漂流博物館 4
僕は本を返すと、椅子を立って本棚を見て回った。先生が、先程見ていた本を見ようと思っていたが、その本棚には、もう『銀河鉄道の夜』と言うタイトルの本も、同じ作者の物らしい青い装丁の本も見つけられなかった。
それを言えば他の本も同じで、いつの間にか別の本になっているのだった。僕は、テェブルからお菓子を摘んだり、気に入った本があると、椅子に座って読んだりした。
ハッと気付くと、結構な時間が経っていそうだったが、僕は時計は持っていないし、この博物館に入ってから、一度も時計は見た覚えはない。
先生も男の人も、中して本を読んでいるけれど、僕は集中力がなくて、注意力も散漫だ。そう言えば母さんには、小さい頃から僕は飽きっぽい珍しい子だから、他の兄弟達とは違う生き方をするようになるんじゃないかと言われていた。
確かにその通りだ。僕は先生と旅をして、目移りするぐらい目まぐるしく様々な物を見て、いつも新しい気持ちで、日々を過ごすことが出来る。それもこれも僕を助手にしてくれた、先生のお陰だ。
先生も男の人も本に夢中で、何も飲んだり食べたりしていない。僕なら夢中になっていても、食べたり飲んだりするのは忘れないけどな。
僕はふと思い付くと、伏せて置いてあるマグカップを二つとって、インスタントの粉末珈琲を入れ、ポットからお湯を注いだ。僕が食べた所為で空きの出来たトレェに、マグカップを載せて落とさないようシズシズと運ぶ。
「如何ですか?」
そう言って僕は、先生にトレェを差し出した。
「おや。有難うございます」
先生は本を置くと、マグカップと棒状のクッキィを一本とった。本は、もう残り数頁だった。僕は今度は、そのトレェを男の人にも差し出した。男の人は驚いたようで、目をぱちくりさせた。
そして男の人は狼狽した様子で、何か口の中でモゴモゴと呟いていた。まさか人から給仕されるとはなどと言いながらも、男の人はマグカップだけは受けとった。僕は先生に、何の本を読んでいたのか尋ねてみた。
「シリィズ物のミステリです。以前に二冊読んだんですが、これは三冊目なのです。この作家は、この三冊目の途中で筆を折ってしまって、三冊目はついに日の目を見ることがなかったのです。ここにならあると思っていたんですが、やはり置いてありました」
僕は、成程と思った。そう言う場合もあるのだ。僕は重ねて、
「面白いですか?」
と、聞いてみた。先生は、ううんと歯切れの悪い声を出した。先生は、とても正直だ。
「まあまあですね。私は、二巻が一番面白かったと思いますから。それを越える作品を物せなかった為に、三冊目は断念したのかも知れませんね。これはこれでいいと思うんですが。やはり作家たるもの、妥協は出来ないのでしょうね。それでも、ここにこうしてあってくれて良かった」
先生は、優しい眼差しを本にも向けた。僕は、もう一つ先生にクッキィを勧めて、トレェをテェブルに戻しに行った。そして僕は、テェブルを元のアルコォブの中に戻すと、最後の一つのマグカップをとり上げ、新たに珈琲を淹れた。そして、そのカップをお婆さんの前に置いて上げた。先生は珈琲を飲みながら、残りの頁は読み終えた。
先生は珈琲も飲み干すと、そろそろ次へ行きましょうかと僕に言って、立ち上がった。
「すっかり長居ををしてしまった」
先生の言う通りだ。博物館の中に窓はなく、外の日の動きが分からない。もう辺りは暗くなっているのではないか。まだ今夜の宿は決まっていない。宿がすぐに決まるといいのだがと、僕は思った。先生の言葉に男の人が、短く、
「大丈夫ですよ」と、言った。
「そうですか。そう言うものなのですか」
先生は、男の人の言葉を聞くと安心したようだ。もう時間のことは、何も言わなかった。先生は、使用済みのカップを、自分でテェブルの汚れ物入れのカゴに入れた。お婆さんの前に置かれたカップを見ると先生は、とても優しく僕に微笑みかけて下さった。
僕も、ミルクを飲み終えたグラスを、カゴに入れる。汚れ物の片付けと、食べ物の補給は誰がするのだろう。勿論、博物館の人だろうが、僕はまだ見ていない。有難うを言いたいのに。男の人が、悪戯っぽい目で僕を見つめながら、
「坊やにも、少しは満足してもらえたかな」
と、聞いてきた。僕が、考古学展示室で怯じ気付いてしまったのを見ているので、からかっているのだろう。僕は、喉元過ぎればで、また来たいですと言っていた。言った後で慌てて、
「あっ、えっと、つまり、一時間程本を読んで、お菓子を色々食べられるなら」
と、付け加えた。肝試しに、一人で見て回れるかなどと言われてはたまらない。男の人も先生も、僕の言葉を聞くと楽しそうに笑った。男の人は、まるで嬉しそうな顔を隠すように、わざと素っ気ないふりで、
「またお会い出来る日を、楽しみにしていますよ。また、ここで会えるとは限りませんが」
やはり、この男の人の言うことは、僕にはよく分からない。先生と男の人は別れ際に握手をした。男の人が僕にも手を差し出してくれたので、その時に僕は、
「もし博物館の人に会ったら、僕からですって、お菓子と飲み物御馳走様でした、おいしかったですと伝えておいてくれませんか」
と、言ってみた。男の人は喜んでと言って、僕に宮廷風のあの御辞儀をしてくれた。
僕と先生は、まだ読みたい本が何冊もあると言う男の人と別れて、残りの部屋を見て行くことにした。
最後にチラリとアルコォブを見たが、女の人はまるで置き物のように身動ぎせずに、本を読んでいた。動くのは、目の玉と頁を繰る指だけだ。
僕は冷めていく珈琲や、女の人が飲み物を飲んだ時のことは、努めて考えないようにした。
僕と先生は、最後の絵画展示室に入った。壁には額縁に入った大小様々な絵が掛けてあって、壁紙が殆ど見えないぐらいだった。この部屋を、僕も先生も一番楽しんだ。絵画は、シュウルレアリスム作品が多く、何が何だか分からなかった。
僕と先生は、勝手に色々な評価をした。小さい作品は葉書大から大きい物は、二十メートル近くもある物まで、部屋は作品に合わせて伸びたり縮んだりするが、ここでも出入口が分からなくなることはなかった。
僕が、迷いたくないと気をしっかり持っている所為だろう。建物の中でも、絵の中でも、迷子になりたくない。
それでも当てもない旅をしている僕と先生は、旅人と言うより、永遠の時の迷い人なのかも知れない。迷子になるなら、先生と一緒の方がいい。先生が一緒なら、僕は何処で迷子になっても平気だった。
額縁の一つ一つも凝っていて、木製の細かい彫り物をした物以外に、金や宝石を使った物もあった。勿論メインは絵で、額縁はその絵を引き立たせる為の物でしかない。様々な有名無名の画家の手になる沢山の絵があったが、僕は一人、気に入った画家がいた。
その画家の絵の中でも、最も僕が印象に残ったのは、十号程のカメの絵だった。画面の前面には、地面の落ち葉の上で、埋もれまいと必死で足を踏ん張っているカメが描かれている。
顔は黒っぽく、頭には白い筋の、口の横から首筋に黄色の点々の模様がある。そのカメの、踏み出した右足には爪がついているのも見える。カメは、まるで画面の外に出ようとしているみたいに、躍動感があった。
何よりも僕がその絵に引かれたのは、カメの黒い甲羅から、巨大なヒマラヤ杉が、天を突くように生えている為だった。写真を撮る時の要領から言えば、ヒマラヤ杉の前にいるカメをアップで、木を見上げるように撮った物に違いない。
しかし構図の所為で、小さい筈のカメが、杉の巨木を甲羅に背負っているように見えるのだ。タイトルもずばり、〈背負う〉だった。他の分かりにくい作品の中で、その作家の絵もタイトルもとても分かり易い。分かり易いながら、とても深い意味が感じられる。
ほんの少し違った角度から見ると、世界はこんなに面白いのだと言っているようだ。当り前の物を描きながら、非現実的な空間を作り出す、それこそ、超現実主義だろう。
同じ画家の絵に、夕日と、沈む太陽に染まる夕焼け雲を描いた物もあった。眩しい光の球体は、ほんの僅かに下部が雲に隠れている。雲だけでなく大気も、黄色やオレンジのグラデェションに染まっている。その、美しいが、誰でも一度は目にするであろう夕焼けの景色を背景に、ポツンとコップが描いてある。
空にフランスパンとグラスが浮いている絵を描いたのは、ルネ=マグリットだ。マグリットも、超現実主義画家なので、もしかしたらマグリットに影響されて描いた物かも知れない。しかしマグリットよりも、僕にはこちらの絵の方が親しみが湧いた。
タイトルは〈サンセットドリンク〉。ちょうどアイスかフルウツのように、コップに夕日が浮かんでいるように配置されていて、まさに夕焼け空と雲は、オレンジ色の飲み物のようだ。
僕は、その絵を眺めながら、どんな味がするのだろうと、ずっと考えていた。
そう思うと何か口にしたくなってくるものだが、お誂え向きにもその展示室にも喫茶スペェスが設けられていた。ここは凹室ではなく、部屋の端に椅子とテェブルが置いてあり、美術館のお洒落なカフェのようだった。
もしかしたら一つ一つの部屋に付き、違った菓子と飲み物が用意されているのかも知れない。僕は、標本室と考古学室の喫茶スペェスを見ていないが、絵画展示室には、紅茶とマドレェヌが置いてあった。
僕と先生は、絵を眺めながら、そこでもお茶にした。
「こんなにおいしいお菓子もあるのに、あの人は、食べても気付かないんだろうか」
僕は、手作りらしいしっとりしたマドレェヌを食べていると、ふとそんな言葉が口を突いて出た。先生は、無言で僕に言葉を促すように、僕を見た。
僕は思っていたことを全て、先生に向けて言ってみた。
「物語や夢も幻も素敵だけれど、現実の一瞬一瞬が、僕には掛けがえのない素敵な物に思えます。現実ではなく物語の中にだけ生きてるなんて、何だかとても勿体無いような気がします。あの人、何だか可愛そうです。あの人には、あの部屋があっては駄目なんじゃないでしょうか?」
先生は、僕の言葉が終わっても、すぐには何も言わなかった。先生は僕の言葉を真剣に受け止めて、真剣に答えを返す為に考えているのだ。先生は、やがて語るに足る言葉を見つけられたようだ。先生は、静かな口調で仰る。
「それでも、あの部屋にいる時、彼女は幸せに違いないでしょう」
先生の言葉に納得してしまった僕は、それ以上何も言えなくなった。しかし、すぐに僕はハッとなると、慌てて先生に言った。
「だったら僕、余計なことをしたかも知れません。僕があの人に上げた珈琲、凄く濃い珈琲にしたんです。苦くて濃い珈琲を飲めば、目が覚めると思ったんですが」
僕は、途方に暮れて先生を見た。先生は僕の言葉を聞くと、目をぱちくりされた。
そして先生は、珍しく声に出して、お腹を抱えるようにして笑い出された。僕は、バツが悪くなる。先生はとても楽しそうに笑った後、
「とんだ悪戯だと、思うかも知れませんね」
と、悪戯っぽく仰った。僕は、途端に落ち着かなくなる。
「どうしましょう。今すぐ戻って、下げておきましょうか?」
先生はそれに首を振ると、あの女の人を脳裏に思い浮かべているのか、遠くを見る目付きになられた。
「いえいえ、現実は苦いものですよ」
それで、この話は終わりになった。




