鉄製蔓薔薇飼育
先生は、ホテル〈西海岸〉に、連日泊まり込んでいる。
論文の締め切りが、迫っているのだ。先生は、論文の執筆の合間に気分を変える為、一人でお出かけになるぐらいで、後は部屋にこもりっきりだった。
出かける先は、〈ロッテルハイム〉と決まっているので、僕は留守番をしている。先生も、僕がバァに入るのは、あまり好まない。〈ロッテルハイム〉には、二度程足を踏み入れたことがあるだけだ。その時は大人になったようで、僕は胸がドキドキしたものだった。
店の中に漂う煙草の煙、蓄音機から流れる異国の甘い調べ、騒がしくはない程度の朗らかな人々のざわめき。
先生は、バァでは薄荷煙草を吸い、麦酒を一杯だけ召し上がる。僕は、肉詰めパイとジンジャアエェルを戴いた。肉汁たっぷりの肉詰めパイの味を思い出すと、僕は涎が出そうになる。
それでも、論文を書くリフレッシュに店に行く先生の邪魔をしようとは、僕は思わない。先生に、助手を馘首にされてはたまらない。勿論心優しい先生が、そんなことをする筈がないことは分かりきっているが。
先生が論文を書いている時に、お茶を入れるぐらいしか、先生の為に僕ができることはない。僕は、ホテルの辺りの地理には詳しくないので、先生なしでは出かけることもままならなかった。
僕は、これまでに集めた岩石や化石を分類して標本を作ったり、日記をつけたりして時間を潰している。
食事は、ホテル側の好意で、三食ともに用意してもらっていた。先生は、一旦物事に集中すると、食事だって忘れてしまう。ホテルの中にあるレストランに行くことさえ億劫がられるのだった。
ホテル側の好意は、先生の健康管理にも気を配らなければならない僕には、願ってもないことだ。それもこれも、先生の人柄と、そのご高名のお陰だと言うことは分かっている。僕らの食事は、ホテルの従業員である赤毛の娘が、世話してくれている。
料理は、ホテル内のレストランとは別に調理してくれていた。それは有り難いことではあるのだが、彼女はなぜか僕がポリッジが好きだと思い込んでいるようであった。
僕は、必ずついてくるポリッジに少しばかり辟易としている。勿論、先生にだって、そんなこと話さなかったけれど・・・。
そんなある日、先生は〈ロッテルハイム〉からの帰りに、おかしな露店を見つけたと意気揚々として帰ってこられた。
何か興味のあることを見つけた時の先生は、こう言っては何だが、まるで小さな子供のようになられる。先生が露店で手に入れたのは、蔓薔薇の苗だった。
蔓薔薇ならば珍しくもないだろうが、それは鉄製植物だった。露店の店主からいい値段で買ったそれを、先生は早速陶器の小振りの鉢に植えた。先生は、蔓薔薇が育ったら、傘立てにしようと張りきっておられる。
それから数日、先生は熱心に蔓薔薇の世話をされていた。先生は自ら、露店の店主に言われた通り、日に三度、鉄分入りのタブレットを溶かしたお湯をやっておられた。
窓辺で月の光を当て、朝には暗所に入れてやる。そうすると、堅くてしなやかに曲がる植物に成長すると言う。鉄製蔓薔薇の成長は早かった。
先生は、その珍しい植物をすっかり気に入られて、観察にも余念がなかった。スケッチをし、メモをとっておられたが、論文のことは、一時、先生の頭から飛んでしまったことは否めなかった。
先生は、傘立てに余ったら、蔓薔薇を僕にもわけてくれると仰られた。僕は、拾った鍵にでも巻きつけようと考えていたのだが、そううまくはいかない。
どうしてかと言うと、先生が論文の締め切りが間近に迫っていたことを思い出して、蔓薔薇のことを忘れてしまったのが原因だった。先生は、窓辺に鉢を出したままで、執筆に勤しんでおられる間に、蔓薔薇は、窓枠に完全に絡まって、窓枠の一部になってしまっていたのだ。
蔓薔薇は黒い花を幾つも咲かせて、窓の硝子にまではびこっていた。ちょうど格子のようになっていて、とり外すことはできない。
ホテルの店主は、なかなか面白い趣向だと言って、先生の失敗にも目を瞑ってくれた。
僕も、ちょっと惜しかったと思う。
蔓薔薇のレリィフのついた硝子窓は、とってもお洒落だったから。
先生は、今度こそ蔓薔薇を傘立てに育てて見せると仰っておられるが、鉄製蔓薔薇を扱っている露店は、なかなか見つからない。
もしかしたら、いつか何処かで出合うかも知れない。
先生と僕は、幻想第四次空間を、彷徨い続ける旅人なのだから。