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雪見うさぎ*挿し絵付き

 黒い雲が町の上に重く垂れ込めている、とても寒い夕方。

 家に帰る為に急いでいる人は、みんなコォトの襟を立てて、マフラァに鼻を埋めていた。

 そんな人達には暖かい帰る家があるのだと思うと、僕は何となく物寂しいような気分になる。もしかしたら、暗く冷え切った一人の部屋に戻る人もいるかも知れない。そう思うと、帰る場所が自分の家でないことは、大したことじゃないだろう。

 僕の行く場所はホテルだが、この時期飛び込みでも、必ず部屋を暖めてから中には通してくれる。それまでロビィで暖かい飲み物を飲んだり、食事に出掛けて時間を潰す。

 僕には暖かい部屋が待っているし、そこには必ず先生もいてくれる。寂しく思うのは変だろう。それに例え自分の家に帰ったとしても、昔のような安心感は得られないに違いない。

 先生が不意に、

「こう寒いと、杏饅頭あんずまんじゅうなどいいですね」

 と、口を利かれた。一間しかない小さな菓子屋の硝子ケェスの上に、杏饅頭もうすぐ蒸し上がりますと書いた紙が出してある。杏饅頭は、甘く煮た杏を包んで蒸した饅頭だ。

 ガブッと噛じると、杏の甘味と酸味が口一杯に広がって、幸せな気分になれる。

 店先にはきちんと並ぶでもなく数人の帰宅途中の人が足を止めて、饅頭が蒸し上がるのを待っていた。

 良くある冬の風物詩だ。紙の横には商品見本として、黒塗りのお盆に蝋細工が載せてあった。蝋細工の形を見た僕は、

「あっ、うさ餅だ」

 と、思わず声を上げてしまう。うさ餅と言うのは、小さかった頃のリルケによる名付けだ。家から少し離れた店に売っていた杏饅頭は、更に一手間掛けてうさぎの形にしてあった。

 杏型の饅頭の細まった方が頭、太い方がお尻だ。皮を軽く抓んで伸ばし、耳としっぽを作ってある。耳の中と両目を食紅で色付けすると、単純だがどこからどう見てもうさぎに見える。リルケはこの、うさぎ型の杏饅頭が大のお気に入りだった。

 このうさ餅には、不思議な思い出がある。僕が六才、弟のリルケが四才の頃のことだ。冬場、夕飯が遅くなる時、母さんは僕らを連れて杏饅頭を買いに行く。

 双子は自分達で勝手に買い食いしたり、軽食を作って自分で食べられるぐらいだったが、僕らの面倒までは見てくれなかった。それは単に、双子が弟の世話をするようなタイプではないと言うだけの話だが。

 いつもは行かない大通りに、親子揃って杏饅頭を買いに出掛けるところから、僕らの楽しみになっていた。それが一番下の弟が突然熱を出した為に、約束になっていた饅頭を買いに行けなくなってしまった。

 母さんは、今日は諦めて頂戴と僕らに言った。僕はともかく、リルケは泣いた。ただでさえ母さんを弟に取られるのが、リルケは癪で仕方がなかったのだ。

 家に誰かいたら、母さんもこんな時だからと、僕らの世話を兄達に任せたに違いない。双子は、友達の家に泊まりにでも行っていたのだろう。クレイブ兄さんは、年齢からいってもう家を出ていた筈だ。とにかく家には、僕らしかいなかった。

 絶対に嫌だと駄々をこねていたリルケに、その時の僕はなぜか一緒に買いに行こうと言ってしまった。隅っこの方で、一人でポツンと遊んでいることの多かった僕に、そんな積極性があるとは僕でさえ知らなかった。

 嫌だと言っても、結局母親から離れるのも嫌なリルケも、その時は僕の言葉に泣きやんで、うんと頷いた。僕は弟まで風邪を引かないよう、弟を上から下まで防寒着でくるんでやった。

 オゥバァにニット帽を耳の下まで引っ張り下ろし、マフラァをグルグル巻きにしてミトンの手袋を付けた弟は、コロコロと太った小犬みたいだった。

 弟の世話の切りが付いたら出前を頼むのに出してあったお金を持って、僕達は二人で家を出た。

 僕も、子供だけで大通りにまで出るのは初めてだった。僕は弟の手をしっかり握り締めて、弟は僕が守るんだと言う気持ちで一杯だったと思う。誰かに見咎められたとか、道が分からなくなったと言う記憶はなく、僕達はちゃんと杏饅頭を売る店まで行くことが出来た。

 その時、店の前で何人ぐらい待っていたかは覚えていない。何となく、誰もいなかったように思っている。それを当時の僕は、別段不思議とも思わなかったようなのがおかしい。

 杏饅頭準備中の札が掛かると、熱々を買って帰ろうと足を止めて、並ぶでもなく蒸し上がりを待つ人が店の前に出来る。一人で幾つも買って行ったりする人がいると、自分達の番まで残っているだろうかと不安になる。

 しかし、どうしてか必ずぴったりで、余ることも足りなくなることもない。それが子供心にも不思議だった。うさ餅達は自分を買ってくれる人が誰か知っていて、蒸し器で蒸されるのを待っているかのようだ。

 その店のケェスの前には子供用に踏み台が置いてあって、僕達はそこに上ってうさ餅が蒸し上がるのを待つのが好きだった。そこからなら蒸し器が見えて、店の人が白い袋にうさ餅を入れて、お客に手渡すところも良く見えたからだ。

 僕達は母さんがいなくても、いつも通り踏み台に上がって、ケェスに手袋を填めた両手を押し付けて、うさ餅が出来上がるのを待った。店の主人が木の蓋を開けた途端、白い湯気がモウモウと吹き上がる。

 そこまではいつも通りだったけれど、白い湯気の中から飛び出してきた物があった。

 僕とリルケは驚いて踏み台から降りると、舗道の上で寄り添い合った。僕達の周囲で、白いうさぎが跳ね回る。

 白い、白いうさ餅たち。何十匹もが僕らの回りで上へ下へと踊り回り、僕らは手を繋ぎ合ってその光景を見ているしかなかった。

 上も下も白く塗り潰され、ふと気が付くとうさぎは大きな牡丹雪に変わっている。僕達は踏み台に乗ったまま、上下左右の区別がなくなるような、雪の乱舞に見とれていた。目を転じると四角い蒸し器の中で、うさ餅たちが行儀良く並んでいる。

 僕とリルケの手だけはしっかりと握られていて、辺りにはうさ餅の蒸れたいい匂いが立ち込めていた。今でもその時のことは、良く覚えている。その後何度か子供だけでうさ餅を買いに行ったことはあるけれど、うさぎが飛び出してくるようなことは一度もなかった。

 見間違いか白昼夢か、自分が見た夢とごっちゃにしているのかは分からない。ただ僕にはそう言う思い出があり、僕はうさ餅たちが雪を迎えたのだと思っている。

 きっと雪が降って来たのが嬉しくて、飛び出してしまったんだろう。なんて。

 先生は、僕の言ったうさ餅と言う表現が気に入られたようだ。僕達も、店の前でうさ餅が蒸し上がるのを待った。店主が木蓋を上げると、店の中は水蒸気で一杯になる。勿論、うさぎが飛び出してくるようなことはなかった。

 近所のうさ餅屋はそれから無くなって、うさぎ型の杏饅頭には暫く僕もお目に掛かっていなかった。先生が一つずつ買ってくれ、僕の手の中には蒸し上がったばかりのうさ餅がある。 

 白い袋から、うさぎの顔が覗いていた。買って貰えるって、分かっていたよとでも言うように。

 不意に先生が何かに気付いたように顔を上げ、

「おや、冷えると思ったら雪になりましたね」

 と、仰った。チラチラと細かい雪が、暗い空から落ちてくる。僕は、うさぎにも見せて上げようと、ほらと言って紙包みを掲げる。先生も微笑みながら、

「私とラジニ君が、初めて一緒に見る雪ですよ」

 と、仰る。そう言えば、確かにそうだ。

 僕と先生は降り始めた雪の中を、急ぐでもなく歩き始める。僕はうさ餅を頬張る前に、胸にソッと抱き締めた。熱々のうさ餅はオゥバァにじんわりと温もりを伝え、僕を温めてくれる。急ぎ足で帰る人々が僕らを追い越し、舗道に並ぶ街灯がポツポツと明かりを灯し始めても、僕はもう寂しくなかった。

 思い出を通して僕はいつでも家や家族と繋がっているし、思い出せばいつでも帰って行ける。今僕がいるのは先生の側だから、先生と僕がいればそこが我が家になる。

 僕はうさ餅にかぶりつき、やっぱりうさ餅は、雪を迎える食べ物じゃないかしらと思っていた。


挿絵(By みてみん)

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