漂流博物館 2
先生は、初めと同じ言葉で締め括った。僕と先生の背後で、人の声が響き渡ったのは、その時だ。
「他にも、描かれなかった絵、書かれなかった書物も、当博物館の貴重な資産です」
僕と先生は、驚いて同時に振り返った。振り返った先には、初老の如何にも上品な紳士が立っていた。
男の人は、古めかしいスタイルの燕尾服を着て、見事な白髪と口髭を貯えていた。僕は、気配に気付かなかったのに驚いて、思わず不躾にも、
「誰です?」
と、言っていた。その老人は、気どった仕草で鼻の下の髭に触れながら、答えた。
「君達と御同様、この博物館の観覧者ですが」
男の言い方は、少し鼻に付くようだったし、口調も木で鼻を括ったように僕には感じられた。但し僕の不作法な物言いに対して、不愉快に思ってそんな口調になったのかも知れない。
「この博物館に就いて、懸命に説明されているのにつられて、つい口を出してしまいました。口を出したついでに、展示室にはそれぞれ、喫茶スペェスが設けられていることも言っておきましょうか。そこに用意されている食べ物、飲み物はお代わり自由となっています。もう少し行けば、喫茶スペェスですから」
男の言葉を聞いた僕は嬉しくなった後、心配になった。博物館も無料で、更に無料のお茶のサァビスまでしては、採算がとれるどころか、赤字の積み重ねである。この博物館は、個人によるものではないのだろうか。
それともこの博物館の主催者は、巨万の富を持った億万長者なのだろうか。こんなスゴイ博物館を無償で人々に解放し、剰え食べ物や飲み物まで振る舞う厚意に、僕は人事ながら、そこまでして大丈夫なのかと不安になったのだった。凡人に過ぎない僕は思わず口に出して、
「採算がとれないでしょうに。大変ですね」
と、言ってしまっていた。それを聞くと、先生と男の人が異口同音に声を合わせる。
「最高の趣味」
二人は、驚いたように顔を見合わせた。言葉はどちらも続くような感じだったが、男の人の方が、目だけで先生に続きの言葉を催促した。譲られた先生が微笑むと、そのまま僕に向かって、
「最高の贅沢ですよ」
と、仰った。男の人は、その先生の言葉に尤もだと言うように、うんうんと頷いている。そして男の人は「まっ、道楽とも言いますがね」と、呟いた。僕のような物を知らない子供からすると、先生や男の人の言葉は、ふぅん、そう言うものなのかと言う感じだった。
「いきなり口を挟んで申し訳ない。また後でお目に掛かりましょう。いつ頃の後になるかは分かりませんが」
僕は、男の持って回ったような言い方に、きょとんとする。僕には先ほどの先生の言葉もだったが、今のこの男の言葉もよく分からなかった。先生には、分かったのだろうか。先生は、
「私達が御一緒しては、迷惑になりますか」
と、困ったような顔で、その年のいった男に尋ねられた。男が、大袈裟な身振りで手を振る。
「僕は今日は、読みかけの本の続きを読むつもりで来ているんです。君達の話声を聞きつけて、この展示室にノコノコと入って来ただけのこと。僕は書籍の展示室にいますから、そこでお会いしましょうと言うのですよ。そちらは、全て見て回るつもりでしょう? だったら少なく見ても、十日は会えないと言うことになるでしょう」
僕には、また訳が分からなくなってきた。しかし先生は分かっているようで、ほうと感心したような声を上げられる。
「やはり、それだけ、掛かりますか?」
男は、それに勿体ぶった調子で頷く。
「調べ物が目的でしたら、やはり数ケ月は掛かるでしょうし。目的があるならば、まあ数日で。チラリと見るだけなら数時間でしょう」
僕には、何が何だかさっぱりだ。四つの部屋全てを、隅から隅まで見たって、数時間も掛かるとは思えない。この部屋だって、入口から奥まで歩いても、せいぜい十数メートルだ。
そう思って顔を上げた僕は、あれと声を上げた。
「全部見て回りたいのは山々ですが、一度に見てしまうと、いい加減飽きてしまうでしょう。私は、考古学の専門ではありませんしね」
そして先生は顔を上げると、終わりの見えない、何処までも続くショウケェスを見た。
そう。部屋はいつの間にか、無限の奥行きを持っていた。振り返ると、少し後ろにあった筈の入口もなく、背後にも終わらない陳列ケェスの列があった。
僕は怖くなって、先生のスゥツの裾を握り締め、先生に身体を寄せた。
「少し、奥まで入り込み過ぎたようですね。大丈夫ですよ。入口にも、すぐに戻れますから」
先生は優しくそう仰って、僕の不安をとり除こうとした。僕は更に、辺りをキョロキョロしながら、落ち着かずに先生に縋り着くようにした。
「まあ、坊やぐらいの年の子には、この博物館は、少し広過ぎるだろう。迷子になるには十分なほど。大人にとっても、安全ではない。実際、出られなくなる人間もいるからね」
僕は、含み笑いをしている男の様子まで、不気味に思えてきた。僕は震える声で、
「どうなっているんですか?」と、聞いた。
「まあ何と言うか、夢の伸縮率と、膨張の関係と言いますか」
僕の目は丸くなる。すると先生が、いつもの人に安心感を与える声で、
「幻想第四次空間ですよ」
と、仰った。僕と先生の間の、合い言葉のようなものだ。はっきり意味が定義されている訳ではないが、僕も何となくその言葉の雰囲気で、分かったような気分になる。
僕も先生の言葉に成程と思って、少し落ち着いて辺りを見ることが出来た。
「如何にも君の好みそうな言葉だ」
男の人は、まるで先生のことを良く知っているような口振りでそう言った。先生は、それに笑っただけだった。分かる人にだけ分かる、一種独特の空気が流れたが、僕は仲間外れになったと気にしなかった。
だって、どれ程先生のことを知っている人がいようと、先生のことが好きな人がいようと、僕程先生のことを敬愛している者はいないと自認しているからだ。それに四六時中先生と御一緒出来るのは、助手であるこの僕を置いて他にない。
とは言うものの、僕が出会う前の先生のことも、先生と言う人間のこともよく分からない。いつも優しい目をしておられて、温かく僕を包み込んで下さって、そんな大人である反面、様々なことに子供のように夢中になることが出来る。
僕が知っているのはそれだけだし、一番大切なことは、それだけでいいとも思う。
「僕は、これで失礼しますが、出るのなら入口まで御一緒しましょうか?」
男のその申し出に僕は、うんうんと頷いていた。意味が分かって、少し安心したと言っても、やっぱり何だか怖かった。先生がそんな僕を優しく笑い、御一緒させて下さいと男の人に頼んだ。男の人は、クルリときびすを返すと難しそうな顔で、
「坊やぐらいの年の子じゃ、怖いと感じても仕方がない」
と、まるで自分に言い聞かせでもするように、呟いた。男の人は、背中に腕を組んで歩いていく。それに先生が続き、僕は先生の服の裾を掴んだままだった。
男の人は先生に向かって、先史時代の文明に就いて、一席ぶつように話していたが、僕はよく聞いていなかった。そして、あっと思った時には僕達は、入口の前まで来ていたのだった。
確かに、幻想第四次空間に違いない。ええっと、膨張したり拡散したり、それから収縮したり――とにかく、そんな感じ。
部屋の外に出ると男の人は、大袈裟に宮廷風のお辞儀をして、それでは失礼をばと言った。男の人は、エントランスホォルを斜めに横切り、三つ目の書物の展示室に入って見えなくなる。
僕と先生の方は、時計と反対回りに忠実に、標本の展示室に入った。先生はともかく、僕は少し警戒しながら部屋に足を踏み入れた。
しかし部屋を見た瞬間、僕の警戒心は吹き飛んでしまった。
僕は、わあと歓声を上げると、宝石のように美しい蝶の標本箱に駆け寄った。蝶は大きくて、中には左右の羽の色が違うものもいた。どれもこれも、この世の物とは思えないほどに美しい。
この部屋は、考古学展示室の時のように、部屋自体が伸びて広がったりはしなかった。その代わりに、目を移す度に新しい標本が目に入った。だから僕と先生は、終わりのある部屋の中を、展示品を眺めながらグルグルと回るだけでよかった。
部屋を一周しても、決して前に見た標本の前に戻ることはない。目の前には円循環の無限があったが、いつも視界の端に出口を確認しているので、僕は安心していられた。
ダチョウの卵より大きなロック鳥の卵や雛に、巨鳥、モア。真っ青なサファイアのようなハルシオン鳥に、赤や黄色の派手な朱雀鳥に混じってリョコウバト――パッセンジャアピジョンと言う何の変哲もない鳩もいた。
全てが標本になって、ただ沈黙に身を委ねている。鳥だけでなく、様々な獣達もいる。一角獣に天馬、ライオンの上半身に魚の尾ビレを持った生き物マーライオンや、翼を持った蛇ケツァルコンなど、何だか良く分からない生き物達もいる。
ふと視線を上げると、一角獣の硝子玉の目と僕の目があった。その目はまるで、涙の被膜に包まれているかのようだった。
僕は、その目を見ていると悲しくなってきた。




