるように、僕は僕でしかない。
漂流博物館は、これからもきっと何処かの街角に、何処かの木々の間に、地面から湧いて出たか、空から降ってきたかのように現れるに違いない。
僕の知ってる町にも、知らない街にも、もしかしたら君の街にも。
もし漂流博物館を見つけたなら、標本や、古代の遺物、本や絵の中で、迷子になってみるのもいいかも知れない。幻にとり込まれるのではなく、うまく付き合いながら・・・。
それと、気になることがもう一つ。あのお婆さんが、もし珈琲を飲んだらどうなるだろう。館長の仕業だと勘違いして、怒るだろうか。あの後どうなったのか、誰か分かった人がいたら、僕に教えてくれないだろうか。
久しぶりに、悪戯をした気分だ。成功したのか失敗したのか、気になるのは当然だろう。
もし君が、漂流博物館を訪れる機会があったなら、館長にでも聞いてくれるといい。




