おもひでサァカス 後編
ジェルマンが、やっと仕事をする気になったかと、待ちくたびれたように呟く。ダァニッシュは指笛を吹いて、ライオンたちに本番だぞと声を掛けた。ハンスだけが気乗りしない様子だ。
「え。今日はこれ以上恥を掻かずに済むと、思ったのに」
アリョウナは、年上のハンスにも容赦せずにピシャリと言い返した。
「役立たずのあんたなんか、何をしててもしなくても一緒よ。それより、片付けを手伝いなさいよ」
サァカス団員達は、僕が上げたジェリィビィンズをあたふたと舞台裏に運んで、ショウの準備を始めた。
まさかサァカスが、見られるなんて・・・。
あれ? そもそもこれは、世界一小さなサァカスショウと言う触れ込みだった筈だ。本当は今までのやりとりが、話と違っていたのだ。勿論僕は、話が違うと怒ったりはしない。
だって世界一小さくなくても、サァカス団員達と触れ合うなんてこと、観客には得難い体験だもの。サァカス団員達は、ジェルマンを除くとテントの中から消えた。
ジェルマン団長は、鍛えられた朗々と響く声で叫ぶ。
「たった一人のあなたの為に、最高のショウをお届けしましょう。サァカス団員達は、約一名を除き、磨き抜かれたプロばかり。まずは一人目」
「空中の舞い姫、美しいからこそ刺もある、サァカスの花アリョウナ」
ジェルマン団長はそう紹介して、僕に向かってニヤッと笑って見せた。僕もニヤリと笑い返す。
薄ぼんやりとしたテントの中に、一筋のスポットライトが点り、僕の目の高さまである台に上ったアリョウナが照らし出された。床から、投光器でアリョウナにライトを当てているのは、ダァニッシュだった。ダァニッシュは、僕に軽く手を上げて見せた。本当はライトは二つあって、交差するようにアリョウナを照らす筈だったのだろう。
テントの屋根を丸く照らし出してしまったのは、ハンスだ。ハンスは慌てて、ライトを調節している。アリョウナは団長の嫌味もハンスのヘマも無視して、にこやかな笑みを僕に向けて手を振った。
僕はアリョウナの刺々しさを既に目にしているので、満面の笑顔に怯んでしまった。しかしアリョウナは、僕の反応がなくてもプロらしく顔色一つ変えずに、空中ブランコに両手で捕まり、空中に身体を躍らせた。
アリョウナは懸垂して、ブランコに座る。ダァニッシュはライトを置いて、台の梯子を登っていた。てっぺんに辿り付いたダァニッシュは、もう一つのブランコを外して、勢い良く空のまま空中に送り出す。タイミングが大事なので、ハンスには任せられないのだろう。
幾ら落下防止用のネットが張ってあるとは言え、僕はそこまで考えて、ネットなど張っていないことに気付いた。
アリョウナはブランコに足を引っ掛けて逆さまにぶら下がり、空いたブランコに飛び移ろうとした。僕は危ないと言いそうになる。アリョウナの指が、ブランコのポォルを掴み損ね、身体が落下する。僕は、悲鳴も凍り付く。
アリョウナは真っ逆さまに床まで落ちるかと思いきや、三分の一程の高さで止まった。片手で、何かを掴むようにブラリとぶら下がっている。細いので見えなかっただけで、綱を渡してあったのだ。
アリョウナは身体を持ち上げて、慎重に綱の上に立ち上がった。失敗したんじゃなくて、わざと落ちたのだ。僕を驚かせる為に。
一旦立ってしまうと、アリョウナは完全にバランスをとってスタスタと綱の上を歩いて、台の梯子に手を掛け、スルスルと梯子を登って上に戻った。ダァニッシュは、戻って来たブランコを捕まえていた。
アリョウナが座ったブランコを、後ろから押し出してやる。アリョウナは、揺れていたブランコを掴んで移動する。すぐにブランコに座り、先程と同じように後ろ向きにぶら下がり、今度はちゃんとブランコを掴んでぶら下がった。
僕は、自然にパチパチと拍手していた。お人形のサァカスごっこだなんて、とんでもない。小さくても――ううん。小さいからこその、見せ方と言うのもあるのだ。
紙吹雪や花吹雪が舞い、ハンスは右往左往としながら雑用をして、失敗してはいけないところで失敗する。ライオンは火の輪を潜り、ダァニッシュが銃を撃つ真似をすると、撃たれて倒れる真似をした。
よしと言うまで倒れていなくてはならないけれど、一頭はまだかなまだかなと言うように首を持ち上げて、お前は今死体なのに動いてどうすると、ダァニッシュに怒られていた。
もう一頭の雄は、最初から最後までジッとしていたけれど、起きていいと言われても今度は起きて来なかった。何かと思ったら、横になったを幸いと昼寝をしていたらしい。笑えないピエロより、ライオンの方が面白い。僕は、腹を抱えて笑った。
象のバルゥは、ボォルでサッカァしたり、玉乗りをして見せる。バルゥの上に雄ライオンが乗り、更にライオンの上にアリョウナが乗って、逆立ちをしたりした。
ジェルマン団長もライオンを箱に入れて消す手品をしたり、ちゃんと芸をしていた。ハンスはと言えば、雑用係にもなり切れていないけれど、あたふたしているだけで、何だか幸せそうだった。
僕は、本当に世界一小さいサァカスを見た子供と言える。サァカスでも飲み物やお菓子は必需品だけれど、僕は買ったお菓子を口に放り込むのも忘れて、サァカスショウに見入った。
雑用係もいない(ハンスはいたけれど)たった数人のサァカスでも、全員プロらしく、素晴らしいショウを見せてくれた。僕も何にも出来ないけれど、混ざってしまいたい気分になった。
本当のショウマンの中に混じって、同じ舞台の同じ空気を吸っているだけで、幸せな気分になれると思う。そう思うと、何も出来ないのに嬉しそうなハンスの気持ちが分かるような気がした。そう思うともう、ハンスがお邪魔虫には見えなかった。
ハンスは僕と同じ普通の人の、気持ちだけでも団員と関わりたいと言う気持ちの現れのようなものだ。ハンスを見ていると、誰にでも出来る訳じゃないことを、思い出させてくれる。ここではないジェルマン団長のサァカスでは、ハンスと違う本物の滑稽なピエロもいるのだろう。
出来るのが当り前の団員達は、出来ないハンスを馬鹿にしたり、出来ない人間がサァカス団に入るなんて、おかしいと思っているに違いない。
でも僕は分かるな、ハンスの気持ちが。
僕には真似出来ない分、ハンスも偉く見える。何にもしていないハンスがスゴイなんて、他の団員に失礼かも知れないけれど、努力をすれば誰でも何でも出来るようになる訳ではない。形に現れない努力を続けるのは馬鹿げているかも知れないけれど、やっぱり僕はそれを立派だと思う。
最後にサァカス団員達が、一列に並んだ。ハンスだけは申し訳なさそうに、ちょっと離れて立っていた。団長はダァニッシュとアリョウナと手を繋いで、勝利を宣言するように二人の手を上げた。ダァニッシュは、大きな身体の長い手を生かしてハンスの手を掴むと、同じように手を上げさせた。ダァニッシュは、ハンスにも優しいようだ。
僕は、手が痛くなるぐらい拍手をした。胸が一杯で一つも言葉にならないから、言葉の分まで伝えようと必死で手を叩き、一人一人を労うように見つめた。勿論ハンスへも惜しみない拍手を送った。
僕の気持ちが、少しでもハンスにも届いたと思いたい。サァカス団員も言葉もなく(アリョウナに限って言えば、口を利いた途端、花も毒になるからかも知れないけど)手を繋いだまま、僕に深々と頭を下げた。
ハンスはピエロにしては優雅過ぎる御辞儀で、団長は突き出た腹の所為で首を突き出すような仕草で、ダァニッシュは作法などなく大らかに、アリョウナは足を引いて見た目は淑女らしく。全員が頭を下げ切ったところで、テントの中がパタリと暗くなった。
テントの屋根がポンと軽い音を立て、
「これでお仕舞いだよ。もう出ておいで」と、言う声が外から聞こえてきた。
僕は一人一人の名前を呼んで、有難うと言った。それに対する返事は聞こえなかった。みんなにもう少し何か言って欲しかったけれど、普通はサァカス団員と親しく口など利けない。
僕一人の為に見せてくれたから、特別な気分になったけれど、普段なら僕みたいな子供とは、大人は仲良くしてくれない。
僕はちょっと寂しい気持ちになりながら、バイバイと言って、後退してテントの中から出た。もし中で態勢を変えて、誰かを押し潰しては大変だ。入口から垂らした布を手で押さえて、頭を潜らせる。
布は古いけれど、絹糸のまだ滑らかな手触りを残していた。布から手を放す一瞬に、テントの内側の正面に、色褪せたポスタァが張ってあるのが見えた。サァカスの間には、絶対になかったものだ。
布が落ちるまでに、ポスタァに描かれた火の輪を潜るライオンや、鞭を振るう精悍な黒人の男、真っ赤なレオタァドの若い娘などの絵が見えた。ポスタァの真ん中には、ヒゲを生やしたシルクハットの男も確かにいた。
サァカス絵の一番上に書かれていた、サァカス団の名前だけは、やはり僕は見逃してしまった。僕は、もう一度布をめくって確かめようとする。
すると皴だらけの手が、僕をやんわりと押し留めた。僕が見上げると、背が高く痩せたお爺さんが、僕を覗き込むように背を屈めて、優しい表情だけれどもきっぱりと首を横に振った。
僕は仕方なく、中を覗くのは諦めた。先生は、見せ物小屋のお爺さんと世間話をしていたのか、約束通り僕が入った時と同じ場所で立って待っていて下さった。先生は微笑みながら、
「あなたが団長を務めていらしたサァカスを、私も是非とも見たかったですね」
と、お爺さんに話し掛けられた。僕は何の話かと思って、え?と聞き返す。お爺さんは微笑みながら、
「私が昔、本当のサァカスをやっていたと言う話ですよ」
僕は驚いて、もう一度え?と言う。
「お爺さんが団長? そのサァカスは?」
お爺さんは愛しげな手付きで、端切れを縫い合わせたテントの屋根を撫でた。
「ずっと前に失くなってしまいました。それから沢山他のサァカスも見て来ましたが、あのサァカス団に勝るサァカス団は、世界中探しても見つかりません。古今東西、そう。過去に於てだけ存在する幻のサァカスとなってしまった。思い出は美化されると言いますが、これは断言出来ます。あのサァカスは、本当に素晴らしかったとね」
お爺さんはそう言って、僕ににこりと微笑み掛ける。僕は、テントの布地に目を奪われていた。色褪せた、花の刺繍のある青い絹、ラメ糸を混ぜたピンクのフリル、紫の地にオレンジの水玉、緑色の布、黒と銀の縞。大きさは違えども、僕がさっきまで目にしていた布たちにそっくりだった。僕は布地を見つめたまま、
「団員の人達はどうなったんですか?」
と、聞く。お爺さんは微笑んだまま、
「さぁ、どうなったのでしょう? でも思い出の中では、最も華やかなりし頃のままの姿を保っていますよ」
と、言う。先生がお爺さんに、
「お話を聞かせて貰っただけでも、十分楽しかったですが。聞かせてくれたお礼と、私の分のおやつに、一袋お菓子を売って貰えませんか?」
「お礼だけならば、菓子屋などで、ジェリィビィンズを買って届けてくれると嬉しいですね。好きな者がおりますから」
お爺さんは、僕に目くばせした。僕は、小さなサァカス団員達を脳裏に思い浮かべる。先生は、ジェリィビィンズですかとクスリと微笑む。先生は近所にお菓子屋がありますかとお爺さんに聞いているが、それを遮るように僕は、
「食べ掛けならば、ジェリィビィンズは僕が持ってます。それに先生と僕と、お菓子は半分分け出来ますよ」
と、言う。結局夢中になっていて、米のお菓子は開けるのを忘れていた。お爺さんは、食べ掛けと呟いて、何か思案するようにして僕を見た。僕が団員達に上げたことを見抜いたのか、仕方ないと言った顔をする。お爺さんはちゃんと分かっている様子で、
「ならば暫く先の、ご褒美に取っておきましょう」
と、言った。僕はサァカス小屋の中で降ろして、ずっと胸に抱えていた皮嚢から、ジェリィビィンズのボトルを取り出そうとする。先生は僕に、楽しかったですかと聞いてこられる。
僕はこれだけは力一杯、はいと答えた。内容を話すのはお爺さんとの約束で無理だけれど、最高に素晴らしかったことだけは話しても構わないだろうし、言わずにはいられない。
すると。
「俺ももう入れないけど、あれって本当に面白いのかな。団長とか言うあの爺さんが、小屋の横で、サァカス時代の話をしてるけど」
そう言う子供の声が、聞こえてきた。通りに双子ぐらいの年の少年が二人並んで、歩いて来る。一人の意地悪そうな顔付きの少年が、
「俺、中も見てやったし、うちの弟が入ったって言うから、小突いて無理やり喋らせてやったぜ」と、言い出す。
弟をいじめるなんて、やっぱり嫌な奴だ。もう一人の子は興味深そうに、
「へぇ、何て?」
可愛そうな弟のいる方の少年が、つまらなさそうに答えた。
「泣きながら、サァカスを見たって吐いたけど。俺が覗いたら、古ぼけたポスタァが張ってあるだけだった」
弟は小突かれても、団員達の大きさまでは言わなかったようだ。そりゃあ、そうさ。小さい男の子は暴力に泣く程弱くても、言ってはいけない真実を語る程弱くはない。少年は、
「ポスタァを見せて、話を聞かせるだけの、インチキだよ」
と、言ってせせら笑う。僕は舌を突き出してやる程行儀が悪くも、勇気もなかったから、そっぽを向いてボトルをお爺さんに渡しながら、本当に良かったですと言った。そんな僕を羨むように、片方の少年は言う。
「でも、見た奴らみんな楽しそうにしてるぜ」
しかしテントを覗いたりする少年は、
「あれぐらいのチビは、何でも本気にしてしまうんだ。昔話を聞きながらポスタァを見ているだけで、本当に見たと思い込めるおめでたい年頃なんだよ」と、言い切った。
違う。僕は見た。団長のジェルマン、ピエロの役立たずハンス、サァカスの花アリョウナ、恐れ知らずの猛獣使いダァニッシュ。子供達の人気者、象のバルゥ、ライオンたち。あれは、インチキなんかじゃない。但し、一つだけ嘘はある。
お爺さんは、恥ずかしそうに唇に人差指を当てた。この人は団長じゃなくて、ピエレッタだったんだ。ポスタァには上半身しか描いていなかったけど、だって団長はシルクハットで、身長を稼ぐ程小柄な人だったんだから。
お爺さんはいつまで経っても、サァカスでの日々が忘れられないのだろう。ほんの少しでもサァカスと繋がっていたくて、この小さな見せ物小屋を作ったのだ。
それでも別の場所、別の時の中では、アリョウナは華麗に宙を舞い、白い象のバルゥは玉乗りをし、ダァニッシュはライオンたちと格闘し、ジェルマンは何度も口上を繰り返しているに違いない。
そしてそこには、役立たずハンスも・・・。




